日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制)

2018-08-21 09:18:06 | 石原莞爾


  石原莞爾『戦争史大観』
  第三篇 戦争史大観の説明
 

    第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制) 


第一節 兵役

 火器の使用に依って新しい戦術が生まれて来た文芸復興の時代は小邦連立の状態であり、
平常から軍隊を養う事は困難で有事の場合兵隊を傭って来る有様であったが、
国家の力が増大するにつれ自ら常備の傭兵軍を保有する事となった。

 その兵数も逐次増加して、
傭兵時代の末期フリードリヒ大王は人口400万に満たないのに十数万の大軍を常備したのである。
そのため財政的負担は甚大であった。


 フランス革命は更に多くの軍隊を要求し、
貧困なるフランスは先ず国民皆兵を断行し、
欧州大陸の諸強国は次第にこれに倣う事となった。

 最初はその人員も多くなかったが、
国際情勢の緊迫、軍事の進歩に依って兵力が増加せられ、
第一次欧州大戦で既に全健康男子が兵役に服する有様となった。

 第二次欧州大戦では大陸軍国ソ連が局外に立ち、
フランスまた昔日の面目がなくなり、
かつ陸上作戦は第一次欧州大戦のように大規模でなかったため第一次欧州大戦だけの大軍は戦っていないが、
必要に応じ全健康男子銃を執る準備も列強には常に出来ている。


 日本は極東の一角に位置を占め、
対抗すべき陸軍武力は一本のシベリヤ鉄道により長距離を輸送されるソ連軍に過ぎないために
服役を免れる男子が多かった。

 ソ連極東兵備の大増強、支那事変の進展により、
徴集兵数は急速に大増加を来たし、国民皆兵の実を挙げつつある。

 兵役法はこれに従って相当根本的な改革が行なわれたが、
しかも更に徹底的に根本改正を要するものと信ずる。


 国家総動員は国民の力を最も合理的に綜合的に運用する事が第一の着眼である。
教育の根本的革新に依り国民の能力を最高度に発揮し得るようにするとともに、
国民はある期間国家に奉仕する制度を確立する。
 即ち公役に服せしむるのである。
兵役は公役中の最高度のものである。


 公役兵役につかしむるについては、
今日の徴兵検査では到底国民の能力を最も合理的に活用する事が出来ない。

 教育制度と検査制度を統一的に合理化し、
知能、体力、特長等を綜合的に調査し、
各人の能力を充分に発揮し得るごとく奉仕の方向を決定する。


 戦時に於ける動員は所要兵力を基礎として、ある年齢の男子を総て召集する。
その年齢内で従軍しない者は総て国家の必要なる仕事に従事せしめる。

 自由企業等はその年齢外の人々で総て負担し得るように
適切綿密なる計画を立てて置かねばならない。


 空軍の発達に依り都市の爆撃が行なわるる事となって損害を受くるのは軍人のみでなくなった。
 全健康男子総て従軍する事となった今日は既成の観念よりせば国民皆兵制度の徹底であるが、
既に世は次の時代である。
 全国民野火の禍中に入る端緒に入ったのである。

 次に来たるべき決戦戦争では作戦目標は軍隊でなく国民となり、
敵国の中心即ち首都や大都市、大工業地帯が選ばるる事が既に今次英独戦争で明らかとなっている。

 すなわち国民皆兵の真の徹底である。
老若男女のみならず、山川草木、豚も鶏も総て遠慮なく戦火の洗礼を受けるのである。
 全国民がこの惨禍に対し毅然として堪え忍ぶ鉄石の精神を必要とする。


 空中戦を主体とするこの戦争では、
地上戦争のように敵を攻撃する軍隊に多くの兵力が必要なくなるであろう。

 地上作戦の場合は無数の兵員を得るため国民皆兵で誰でも引張り出したのであるが、
今後の戦争では特にこれに適した少数の人々が義勇兵として採用せらるるようになるのではなかろうか。
イタリアの黒シャツ隊とかヒットラーの突撃隊等はその傾向を示したものと言える。


 義勇兵と言うのは今日まで用いられていた傭兵の別名ではない。
国民が総て統制的に訓練せられ、
全部公役に服し、更に奉公の精神に満ち、
真に水も洩らさぬ挙国一体の有様となった時武力戦に任ずる軍人は自他共に許す真の適任者であり、
義務と言う消極的な考えから義勇と言う更に積極的であり自発的である高度のものとなるべきである。 


第二節 国軍の編制

 フリードリヒ大王時代は兵力が相当多くても実際作戦に従事するものは案外少なくなり、
その作戦は「会戦序列」に依り編成された。
それが主将の下に統一して運動し戦闘するのであたかも今日の師団のような有様であった。

 ナポレオン時代は既に軍隊の単位は師団に編制せられていた。
次いで軍団が生まれ、それを軍に編制した。

 ナポレオン最大の兵力(約45万)を動かした1812年ロシヤ遠征の際の作戦は、
なるべく国境近く決戦を強行して不毛の地に侵入する不利を避くる事に根本着眼が置かれた。

 これは1806~7年のポーランドおよび東普作戦の苦い経験に基づくものであり、
当時として及ぶ限りの周到なる準備が為された。

 一部をワルソー方向に進めてロシヤの垂涎すいぜんの地である同地方に露軍を牽制し、
東普に集めた主力軍をもってこの敵の側背を衝き、
一挙に敵全軍を覆滅して和平を強制する方針であった。

 主力軍は2個の集団に開進した。
ナポレオンは最左翼の大集団を直接掌握し、同時に全軍の指揮官であった。  


 今日の常識よりせばナポレオンは三軍に編制して自らこれを統一指揮するのが当然である。
当時の通信連絡方法ではその三軍の統一運用は至難であったろう。
けれどもナポレオンといえども当時の慣習からそう一挙に離脱出来なかった事も考えられる。

 何れにせよ事実上三軍にわけながら、
その統一運用に不充分であった事がナポレオンが国境地方に於て若干の好機を失った一因となっており、
統一運用のためには国軍の編制が合理的でなかったという事は言えるわけである。


 モルトケ時代は既に国軍は数軍に編制せられ、
大本営の統一指揮下にあった。

 シュリーフェンに依り国軍の大増加と殲滅戦略の大徹底を来たしたのであるが、
依然国軍の編制はモルトケ時代を墨守し、
欧州大戦勃発初期、国境会戦等であたかも1812年ナポレオンの犯したと同じ不利を嘗めたのは興味深い事である。


 独第五軍は旋回軸となりベルダンに向い、
第四軍はこれに連繋して仏第四軍を衝き、
独主力軍の運動翼として第一ないし第三軍が仏第五軍及び英軍を包囲殲滅すべき態勢となった。


 第一ないし第三軍を一指揮官により統一運用したならばあるいは国境会戦に更に徹底せる勝利となり、
仏第五軍、少なくも英軍を捕捉し得たかも知れぬ。

 そう成ったならマルヌ会戦のため更に有利の形勢で戦わるる事であったろう。

 しかるに独大本営は自らこの戦場に進出し直接三軍を指揮統一することもなさず、
第二軍司令官をして臨時三個軍を指揮せしめた。

 しかるに第二軍司令官ビューローは古参者であり皇帝の信任も篤い紳士的将軍であったが機略を欠き、
活気ある第一軍との意見合致せず、
いたずらに安全第一主義のために三軍を近く接近して作戦せんとし、
遂に好機を失し敵を逸したのである。


 ナポレオンの1812年の軍編制や運営につき深刻な研究をしていた独軍参謀本部は、
1914年同じ失敗をしたのである。

 1812年はナポレオンとしては三軍の編成、その統一司令部の設置はかなり無理と言えるが、
1914年は正しく右翼三軍の統一司令部を置くべきであり、
万一置いてない時は大本営自ら第一線に進出、
最も大切の時期にこの三軍を直接統一指揮すべきであった。


 戦争の進むにつれて必要に迫られて方面軍の編成となったが、
若しドイツが会戦前第一ないし第三軍を一方面軍に編成してあったならば、
戦争の運命にも相当の影響を及ぼし得た事であったろう。


 現状に捉われず、
将来を予見した識見はなかなか得られない事を示すとともに、
その尊重すべきを深刻に教えるものと言うべきである。



【続き】 
石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第六章 将来戦争の予想 

 



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