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あなたに送りたい。野辺の風情を添えて、野菊の花束を。
秋の日差しは、一年で一番美しい。
黄昏の光の美しさには、陶然となってしまう。
夕映えという言葉そのままに、すべての事物が際立った色彩を放ち始める。
赤みを帯びた波長の長い光が魔術的な時間を演出してくれる。
マジックアワーの天才、テレンス・マリックの映像世界を観るように。
風景が西日に照り映え始めた遅い午後の時間、息せき切って山裾の草叢までやって来た。
芒の穂が黄金に輝き、野罌粟(のげし)も綿毛を付け始めている。
草叢は一面の野菊。
これは嫁菜(よめな)ではなく大柚香菊(おおゆうがぎく)だろうか?
休耕田の湿地には溝蕎麦の大群落。
夕陽を浴びた秋茜(あきあかね)が、力なく翅を震わす。
その中に一叢の野菊があった。
花蓼(はなたで)の葉っぱが赤く色づき、山影の草叢には、まだ露が残り野菊の花片を輝かせる。
山裾に奇跡的に残った野菊の咲き乱れる、秘密の花園(笑)
そして生きがたみのようになってしまったある方の写真集の一ページが脳裏を霞めました
「野の花に語らいて」 京篠幸子
その中にサワシロギクが掲載されています
野辺の斜面(なだり)に
腰をおろし
青い風を
聴いています
今
私の五感は
全開しているのです
この全開した五感から
世俗のブツブツが
消え去って
行きそうです
今日は石鎚回避して
徳島の高原で過ごしました
素朴で草叢の中に埋もれるように咲いているので、その野趣溢れる美しさを引き出すのに苦労します。
今回も雨上がりの露と黄昏の斜光線を狙いましたが、
どちらもダメでした。
また、もう一度、気象条件を見計らって再挑戦してみましょう。
そうですか…
misaさんにとっても琴線に触れる花ならば野菊の花束、添えられた詩に託して送りましょう。
万葉の昔から日本の秋を代表する野辺の花ですから。
オマケで帰路、目についたコスモスをパチリ。
こちらは近代化以降の日本の秋を代表する花。
この花はシンプルで中間色が多いので誰が撮っても失敗しない花です。
ヒマワリと一緒で定型化されたイメージを如何に破るか?ですね。
今日は昼間のお天気が、思うように晴れませんでしたね。
落葉松を外して、徳島の高原でススキ狙いでしたか?
この山崎雅弘のツイートが、この問題の本質を一番ついていると思えます。
そして大阪府知事の発言も、この文脈に従えば「なるほど」ですね。
おおさか維新とは、そういう信条の政治集団ですから。
山崎 雅弘 @mas__yamazaki
古今東西の軍隊でよく使われる手法だが、
殺人や略奪、住居破壊などに伴う罪悪感を消すため、相手国の住民を「自分と同じ人間ではない何か」
だと錯覚させるための蔑称や言い換えが推奨される。
日本軍人も蔑称を使ったし、米軍も対日戦やベトナム戦争、対テロ戦争で蔑称を使う。
蔑称は暴力性を助長する。
相手国の住民を「自分と同じ人間ではない何か」だと錯覚させるための蔑称や言い換えは、
新兵訓練などの段階でもしばしば植え付けられる。
組織の指導部が、配下の人間を「効率的に任務を遂行する機械」のように鍛える手段として、
人間性のスイッチを切るため蔑称を利用し、蔑視の思想を心に浸透させる。
こうした訓練を受けると、性格が単純で真面目な人間ほど、
忠実に「蔑視の思想」を心に浸透させ、暴力や傲慢への心理的抵抗が消える。
逆に、上官から「敵」だと教えられた相手を蔑視し、相手を蔑ろにするほど、
上官や上層部に評価され、喜ばれると思い込む。
機動隊の一部は自国民相手にそれをしている。
枯れた夏草など風情がある中に政治のごたごたがまた・・・
天候不順も彼らの所為と言いたくなるような気がします。
なんの気無しに見る風景の切り取りに癒やされます。トレーニングしていた所為か、疲れはあまりなかった。
来年目指して・・・
こういう相手の人格を貶めるような差別的発言が常態化しています。
一番怖いのは、こういう状況に慣れてしまうことです。
「おかしい?」と思ったら立ち止まって何が起こっているのか?考えてほしい。
放っておくと周囲に流されて、人は簡単にそんな状況に慣れてしまいます。
前回、紹介した100mの移動距離も車を利用する極端な車依存症も、
ドナルド・トランプをここまで押し上げたポピュリズムも同じ現象だと思います。
鬼城さんの何十年ぶりかの石鎚登山は快挙でしたね。
そうなんですよ。
思っている以上に人の身体はトレーニング次第で頑張れるものです(笑)
人の身体運動の基本は二足歩行です。
それを忘れた車依存症は、当然のように身体機能の退化を加速するだけです。
心と体が健やかだと、見えてくる風景も違ってきますよ(笑)
元気にしていましたか?
なぜか、この素朴な野辺の花、野菊に惹かれますね。
笹百合のような華やかさはないのにね。
ホッホさん、御指摘の通り亡き母を思い出すのかもしれませんね?
山からの帰りに路傍の野菊や芒、水引などの秋の野草を摘んで母のために活けました。
身体の衰えた母に秋の風情を愉しんでほしかった。
叶えられなかった想いもあるのでしょう?
そういえば今朝の新聞にボブ・ディランの公式サイトからノーベル文学賞受賞の文字が消えたとか。
ホッホさんの敬愛するディランの受賞拒否が、いよいよ現実味を帯びてきました(笑)
以下の小田嶋隆のディランの記事は笑えます。
皆さんも御一読を。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/102000066/
ディランの性癖を知っていれば、この経緯は納得ではあるのですが。
でもノーベル文学賞の受賞履歴を観てみると、
必ずしも、その時代の最も優れた文芸作品を発表してきた作家が受賞しているわけではない。
ということが分かってきます。
1901年からの受賞作家の一覧は、こちらに。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E
20世紀最高の文学として必ず名前が挙がってくる、
「失われた時を求めて」のプルーストや「ユリシーズ」のジョイスも受賞していません。
現代文学でいうとトマス・ピンチョンも候補には何度も上がるようですが、未だ受賞していません。
もっともピンチョンの場合は数々の文学賞を拒否してきた経緯もありますからね(笑)
そんな批判もあっての、今回のボブ・ディランの受賞なのでしょうかね?
でも、もっとも権威から遠い人ですから如何なりますやら?