Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊那市表木下村へ

2018-03-16 23:18:34 | つぶやき

 伊那市西春近表木の下村の中ほどに十王堂がある。下村は国道153号線と同旧道に挟まれた段丘の中段にある集落で、下村に用事でもないかぎり、あまり足を踏み入れることもない空間である。戸数にして30戸足らずという集落で、十王堂はこの地域の人々によって守られていたようだが、今は表木区によって管理されている。

 この十王堂に30年以上前に訪れた記憶がある。当時伊那谷の十王を撮影しようとされていた松本市の宮嶋洋一氏に誘われて伊那から中川村あたりまで十王を見て回った。たまたまお彼岸だったこともあって、十王堂を訪れると、これから数珠回しをするようで人が集まっていたように記憶する。それがお年寄りだったのかどうなのかさっぱり記憶はない。今もって数珠回しが行われているのかどうか、もし行われているようなら見てみたいと思って、彼岸を前にして外出した際に近所で様子を聞いてみた。あるお婆さんは「やっとるに」と言うものの、いつなのか分からないのでお寺に行って聞いたみたら、と言うがお寺まで行くには少し遠いので、ほかのお宅にもうかがってみた。するともうずいぶん前からやっていないと言われる。お婆さんが「やっている」と言われた理由は、数珠回しはされていないが、十王堂のお祭りのようなことはしているらしい。

 そもそもいつごろやらなくなったのか、聞いてみるとどうもわたしが訪れた30年ほど前より前だと言われる。となるとわたしが以前訪れた時の記憶は何だったのか。あらためて記憶を記録から呼び起こそうと古い資料を探してみたが、簡単には見つからない。そんななか、当時訪れた宮嶋氏の写真があった。撮影に来られたあとに、焼いた写真を送っていただいたものだ。封筒の消印には「62」とあるから昭和62年のことだ。4月に半ばに送っていただいたもので、キャビネ版で当日撮影した写真を何枚か送ってもらっている。今でもお祭りはされているから、数珠回しではなくお祭りの日だったのかもしれない。しかし「数珠回し」をしていた場所という記憶はその後ずっとあって、10年ほど前にも近くに仕事に訪れた際に、十王堂を懐かしく見た覚えがある。いつか確かめて見ようと思っていたことだ。

 60代と言われる方に聞いた話によると、その方が子どものころにはやっていて、その後すぐやらなくなったように記憶されているという。下村の人たちが重箱を持ち寄って、庭で飲み食いをした記憶があるという。そしてその庭で数珠を回されたとも。当時の十王堂には葬儀の際の道具なども納められていたという。伊那谷の十王堂ではよく聞かれる話である。数珠回しが途絶えた後、下村だけでは管理ができなくなったようで、表木区に委ねられたようだ。今はやはりお彼岸のころ、区にある地区代表の役員が集まって法音寺の住職を頼んでお祭りをしているという。直会は区の集会施設に移ってされているようだ。

 

伊那市表木下村十王堂 奪衣婆(宮嶋洋一氏撮影)

 

 下村の十王堂の庭にはたくさんの石仏が建っている。最も古いものは享保6年(1721)の念仏供養塔である。そのほか1700年代の巡礼供養塔などがいくつもあって、当時巡礼が流行っていたようだ。以前にも触れた通り、伊那市内には念仏供養塔がとても多く、石碑がたくさん並んでいると思うと、必ず念仏供養塔が混ざっている。そしてそれらは1700年代と比較的石仏類の中では古いものになる。十王堂内には、十王ほぼひとそろいの石仏が安置されている。大きさはどれも30センチくらいのもので、こ奪衣婆だけ少し大きめである。

 


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