奈良、時々京都(写真館)

奈良、京都好きの写真ブログです。(たまには大阪も)

千手堂交差点を通って苅萱堂(高野山25)

2006年08月22日 | 高野山

東の門から金剛峰寺をでます。
メインストリートに出て東へ歩くと、高野山の中心部、バス停「千手院」の交差点に出ます。 角の建物は中央案内所です。


道はやがて寺ばかりになってきます。 一院ずつ撮影していましたが、まだ奥の院もあるので、途中でやめました。 ひとつだけあげれば、見どころのひとつとなっている苅萱堂(かるかやどう)です。 親子の名乗りをあげないまま修行に明け暮れたという苅萱道心と石童丸の悲しい物語ゆかりのお堂だそうです。

 

六時の鐘(高野山23)

2006年08月20日 | 高野山

壇上伽藍の見学を終えて、金剛峰寺へ向かいます。 この道は植木で両側を凹凸をつけているところから、蛇腹道というそうです。


蛇腹道を出たところに六時の鐘(ろくじのかね)があります。建物の入り口に手書きの説明板がありました。

元和四年(1618)二月六日福島正則候が亡母の菩提のために建立したこの鐘は
時刻を告げるためのものである。

「和歌山県の歴史散歩」によるともう少し詳しく、福島正則が造った鐘が焼失したので、その子正利(まさとし)が寛永十二年(1635)に改鋳したもので、明け六つ(午前6時)から2時間おきに時刻を報じるそうです。



東塔(高野山22)

2006年08月19日 | 高野山
国史跡 東塔 指定 昭和52年7月14日

白河法皇の御願により大治(だいじ)二年(1127)に落慶した。 中尊は尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)で脇仏は不動と降三世(ごうざんぜ)両明王である。 江戸時代の再建の塔が、天保十四年(1843)に焼失後、140年を経て昭和58年に現在の塔が再建された。
(説明板より)


愛染堂(高野山20)

2006年08月17日 | 高野山
国史跡愛染堂 指定昭和52年7月14日
後醍醐天皇の御願により建武元年(1334)に建立された。 愛染明王護摩と長日護摩を行うところである。現在の堂は文化13年(1816)の再建である。
(説明板より)

不動堂(高野山19)

2006年08月15日 | 高野山
国宝・不動堂(ふどうどう)
建久8年(1197)に、鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により、行勝上人が建立した「一心院」の遺構である。
現在の建物は14世紀前半に再建されたものである。当初は阿弥陀堂であったと推定されるが、後に不動明王を本尊とし、脇士の八大童子は運慶の作。住宅風の仏堂として有名である。
高野山真言宗 総本山金剛峯寺のホームページより)

大塔の鐘(高野山18)

2006年08月14日 | 高野山
大塔の鐘(だいとうのかね)
弘法大師が鋳造を発願され、高弟真然大徳時代に完成した。火災などで鐘楼が焼失し、3度ほど改鋳された。現在の銅鐘は天文16年(1547)に完成したもの、直径2.12メートルの大鐘で、高野四郎とも呼ばれている。
毎日、午前4時、午後1時、同5時(春期彼岸中日より秋期彼岸中日の間は午後6時)、同9時、同11時の5回、時刻を山内に知らせている。鐘の数は5回合わせて108となる。もとは法会などの集会を知らせるためのものであった。
高野山真言宗 総本山金剛峯寺のホームページより)

根本大塔(高野山17)

2006年08月13日 | 高野山
根本大塔
弘法大師は高野山開創後、この大塔を真言密教の象徴として建立されたので、根本大塔と言います。再三、落雷等の火災にあい現在の大塔は、昭和12年に完成し、高さ48.5・、約23.5・四面の偉容を誇っております。
高野山宿坊組合・高野山観光協会のホームページより)

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拝観料200円を納めて中に入りました。 金色に光る大日如来を中心に、新しい諸仏がおわします。 周囲の柱には菩薩像が描かれています。 現代の色にあふれた世の中ではなかった古代の人には、極彩色の世界であったろうと想像されます。

孔雀堂・准胝堂(高野山15)

2006年08月11日 | 高野山
孔雀堂(くじゃくどう)(写真左)
後鳥羽法皇の御願により正治ニ年(1200)に落慶し、仏師快慶作孔雀明王を安置した。
堂は昭和に焼け、昭和59年(1984)再建された。孔雀明王は重要文化財として現存する。(説明板より)

准胝堂(じゅんていどう)(写真右)
光孝(小松)天皇の御願により真然僧正が建立。現在の建物は明治16年(1883)に再建されたもの。
本尊准胝観音はもとは食堂(じきどう)にあり、得度剃髪の時の守り本尊であった。
高野山真言宗 総本山金剛峯寺のホームページより)

西塔(高野山14)

2006年08月10日 | 高野山
西塔
西塔は弘法大師の御遺志に従って第二世真然大徳が仁和三年(887)に建立された。現在の西塔は五度目の再建にかかる。天保五年(1834)欅材を以って柱間五間に五間として立てられた。方形の初層にこれを覆う裳層(もこし)とその上に小さな覆鉢をおき、さらに大きな屋蓋で全体を覆う。 柱は外陣に20本、内陣に12本、中心に4本合計36本に中心柱を加えて金剛界三十七尊を象徴する。安置する五仏のうち中心は金剛界大日、周囲は胎蔵界四仏である。これによって金胎両部不二の深義をあらわす。
(説明板より)

御社(高野山13)

2006年08月09日 | 高野山
御社(みやしろ)
壇場の西端にあり、三社が並列する。 右から丹生明神、高野明神、十二王子百二十伴神をまつる。 弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と高野明神(狩場明神)を勧請された。 その本社は山麓天野にある。 大師以後今日に至るまで山内の住侶はこの両明神を厚く尊崇してきた。 文禄3年(1594)再建。
(説明板より)

山王院(高野山12)

2006年08月08日 | 高野山
山王院(さんのういん)
文禄3年(1594)再建の御社拝殿である。地主の神を「山の神」と信じることからこの名が生まれた。
毎月16日、山内の僧侶による「法楽論議」「御最勝講」等が開かれ、また、浪切不動明王をここに奉安して夏季の祈りも奉修される。
桁行21.3メートル、梁間7.80メートル、両側面向拝付入母屋造。
高野山真言宗 総本山金剛峯寺のホームページより)

六角経蔵(高野山11)

2006年08月07日 | 高野山
六角経蔵(ろっかくきょうぞう)
鳥羽上皇妃、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために浄写された紺紙金泥一切経(荒川経又は美福門院経ともいう)千巻を納めるために建立された経蔵である。現在の建物は昭和9年(1934 )2月に再建された。
同門院は、この経に荒川庄を付けて寄進されたので荒川経蔵とも呼ぶ。
高野山真言宗 総本山金剛峯寺のホームページより)