鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅳ223] 日本人とか日本社会とか(3) / 薩長政府は非なり

2023-03-05 21:49:01 | 生涯教育

鑑三翁は幕末に生まれた高崎藩の武士の子である。これと関係があるのかどうかはともかくとして、鑑三翁はいわゆる”薩長人”を嫌っている。それはなぜか。明治政府の体制が薩摩及び長州の役人たちの専横的/独善的策謀により仕上がりつつあったからである。日本が江戸幕藩体制から明治新政府へと外国勢力の影響を強く意識して体制の変革を遂げていく過程では、価値観の変容と醸成の必要に迫られた。そのための政治的/経済的/社会的/教育的な混乱が必然であったとは言え、薩長政府の人事の独断と恣意性(猟官制)、及び政府が育成した産業経済界の傍若無人、強欲と破廉恥と腐敗と無能ぶりは目に余るものがあり、それが鑑三翁の言論人としての誇りに火をつけたのだろう。鑑三翁は薩長人を嫌ったのではなく薩長政府の要人及びこれに連なる者たちを批判/指弾したのだ。

明治維新を主導したのは確かに薩摩、長州、土佐、肥前の4藩の指導者層であり、初期の明治政府は彼らを中心とした藩閥政治が実効支配していた。明治政府は初期の征韓論争以後大久保利通(薩摩)、伊藤博文(長州)を中心とする薩長閥が勢力を拡大していった。その過程では、藩閥政府による専制政治を批判して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げていた板垣退助らの主導による自由民権運動と対立した。1881(明治14)年には参議大隈重信(肥前)を追放した。1885(明治18)年伊藤博文の初代内閣組織とともに薩長閥は実権を掌握、軍部・警察・財界にも派閥を形成、特に軍部に関しては陸軍は長州閥、海軍の薩摩閥といわれた。その後薩長出身元老が政権交替時の実権を握り続けた。1924(大正13)年憲政会総裁の加藤公明が内閣総理大臣となるまで薩長藩閥政治は続いた。

鑑三翁がアメリカから帰国したのが1888(明治21)年、鑑三翁が明治天皇の教育勅語御宸翰に最敬礼をしなかったとして糾弾された「不敬事件」及び妻かずの死が1891(明治24)年、娘ルツの誕生が1894(明治27)年、”How I became a Christian”を日本で出版したのが1895(明治28)年であるので、鑑三翁が精神的にも生活面でも大きな変化を体験していた時期は、薩長政治が強権を発動しつつあった時期と完全に重なっていた。

鑑三翁は1897(明治30)年、黒岩涙香に招かれて『万朝報』英文欄主筆として大胆に健筆をふるっている。誌面での薩長政府への批判は容赦はない。この雑誌に鑑三翁が連載していた「胆汁数滴」欄では、当時の薩長政府や産業界を滅多切りにしている。これを抜粋/編集の上次に現代語訳した(『万朝報』明治30年4月20-27日分)。

【今あれやこれやの改革を唱えても意味がない。社会の病原は薩長政府そのものにある。薩長政府はどのような精神と方法をもって徳川政府を乗っ取ったのか。これは十分に究明すべきである。彼らが乗っ取った手段には歴史上認めがたい陰謀と譎計がなかっただろうか。明治維新と称しているが、これは道義的改革ではなく利己的な略奪でしかなかったことは今日の結果から見て明白である。勤王は彼らの略奪のための便法だった。彼らは陰計と詐術を用いた。利欲をもって打ち立てた薩長政府は、どこまでも金銭にまみれている。彼らは徳行にも金銭報酬で対価を払うだけだ。他の方法を知らない。勤王精神も愛国心も宗教も道徳も詩歌も哲学も、金銭報酬の対価で処理する。西南戦争の同士討ちでさえ報奨金だ。日清戦争の報償も同様だ。金、金、金で清算する。佐幕の士よ、あなた方が被った賊名を晴らすのは今だ。立ち上がろうではないか。第二の維新は君子的であるべきで薩長的であってはならない。私は無能で無力の薩摩人がみだりに官職を貪り、事務的文書もろくに書けないのに高等官云々と記して淫行に及び、欲望の欲するままに行動しているのを目撃している。】(選集6、p.8以下〈要約〉)

鑑三翁が薩長政府の全ての行動基準が金銭への利欲によって動いていることを糾弾するのはなぜか。それは倫理的道徳的頽廃を伴っていたからである。利と欲を基準にして行動する薩長政府は「徳行」を顕彰するのも金銭に置き換える、他の方法を知らない。愛国心にも、宗教にも、道徳、詩歌、哲学に対しても金銭の代価の対象とした。ギリシア人は国家への功労を示すのに橄欖樹の葉冠を与える、これが何よりの栄誉なのだ。日本の武士にとっての感謝状一通は彼の面目を示すものだ。しかし金銭をもって全ての評価を為すという薩長政府の勤王愛国の精神は実に卑陋極まりないと言うべきである‥とも鑑三翁は記している。つまり新政府になって地租改正を手始めとした税制改革によって国家が手にした厖大な金銭の"使い方"も計画性がなく不明だったと言う事ができる。

鑑三翁が京都に住んでいた時の話である‥人から勧められて大原女から丹波栗を買った、その外皮はとても美しかったのでこれを煮て食べようとしたら、実は虫に食われ腐っていて食えたものではなかった。思わず「お前は薩長政府と同じだ!」と叫んだ。それ以来丹波栗を食べない‥こんなエピソードも記している。鑑三翁の薩長政府に対する嫌悪の度合いを推し量ることができる。まさに「権力は腐敗する」(イギリスの思想家ジョン・アクトン〈1834-1902〉の言葉)からである。


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