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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ムラのウチの南北意識

2016-02-24 23:09:27 | 民俗学

 泰阜村のある課長さんと飲む機会があった。その方の名刺の背面には次のように書かれている。

 「泰阜村という村名の語源は?」

 当初地域の地勢から豊岡村との村名を県の指導により漢詩の『泰山丘阜』から現在の「泰阜村」と命名、「泰」という字は「水路を自分の両手で拓く」という意味があり、また、「阜」という字は「豊かで盛んな様」を意味しており、「泰阜」からは、豊かで明るい展望と自信が創造さ、且つ理想的な将来像を推し量ることができます。

明治8年1月17日誕生の記録より

泰阜村はこの明治8年の町村制で誕生以来、ずっと同じ村で今まで継続してきた稀な村である。以前「南山之碑」について触れた。江戸末期に起こった南山一揆は、南山三十六ヶ村が起したもの。そのうち現在の泰阜村に該当する村々が16ヶ村あった。村ではこれらの村を「北部16ヶ村」と言っており、山手五ヶ村の左京・打沢・平島田・怒田・鍬不取、川手十一ヶ村の金野・高町・稲伏戸・万場・黒見・唐笠・平野・明島・門島・田ノ口・柿野、併せて16ヶ村となる。これら16ヶ村は江戸時代領主が年代によって入れ替わった。私領のときもあったが、多くは幕領地だった。北部に対して南部と言われるのは左京川より南の地域をいい、江戸時代を通して終始幕領地として治められ、榑木奉行の支配を受けた。こちらは総称を南山村と称し、田本・大畑・美佐野・温田・我科・漆平野の6ヶ村だった。そもそも南山一揆はこうした領主の変更によって年貢が金納から米納に変わったことが要因となった。ずっと幕領地であった南部と、入れ替わりがあった北部とでは状況が異なったのである。

 明治初年強固な自治体を建設すべく小村の合併が進められた。そうしたなか川手十一ヶ村、山手五ヶ村の合併請願もあったが、簡単に言えば「小さすぎる」という判断で認可に至らなかった。明治7年に至って現在の北部と南部を合わせた17ヶ村によって合併する方針が決まり、合村願書が当時の筑摩県に提出された。明治7年5月のことで、当時は「豊岡村」と記載されている。

 さて、泰阜村で南北問題と検索すると、田中康夫県知事時代の住民票問題ばかり。ところが課長さんはわたしには初耳の話をされる。泰阜村では南と北で対立があると。だからつい近年まで南北に学校があったらしい。課長さんは南部の方のようで、たまたま訪れた店の方が泰阜に縁がある方だと「どちら?」と聞く。その方が北部に縁があると聞くと、「わたしは南部だから」と言って、ようはあまり詳しくないというようなことを言われる。なるほど課長さんにはかなりの南北意識が育まれている。そもそも町村制を敷いた明治8年のことについて、「合併ではなく、町村制」と盛んに言われる。おそらく合併の合意によって成立したのだろうが、その背景には町村制によって仕方なく泰阜村は生まれたのだというような雰囲気が漂う。いずれも小さな小村で、いまなら「なんてちっぽけな話を…」と思われるだろうが、地勢からくるこの村の姿は、集落ごとの独自な考えがあるに違いないと察したところだ。今まであまり耳にしなかった村内での南北意識。かなり興味を惹かれる話であった。


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