日曽利押場
観音の衣に彩色の痕
「ヨケ道」について触れたが、三間畝(さんましょう)と同じように観音さんがまとめて祀られている場所が飯沼の先、日曽利(ひっそり)にもある。「ヨケの観音さん」で触れたように、三間畝にはヨケ道にあった三十三観音のうち、一番から十七番までが祀られている。ようは十八番からあとの三十三番までは日曽利側にまとめられたということになる。ということは、一番が飯沼側に、三十三番が日曽利側に祀られていたということなるのだろう。もともと同じ南向村だった両者が、今は中川村と飯島町に分かれている。南向村の中心が飯沼より南にあったのだから、当然ムラの中心から日曽利に向かえば、手前が一番になるのはごく普通のこと。そう考えるとこの山道というか川沿いあった危険な道は、主に日曽利のためにあった観音さんということになるだろうか。
主要地方道伊那生田飯田線を飯沼から日曽利に向かって行くと、「飯島町」という看板が見えてくる。もちろん振り返ると反対側に「中川村」という看板が立っているわけであるが、ちょうど小さな沢が天竜川に流れ下っている。おそらくこの沢が丈ケ沢と言われる沢なのだろう。この看板の上手に少し先の日曽利側から上ると、意外にも現在は転作されているが数枚の水田がある。その山付けに石仏群が見える。ここを押場というらしい。看板が立っていて説明書きがある。
善光寺道と押場の石造群
古くから天竜川左岸(竜東)の山づたいに開かれたこの道は、日曽利から中川村の飯沼と駒ケ根市吉瀬を結ぶ重要な生活の道でした。
この道は、日曽利と飯沼に残る道標から、古く善光寺道と呼ばれ、また吉瀬に残る道標から高遠道とも呼ばれました。
昭和の初め、天竜川電力株式会社の報償道路として竜東線(現在の竜東線の前身)が完成してからは、この道を使用することはなくなりました。
この押場地籍は、中川村との境界で、この先の丈ケ沢を渡ると、「よけ」と呼ばれた大変な難所がありました。
押場には、現在三十四基の庚申塔、馬頭観音、観音立像、墓碑があります。かつて「よけ」の道筋に祭られた三十三体の観音立像は、飯沼の観音塚とここに分けられ、押場には十八番から三十三番までの十六体が集められました。
平成九年三月飯島町教育委員会
初めて訪れたと思っていたらそうでもない。まだ看板が立てられる以前に立ち寄ったことがある。この石仏群については『長野県中・南部の石造物』(長野県民俗の会編)に掲載している。丈ケ沢を渡ると大変な難所だったという通り、町村界を過ぎると主要地方道伊那生田飯田線は、しばらくの間落石防止用のモルタル吹付区間が続く。いわゆる絶壁となっているようなところ。この難所があったが故に、かつて南向村だった日曽利も飯島町へ分離して合併することになったのではないだろうか。
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