上久堅下平
上久堅堂平(左)
上久堅堂平(右)
前回「上久堅における青面金剛の彩色例はこれのみである」といって元禄13年(1700)に建てられた飯田市上久堅大鹿の例をあげた。下体につけた衣に意識的に朱の色が見えたわけであるが、その後上久堅を仕事で訪れていて、ほかにも彩色された青面金剛が幾例もあることがわかった。『飯田市の石造文化財』の備考欄に記されたメモを頼りに、彩色された石造物を「石仏に彩色するということ①」で一覧にしてとりあげたわけであるが、ようはメモに記載されていない例が他にあることがよく解ったわけである。実際には彩色された石造物がもっと多く現存するであろうことがここからうかがえる。
上久堅といえば戦国時代まで栄えた知久氏の居城があった神之峰が知られる。小高い山の上は周囲を見渡せることもあって、テレビ塔が乱立する地であった。現在この神之峰の東側で三遠南信自動車道の建設が盛んに行われており、北側の細田川を渡ったところに飯田東インターが近いうちに開設される。この細田川の三遠南信自動車道橋梁の東側の県道端(地籍は下平)に青面金剛が立っている。かすかではあるが日月と腹のあたりから下体にかけて朱の色が残っている。「文化三丙寅天十月十九日」(1806)と刻まれた一面六臂像である。
下平から県道を泰阜村方面に上っていくと右手の高いところに堂平の集落が見えてくる。この堂平集会施設の脇にたくさんの石碑が立ち並ぶ場所がある。「養蚕神」という独特な文字が刻まれた巨碑をはじめ、立派な石碑が並ぶのだが、この中で目を引く石仏に青面金剛がある。なぜ目を引くかといえば、角柱の上に据えられた笠が立派であることと、同じような形態の青面金剛が2基並んでいるからだ。向かって左側にある青面金剛は三面六臂、右側は一面六臂であり、像容と形式から察するところ同時期に建てられたものと思われる。彫りのしっかりした立派な青面金剛である。向かって左側の青面金剛にのみ銘が入っており、かすかに「享保卯八」(1723)と見える。纏っている衣にかすかな朱の色が残っており、明確な彩色痕である。こうしてみてくると上久堅でも青面金剛への彩色が一般的に行われていたことがうかがえる。もちろん今ではその経験を聞き取ることはできないほど時代を遡るわけである。