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石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第五節 第一次欧州大戦

2018-08-28 16:35:22 | 石原莞爾

 
  石原莞爾『最終戦争論』
   第一部 最終戦争論
 
  第一章 戦争史の大観



第五節 第一次欧州大戦

 シュリーフェンは1913年、欧州戦争の前に死んでおります。
つまり第一次欧州大戦は決戦戦争発達の頂点に於て勃発したのです。
誰も彼も戦争は至短期間に解決するのだと思って欧州戦争を迎えたのであります。
ぼんくらまで、そう思ったときには、もう世の中は変っているのです。
あらゆる人間の予想に反して4年半の持久戦争になりました。

 しかし今日、静かに研究して見ると、
第一次欧州大戦前に、持久戦争に対する予感が潜在し始めていたことがわかります。

ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。

 またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である
1905年12月案には、
アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、
パリを大兵力をもって攻囲した上、
更に7軍団(14師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、
敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました(25頁の図参照)。


  ところが1906年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、
御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、
一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、
ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、
その右翼はパリにも達せず、
敵のパリ方面よりする反撃に遇あうともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。

 この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。
たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、
甚だ不徹底なものと言わねはなりません。

 シュリーフェン案を決行する鉄石の意志と、
これに対する十分な準備があったならば、
第一次欧州大戦も決戦戦争となって、ドイツの勝利となる公算が、
必ずしも絶無でなかったと思われます。

 しかし私は、
この計画変更にも持久戦争に対する予感が無意識のうちに力強く作用していたことを認めます。
即ちシュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、
その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、
この方面への兵力増加の原因であります。

 また大規模な迂回作戦を不徹底ならしめたのは、
モルトケ大将が、シュリーフェン元帥の計画では重大条件であったオランダの中立侵犯を断念したことが、
最も有力な原因となっているものと私は確信いたします。

 ザール鉱工業地帯の掩護、特にオランダの中立尊重は、
戦争持久のための経済的考慮によったのであります。

 即ち決戦を絶叫しっつあったドイツ参謀本部首脳部の胸の中に、
彼らがはっきり自覚しない間に
持久戦争的考慮が加わりつつあったことは甚だ興味深いものと思います。


 4年半は三十年戦争や七年戦争に比べて短いようでありますが緊張が違う。
昔の戦争は三十年戦争などと申しましても中間に長い休みがあります。

 七年戦争でも、冬になれば傭兵を永く寒い所に置くと皆逃げてしまいますから、
お互に休むのです。
ところが第一次欧州戦争には徹底した緊張が4年半も続きました。


 なぜ持久戦争になったかと申しますと、
第一に兵器が非常に進歩しました。
 殊に自動火器――機関銃は極めて防禦に適当な兵器であります。
だからして簡単には正面が抜けない。

 第二にフランス革命の頃は、
国民皆兵でも兵数は大して多くなかったのですが、
第一次欧州戦争では、健康な男は全部、戦争に出る。

 歴史で未だかつてなかったところの大兵力となったのです。
それで正面が抜けない。

 さればと言って敵の背後に迂回しようとすると、
戦線は兵力の増加によってスイスから北海までのびているので迂回することもできない。
突破もできなければ迂回もできない。それで持久戦争になったのであります。


 フランス革命のときは社会の革命が戦術に変化を及ばして、
戦争の性質が持久戦争から決戦戦争になったのでしたが、
第一次欧州大戦では兵器の進歩と兵力の増加によって、
決戦戦争から持久戦争に変ったのであります。


 4年余の持久戦争でしたが、
18世紀頃の持久戦争のように会戦を避けることはなく決戦が連続して行なわれ、
その間に自然に新兵器による新戦術が生まれました。

 砲兵力の進歩が敵散兵線の突破を容易にするので、
防者は数段に敵の攻撃を支えることとなり、
いわゆる数線陣地となりましたが、

 それでは結局、
敵から各個に撃破される危険があるため、
逐次抵抗の数線陣地の思想から自然に面式の縦深防禦の新方式が出てきました。


 すなわち自動火器を中心とする1分隊ぐらい(戦闘群)の兵力が大間隔に陣地を占め、
さらにこれを縦深に配置するのであります(上図参照)。

 このような兵力の分散により敵の砲兵火力の効力を減殺するのみならず、
この縦深に配置された兵力は互に巧妙に助け合うことによって、
攻者は単に正面からだけでなく前後左右から不規則に不意の射撃を受ける結果、
攻撃を著しく困難にします。


 こうなると攻撃する方も在来のような線の敵兵では大損害を受けますから、
十分縦深に疎開し、
やはり面の戦力を発揮することにつとめます。

 横隊戦術は前に申しましたように専制をその指導精神としたのに対し、
散兵戦術は各兵、各部隊に十分な自由を与え、
その自主的活動を奨励する自由主義の戦術であります。

 しかるに面式の防禦をしている敵を攻撃するに各兵、
各部隊の自由にまかせて置いては大きな混乱に陥るから、
指揮官の明確な統制が必要となりました。

 面式防禦をするのには、一貫した方針に基づく統制が必要であります。


 即ち今日の戦術の指導精神は統制であります。
しかし横隊戦術のように強権をもって
各兵の自由意志を押えて盲従させるものとは根本に於て相違し、
各部隊、各兵の自主的、積極的、
独断的活動を可能にするために明確な目標を指示し、
混雑と重複を避けるに必要な統制を加えるのであります。

 自由を抑制するための統制ではなく、
自由活動を助長するためであると申すべきです。


 右のような新戦術は第一次欧州大戦中に自然に発生し、
戦後は特にソ連の積極的研究が大きな進歩の動機となりました。

 欧州大戦の犠牲をまぬがれた日本は一番遅れて新戦術を採用し、
今日、熱心にその研究訓練に邁進しております。


 また第一次欧州大戦中に、
戦争持久の原因は西洋人の精神力の薄弱に基づくもので
大和魂をもってせば即戦即決が可能であるという勇ましい議論も盛んでありましたが、
 真相が明らかになり、数年来は戦争は長期戦争・総力戦で、
武力のみでは戦争の決がつかないというのが常識になり、
第二次欧州大戦の初期にも誰もが持久戦争になるだろうと考えていましたが、
最近はドイツ軍の大成功により大きな疑問を生じて参りまし
た。



【続く】 
石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論
      第一章 戦争史の大観 第六節 第二次欧州大戦

 


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