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高遠旧士族のくらし-『伊那路』を読み返して⑬

2019-09-12 23:45:18 | ひとから学ぶ

山間にあって、林業は栄えなかったムラ-『伊那路』を読み返して⑫より

 昭和34年1月号にあたる『伊那路』第3巻1号に、「高藤士族のくらし-明治のころのおもいで-」という座談会記事が掲載されている。参加されたのはタイトルからして士族出身者なのだろうが、東高遠の9名と、聞取り側として中村寅一氏と向山雅重氏が参加している。雑談のようなものだから、興味深い話が多い。ちなみに座談会は、昭和33年11月1日に参加者の個人宅で行われた。

 「高遠教員」という言葉があつたようで、士族から教員がたくさん出たという。そもそも廃藩によって禄がなくなり、「町方の子供は食も良いし、なり(服装)もよかったからひけめを感じた」というほどに貧乏だったという話がはずむ。そうしたなか、養蚕をした人たちが多かったようで「養蚕で生きていたようなもんだ」と語る人がいた。したがって教員になる者も多く、「東高遠は教員の巣だ」と言われたという。ほとんどは進徳館で学んだ人たちで、進徳館の影響は大きかった。「教育者になり、仝時に農業をした。自作の者もあり小作をした者もあった。士族で高遠から他処へ出て行った人達の土地や屋敷を買って地主となった人達があり、こういう人から土地を借りて作ったわけだ」という話に向山氏は「下役の方が上役よりよかったかね」と聞いている。すると「上役の方は気位ばかり高くてなあ…」「足軽は禄だけでは足りないから、内職をしていた。それで廃藩後もよかったわけだ」「武士は、腰が高くて商人に向かなかった。有難うも云えなかった。腰が高いからこのがってさくる百姓にもいけないなどと云われた」「星野氏の父が町長の頃、魚屋の店頭に立ってステッキで魚を指し、これを持って来いと云ったという話が残っている」「いいや、おとうさんは人が挨拶すると後ろへ頭が下がるが息子は前に頭を下げると云った」「そういう性質さ、いばったでなく」などと話が交わされている。そんなやり取りを読んでいて、今の役人もそう変わらないかも、などと思う人がどれほどいるだろう、などと思い浮かべる。

 士族が禄を離れてとりついた職業として「商人になったのは雑貨一人、菓子屋一人、穀屋一人」という。また製糸が盛んだった時代には士族の工女もいたという。

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