Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

初めての「東京」

2018-04-12 23:26:40 | つぶやき

 過去の未公開(同好者のみに配布したもの)資料を振り返っているこのごろであるが、書斎にあるだろうと探していたものが見つからず、「引越しを繰り返すうちにダンボール箱に詰め込んだ資料がどこかにあるはず」と物置を探っていると、確かにダンボール箱に詰め込まれた手書き資料がたくさん発見された。その中に探していたものも見つかったのだが、「こんなにあったのか」と驚く程、過去に自らの思いを綴った今で言うこの日記に変わるようなものがたくさん見つかった。社会人になったころのからその後10年近い年月を綴ったものである。あらためて記憶を蘇らせると、現在綴っている日記、いわゆるブログは2005年7月に始まる。ほぼ毎日記しているが、本来の日記というよりは、その時々に思いついたことをその日にかかわらず記している。しかし、ここで発見された過去に記されたさまざまなものも、日記風のものもあれば、その時間にこだわったものではなく、その時に抱いた思いを過去に遡って記したものもあり、まさに今のこの日記に近い記し方を、当時は紙に記していたんだとあらためて思い出しているところである。現在の日記が約11年ほど、ここに見つかった日記が10年ほど。とすると、わたしにとっての残りの20年ほどは記録のない時代ということになる(若干の記録はあるがこれほどの情報量はない)。世の中のアウトプットの形が大きく変化する中で、そのまま記録を再開することもなかったとも限らないわけだが、このような日記を記す今を迎えられているわけで、この時代に若き時代を迎えていたら、わたしの記録は一生綴られていたのかもしれないわけだ。

 発見された記録をあらためて見てみると、当時はタイトルをいくつも掲げて何冊ものノート(ノートといえば聞こえは良いが、仕事で廃棄処分になった紙の裏紙を利用した自作ノートが多かった)に記録していた。たとえばどこかに訪れた紀行文のようなもの、まさに日記スタイルのもの、詩を中心に据えたもの、等々。近ごろ「遙北石造文化同好会」のことについて触れたが、第1回の交流会を開催したのが東京だったことに触れた。昭和52年3月27日のことである。蒲田にあった「ローマ」という喫茶店で開いたわけであるが、蒲田に住まわれていた方に尽力いただきこの交流会は開催の運びとなった。わたしが高校時代のことである。この交流会開催に尽力された方に会ったのも、その交流会が初めてのこと。もっというとわたしが「東京」へ行ったのも、それが初めてだった。尽力いただいた方の家に泊めていただいたわけであるが、その方について触れた記事が今回見つかった資料の中にあった。初めての「東京」は予想通りだったかもしれないが、その方のイメージがよりインパクトあるものとして残ったからこそ綴られたものなのだろう。

 この東京行きは、当初は3泊を予定していたようだ。交流会から3年以上たち社会人となってから書いたその資料には、その方のことについてこう記されている。

京でアパートに住んでいるような人は、ろくな生活はしておらず、客を迎える状態ではなかった。小さい部屋に連れて行かれひと晩過ごした。次の日は鎌倉へ行った。(中略)帰ったのが3時ごろで、それからすぐに「寝よう」というから「びっくり」。ろくな生活ではない。次の日は会合(交流会)であった。その日も10時ころまで寝ていて、それから起きて行ったのである。

 客人に対する迎え方が田舎と都会が異なるのは当然としても、そもそも4畳半にも満たないような部屋に客を迎えるのは良いとして、泊めるという感覚はわたしにはなかった。そしてやることもなく「寝る」というのも信じられないことだったのだと思う。そんなこともあって、3泊目を遠慮して1日早く帰郷している。そんなこともあってか、わたしのこころの中で、その方を遠慮する思いが芽生えていた。その後わたしの自宅で交流会を実施した際に、突然その方が参加されたこともあったが、こちらの思いを察知されたのか、その後間もなく連絡が途絶えたと記している。当時その方は30代くらいだったのだろうか、年齢にして倍半分の違い。蒲田駅で待ち合わせをした際、わたしだと分かったら驚いていたことも記されている。なぜ驚いていたかは問いただしもしなかったが、わたしの風貌が意外だったようだ。「石仏に興味がある」という風貌ではなかった、ということなのだろう。30代独り身、きっかけは雑誌の、いわゆるかつて一時代を築いた「文通希望」からだ。初めての「東京」は衝撃的なものだったのかもしれない。

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