Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

猫の目農政

2007-02-03 12:06:24 | 農村環境
 「地域発!どうする日本―誰が支えるあなたの食卓」というドキュメント番組をNHKでやっていた。茨城県の農家が、消費者のニーズを求めて、惣菜屋へ野菜を提供している姿を映し出していたが、まさに工業製品の世界である。惣菜屋さんに細かい注文を受けて生産はしても、生物の農産物はなかなか同じ品質で提供してゆくのは難しい。それよりもなによりも、農業が消費者のニーズに惑わされてゆく姿は、豊食のなにものでもない。なぜそこまでして要求を満たしていかなくてはならないのか。いや、経済社会の人々は、そんな生ぬるいことを言っているから農業がダメになったんだというかもしれない。しかし、農業は広大な空間と集落を構成している。潰れたからといって逃げ出していったら、すべての地域とは言わないが、とくに山間に近い地域は死んでしまう。

 集落営農組織によって日本の農業を継続してゆこうとする農政は、意図としてはよくわかる。しかし、番組を見ていて気がついたのは、それまで規模拡大を目指して個人から土地を借りて農業を後押ししてきた専業農家にとっては、まったく正反対の施策となる。ようは集落営農組織を組もうとする側は、より多くの土地を求めて、貸していた土地を返して欲しいということになる。したがって規模拡大をしていた専業農家にとっては、それまでの苦労は泡と消えるわけだ。農業が国の施策によって落ちぶれたことは言うまでもない。農業がだめになると、芋づる式に奈落に落ちてゆくものがさまざまある。集落がなりたたなくなれば、地域もダメになる。地域がダメなら土地は荒れ放題となる。土地が荒れれば国土防災は成り立たない。そんなことはちょっと考えれば誰でもわかることなのに、みな口にはしなかったし、行政も「なんとかなるさ」程度に思っていたに違いない。

 松岡農水大臣が登場して「小農を潰すための施策ではない」と言っていたが、国の施策は誰が考え出しているものなのか、農業者の声は聞こえていないのか、なんていうことを思うばかりだ。番組の最後に農業を営む人以外の人たちを取り込んだ農業施策を提案していたが、最近の施策には既にそういうものが明確に示されている。たとえば農業用施設の管理を農家以外の人たちも含めて、地域でやっていこうという取り組みはそうしたもののひとつだ。しかし、たとえば水田は集落営農で集約化し、余剰の農家は他の作物へ転換してゆく。そして非農家には農業の一端に関わってもらう、そうした流れは役割分担としては良いように見えるが、独自性に欠けていると思うとともに、その流れに乗ったとしても生業として成り立つ農家は限られるだろうし、加えて猫の目農政にいつまでついて行けるかは疑問である。さらには一時的によくても、次の世代へ継続できるかと言う点でも問題を抱える。

 付加価値の高い作物で成功を収めている地域は、どうしても地域としての関係は希薄になる。集落営農によるさらなる付加価値への道は、農家ごとをつなぐ糸口にはなるが、さまざまな点で農家ごとの差が生じる。農業を継続させる目的が達成されたとしても、そのとき地域は生きているだろうか。

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