若菜とボクが初めて会ったのは、出版社の入社が決まって初めての顔合わせの日だった。その日はボクの母が乳癌の手術後、転移性肺癌を発症して入退院を繰り返した後亡くなり、葬儀の行われた翌々日のことだった。この日は新卒者が始めて会社に呼ばれた日だったが、母親の死は、当日の朝初めての出社を躊躇させるほど大きな事件だった。しかしボクはそんな思いを振り切って出社した。
ふくよかで静かで愛くるしい若菜は、この日薄茶色の上下のスーツを着て会社の応接室で静かに座っていた。ボクたち男子社員は若干名の募集のところ多くの応募者から選抜されたのだったが、女性が一人いることに驚いたものだ。若菜は会社の役員の縁故で無試験で入社をしたことがあとでわかった。その3年後ボクたちは結婚した。
伊良湖岬に出かけたのは結婚した年の秋だった。そしてそれから2年後ボクたちに男の子が生まれた。さらにその5年後二人目の男の子が生まれた。子どもが生まれてからの日々は、若菜は育児と家事ボクも仕事に追われ若菜とボクの間に藤村の詩が話題に上ることも少なかった。
結婚して8年がたった。その日は若菜の32回目の誕生日だった。彼女は「少し胃の具合が悪い」と言って近所のクリニックに出かけた。この日は雪模様だった。クリニックから紹介された病院で検査。結果はスキルスというタチの悪いがん腫だった。病巣が侵襲するよほどの痛みと酷い症状をこらえていた若菜が哀れだった。ボクは自分の不実を強く責めた。大学病院に入院したものの連日の医師たちのカンファレンスの結果「手術は不能」と宣告された。
ボクたちの「闘い」が始まった。若菜には病名の告知はしなかった。5歳の長男は母親がいない淋しさに毎晩涙をこらえ一人で黙って涙を流していた。1歳になったばかりの次男は病院に行くたびに母親の乳房にむしゃぶりついていた。二人の子どもの世話は、保健師を定年退職後山形の家にいた若菜の母にまかせた。
若菜は病院入院の当初は日記も書いたし、友人がお見舞いに届けてくれる本などもあっという間に読み終えた。彼女の望んだ編み物の本や愛読書の島崎藤村詩集、竹西寛子や岡部伊都子の本、松本清張の文庫本など、僕はせっせと家から若菜のもとへ届けた。若菜は読むのが実に早かった。しかしそんな日もそう長くは続かなかった。若菜は次第に読書を億劫がるようになり、テレビにも次第に関心を示さなくなっていった。関心を引きそうな特集記事の載った雑誌を届けても開かれないまま枕元に置かれていた。このような変化は、食欲が次第に落ちてきたこと、嘔気や腹水が出てきて次第に衰弱が目立つようになってきた時機と一致していた。身体は彼女の脳を裏切るようになってきていたのである。
入院してから2か月ほど経ったある日、若菜がベッドで突然話し出した。
「『若菜集』にはね、「秋風の歌」という詩があるの。《さびしさはいつともわかぬ山里に 尾花みだれて秋かぜぞふく》という前置きの和歌があって、《しづかにきたる秋風の 西の海より吹き起り 舞ひたちさわぐ白雲(しらくも)の 飛びて行くへも見ゆるかな 暮影(ゆふかげ)高く秋は黄の 桐(きり)の梢(こずゑ)の琴の音(ね)に そのおとなひを聞くときは 風のきたると知られけり‥》 若菜はこの詩も諳んじていた。「初恋」には燃えるような恋の情念が春の陽炎のように表出されているのに比べて、やがて来る冬を待ちつつ遠く静かな恋の想いを秘めたような詩。しかも色彩豊かに秋の情景を歌い上げている。「藤村はね”色彩の詩人”と言われているのよ」と若菜は言った。そして続けてあの「初恋」の詩を口ずさんでいた。‥‥まだあげそめしまへがみの りんごのもとにみえしとき まえにさしたるはなぐしの はなあるきみとおもひけり‥‥若菜はいつの間にか寝入ってしまっていた。 (つづく)