上田で葬儀があって久しぶりに旧道和田峠を経て上田、というより旧武石村まで行った。少し時間に余裕があったため、旧和田村ではバイパスを走らずに旧道を走り、正月を前にした年末の様子をうかがった。下和田へ入ると道端に獅子舞を刻んだ石碑が建っていて気になって近づいてみた。なによりこの日旧和田村内を走ってみようと思ったのは、かつて正月の獅子舞を見に訪れたことがあったからだ。記憶では年末の31日から元旦にかけて獅子舞を舞っていたはず。石碑には「ふるさと美し運動」とあり「平成八年度受賞」とあった。
ということで葬儀出席後、あらためてこの碑がなぜ建てられたのか近くの家で聞いてみることにした。聞くところによると旧和田村時代に「ふるさと美し運動」というものが始まって、いわゆる月に1度、地区の美化活動をしていたという。そんななか平成8年にここ下和田上組の活動が評価されて表彰されたというのだ。その際にこの石碑を記念に建てたという。獅子舞を彫ったからにはそれなりに思うところがあったのだろう。今でもこの運動は継続されていると言うが、残念ながら獅子舞は現在行われていないと言う。子どもの減少に伴って辞めざるを得なくなったようだ。わたしの記憶ではここ上組の獅子舞を訪れたような気がしていたのだが、家に帰ってあらためてかつての記録を紐解くと、上組ではなく中組の獅子舞を訪れていたようだ。昭和62年の元旦のことである。当時の獅子舞の様子は、わたしが個人的に発行していた『遥北』75号(遥北石造文化同好会)に掲載されている。
和田村は長門町から旧中山道を諏訪に向かった所にあり、現在は隣接する町村になる。中組の獅子舞を拝見したが、ここでは午前八時半より始まる。
一輪車に太鼓をのせ七人ほどで回っていた。女の子がほとんどで、ここでも女の子に比べ男の子不足が目立っていた(「ここでも」とは隣の長門町長久保の獅子舞を同日に訪れていたため)。上組では件数も多く、男の子たちだけでハッピを着てしっかりした屋台を引いて行っているようだが、ここでは恰好も普段着で女の子が多いということでおとなしい獅子舞であった。
軒数が少ないということで、こういう状態であるが、以前は男の子だけで行い、はやし唄も長かったという。各家を回る折、まず「かぜの神」送りの唄を歌い、笹で家中を払って左回りにまわる。
かぜのかみたたきだせ たたきだせ
ふくのかみまつりこめ まつりこめ
こばんや こつぶを
すみすらすみまで はっこめ はっこめ
というものである。
そして獅子頭を被り太鼓に合わせて
おしし十六
ささげのとしだとね そーら
みは三尺の剣を抜いて
悪魔を払うとね そーら
と歌い舞を行う。
終わるとご祝儀(取り決めがあり、たくさんはもらわないようである)をいただき次の家へ回っていく。
道祖神とは関係ないと子どもたちは言うが実際はどうなのだろう。獅子舞は各家を回り、十一時過ぎに終わった。
あらためて読んでみて気がついたことは「かぜの神送り」をしていることである。寒さ厳しい時期だけに、風(風邪?)の神を送ってしまおうとしているわけである。道祖神の祭りかどうかはっきりしないとここでは述べているが、今日聞いた上組の獅子舞では、提灯に「道祖神」と書かれていたというから周囲(長門など)から察して道祖神の祭りであることは間違いない。その道祖神の祭りに「かぜの神」を送る所作が加わっていたことは興味深い。
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