Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ヨケの観音さん

2006-09-21 08:11:46 | 歴史から学ぶ
 中川村飯沼の三間畝(さんましょう)というところに石造物が集められている。実はわたしがここを最初に訪れたのは、もう30年以上も前のことである。実家から見て天竜川の対岸に道があって、当時はまだ吊り橋であった飯沼橋を渡ってはその対岸を何度も訪れていた。飯沼神社の中に入ってはこっそり遊んだ覚えもある。行政区域は異なっていたが、庭みたいなものだった。当時はその三間畝といわれる場所に松があって、対岸からも目立っていたのだ。そんなこともあって、少し山を登るのだが、そこに石造物があることを知っていた。

 ちょうど「アレチウリ」で触れた場所を通ったこともあって、先日敬老の日に実家を訪れたついでに登ってみた。30年ぶりぐらいになる。当時はその場所まで歩く道程度しかなかったように記憶するのだが、今は軽トラックくらいなら通れる程度の道が行っている。ちょっと狭いから軽トラックでもなかなか登っていく人はいないだろうが、その道端にその石造物群はあった。

 この飯沼と現在は飯島町になっているが日曽利(ひっそり)という集落を結ぶ道は、天竜川への急傾斜地を通ると言うことで難所であったという。日曽利側ではヨケミチと言うが、「中川村の石造文化財」によると、ヨケヤマミチと記述されている。これは別名で通称は善光寺道と言われたようだ。安政年間に日曽利と飯沼の人たちがこの道沿いに三十三観音を点々と祀ったという。その後道が荒れたこともあったのだろう、それら観音さんを日曽利と飯沼に半分ずつ分けて集めて祀ったようだ。その当時はカッコ沢という現在も北側にある沢から西150メートルほどのところだったというから、現在地よりもう少し北にあったのだろう。ヨケミチはその後も利用されていたようだが、南向発電所の送水トンネルのために造られた川沿いの道が開けてからは利用されなくなった。そして、昭和8年に現在地にヨケの観音さんも移されたという。

 三間畝には三十三観音のうちの一番から十七番までが祀られている。半分ずつというから、日曽利側に十八番から三十三番まで祀られているのだろう。一番の如意輪観音の台座「安政七申年三月十八日」とあるから、安政年間に祀ったという言い伝えと通りのようだ。この一番と十七番が特別大きな碑となっている。道沿いに点々としていたのではなく、もともとここに祀られていたのではないかということを思わせるがどうだろう。十七番の台座には、「仲谷塩沢隠居 日曽利香坂隠居」とある。飯沼と日曽利の有力者の名が刻まれているのだろう。

 さて、かつて訪れた時は、この場所から天竜川対岸の様子がよく見えていたが、今は木が大きくなってしまって何も見えない。昔にくらべるとどこもかしこも木が覆い尽くすようになっている。これから先、さらにこうした山間に人がいなくなったとしたら、山はどう変化していくのだろう、そんな不安を覚えるばかりである。

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