旧和田村下和田上組道祖神(平成26年12月30日)
旧和田村下和田中組「道祖神獅子舞」(昭和62年元旦)
『遥北』75号(遥北石造文化同好会)に記載したように、当時下和田上組では子どもたちが法被を着て獅子舞をしていた。この日(12/30)話をうかがった方も、地区に熱心な方がいて法被を揃えて舞うようになったという。ところが子どもの減少に伴って獅子舞は中止。今から10年ほど前のことだったという。子どもたちが舞い歩く獅子舞を、昭和の終わりごろこの小県から南佐久にかけて何か所も訪れたものだが、下和田の様子をうかがって、よそはどうなのだろうと危惧するところだ。地区ごと、その地区もかなり小さな範囲で行っていただけに、少子化の影響はこうした行事に真っ先に影響するだろう。したがって、昭和末期の光景を今同じように見ることは難しいのかもしれない。
思い出せば2011年に和田村のことについて触れ、獅子舞についても少し記述した。合併とともにかつての村にあった中学に通わずに、生徒数の多い合併した別の中学(マチに近い)に通学する子どもたちが多くなったという話。その理由について部活動があげられていたが、それは表向きな理由であって、本当は生徒数の多い学校へ通わせた方が高校進学にメリットがあると考える親が多かったのではないだろうか。小学生の間はともかく、中学生ともなると、厳しさを感じないと受験勉強に力が入らないということはあるかもしれない。そう考えると自ずと少数学級ともなれば競争心は薄い。村の中学だった時代ならともかく、合併して行政枠が外れた途端に、村という郷土意識が急激に希薄化したことがうかがわれる。当時記した「あるムラの現象」の中でわたしはこう記している。「子どものころに地域を記憶として持てない者が、地域に戻る可能性は低下するし、戻ったとしても地域への思いは低い」と。そもそもこの地で獅子舞に参加して、かつての子ども仲間を体験した子どもたちでさえ、この地に住まわない。この日話をしてくださった方は、わたしの父の年代(昭和4年生まれだという)とほぼ同じであった。ということは子どもさんはわたしと同年代である。もちろん子どもだった時代に獅子舞を経験したというが、その子どもさんがこの地に住まわなければ、その子どもたちがこの和田という地になじむはずもない。わたしはこうも記した。「どんなに地域が消えてなくなろうと、おとなたちがそれを認めたわけである。それでもって地域が衰退したなどと愚痴をこぼさないことだ」と。もちろんこんな厳しい言葉をわたしは直接こうした方たちに吐くことはないが、村が急激に衰退していることは、住まわれている方たちも解っていて、どうすることもできない無力感を抱いていることは会話からもうかがうことができる。
さて、獅子舞の碑の向かって右側に文字のない石碑が1基、その右に奇石、さらに右に青面金剛が立つ。この3基まとめて「道祖神」なのだとうかがった方は言う。どれが道祖神なのかはっきりしない、というのが本当のところだ。もちろん青面金剛は庚申さんであって道祖神ではないはず。奇石は道祖神の付属物と捉えられる。とすると真ん中の無文字の石碑が道祖神なのか。この道祖神の前の道端で今もドンドヤキが行われるという。集まる飾りがそれほど大量ではないことから、旧国道脇のスペースで焼くことが叶う。その理由は、この日朝方集落の様子をうかがった際にも感じたのだが、家々の松飾が質素だということにある。聞くところによると、昭和30から40年代、話をうかがった方の父親が村長をされていた時代に、質素倹約を目的に飾りに松を利用することを辞め、印刷した飾りを村が配布したという。数年で配布することもなくなったというが、それをきっかけに飾りを従来のようにしなくなったという。現在の飾りを見る限り、これといった特徴はなく、おそらくほとんどがホームセンターなどて販売しているものを掲げている。したがって統一感もなければ、伝統的な趣はほとんど見られない。したがってドンドヤキも、とりあえず道祖神前に集められて焼くものの、ドンドヤキを担っている集団があるわけでもなく自然発生的なもののよう。きっと道祖神の獅子舞が行われていたころと、元旦の光景は大きく異なるのだろう。
終わり
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