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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「せいの神」という違和感から その3

2023-05-11 23:02:59 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その2から

 その2では旧高遠町の既刊資料を紐解いた。今回は旧長谷村である。『長野県史』では1例も記載がなかった長谷村であるが、長谷村で刊行した民俗関係の資料には、道祖神についての記載が多くみられる。今回の火祭りの名称にこだわらず、さまざまな道祖神信仰の視点を展開するという面では、豊富な資料が得られるわけである。したがつて、「道祖神」の呼称や、火祭りの呼称を含め、多様な観点で捉えてみるべく、関係の部分を拾い集めてみた。3冊の既刊書から下記に引用したが、とりわけ『伊那谷 長谷村の民俗』(長谷村文化財専門委員会 昭和48年)には多くの情報が掲載されている。

『長谷村誌第一巻 民俗編人物編』(長谷村誌刊行委員会 平成5年 P129)
十五日どんど焼き どの集落でも松飾りの集めたのを道祖神か田んぼや河原で焼いた。この火でまゆ玉を焼いて食べると虫歯にならぬといった。また書初を焼いた時、火が高く上がるほど、習字が上達するといった。今でも小中学生によって行なわれている。
道六神笑い 「道六神という人は馬鹿なような人で、出雲の国へ招ばれて行って後で家を焼かれた。エンヤラワァィ、エンヤラワァィ」と子供たちは騒ぐ。


『伊那谷 長谷村の民俗』(長谷村文化財専門委員会 昭和48年)
民間信仰(P165~)
 文字碑 黒川が「導祖神」とある以外、すべて「道祖神」と刻んである。「さいのかみ」「どうろくじん」などは見当たらない。が、だからといってそういう呼び名がなかったのではない。どんど焼の際にも「どうろくじんのおんばあは……」「どうろくじんという人は……」と歌われるし、また地名「さいのかみ」が五か所ある。(非持山・上手・南非持・溝口西町・和泉原・宇津木)そしてその地に古くからある家の屋号にもなっている場合が多い。宇津木の道祖神は報恩寺境内にあるが、地名さいのかみは部落の上方、尾根部にあり、今は山林になっている。和泉原のさいのかみも部落外れである。以上からさいのかみやどうろくじんが古い名称であると共に、さいのかみの性格が知られる。

 奇石 四基と少ないが、それは単独に存在する場合であって、他の碑と一緒にあるものを数に入れてない。むしろ当地は奇石の多いところである。平瀬・和泉原・桃木・松平ごとに見られる石灰岩の奇石は石灰岩を上流に豊富に埋蔵している当地の特色である。
 陰陽石 男女性器を形どった陽石陰石が当地の特に伊那里には目立って多い。中尾の道祖神場四か所にそれぞれ一基乃至数基の陰陽石が道祖神と並んでおり、人工を加えた形跡もある。松平の坂の途中の岩上に文字碑と並んでいた陰石はそれはみごとなものであったが、昭和四十六年春頃盗まれてしまって今は見られない。子宝に恵まれない婦人が拝むと授かるといって参詣したものだという。生殖器崇拝は豊作・子孫繁栄を願う太古以来の信仰で、それがこのように道祖神信仰に受げ継がれているのである。当地の陰陽石が極めてリアルなばかりでなく、積極的に人工を加えてさえあることは、いかに信仰の厚かったかを物語るものとして注目してよい。

 球形道祖神 下中尾の郷倉前碑群中にある球形道祖神は伊那谷では全く珍しい。それは直径五十センチメートル程の人工を加えたらしい花崗岩の球で、箱形の石の台に載っており、台に「道祖神」と刻んである。球形は中川村高嶺・高遠町宮沢など他にもあるにはあるが、中尾のは典型的である。球形は甲州には沢山ある。当地と甲州とが地形的に近く、人的文化的な交流のあったことの一例とみられる。
 以上に見てきた奇石道祖神は道祖神の原初的素朴さをもつものと考えられる。昔まずさいのかみの標示としてあるいは神の依代として石(穴があったり、黒色に白のしまがあったりする、形も色も神秘的な石)を立てた。次第にもの足らなくなって、信仰のイメージに基づいた像やあるいは文字を刻むようになったものと思われる。しかし現実にある奇石がすべて原初からのものとみては危険である。後世でも、異様な石、陰陽石形の石を発見した人が道祖神場へ持って来て置いたこともありうるからである。


道祖神信仰と行事
 どんど焼 名称は当地では一般にどんと焼であるが「おしんめ焼」(溝口)「お松を焼く」(非持山)「どうろくじん笑い」(中尾)などともいう。別に名称がないという人も多い。
 内容は正月の門口を飾った門松・注連飾りを七日に外しておき十四日に道祖神場で焼くのであるが当地でも各部落により若干日時方法に差がある。七日にはずすのに、お神酒を進ぜてから外す。(浦)はずして家の近くへ置くが、その時暦をみて空きの方の松の木の下などへ置く。(溝口)道祖神場で焼くのが本来だが危いので後には田圃や河原で焼くようになった部落が多い。
 日時は昔は十四・十五・十六日の三日間というのが当地では一般的で主催は十五歳で祭事連に入る前の子供連であった。十四・十五日とたいていると門松だけでは足りなくなって大人がぼやを足してくれたり、「みそぎを出してくれ」と村中子供が貰って歩いた。十六日にはオンベーを倒して注連繩や飾りなども焼き、この晩が一番子供の張りきる時だ。竹を切ってくべて音を立てる。歌をうたう。時間は大概午後から夕方だが、十六日朝(松平)もある。また戸台やその上方吉ヶ平・大久保など人家の少ない所では十四日晩に戸台の道祖神場に来て思い思いに焼いたり、そのまま置いて帰る人もある。

 どんど焼の歌
 ○どうろくじんのおんばあは けついとげをくすいで つむで掘っても掘りきれん かぎで掘ったら掘りきれた(溝口)
 ○どうろくじんという人は馬鹿なような人で 出雲の国いよばれて行って じんだら餅に食いよって あとでいい(家)を焼かれた エンヤラワーイワイ(中尾)

 中尾では火を囲んだ子供達が「どうろくじんをわらう」といってこのように歌った。また浦・塩平辺では、

 おんべちんちょワイワイ

と火の燃える時囃した。
 どんど焼の火で繭玉を黒く焦がして食べると虫歯をやまない。(各地)正月二日の書初めの紙を燃やし、高く上がると上達する。(各地)といった。
 塩平ではどんど焼を道祖神の脇の田でするが、その際道祖神のところの小石(決まった石で、奇石とみられる)を持って行って中に入れて火をつける。後元に返しておく。

 おんべ 道祖神に幟枠が作ってあり、そこへ十メートル近くのおんべ棹を立て、先端に日の丸、一メートル下におんでこ様といって横木を渡し五色の紙と藁を垂らし、注連縄を連ねて綱にして二方へ長く垂らす。また柳(長い竹を割って色紙を巻きつけたりのりで張りつけてピラピラ垂らしたもの)や袋(色紙で作り中に残りの紙を入れた)を下げたりした。おんべの飾り物は部落によっても違うし、年々趣向をこらし変っていく面もあった。正月十三日に立て、二十日夕方に、内飾りや小正月の飾りを焼く時に倒して焼き、柳の竹は各戸に分けて、円くして屋根に上げた。(柏木)十四・十五日は飾っておく。他部落ととりっこをする。十六日に下ろし、棹はお宮に置き、飾りはどんど焼で焼いてしまう。(溝口)
 おんべはかつては当村の各地で小正月に道祖神場に立てられた。それが数十年前からだんだん廃れて簡略化され日の丸の旗や赤白赤の地に「道祖神」と書いた旗を立てるようになった。今でも丈の低い棹が年中立っている例(浦霜村など)がみられる。

 厄投げ 厄年(男二・七・二十五・四十二歳、女二(人により三)・七・十九・三十三歳)の人が小正月お年取り後、洗米と日常使っていたご飯茶碗に銭や大根または人参の切ったのを年齢数だけ入れて行って道祖神に投げつけて茶碗をこわし、厄落しをすることが行なわれている。(美和各地から伊那里平坦部にかけて)これは上伊那地区各地と同じであるが、これもところにより変化がある。茶碗は投げず、十四日午後子供が学校から帰るのを待って子供に向かって銭とミカンを投げる例(伊東・宇津木)もあり、厄年の人はどんど焼に集まった大人に酒を振舞う例(市野瀬)もある。投げた銭を子供の拾うのが普通だが、厄をしょうといって拾わないところ(非持山・溝口)もある。時問は多くは十四日夜だが十四日朝年取り後、まだ暗いうちに人に会わないよう投げてくる例(溝口・中尾)もある。浦・平瀬・塩平・柏木・小用など伊那里の奥地では随分丁寧に行なわれている。次に前浦の場合を記す。
 十四日夕方、どんど焼の火の燃えている時、銭も洗米とその他に年齢によって決まった物を持って行って投げてくる。道祖神へ直接投げつけるのではなく、道祖神を拝んで帰る時に後ろ向きに道に投げる。その時、

 鶴は千年 亀万年 弘法さまは九千年 浦島太郎百六つ わたしの年もその通り

 と願い言を唱える。子供達は投げた銭を拾うが、家へ持込むと厄がついてくるといって、屋外へ二、三日置くか、店で買物に使ってしまう。
 厄投げに行く時人に会わないように隠れて行く。厄落しの人に会うと厄をしょい込むといって嫌う。厄投げの後、帰りに親戚や親しい家に寄って厄を落して来た報告をする。新年のことではあり、年始を兼ねてお土産を持って行く。先方では「厄を落しておめでとうございます」と言って、お祝儀を包んでくれ、茶かお酒をご馳走してくれる。
 年齢によって投げる物が決まっている。日常身に付けている大事な物を投げ、道祖神に厄をしょわせるという趣旨であろうか。

二歳 男女児とも、よだれ掛・頭巾を碑へかけてくる。
十九歳女 お椀(茶碗)と洗米・年齢数の銭
二十五歳男 財布と洗米・年齢数の銭
三十三歳女 櫛と洗米・銭のおひねり
四十二歳男 洗米と年齢数の銭を紙にくるんでおひねりにして拡がるように投げる。

 以上が前浦の厄投げの例だが、その奥の平瀬では二歳の男女児ともよだれ掛・頭巾、七歳の男女とも銭七文、男の二十五歳が小刀、四十二歳が財布(人によりお椀)女の十九歳が鏡、三十三歳が櫛を投げたという。厄投げに何を投げるかは同じ地区でも人によって少し差があるが、浦からの分かれという平瀬の方にむしろ古風が遺っているように思われる。山をへだてて隣接する下伊那郡大鹿村でも昔財布・櫛・鏡などを投げたというから、この風習は山間地に相当広く行なわれていた古風が遺っているものと考えられる。

 お事始め(二月八日)の藁馬引き 藁で丈六十センチメートル、高さ三十数センチメートル位の馬を作り、小さな俵を藁で作って餅を入れ、藁馬の背へ左右一俵ずつつけて、道祖神前へ引いて行く。馬を二頭飼っている家では二頭藁馬を作って行く。顔や耳の辺りはミゴで作った立派なもの。その餅はよその人のと交換して来て家中で食べる。(浦のような山間地では昔は米は自給するだけ作らなかった。自分では米の餅をつけて行ったのに、交換してきた餅は粟ばかりでガッカリということもあった)馬は供えて置いてくる。子供達がその馬を借りて来て遊び道具にする。(前浦)
 藁馬につけて行った餅はお護符といって、子供に投げて拾わせた。(溝口原)
 しとぎ(生米をひやかして臼でついて粉にしてお供えを作ったもの)を持って行って道祖神に供える。本来は馬へつけて行くべきだが、お重へ入れて行く。道祖神というより、辻神様へ供えると言っていてしとぎを取りっこして家へ持ち帰って焼いて食べた。(中尾)
 鏡餅を切って藁馬にくわえさせて行き、道祖神(の文字碑)へ貼りつけ、馬を人のとくみ、人の付けた餅を持ち帰って食ベた。歯をやまないという。(非持山)
 以上地域により幾分方法が違う。この藁馬引きの行事は数十年前に廃れた。今、藁馬を作れる人は一部の古老に限られている。

 道祖神祭
〇非持山 正月のある日、若者主催で、各戸お重(煮〆)持参、お神酒を上げ、和尚様に拝んでもらった後、皆で酒宴をした。
〇黒河内平(たいら) 四月八日かその前後の日、村中が出て横尾の井ざらいといって川ざらいをし、その後、道祖神のお祭だといって酒宴をした。

 その他俗信・言い伝えなど
〇さいのかみによくよだれ掛けが掛けてあった。これは疱瘡を病んだ時、平癒を祈り、直るとお礼に掛けたものという。随分昔のことである。(中尾)
〇風邪よけ 紙に馬と書き、自分の年齢を書いて辻や道祖神のところに挿してくる(溝口)
〇道祖神の御神木-イチイの樹 イチイと道祖神との囚縁は不明だが当地から三義地区にかけて道祖神の後ろにイチイのある例が多い。松平の道祖神の脇にイチイの巨樹がある。道路拡張の為今のように道祖神は少し離されたが、以前はその根っこにあった。このイチイは道祖神の御神木だと言われている。この他にも道祖神場にイチイのある例は上中尾・柏木など各地にみられる。中非持にもイチイの巨木があったが枯れてしまった。粟沢では傍らにカヤの木がある。
〇道祖神盗みの言い伝え 下中尾に昔道祖神双体像があった。いつか宮沢の人達が人夫か何かの用事で来てそれを見て余りに良い出来だとほれこんだ。連れの中に石屋がいてしっかり据えつけてあったのを道具を使って取り出して持って行ってしまった。そして「神様が『おれをどこかへ連れて行ってくれ』と言ったのだ」などと理屈をつけていたという。宮沢では「とり返しにあってはいけない」と近辺を若い衆に守らせ、まわりを年寄が囲んで酒を飲んでお祭をしたという。また区長送りで守っているという。(この言い伝えを裏付ける道祖神の棹石が現在下中尾の公民館前碑群中にある。90×60×20センチメートル位の石で、それに19×12×6センチメートル程の溝を切ってある。双体像はここにはめ込んであったものと思われる。一方、宮沢では毎年正月十四日にどんど焼のまわりで箱から沢山の小さな道祖神像を出して手で撫でたり火にあぶったりして、酒を飲み歌をうたってお祭をするが、その中に全くその大きさの符合する双体像が一基ある。それには延享三(一七四六)年の銘がある。もしこれが中尾にあれば、当村最古ということになる。宮沢では現在も毎年当屋送りで保管されている。昔の道祖神盗みの一例であり、勿論もはや時効にかかった一件である。)

まとめ
 長谷村の道祖神信仰において注目すべき点は、(イ)「さいのかみ」の地名が五か所もあって、古くからこの信仰が根を張っていたと思われること、(ロ)陰陽石の信仰が強いこと、(ハ)厄落しが丁寧に行なわれること、(ニ)どうろくじんを嘲笑すること、(ホ)どんど焼の際道祖神の小石を一緒に焼く例が一か所ではあるがみられることなどである。次にこの(ニ)(ホ)の事実が注目に価いするゆえんを極く簡単に述べておきたい。
 どんど焼にどうろくじんを嘲笑する歌を歌うことは伊那谷各地で行なわれた。例えば、

 ○せいのかみの神様は いじのむさい神様で 山椒の木い登るとて ベベヘとげをつっかけた ワーンワーン ワーントショ(駒ヶ根市中沢で「せ-の神をわらう」と言って歌った歌)
 ○ほんやりほ-ほ- ほんやりどは馬鹿だ 出雲の国いよばれて 後で家を焼かれた(中川村南田島)

 また道祖神をどんと焼の際火にくべて焼くことは静岡県などで行なわれるというが、それにはいわれがある。すぐ隣の高遠町三義中屋には次の俗信がある。「道祖神は、今年の村人の誰それはどの程度の病気というふうに、一年の予定を帳面につけておく。それを焼いてしまえばいかな神様でも病気にさせることができないだろうというので帳面を焼いたのがどんど焼であるという」この俗信は当村でまだ採集していないが、道祖神の石を焼くことは同じ俗信によるものと思われる。(注1)道祖神は本原において、「人民から退却を要求せらるべき荒神」(注2)であり、嘲笑の歌は即ち「悪魔祓の罵声」(注3)であったかと思われる。

 注1 橋浦泰雄「ふるさとの祭」55頁
 注2 尾芝古樟「柱松考」(「郷土研究」第3巻)
 注3 代田太一「おんべとほんやり」(「伊那」1956年1月号)

年中行事(P263)
 厄投げ(厄落とし) 二才七才(男女)男二十五才四十二才、女十九才三十三才を厄年といった。厄年の者は、自分が使っていた茶碗の中へ、自分の年の数だけ銭(明治前は一文銭、明治後期は一厘銭、大正時代は五厘・一銭、近時は一円。五円・十円)を入れ(不足のときは大根の細いのを輪切りにしたもの)道祖神へ行って役げた。茶碗の割れる音で厄が消えるといった。厄を投げたら、うしろをふりむかないで家に帰った。投げる前に神社へ参拝して行ったところもある。投げた銭は子供達が拾って、持ち帰らずに直ぐに使ってしまう。菓子でも買って使うと、厄がはれるといった。
おんべ 長い竿の先に色紙の「幣そく」をつける。その下に竹を細くさいたひごをしばりつけ、それに色紙を細長く小さく切ったものをつける。(ひごは、部落の家ごとに配れる数にする)それを道祖神に立てる。これを十四日十五日と置いて、十六日に倒して色紙を貼った細い竹ひごは、各戸一本ずつ持ち帰って屋根の上へ上げた。(市野瀬柏木)
 オンベ竿に付けるものは、部落によって違うが、どの部落でも、大正の中頃までは立てた。今でもそれに代わって日の丸の旗を立てるところがある。(溝口)

 十五日どんど焼き どの部落でも松飾りの集めたのを道祖神か河原で焼いた。この火でまゆ玉を焼いて食べると虫歯にならぬといった。又書初を焼いた時、高く挙がる程、習字が上達するといった。
 道六神笑い 道六神という人は馬鹿なような人で、出雲の國に招ばれて行って後で家を焼かれた。エンヤラワアイ、エンヤラワアイと子供達は騒ぐ。


『奥三峰の歴史と民俗』(戸草ダム民俗等調査委員会 平成6年)
年中行事(P273~)
正月行事
十三日
〇道祖神旗立て
 当番で旗を立てたが、十二日の夕方立て、二十日の夕方下ろした。
 途中雨や雪がふっても取り入れなかった。
十四日
〇厄年行事
 男は二・七・二五・四二歳、女は二・七こ九・三三歳が厄年で、お宮にお参りに行き、米、お賽銭を納めて拝み、次に道祖神で年の数だけ銭を入れたご飯茶碗を投げてぶち割り、厄を払い厄を背負って帰らないようにと後ろを振り返らずに急いで帰る。投げられた銭は子供たちは拾ってよいが、家に持ち帰ることはできない。店ですぐ使う習慣であった。また銭の代わりに「みかん」を投げて厄落としすることもある。次いで庚申様にお米とまゆ玉だんごを持って行き拝む。成人に達してからの厄落としは、これらのあと近親者を招いて酒盛をして厄を払い、深夜に及ぶまで歓談する家もあった。
二十日
 二十日正月で女の正月ともいわれ、正月行事の納めである。女の人が身休を休める息味もあり、料理など特別なことはしない。
〇どんど焼き
 正月に飾られたしめ縄や書き初め、また古くなったダルマ等を、集落の子供たちが各戸を回って集め、道祖神前の広場などで竹を切ってやぐらを立て、そのやぐらの中で炭火を起こして、餅やまゆ玉を焼いて食べる。そして夕方やぐらに火をつけてきれいに燃やす。子供たちにとってたいへん楽しみな行事の一つである。
二月八日
○おこと
 事始めともいい、餅をついて針供養をする。わら馬を作り、餅を背負わせて道祖神へ持って行き供養する。もちろんこの日の針仕事は休みである。

民俗信仰(P358~)
 道祖神
 どんと焼きは道祖神の前で行うのが原則。昔は正月十四・五・六日の三日間行うというのが当地では一般的であったが、だんだん簡略になった。
 どんど焼きの唄は門松等の燃えさかるのを見て囃し立てるように歌うが、「どうろくじんをわらう」というとおり、あざ笑う内容である。
上伊那の各地で歌ったが、杉島でも昔歌った。
  どうろくじんという人は ばかなような人で
  じんだら餅にくいよって あとでいい(家)を焼かれた
  エンヤラワーイワイ
  また、浦・塩平へんでは、
  おんべちんちよワイワイ
と火の燃える時囃した。
 どんど焼きを、塩平では道祖神の脇の田でするが、その際道祖神の所の小石(それは決まった石で道祖神奇石だと思われる)を持って行って中に入れて火を付ける。これは、道祖神を焼くということで、なぜ焼くかというと、道祖神は、今年の村人のだれそれはどの程度の病気というふうに、一年の予定を帳面につけておく。それを焼いてしまえばいかな神様でも病気にさせることはできないだろう、というので焼いたのがどんど焼きであるという。

 厄投げ
 厄年の人が小正月お年取り後、ご飯茶わんに、銭や大根の切ったものなどを年の数だけ入れて、道祖神に投げつけて茶わんを壊し、厄落としをするのが、上伊那一帯のやり方である。伊東・宇津木では、茶わんは投げず、十四日午後子供が学校から帰るのを待って、子供に向かって、銭とミカンを役げる。浦・平瀬・塩平あたりでは随分丁寧に行われている。
 十四日夕方、どんど焼きの火の燃えている時、銭・洗米と、その他年齢によって決まった物を持って行って投げてくる。道祖神へ直接投げつけるのでなく、道祖神を拝んで帰る時に後ろ向きに道に投げる。その時、

  鶴は千年 亀は万年 東方朔は八千年
  浦島太郎百六つ わたしの年もその通り

と願い言をとなえる。年齢によって投げる物が決まっている。日常身に着けている大事な物を投げ、道祖神に厄を負わせるという趣旨であろうか。


・二歳 男女児とも、よだれ掛け・頭巾を碑へ掛けてくる
・一九歳女 茶わんと洗米・年齢数の銭
・二五歳男 財布と洗米・年齢数の銭
・三三歳女 櫛と洗米・銭のおひねり
・四二歳男 洗米・年齢数の銭のおひねりを広がるように投げる


 以上が前浦の例だが、その奥の平瀬ではさらに丁寧で、古風が残っているように思う。


・一歳 男女児とも、よだれ掛け・頭巾を碑へ掛けてくる
・七歳 男女児とも、銭七文
・一九歳女 鏡
・二五歳男 小刀
・三三歳女 櫛
・四二歳男 財布


を投げたという。
 山を隔てた下伊那郡大鹿村でも昔は、鏡・櫛・財布を投げたというから、この風習は山間地に相当広く行われていたものと考えられる。
 子宝を授けてくれる道祖神
 道祖神は縁結びの神であり、また、子宝を授けてくれる。杉島松平の坂の途中の岩の上にたくさんの石仏が並んでいる中に、道祖神陰陽石があった。それは見事なものであったが、昭和四十六年春ころ盗まれてしまって今は見られない。子宝に恵まれない婦人がお参りすると授かるといって参ったものだという。
 生殖器崇拝は豊作・子孫繁栄を願う太古以来の信仰で、それがこのように道祖神信仰に受け継がれているのである。

 

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 以上既刊書より関係部分を引用した。高遠町同様に基本的には「道祖神」は道祖神であり、火祭りは「どんど焼き」のよう。そうした中、『伊那谷 長谷村の民俗』では「地名「さいのかみ」が五か所ある」と述べているように、「さいのかみ」(「せいのかみ」ではない)という名称が古くから存在していることはうかがえる。しかし、どんど焼きの際の囃子言葉に「どうろくじんのおんばあは」とか、「どうろくじんをわらう」ということが言われたりするところから、「道祖神」を「どうろくじん」と称していた地域もあったことがわかる。

続く


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