鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅴ273] 泣きべそ聖書(33) / ピアノトリビュートに涙‥母よ(2)  

2023-11-18 13:47:06 | 生涯教育

母は山形市の母子寮の寮長を最後に保健師としての仕事を終えて引退した。しばらくして父が亡くなり、その後は独居生活を続けていた。母が一人暮らしとなってからも、私と妻と二人の息子たちは今まで通りお正月と春休み、夏休みなどに母を訪ねた。母はいつも楽しげに台所に立ち、「芋煮」「もってのほか(菊)」「鯨汁」「アケビ煮」「山ひじき」などのご馳走を振舞ってくれた。息子たちも母の山形料理を気に入っていた。

母とは東京で一緒に生活することも考えていたが、妻にははっきりと「東京暮らしは絶対に嫌だ」と話していた。東京での同居生活はあきらめざるを得なかった。

母が90歳の誕生日を迎える頃に検診で肺がんがみつかり、幸い放射線治療が奏功して肺の固型がんは安定化した。しかしこの頃から母は心身の不調を訴えることが多くなり、隣町に住む母の妹も時折訪ねてくれて、時には一緒に寝泊まりもしてくれていた。しかし彼女も80歳を過ぎており介護を託すのは困難で、私は母を訪ねた折に、ケアマネに母の介護度を測定してもらい、母も納得して比較的長いショートステイを使うことになった。

ショートステイが繰り返されて半年ほど経った頃、ショートステイ更新の折に施設長が母の”変化”を伝えた。その説明は次のようなものだった。「時々徘徊をする」「時々入浴時に便をもらし便こねをする」「時々職員に向かって、あなたはだれですか、と言う」。「認知症」が母を支配しつつあったのである。母は「まだら認知症」の部類に入るもので、時折意識が清明になるものの次第に病状が重くなるタイプのものという説明だった。

私は母の老人ホーム入所は待ったなしだなと考えた。母は老人ホームの入所の話をすると、入った方がいいかねえ‥と言って覚悟もしていた様子だった。そして家から車で20分ほどの所にできた北山形駅近くの新しい有料老人ホームに母は入所することになった。母がロックのピアノトリビュート曲に強く反応したのはこのホームに入所する前日、2011年の秋、母が95歳のときだった。

私と妻と息子たちの家族はそれぞれ1か月を目安に母をホームに訪ね、その折には必ずあのピアノ曲を母に聴いてもらった。反応が全くないときもあったが、時には意識が清明になり私たちを喜ばせてくれた。ピアノ曲が認知症の治癒にも効果があるかもしれないと期待も抱くようになっていた。

入所から3年が経過し、ホームで母の98歳の誕生日会を入所者らと共に祝ってもらったときには、母はほとんど寝たきりの生活で介護度は4になっていた。両目の視力がほとんどなくなっていたことに加えて認知症が支配していたので、母は私と妻を認識することはできなくなっていた。私はこのときも母にイヤホーンをつけてあのピアノ曲を聴いてもらった。するとどうだろう、母は顔の表情を変えて真顔になったかと思うと、大粒のを頬につたわらせ、顔をくしゃくしゃにしてかわいい笑顔となり、両手をそろりと差し出して見えない目で私たちを懸命に見ようとしていたのだった。ピアノ曲で母の心の世界が鮮明に蘇った一瞬だった。私と妻は嬉しくなって母の手を握りながら声をかけ続けた。でも母にピアノ曲を聴いてもらえたのはこの日が最後となった。

翌年の1月肺炎を起こして母は入院し、病院で99年の最後の息を吐いて天国に召された。亡くなった母のいる病室から外を見ると、この日も病院の外は雪模様だった。病院の脇を走る雪道の一筋の黒い道を、茶のコートを着たお母さんが赤いコートを着た幼い女の子の手を引いて向こうへ歩いて行くと、フッと雪の角を曲がって消えた。私にはこの母親と幼女の姿は、たった今亡くなった母と二人の子をのこして若くして亡くなった私の最初の妻だったのだ‥と信じている。

私にはあの穏やかなロックのピアノトリビュート曲が聴こえていた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [Ⅴ272] 泣きべそ聖書(32) / ... | トップ | [Ⅴ274] 泣きべそ聖書(34) / ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

生涯教育」カテゴリの最新記事