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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「通船・渡船こぼれ話」前編-『伊那路』を読み返して⑭

2019-09-14 23:00:37 | 民俗学

高遠旧士族のくらし-『伊那路』を読み返して⑬より

 『伊那路』第3巻2号へ下平加賀雄氏が「通線・渡船こぼれ話」を記している。現在の天竜川では、観光用の舟下りが航行されている程度で、船の姿を見ることはない。消滅した風景のひとつとも言える。下平氏の収集したこぼれ話は、中川村南向周辺のものだから、親近がある。まず、冒頭に次のような話を取り上げている。

 

 さて比の地方の「舟を語る」老人は必ず次のように言い、またそれを信じきっている。

 即ち「昔、徳川さまは、西から江戸を征められないように、舟も渡船をする船頭衆も、きっと天竜川の東にあって、夜、舟をつないでおくのも必ず川の東に置いたものである。大井川に橋を架けなかったのもそのためさ。川の西の衆が京に渡るときは橋銭は取らなかったものだ。そのかわり川東の衆の飛地や、入会山を川西に持っていたのだ。」云々と。

 ちょっと、その人たちより年令のさがった六十代の人たちは、これに反論を加えている。

 「ナアニ……そんなことがあるもんか。宿場も、町も、街道も、陣屋も、みんな川西にあったので川東のものが、そこへ出る必要から、わたしぶねも通い舟も川東の衆が、こしらえたり、こいだりしたものさ。それに川東を見な、ここらあたりの川東は山が天竜までおっかぶさるように突き出ていて、川西のように広い田圃が拓けるはずがない。舟に乗るか、馬でつけだすほかに手がなかったのだろう。古い家に馬屋の多いのを見てもわかるさ。」云々と。

 事実、渡船のあったのは七ヶ所で、北から日曽利・飯沼・坂戸・山なぎ・北島・柏原・渡場であり、この七ヶ所がまた通船の、いわば寄港地であり、荷継所であり、船宿や問屋を持っていた(全部ではない。)ところである。

 

 

 これは、渡船場ではどちらに船が繋がれていたかという話であり、興味深いことであるが、最後に触れているように、いずれも天竜川東側の集落を指して述べている。だから、当然のこと、東の人たちが西へ渡るために渡船場を設けたともいえよう。続いて次のようなことも記している。

 

 この七ヶ所のうち、「山なぎ」と「柏原」には、かつては秋冬季土橋があり、その後、吊橋をかけようとした計画もあったが、さたやみとなり、他の五ヶ所には今、橋が架せられておる。ただし中川橋(北島から田島へ)は去年二十一号台風で吊橋の橋脚が倒れ、今は、生田村の宮ケ輝橋、清水与七氏から買って来た舟で、北林の人が二人ずつこうたいで無料で渡している。

 坂戸橋は天竜川電力の補償と県費で、昭和八年、メガネ式コンクリート橋が竣功、さくらとつつじの名所となっている。渡場橋は昭和二十五年の水害で、長さを誇った木橋が流され、昭和二十八年ローゼ桁式の。ンクリート橋がかけられた。

 日曽利は、日曽利・山田から田切・福岡・飯島へ、飯沼は北山方(黒牛・谷田・丸尾・西丸尾)や飯沼から本郷・小平へ、坂戸は大草・桑原から九龍沢を経て小平、または竹の上・小和田へ、山なぎは三共や南陽から大船戸中村をとおり飯田方面へ、北島は柳沢・葛北から新井滝戸など田島方面へ、柏原は、柏原から南田島・御射山へ、渡場は鹿塩・渡場から鶴部・小松川へと人を渡したものである。

 

 いずれの橋もとは言わないが、本郷に生まれたわたしには、それぞれの橋に親近感が昔からあった。分校通い時代には、遠足では坂戸橋を渡って北林を経て南向発電所まで足を延ばした。とくに親近感のあるのは本郷と飯沼を結んだ飯沼橋である。今でこそコンクリートの橋となっているが、子どものころは吊り橋だった。

続く

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