ちょっと前になりますが、toraoさんの「ブレーカーを外して」を読んで、文中の「安全装置」という単語にインスパアしてから、この言葉が私の脳裏に焼きついてしまった。
タイガースと「安全装置」について、もう一度考えてみた。
タイガース・フォロワー三十数年。喜びの回数と悔しさの回数を数えたら、悔しさの回数のほうが、2~3倍は上回っていることだろう。昔、よく考えたことは、もし双子の兄弟が幼少期にプロ野球ファンとして、片方は強いチーム、もう片方は弱いチームのファンになったとしたら、その子の人格形成にいかように影響を与えるのだろうかと。そして私は、少なからず影響はあるはずだと確信している。勝つことが日常で、たまに壁にぶつかるけれど、最後はしっかり勝利を手にするチームを愛して育つ人生と、いつも負けてばかりで、所々に頑張ったりするけれど、最後は結局、負けてしまうチームを応援する人生とでは。
同じ応援するなら、強いチームを応援したほうが、ずっと健やかで真っ直ぐな人生が送れるだろうなあ、なんて思いながら、それでも弱いタイガースを一途に応援し続けられたことは、いまではすこしだけ自慢に思う。
それでもファンになりたての70年ごろのタイガースは、”万年二位”なんて囁かれるくらいだから、そこそこ強かった。その当時のセリーグは、上位チームと下位チームが、しっかり色分けされていた。もちろんタイガースは上位チームだった。しかしそれも78年、二リーグ分裂後、初の最下位に転じてから、風向きが大きく変わってきた。それ以降、星野タイガースが優勝するまでの25年間で、二位以上を記録したのはたったの二回。85年の優勝と、もう一度は92年の二位。三位まで入れてみても、たったの5回。残る20回は4位以下という体たらくぶり。ついたあだ名は「ダメ虎」。返す言葉もなかった。85年の優勝と92年の二位の成績も、言ってみれば晴天の霹靂。突然やってきた竜巻みたいなものだから、過ぎ去ってみたら、何もなかったように、いつもの「ダメ虎」がそこにいただけ。
この不遇の25年の間でも、とりわけ95年からの7年間は、1度の五位を除いて、すべて最下位。いわゆる「タイガース暗黒時代」である。三顧の礼で迎えられた知将・野村監督をしても、在任期間三年はすべて最下位に終わった。しかし、そんな時代にも、ジュラ紀に暗闇の地中で生き延びた原始哺乳類や、酸素欠乏した海で生き延びた肺魚のように、わずかな光、わずかな酸素にすがって、子々孫々の息吹をつないできた彼等のごとく、タイガースファンも細々と生き続けていたのだ。希望の光を信じて、小さな喜びを生きがいにして。
そして、この時、多くのタイガースファンの身に備わってしまったのだ。
「安全装置」、誕生
この「安全装置」、非常に良くできていた。
僅差で試合に負けた時は、「惜しい、明日につながる負け方だ。」と自分に言い聞かせるように作動する。
大差で試合に負けた時は、「気持ちをスパッと切り替えられる負け方だ。」と自分に言い聞かせるように作動する。
同一カードで三タテ食らった時は、「むしろ1勝2敗よりも清々しい。」と自分に言い聞かせるように作動する。
連敗が続いてきた時は、「そろそろ勝つ頃。連敗のあとって結構、連勝するもんだよね。」と自分に言い聞かせるように作動する。
オールスター前にして、すでに優勝争いから脱落した時は、「お盆前から仕事に身が入って助かった。」と自分に言い聞かせるように作動する。
最下位が確定した時は、「J2に落ちる心配がなくて幸せ幸せ。」と自分に言い聞かせるように作動する。
そして彼等は、少し早いオフシーズンに、どっぷりと身を委ねるのだ。
シャカリキになって、優勝争いしているチームを尻目に、こう呟く。
「必死やなあ、こいつら!」
そして、2003年
星野タイガースが、われわれに教えてくれたことがある。
惜敗したら、素直に悔しがればいい。
惨敗したら、大声で泣き叫べばいい。
弱気の虫をみせる選手がいたら、叱り飛ばしてやればいい。
チームがファイティングポーズをとらなかったら、おもいっきり罵声を浴びせてやればいい。
そしてぼくらは気がついた。
「安全装置」に逃げてはいけないんだ。
「安全装置」にさようなら
タイガースと「安全装置」について、もう一度考えてみた。
タイガース・フォロワー三十数年。喜びの回数と悔しさの回数を数えたら、悔しさの回数のほうが、2~3倍は上回っていることだろう。昔、よく考えたことは、もし双子の兄弟が幼少期にプロ野球ファンとして、片方は強いチーム、もう片方は弱いチームのファンになったとしたら、その子の人格形成にいかように影響を与えるのだろうかと。そして私は、少なからず影響はあるはずだと確信している。勝つことが日常で、たまに壁にぶつかるけれど、最後はしっかり勝利を手にするチームを愛して育つ人生と、いつも負けてばかりで、所々に頑張ったりするけれど、最後は結局、負けてしまうチームを応援する人生とでは。
同じ応援するなら、強いチームを応援したほうが、ずっと健やかで真っ直ぐな人生が送れるだろうなあ、なんて思いながら、それでも弱いタイガースを一途に応援し続けられたことは、いまではすこしだけ自慢に思う。
それでもファンになりたての70年ごろのタイガースは、”万年二位”なんて囁かれるくらいだから、そこそこ強かった。その当時のセリーグは、上位チームと下位チームが、しっかり色分けされていた。もちろんタイガースは上位チームだった。しかしそれも78年、二リーグ分裂後、初の最下位に転じてから、風向きが大きく変わってきた。それ以降、星野タイガースが優勝するまでの25年間で、二位以上を記録したのはたったの二回。85年の優勝と、もう一度は92年の二位。三位まで入れてみても、たったの5回。残る20回は4位以下という体たらくぶり。ついたあだ名は「ダメ虎」。返す言葉もなかった。85年の優勝と92年の二位の成績も、言ってみれば晴天の霹靂。突然やってきた竜巻みたいなものだから、過ぎ去ってみたら、何もなかったように、いつもの「ダメ虎」がそこにいただけ。
この不遇の25年の間でも、とりわけ95年からの7年間は、1度の五位を除いて、すべて最下位。いわゆる「タイガース暗黒時代」である。三顧の礼で迎えられた知将・野村監督をしても、在任期間三年はすべて最下位に終わった。しかし、そんな時代にも、ジュラ紀に暗闇の地中で生き延びた原始哺乳類や、酸素欠乏した海で生き延びた肺魚のように、わずかな光、わずかな酸素にすがって、子々孫々の息吹をつないできた彼等のごとく、タイガースファンも細々と生き続けていたのだ。希望の光を信じて、小さな喜びを生きがいにして。
そして、この時、多くのタイガースファンの身に備わってしまったのだ。
「安全装置」、誕生
この「安全装置」、非常に良くできていた。
僅差で試合に負けた時は、「惜しい、明日につながる負け方だ。」と自分に言い聞かせるように作動する。
大差で試合に負けた時は、「気持ちをスパッと切り替えられる負け方だ。」と自分に言い聞かせるように作動する。
同一カードで三タテ食らった時は、「むしろ1勝2敗よりも清々しい。」と自分に言い聞かせるように作動する。
連敗が続いてきた時は、「そろそろ勝つ頃。連敗のあとって結構、連勝するもんだよね。」と自分に言い聞かせるように作動する。
オールスター前にして、すでに優勝争いから脱落した時は、「お盆前から仕事に身が入って助かった。」と自分に言い聞かせるように作動する。
最下位が確定した時は、「J2に落ちる心配がなくて幸せ幸せ。」と自分に言い聞かせるように作動する。
そして彼等は、少し早いオフシーズンに、どっぷりと身を委ねるのだ。
シャカリキになって、優勝争いしているチームを尻目に、こう呟く。
「必死やなあ、こいつら!」
そして、2003年
星野タイガースが、われわれに教えてくれたことがある。
惜敗したら、素直に悔しがればいい。
惨敗したら、大声で泣き叫べばいい。
弱気の虫をみせる選手がいたら、叱り飛ばしてやればいい。
チームがファイティングポーズをとらなかったら、おもいっきり罵声を浴びせてやればいい。
そしてぼくらは気がついた。
「安全装置」に逃げてはいけないんだ。
「安全装置」にさようなら