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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

結ぶ・切る⑤

2010-02-03 12:44:14 | 民俗学

結ぶ・切る④より

 夏目琢史氏は「縁結びと縁切り-長野県内の「縁切り信仰」の事例を中心に-」(『信濃』62巻1号)において長野県内の縁切り信仰を一覧にしている。その中で紹介されている松本市中山埴原のおとめ岩についての伝説は次のようなものである。

 町村の道端におとめ岩がある。昔、嫁入りのとき、この前を通った嫁様がけがをしたので、それ以来、嫁入りのときにはこの石の前を通らないという。

というものである。このことについて夏目氏は「「縁結び」と「縁切り」はある具体的な事件によって逆転することも多かった」と言い、さらに「「縁結び」が「縁切り」に転じることはありえるが、逆に「縁切り」が「縁結び」に変化してしまうことは基本的にはありえない」と指摘する。その例の一つとしてもあげられている上伊那郡飯島町の事例は次のようなものである。


 飯島町本郷部落内の道辻に、半ば朽ちかけた薬師堂がある。薬師堂の北側に降ってくる坂道は新道で、道幅もあるが、そのすぐ傍らにすっかり雑草に覆われた名ばかりのような旧道がある。以前それを薬師坂とよんでいた。薬師坂の辻口は現在庚申塔や馬頭観音が並んで立ち塞いでおり、それを跨ぎ越さないことには旧道にはいれないという全くの廃道である。
 現在誰一人通ることのないその細い旧道の草藪の中に、「蚕玉霊神」と横に大きく刻んだ花崗岩の石が半ばまで土に埋もれていた。昨年部落の古老に案内してもらい、鎌で藪を刈り払い、根元の土をどかしてようようその石を確認することができた。
 いまは「蚕玉石」ということになっているが、以前はこの石のことを「縁切石」とよんでいたようである。そして嫁入りの行列がこの傍らを通ると不縁になるといい伝え、この道をわざわざ避けて違う道を通ったということである。この事実は当部落のうちだけでなく、天竜川を渡った隣村の人たちも、それを信じて避けて通っていたという。


 夏目氏は松村義也氏が『伊那路』に昭和43年に掲載した「縁切り石など」から引用しているが、同氏が昭和46年に『信濃』23巻8号に掲載した「縁切石・天女鱒霊神」からここに引用した。松村氏は昭和43年に『伊那路』に掲載した以降、もう少しこの縁切石について調べていて『信濃』に加筆したものを掲載したのだ。「縁切石を転じて村内安全、養蚕繁昌の祈願から、更には縁結びの守神にしようと考えたのであった」わけであるが、松村氏は「こうして蚕玉石と改め、明治十年であるから既に九十年も経過したわけである。その効果はというと、余り香しからず、今もってここを回避する習慣が続いているようである」と述べており、転じようとはしたが叶っていないのが現実のようだ。現に昭和29年に姉の結納を受けたとき薬師坂を通らないようにという注意を受けたという方の話を紹介している。



 この薬師坂はわたしは子どものころよく通った道。もちろん当時は新道になっていたが、その傍らに松村氏が言うような草薮の旧道があった。松村氏のこの文を読んで初めて庚申塔の裏に蚕玉石があることを知り訪れたことがあったが、不思議とこの坂を通せんぼしている庚申塔群が目を引き、「もうこの道は通るな」とばかり威圧感があったものだ。新道ができた以降にもその伝説が守られていたかどうかは定かではないが、今でもこの坂は薬師坂と言われているはず。もちろんわたしの記憶ではもう40年以上前に薬師堂はなくなっており、坂の名前の由来である堂の姿を知っている人も少ないだろうが、写真はその薬師堂の昭和41年の姿である。この右手から薬師坂が登っていく。新道ができることをムラの人々が喜んだのかどうかは解らないが、庚申塔は大正年代のに建てられたものがあり、それを建てる時にこの坂を塞いだのか、それとも新道を造る際に塞いだのか、いずれにしても、この縁切石のある坂をムラの人々が意識していたことに違いはないようだ。

 続く


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