寺坂
階段上の建物が十王堂
参道
十王堂内
最近十王めぐりをしているが、飯島町にはその手のものが少ない。全町で認識しているものは2箇所のみだから、集落ごとにある駒ヶ根市中沢に比較したらその様子が異なる。やはり寺の影響と言えるのだろう。どの時期に寺が地域住民のための信仰になり得たのか、というあたりに関係するのだろうが、飯島氏の影響で甚大な力を要した西岸寺にとって、現在のような地位を得た背景に関わってくる。
その西岸寺にも十王が存在する。参道の入口に堂があり、その中に納められているが子どものころからこの道をよく知っているわたしにとって、ここに十王があるという記憶がなかった。この場所はかつて「駒つなぎの松」という松があったのだが、今はその木はない。この参道入り口までの段丘崖を上る道は、わたしの名前をつけていただいた父母のお仲人の家への道で、「義理の道」とでもいって良い「道」だった。その家へ行く際には、必ず通った道で、盆や正月には子どものころ毎年歩いたものだ。またそうした「義理」にかかわらずとも、「寺坂」と言われたこの道は、子どものころ何度となく歩いた空間である。その段丘崖下からの登り口に「千成地蔵」というお地蔵さんがあって、今とは違って少し暗がりのようなところにあったように記憶する。昭和58年にお地蔵さんのあった背後の十王堂沢が荒れて、災害を引き起こした。小さな川なのに、どこからこのような土砂がやってきたのか、と思うほど沢は土砂を押出し、それまでも天井川であったが、そこがすっかり埋まってしまったのだ。明治から大正期には、この坂元のあたりに「十王堂学校」という学校があったという。
この寺坂は現在も当時と同じ姿を見せるが、今は通る人はほとんどいない。しかし、写真でもわかるように参道入口の踊り場にある石段の幅はずいぶん広い。4メートルほどあるだろうか。参道もまたほぼその幅で続いており、当時としては広い道だったといえる(段丘崖の道は2メートルほど幅)。その踊り場に十王堂が現在あり、かつての十王はもっと下の方にあったのではないだろうか。ここの十王は木造であり、おそらく上段の真ん中に据えられている大きめのものが閻魔王なのだろう。奪衣婆はあるが、地蔵菩薩の姿はない。左側の厨子に入っているのは弘法大師である。右側の逗子は閉扉されていて中が見えないが、もしかしたらこれが地蔵菩薩なのかもしれない。
踊り場から階段を登ると約百メートルほどの見事な参道となる。