Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

32年前

2019-08-15 23:23:03 | つぶやき

 

 先月、深志神社の天神祭りのお囃子の練習の様子を見に行った際に、各町内に子どもがいなくなって、周辺の町から子どもがお囃子に参加している姿を見た。そもそも町の中に暮らしている人たちがいなくなったのだから、子どもがいなくなっても当然なのだろうが、絶対的に子どもが少なくなっている現実を、今更ながら感じたわけだ。もちろん山間からも子どもがいなくなりつつあることは言うまでもない。にもかかわらず、人の集まるところには、驚く程人が集まるようだ。

 気がつけばもう8月も終いが近づく。暑かった夏も、一瞬のことだったのかもしれない。

 昭和62年9月15日に小谷村千国の諏訪神社を訪れている。写真はその際のものだ。ものによっては「奇祭」と掲げられて報じられるほど、独特な芸風を見せるのは「ささらすり」である。それもひとり、ふたりではなく、何人も登場する。もともと獅子舞の付属物である「ささらすり」が目立つようになって、祭りそのものも「ささらすり」と紹介されることが多い。だらしない格好で男根を手に、ささらでその男根をさすってあるくところから「ささらすり」と言われる。赤く塗られた、それも長い男根は毎年のことで、際立って目を引く。村の中の道を歩く際にも、これを持って会う人みなにこれを擦り付けようとする。こういうものに違和感を持つ人もいないことはないだろうが、祭りだということで、人々はみな笑顔でそれに相対する。

 写真でもわかるように、30年以上前のこの祭りには、子どもの姿が目立った。その後平成時代に訪れたことはないが、表現に「奇祭」と掲げられるほど、「ささらすり」がより前面に出て紹介されているようだ。平成22年に撮影されたというYouTube 動画がアップされている。同日に撮影された「長野県北安曇郡小谷村 千国諏訪神社ささら祭」、「長野県小谷村 千国諏訪神社祭礼の獅子舞」いずれにも子どもの姿は数少ない。かつてわたしが訪れた際の子どもたちが、どこからあれほどたくさんやってきていたのかは定かではないが、ここは栂池高原への入口ということもあって、山間でありながらよその人たちも大勢通りがかる。そうした人々の姿も少なからずあったかもしれないが、印象は地元の関係者と思われた。気がつけば30年余、わたしが盛んにあちこちの祭りを訪れていた時代から、それほど時を経て、そして子どもたちはいなくなった。

 

 こちらの写真も32年前のもの。

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今年の“盆”

2019-08-14 23:55:02 | つぶやき

 今年の盆は休むことなく出勤である。13日が月曜日で、16日が金曜日、ということで通常言われる盆の間が全てウイークデーなのである。にもかかわらず、今年の高速道路事情は、帰省者には厳しい。いわゆるETC割引が、全くふだんと変わりなく、このウイークデーに高速を利用しても、いつものウイークデーと変わらないのである。もちろんふだん通勤割引を利用しているわたしのような者にとっては、この方がありがたいのだが、いつも通り高速に入ってみると、様子はまったく違う。いつものような通勤時間帯割引を利用している車はほとんどなく、大型車の姿も少ない。ほとんど県外ナンバーの車で、様子はいつもの休日の光景に等しい。にもかかわらず、割引はないのである。

 割引などなくともふだんの休日のように県外の通行車両がたくさん走っているのだから、そんなものは無関係だとつきつけられているようだが、内心「なぜ」と思っているいる人たちも多いのだろう。

 ということで、いつものように通勤時間帯利用者がいないから、後ろからの車にあまり気を使う必要もなかった。ようは速度差がそれほどない。ほとんど抜いていく車もなかった。その理由に大型車が少ないということもあるのだろう。いつもなら大型車と通勤時間帯利用者の超高速車が混在している。そのうえで工事車線規制が入るから、超高速車との駆け引きが必ず発生する。支障案件が道路上にないのだから、余裕をもって運転できるというわけだ。やはりわたしにとってはありがたい光景であるが、遠出をされている方たちには少しばかり痛い今年の盆であったに違いない。そこまで見通して渋滞予想が発信されていたのかどうか。

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上戸の「まんど」

2019-08-13 23:56:33 | 民俗学

 

 盆と松明は縁がある。迎え火として松明を灯すところは多かった。例えば下伊那郡天龍村大河内では、かけ踊りの集団が新盆の家を訪れる際に、百八の松明を灯す。妻の実家のある地域でも、かつては新盆の際に、墓地から家までの間に百八の松明を灯したという。両者とも松明とはいうものの、ロウソクである(過去は松明だったかもしれない)。

 このように松明とはいえ、その形はさまざまで、農文協の「食農教育 No.52 2007年1月号より」というページには、東京都立川市の松明のことが記されている。

 東京都立川市立南砂小学校(真壁繁樹校長)では、総合的な学習の時間などを利用して、五年生が麦を栽培している。立川市砂川地区はいまはほとんどすたれてしまったが、もともと麦作が盛んな地域で、保存会などによって麦打ち(脱穀)のさいの労働歌である「棒打ち歌」が伝えられている。また、三〇年ほど前までは、お盆の迎え火、送り火として、麦わらを束ねてつくった「タイマツ」に火をつけて軒先や五日市街道で回す、勇壮な「タイマツ回し」が行なわれていた。

こう記してある。ここでいう「タイマツ回し」こそ、上伊那の伊那市から辰野あたりまで、かつて盛んに行われた「まんど」あるいは「どんぶや」である。かつてと言ったが、現在でもあちこちで行われている。以前記した南箕輪村田畑もそのひとつである。

 かつて「まんど」と言って行われていたものの、近年廃れていたという伊那市西箕輪上戸にこの「まんど」を訪れた。今年久しぶりに「まんど」を行うという話を同僚から今朝方聞いて、急きょ訪れたのである。上戸は周辺の集落とは違って、墓地が1箇所にまとまっている。その墓地の中でかつては「まんど」が行われたといい、かつて棺桶を置いたと言われる石の上に登って「まんど」を振ったと、同僚も、そしてこの日聞いたお年寄りも口にされていた。墓地内で振ったということは、まさに迎え火になる。このあたりでは迎え火のことを「まんど」と言う。しかし、その「まんど」とは別に、麦わらを束ねて直径50センチほどになる麦わらの束を、子どもたちがかつては振ったのである。

 今年この音頭をとったのは多面的機能支払いの地域組織である。麦わらを束ねて「まんど」を作るのは、久しぶりとなるとだれでも作れるというものではない。中心になった人々が「まんど」を作る場を設け、「まんど作り」をしたという。墓地の中では狭いということもあって、今回は墓地に隣接した牧草地を利用した。子どもたちが1人ひとり「まんど」を振って見せて、終わると周囲の人々から拍手が送られた。とくに掛け声もなく振られたが、共同墓地であること、そして久しぶりであるということもあって、多くの人々が集まった。子どもたちが振ったあとに、残った「まんど」をおとなも昔を思い出しながら、あるいは初めての人も振った。

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反動

2019-08-12 23:05:35 | つぶやき

 かつて「わたしの日記ではよく引用させていただく大沢氏である」と記した。2012年のことだから、もう7年も前のこと。その後大沢氏の記事に関する日記は記さなかった。しかし、ときおりこの手の新聞記事をみると、必ず著者は大沢真幸氏である。下記ぶりから大沢氏だとわかってしまうところが、もしかしたら大沢氏の限界点なのかもしれないが、共感できるとこは多い。

 今日も信濃毎日新聞の「論考」に大沢氏の記事が掲載された。「高い支持率維持する安倍内閣」を扱ったものだ。

 今回の参院選で、安倍政権はおおむね支持された。それにしてもふしぎだ。安倍内閣がかくも長期にわたって、高い支持率を維持できているのはどうしてなのか。現在、安倍首相の第2次内閣八足からの連続在職日数は歴代2位に達している。

 こう始まる記事は、それほど実績をあげてもいない安倍内閣がなぜこうも長きにわたって継続されているかを解こうとしたもの。

 生活の至る所に不満があるのだが、この生活様式をトータルに変えてくれる別のシステムへのイメージがまったくない。こんなとき、大規模抗議運動が起きることもあるが、人民が少しばかりおとなしいときにはまったく逆に、現状維持に、現政権の(消極的)支持に向かうこともあるのではないか。

と、日本の今の政治志向を解説する。この仮説の傍証としてれいわ新選組の台頭をあげている。

 彼らのインパクトの源泉は主張内容よりも、行動にある。例えば「身障者に優しい社会を」と言っただけではたいしたことはなかっただろう。重度の身障者をそのまま議員にするという行動に、常識を覆す力があった。

  こうした思い切った行動は、このシステムがあるかもしれない、と思わせる開放感を人々に与える。れいわの躍進は、日本人に、「外」への強い欲望が伏在していたことを暗示している。

こう説いている。そして「現状肯定が、正反対の欲望の屈折した現れだという可能性も大いにある」と述べ、筆を置く。

 今回ばかりは大沢氏の意見に一理はあっても疑問がわく。とくにれいわ新選組の台頭である。山本太郎の存在は、過去にも同じような例がある。例えば長野県ならあの知事が浮かぶだろう。しかし、あの知事はどこか発言に不快感があった。その奥底に何があったかはをここで問う必要もないが、完璧に安倍政権に対して批判をふぢまける山本太郎の一貫性に惹かれる人は多いだろう。最初は胡散臭かった存在が、どこかで転機を迎えるという例はよくある。そういう意味では与党側に偏って現実路線を進む「維新」とは違う。だからこそ風に乗るのだ。もちろん長続きするかどうかはわからないが、一定の理解を得るだけの根拠はそこにある。けして、「外」への強い欲望があったからとは思わない。一定の理解を得るだけの潜在的国民がいるということだろう。もし、格差を埋めたいと、自分の思うところに人々が突き進んだら、この国の秩序は乱れてしまう。いいや、すでにそういう傾向はあるかもしれず、この後その傾向は高まるかもしれない。

 いずれにせよ、現政権がかくも長きにわたったのは、まさに「反動」である。あの非自民党政権が何をしたのか、の反動に過ぎない。当初はその現実を悟っていた現政権が、これほど続いたことにより、あのときを忘れていることも事実。これを不幸と思うところもあるが、何より不幸なのは、反動によって選択肢を失った国民だろう。

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外来植物到来

2019-08-11 23:02:36 | 農村環境

 “「崩れた畦畔」その後”で触れた高畦畔の復旧をしてもらったのだが、その後思わしい復旧とならず、今年もその水田は休耕している。休耕している水田の草刈は、忙しいとどうしても後回しになってしまい、今年2度目の草刈りを見送っていたら、ずいぶんと草が生い茂ってしまった。昨年も記したと思うが、栄養が高い水田を放ったらかしにしておくと、畦畔の草よりも密集して、しっかりと雑草が生える。したがって、こうした水田に生い茂った草を刈るには、丈が短いうちならナイロンカッターの刈払い機で刈れるが、丈が伸びてくるとナイロンカッターではなかなか前進しない。ということで、休耕田の草を刈るには鋸刃の一般的な刈払い機が最も手早い。

 ところで、妻用の刈払い機は最も軽い機械を選択しているので、十分に軽いのだが、妻にとってはそれでも「重い」らしく、最近さらに軽い刈払い機を購入した。エンジン式ではこれ以上軽いものがなく、たまたま展示場で見ていたらさらに「軽いものがあった」と購入したわけである。いわゆる電動式のもの。確かに軽いのだが、電動式の刈払い機はバランスが良くない。蓄電池部が軽いせいなのだろうが、エンジン式のものに慣れていると、気遣いで疲れてしまいそう。加えてもう1台電動式の大きめの刈払い機も義弟用といって購入した。こちらもやはりバランスという面では従来型のものの方が扱いやすい。

 ということで、今年2度目の高畦畔の草刈りを昨日行ったが、あまりに水田の草が激しく伸びていて、水田の草も畦際を刈らないと畦畔だけ刈っても、「綺麗になった」雰囲気が出ない。それほど広いわけではないが、高畦畔で急勾配、そして休耕田は草丈が長い、とあって、今週も手のかかる草刈りに終始した。意外に電動式の鋸刃で水田の草を刈ると、従来型のものと同じくらいの速さで刈ることができた。

 さて、崩れた畦畔についてはいまだすったもんだしているが、土建屋さんが入って直しただけのことはあり、見事に畦にアレチウリがやってきた。まだ株の数ではそれほどではないが、やはり土建屋さんが入ると外来植物がやってくるというわけだ。これは仕方ない面もあるが、植生に対して「気をつかってください」などと言ってもふだんから自前の土砂置き場の植生に気を遣っていないかぎり、アレチウリが入ってくるのは当然予想できることなのだろう。周囲にはアレチウリを見ないだけに、残念なこと。アレチウリだけではない。これもまた株の数は些少だが、ブタクサも生えだした。

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ある「常会」の記録より⑱

2019-08-10 23:37:09 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より⑰より

 昭和54年1月から始まった「記録簿」の残り全てを見ていこう。

 昭和60年度、恒例の11月3日の運動会において、常会長のほか、2家族が結婚式が身内にあって欠席をした。このため例年行っていた慰労会を中止している。いっぽう12月1日に行われた区の山作業に、常会から6名が参加し、その際に「忘年会をやったらどうか」という話が持ち上がり、同意が得られて忘年会を初めて行うこととなっている。12月20日に行われた年度末総会では、「大雪の場合、朝6時集合にて雪かきをする」と確認されている。

 昭和61年1月27日の集金常会では「常会として1日旅行を実施するかどうか協議」されている。これもまた賛同が得られて実施することで決定。3月9日の常会では「会計監査について、今年度より旧常会長、旧会計が監査することに決定」とあり、その報告は1月1日に行うことが確認された。4月20日、予定通り「1日旅行」として長島温泉への旅行が実施された。参加者32名と記録されている。そして4月27日の集金常会において、1日旅行の「はばき脱ぎ及び会計報告」がされている。この年の記録は誤字脱字が多い中、「はばき脱ぎ」という単語がごくふつうに登場しており、「はばき脱ぎ」が当時頻繁に使われていたことが予想される。8月8日に常会所で「農休み」が実施されているが、かなり遅い時期の農休みといえる。11月30日には農協祭の綱引大会に常会として参加している。12月23日に年度末常会が開かれ、次年度の役員が決定している。この年、ようやく役員名から「養蚕」がなくなる。

 昭和62年2月7日の常会において、区会議員選出についての議題があり、その選出において再任を求められた当該議員から再任に対する異論が発せられたようで、結論が持ち越されている。もともと当該議員が選任された際に、選挙で選出された別の方が区会議員になることを固辞されたため、条件づきで選出された経過が過去にあったための異論であったようだ。こうした役員選出の際に、少なからず発生する課題で、当時はまだ選挙で選出されていたにもかかわらず、承諾をもらえず別の方に役員をお願いする事態は珍しかったと思われる。9月12日にソフトボール大会慰労会が実施された。この記録の中に、「これより万歳の音頭は年長を改めて年の順とすること」と決定したとある。常に年長の者が締めを行っていたが、今後は「年の順」とするという意味なのだろうが、「年の順」とはどのようなものなのかはっきりしない。近年慰労会が多くなったため、常に締めを行う人が同じになることへの異論があったと思われる。10月17日の常会では、村から保健婦が来られ、血圧測定を行った。その結果「血圧の高い人が多い」ことが判明。「今後月1回ずつの血圧検査をすることに決定」と記録されている。この年は前年とは異なり、農協祭の綱引大会、また忘年会を「やらない」ことに決定されている。12月23日の年末常会において、「常会貯金は屋根の修理のため前通り2千円続ける」と決定されている。

 昭和63年3月27日集金常会の記録は、同じ記録簿ながら横書きのけい紙を貼り付けて記録されている。もちろんそれまでは縦書きであった。

 ここまでで本「記録簿」は終了する。

続く

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草寄せをするひと

2019-08-09 23:27:18 | 農村環境

 

 暑い日が続く。「冷房空間から抜け出せない人々」がいても不思議ではない。

 そうした状況もあって、日中野を見渡しても、人の姿はあまり見かけない。午前中打ち合わせがあって外出した。もちろん野に人影はほとんど見ないが、これも地域性があって、まだ午前中だからこそなのだろうが、働いている人影を見たのは、ある地域に限定されていた。

 高畦畔の典型的な空間では、夫婦揃って刈り払った草を寄せて、火を入れていた。以前にも触れたように、草寄せをする光景も地域性があって、この地域はどこの農家も草寄せをする。だからこそ、こうした日中でも働いている人の姿があるのかもしれない。ある地域では草寄せをする比率が5割を下回る。そもそも草刈管理もそれほど頻繁ではない。そうした地域に人影を日中見ることはない。当然のことなのだろう、手を掛ける時間に格差があるのだから。裏を返せば、こうした光景が見られるのも、今だけなのかもしれない。

 

 

 

 この作業をされているところから、そう遠くない所では、盆を前に墓掃除をされていた。このあたりでは7日ころに墓掃除をするところが多い、と『長野県史民俗編』には書かれているが、しだいに遅くなっている傾向はある。こちらもまた、夫婦で働かれていた。

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小農と、政治と、農村と 後編

2019-08-08 23:09:24 | つぶやき

小農と、政治と、農村と 中編より

 山下一仁氏は、日本の小農は「Peasant」ではないと言った。世界共通とまで言わなくとも、欧米などの先進国においては、「Peasant」は明らかに貧困層の農民という捉え方があるようで、そもそもかつての農民は日本の士農工商時代の農民同様に、全世界共通で社会では底辺にある存在だったようだ。だからこそ、今もって農業から脱することで幸福を掴んだのごとく捉える人々が存在する。ここに小農そのものの捉え方が多様だとうかがえるだろう。小農宣言ではなく、農民宣言であるならば、少し違った視線もあっただろう。

 とはいえ、小農宣言を家族農業とし解して世界の動きに逆行すると政府を批判した岡崎衆史氏の意見に違和感を覚えたが、それを「peasant」の解釈にこだわって「国連"小農" 宣言 汚された宣言」と批判した山下一仁氏の意見に理解はできても、同様に違和感は拭えない。

 これまで地方農村は、跡取りが農家を継がないことを当たり前として世代交替をしてきた。その中には、そもそも跡取りが家に残らず、都会で一旗あげるのが対外的な「成功」だと勘違いした人々がほとんどだった。「小農と、政治と、農村と 中編」でも触れたが、東京農業大学初代学長の横井時敬が語った「農民が農村から都市に行かないよう、高い教育を受けさせてはならない」は、結論だけを見ればけして間違いではない。高等教育を目指した段階で、後継者を放棄したにも等しいほど、子どもたちは戻ってこなかった。もちろん、今地方の農村にはそうして都会に向かったかつての若者が、定年退職とともに田舎に戻って暮らしている人が少なくないことも承知している。しかし、この後定年延長、あるいは年金などをめぐる環境の変化は必死で、かつての想定内に地方は位置していない。空家と化していく現象を当たり前としか受け止められない今を見る限り、過去の遺産とも言える「家」の存在は大きかったと言える。今さらかつての「家」を参考にする必要もないだろうし、そのことで自由を奪われた事例はあまたあるだろう。それは農家に限らず、すべての職種において、継続することの難しさを味わされたはずだ。しかし、では、かろうじて家を継いだ世代が農村にあって農家として存在してきたかといえば、そうともいえない。もはやかつての農家が、土地を所有していても農業を実践しなくなった。それを推進してきたのは紛れもなく国だ。そして今、さらにそれは加速しつつあるし、かろうじて継続されていた家族農業は、この後わずかな時を経て消滅しようとしている。現在農業を少なからず営んでいる人々が、高齢者であることは言うまでもない。この高齢者に続く農業を少しでも実践しようとする後継者は、限りなく少ない。かつてなら「食べる分くらいは」という考えで、自作した。しかし、国の施策は明らかに大規模化のみに特化した施策に限定されている。かろうじて防災減災の観点の施策が補っているが、近年の地震や豪雨による大きな災害がなかったら、そうした施策は起きなかっただろう。

 さらに国はこうした傾向を予測してかは知らないが、農村から農民がいなくなった時のことも考慮した施策を打ち出している。「小農と、政治と、農村と 前編」で扱った「ゆうきの里東和」の初代理事長菅野正寿さんが訴えた多面的機能支払いだ。そもそもこの交付金の狙いは、そうした農村に変化した際に、どう農村空間を維持していくかを想定して農外の人々を取り込もうとしている。土地改良法改正による土地改良区へのさまざまな指導も、どこかにこれまでの当たり前をひっくり返す意図が見え隠れする。集落の維持、そしてその空間を大きく占めた農地の維持、さらには、農地だけで農業は維持できない。そこにある農業にかかわる多くのモノや無形の文化をどう後世に伝えるのか、あるいは葬るのか、それを決めるべきは、今農村に暮らしている人々なのだろうが、すでに農村に「農業」を多面的に語ることのできる人は少ないし、そう捉えられない人が続出している。この現実にこそ向き合い、すでに元には戻せなくなってしまった状況を踏まえ、この後どうするべきかを議論していかなくてはならない。

終わり

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サンヨリコヨリ

2019-08-07 23:28:17 | 民俗学

 

周囲を回る子どもたちではあるが、かつてのようにしっかりした行列とはなっていない

 

菅笠を被った2人の男は、太鼓を打つ

 

子どもたちに打たれる男

 

逃げ出す男を追いかける子どもたち

 

 8月7日、毎年この日、伊那市美篶の上川手と下川手の間にある天伯社において「サンヨリコヨリ」という行事が行われる。社は大棚機姫命を祀っており、両川手の産土神という。伝承では、高遠の片倉から流されてきた天白様を祀ったのだという。対岸の富県桜井にある天伯社もその際の分身と言われ、三峰川水系には天伯社がいくつも祀られている。その桜井の天伯社に神輿の渡御をするのだが、それは、三峰川を渡って行き来する。今でこそ三峰川は美和ダムや高遠ダムができて、発電や農業用水への水利用が進み、この時期川に流れる水量は乏しいが、かつては神輿を担いで渡るには困難なケースもあっただろう。

 行事についてホームページにで確認すると、午後1時ころ始まるとあったので午後の打合せに行く際に立ち寄ってみると、すでにサンヨリコヨリの行事は始まっており、終盤という段階だった。サンヨリコヨリは、行事内で唱和される言葉をとってそう呼ばれている。神輿の渡御に先立って、川手地区の子どもたちが太鼓を叩く役の2人の男(「鬼」という)を中心に、円陣となって神送りのような所作をする。手には笹竹に願い事を記した短冊を吊るしたものを持ち、左周りに3周回る。この時、「サンヨリコヨリ」と回る間唱え続けるのである。3周回り終わると、中心にいる男に向かって笹竹を打ち付ける。しばらく男は打たれているが、そのうちに囲みから逃げて行き、終了となる。この所作を3度繰り返すのだが、午後12時50分ころうかがうと、すでに3回目を始めるところであった。

 この神送りとも思われる所作が終わると、「神主・区長が先頭で、御輿・その台・五色の小幟十五本を、上川手・下川手より選出した各係が神酒を立飲みしながら行列をつくり、青田のなかの道を進み、三峯川の流れを渡り対岸の桜井につく。ここでは神主以下の出迎えがあり、御輿をすえ、幣束を社殿に移し祭式がある。このあと桜井の子供たちによって青柴の枝をもって、同様にサンヨリ、コヨリがあり、御輿はもとの路を還ってくる。」(『長野県上伊那誌民俗編』)というわけであるが、この日はサンヨリコヨリが終わったところでお暇した。

 ところで、七夕飾りと言えるこの笹竹について、終了と同時に場内放送があり、会場の脇に停めてあった2トントラックの荷台に載せるよう指示があった。子どもたちはその指示にしたがって、トラックの荷台に笹竹を載せていたが、これには少しびっくり。このサンヨリコヨリは昭和62年にも訪れているが、その際にはこのような光景はなかった。当時この笹竹の処理について確認しなかったが、もしかしたら、現在と同じようにトラックでどこかに運んでいたかもしれないが、会場の脇にトラックが用意されるということはなかった。この後トラックに載せられた笹竹がどう処理されるか、聞いてはみたものの、はっきりしたことはわからなかった。焼却場に運ぶとも聞いたが、確実な答えは聞けなかった。

 

昭和62年8月7日撮影

 

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大宮熱田神社例祭の獅子舞⑪

2019-08-06 23:42:16 | 民俗学

大宮熱田神社例祭の獅子舞⑩より

丸田の獅子舞終了の挨拶 

 

獅子舞が終わると、

丸田区は獅子舞終わりました。

そして、神楽殿の前庭にすべての区社中が円陣を組み、最後の挨拶となる。北条区の代表が円陣の真ん中に立つと、その場所を基点としてそれぞれの区の代表のところへ順に進む。

 

 

 

 

丸田区は、お揃いになりましたか。(北条社中)

丸田区は、揃いました。(丸田区全員でよーい)

大久保区は、お揃いになりましたか。(北条社中)

大久保区は、揃いました。(大久保区全員でよーい)

上立田区は、お揃いになりましたか。(北条社中)

上立田区は、揃いました。(上立田区全員でよーい)

下立田区は、お揃いになりましたか。(北条社中)

下立田区は、揃いました。(下立田区全員でよーい)

各区お揃いになりましたから、お手打ちを願います。(北条社中)

ヨー、シャンシャンシャン、シャシャシャノシャン(全員)

今晩は、おめでとう(北条社中)

おめでとう(全員)

以上で挨拶全てが終わる。終わったと同時に各区代表が拝殿に向かって提灯を持って競うように走り出し、拝殿前にて提灯を掲げてお参りをすると、再び各区へ走り帰る。

 これら終了後の所作については、「大宮熱田神社例祭の獅子舞⑧」に示した昭和30年に定められた規約に詳細に書きこれている。今回確認できなかったが、規約によると、三ツ辻にて挨拶がされるとある。しかしこのあいさつは現在は省略されているようだ。また、北条区による出迎え場所までの見送りも内容である。両立田区と丸田大久保区がそれぞれ落ち合う場所での見送りは、現在も行われているという。

続く

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大宮熱田神社例祭の獅子舞⑩

2019-08-05 23:26:27 | 民俗学

大宮熱田神社例祭の獅子舞⑨より

丸田 前座の舞

 

丸田 四方舞

 

丸田 幣束の舞

 

丸田 怒りの舞

 

大久保 四方舞

 

大久保 幣束の舞

 

 南北条による神楽殿での獅子舞奉納が終わったのは、午後11時15分ころのこと。約30分ほどで南北条の奉納は終わった。このあと、かつてなら順に各区の奉納が行われたわけだが、今は残りの4区は一斉に獅子舞が舞われる。神楽殿では下立田、拝殿前において丸田、神楽殿前の北側の境内で上立田、南側で大久保という配置である。「大宮熱田神社例祭の獅子舞⑨」の社中打合せ会議決定事項三に示された通りである。いす゜れの地区も、もちろん拝殿に向かって舞を奉納する。さすがに、午後11時代ということもあり、これら獅子舞を見る人は少なくなっている。やはり賑わいを最も見せたのは三ツ辻での挨拶のあったころだろうか。聞くところによると、獅子舞の奉納は例祭の際だけで、ほかの場面で獅子舞を舞うことはないという。唯一5月7日の八幡社宵祭りにおいて、大宮熱田神社で舞うことがあるが、当番区の獅子舞のみのため、毎年舞われるわけではない。このことも、前述の社中打合せ会議決定事項四に示されている。

 南北条の奉納が終わり、5分ほどすると、境内の各所で4地区の獅子舞が始まる。これもまた前座の舞から始まるわけだが、拝殿前を担う丸田では、丸一の紋が背に入った法被を着て2人の若者が舞始める。周囲で見守る社中の人々の持つ提灯には「丸田」と入る。獅子舞の脇に置かれている櫓の担ぎ棒を通している箱は賽銭箱だろうか。周囲に〇に若と染め抜かれた幕が張られ、その上に祠が乗せられている。その頭にくさんの花が挿され、〇に田と、〇に一の文字が入った赤い提灯が4つほど吊り下げられている。

 四方舞、幣束の舞、怒りの舞と舞われるが、丸田の獅子は白と薄い青のチェック柄の浴衣に黄色い帯を巻いた出で立ちである。幣束の舞に登場する奴は「丸田若連」と入った法被を着ており、頭の左側にオカメ、右側にヒョットコの面を付けている。法被の上に赤と水色のたすきを掛け、腰には黄色の帯を巻く。もちろんササラと男根形の棒を持つ。怒りの舞では、周囲にいる社中の持つ豆絞りの手ぬぐいを口で咥えて奪い取る。

 神楽殿前南側で奉納する大久保の獅子舞は、振袖を来た出で立ちで、黒い帯を締め藁ぞうりを履く。「大久保神明社」と書かれた提灯を持った社中が周囲を円陣で囲むが、「神明社」の部分が黒字のものと赤字のものがある。赤字の提灯を持つのは若連で、黒字の提灯は社中となる。やはり30分ほとせてせ獅子舞の奉納は終わる。午後11時50分のことである。

続く

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視界に入らないのは・・・

2019-08-04 23:41:46 | ひとから学ぶ

 通勤時にかぎらず、仕事中にもたまに目にする中学時代の同級生がいる。同じ建物に勤めているために目にするのだが、しばらく前に、通勤時に道端で会って、同級生とわかって軽く挨拶をした。すぐにわたしだと気づかなかったが、じっと見ているとわたしだとわかって、少し驚いたような顔をした。「今はここにいる」とばかりに同じ建物で仕事をしていることを伝えたが、その後わたしは何度となく、同級生の姿を見届けているが、同級生は、なかなかわたしに気づかない。

 なぜ同級生と気がつくかといえば、歩き方が昔とちっとも変わらない。あのころの特徴そのままの歩き方をしていて、半世紀も前の姿のまま、わたしには映る。だからその背後から見てもすぐに同級生だとわかる。そして昔もそうだったが、あまり周囲の人を意識するタイプではない。マイペースと言ってしまえばそれまでだが、周囲の人が視界に入っていないのでは、と思うほど、自分に没頭する。でも、よく考えると昔はこれほどではなかった。何か悩みがあるのかどうなのか。優秀だった同級生が蘇るとともに、いつもいつも背後から見守っている自分がいる。

 以前にも何度も記しているが、ある職種の人たちに、わたしはいつも視界から除外されている(そう思い込んでいるだけだが…)。同級生も、そのある職種と同業である。けしてそのせいだとは思わないが、人はある程度環境に染まるもの。そして染まったから今がある、とは思いたくないのだが、変わらぬ後ろ姿と、半世紀も前の同級生の姿に、同じようで同じではない後ろ姿を垣間見る。そこに家庭の事情が絡んでいるのかどうか…。人は長年の経験を経て、もちろん年齢を重ねて様子が変わるのは当たり前。だが、同級生ほど昔とちっとも変わらない歩き方の知り合いを見たことがない。それほど年齢を重ねた変化は、そこにはないのだ。にもかかわらず、かつてわたしの横に座っていた同級生は、わたしに気がつかない、あるいは視界に留めて「この人は誰!?」と思わない。なぜなのかは、わたしに答えは見えない。

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ある「常会」の記録より⑰

2019-08-03 23:48:43 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より⑯より

 続いて昭和59年度を見てゆく。

 「集金常会」が毎月27日に開催されるが、「協議事項なし」が目立つ。数えてみると、12ヶ月中7ヶ月の集金常会が「協議事項なし」である。それ意外に記録がなく、これら集金常会では、何が行われたものなのか。常会費用の月々の集金だけを行ったものか…。

 4月20日に「お花見」が実施されているが、「今年は寒く、さくらも咲いていない…」と記されている。4月20日に至っても桜が咲いていないとは、近年の桜の開花状況から見ると、ずいぶん気候の違いを感じる。

 6月27日集金常会の記録に「松くい虫の件について」が見える。「もし被害がでたら連絡を願う」とあり、松くい虫が話題になり始めたのはこのころのことと思われる。

 8月1日、この地区に降雹があった。記録には「粒の大きさ、時間とも全国にも例のないという大きな被害をうけた」とある。これに伴い、区費の第2回徴収が取りやめとなり、その後の「盆野球」の中止、「盆踊り」中止、秋祭典の花火も中止、さらに11月3日に毎年実施されていた運動会も中止になっている。

 近年繰り返し記録に登場するのが、常会作業の際の「免除」の扱いである。冠婚葬祭と重なった場合は免除とする、という確認を度々行っている。これは「冠婚葬祭」を理由に免除を求める人が多かったせいなのだろうが、「その旨を常会長に話す。家族構成はその時に話し合って、免除するかを決める。過去の事は一切言わぬように、その時々で話をする」という記録が残る。

 12月24日の集金常会兼年末総会の記録に「消火栓取付工事について」という項目がある。領収書の確認とともに「女性の出席があったが、特別扱いとして不足金及び補足費はとらない」とある。消火栓取付工事では、ホース収納庫の基礎コンクリートを打設したようで、土木工事扱いだったこともあり、女性の出席では1人前にならない、という意識があったとみられる。

 前回も触れたが、昭和58年、59年と、記録が簡略化されていて、内容が乏しい。

続く

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冷房空間から抜け出せない人々

2019-08-02 21:13:42 | つぶやき

 涼しかった梅雨があけて、急激な暑さに見舞われている。先ごろの日曜日には、今週末に行われるというため池の草刈を前に、前もってわが家の分の草刈を行った。今年のこれまでの草刈は、比較的涼しい中で行っていたから、まさに炎天下の草刈は、今年初めてだった。ということで慣れな身体が悲鳴をあげた。熱中症というほどではなかったが、2時間近く草刈をしたあとに、思わず2度目の昼寝をした。炎天下の草刈は、そうでない環境下の草刈と比較すると、疲労度が全く異なる。

 さてそんな週末が明けてからというもの、連日暑い日が続いている。しかし、よの中は暑い環境で我慢する時代は終わり、今や「暑ければ冷房を入れる」のが当たり前になった。もちろんその設定温度は高いのだろうが、とはいえ、数年前に比較したら、「冷房を入れても暑い」ということはなくなった。だから冷房に弱い人たちには気の毒だろう。

 今日も外出先から戻ると、涼しい社内に安堵したが、そこにずっと身を置いている事務職の彼女に「今度一緒に外へ行くか」投げかけると、「嫌だ」と断られる。聞けば会社ではもちろんだが、家に帰ってもずっと冷房を入れているという。1日中冷房空間に身を置くなど、わたしにはない世界だけに(我が家には冷房はない)、「長生きしないよ」と投げたものの、果たしてどっちが早く世の中にさよならをするものか…。とはいえ、我が家へ帰ると、家の中は暑い。しかし、窓を開け放っていれば、夜にもなるとずいぶん涼しくなって、冷房が「ほしい」とは思わない。もちろんこんな日がまだまだ続けば、「どうなるものか」ではあるが…。

 

 

 彼女が暮らす地域の夜は暑いのかどうなのか、そう思ってわたしの自宅のある地域、彼女の住まいに近い「伊那」、長野市、そして東京の昨日(8月1日)の気温をグラフ化してみた。「伊那」の気温は35゜を越えたが、夜になったら我が家と同じくらいの25゜以下に下がっている。ようは、けして冷房なしではいられないほど暑くはないはず。さすがに東京はもちろんだが、地方の都市である長野も25゜を下回らなかった。さすがに冷房がほしいと思うだろう。ということで、いまところ我が家を含め、長野県内のほとんどの地域は、本当のところ絶対冷房が必要というほどではない。

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またやってしまった!

2019-08-01 23:56:58 | つぶやき

 昨年は参加しなかったが、今年は仲間と日本民俗学会年会に「行こう」と決めていた。ところが、仲間と合言葉を交わしたことで安心しきっていて、参加申込をするのを忘れていた。半月以上経ってからそのことに気づき、年会事務局に問合わせた。すると「事前の参加登録は〇〇にて締め切っており、管理上、締め切り以降の事前申し込みについては難しい状況でございます」と返答があった。そして「当日参加でのご参加を、どうかご検討いただけますと幸いです」と言う。少し意地悪く捉えると「難しい状況」だが、「ご検討」ください、と聞こえる。検討してダメなら受けてくれるのか、とも捉えられる。ようは優しく断られたわけだが、言い回しには余地があるようにも聞こえる。もちろん無理に「なんとかしろ」などとは言わなかったが。

 きっと同じような人は他にもいるのだろうが、中には「なんとかしろ」という人もいるのだろう。実は2年前の京都年会の際にも、申し込みを忘れていて、締め切り後に問合わせた。いつもこんな調子のわたしがいけないのは重々承知しているが、同じ経験を繰り返しているだけに、なんとかならないだろうか、という気持ちがあって問合わせた。もちろん「当日参加」という方法があることも承知しているから、それでも仕方がないと思っていた。ようは、京都年会の際には、受け付けてもらえたからだ。2年前と違うのは、少し締切からの経過日が長かったこと。だから仕方がないこと、と割り切っている。

 さて、第2回サーキュラーが発表されて、事前申込した人は、期日までに年会参加費などを支払わなくてはならない。そもそも年会の参加者を大勢受け入れたいと考えれば、締め切り日があったとしても、可能性として希望者はすべて受け入れる方が、収入は見込める。ようは、ここで支払いをしてしまうと、その支払いは戻ってこない。急な用事で不参加の方も、支払いをした以上その金は戻らない。わたしの今回のように、当日支払いであれば、「絶対行かなくてはならない」という気持ちは薄れる。ようは、収入を「上げる」という可能性を削ぐことになる。だからこそ、締切日があったとしても、柔軟に受け入れた方が得策だと、わたしは思う。2000年に松本で開催した年会では、わたしは会計を担った。もう20年も前のことだから薄ら覚えではあるが、あの時も締切日を過ぎてからも事前受付を可としたように記憶する。そもそも年会参加費を事前振込してくれさえすれば、「こっちのもの」とばかり、柔軟に受け付けたと記憶する。何といっても当時は信州大学を会場として年会を受けたが、実際の実行委員会を担ったのは長野県民俗の会という、まったくの同好の団体だった。そう捉えると、2年前の京都年会は佛教大学だった。そして今年は筑波大学。国立と私立の違い、などということは言いたくはないが…。そもそも、「管理上」とは如何なるものなのか。わたしがやっていたら、「管理上」シンプルな受け入れ(締切を過ぎても事前支払いをしてくれた方が、当日現金を扱わなくて済むだけ楽なはず)を選択する。

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