情報分析研究促進開発機構

統制経済推進委員会(CEPC)のブログ運用サイト。

個人主義の超現実

2004年10月29日 15時34分39秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 秋の園遊会において天皇陛下は国旗・国歌問題に関して「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と仰せになった。このお言葉は天皇陛下が日本と言う国家において無意味且つ無背景に進んでいるナショナリズムに対して望むべきものではないという見解を示したものである。まさに民主主義国家日本の象徴として卓見としか言えぬお言葉である。しかし、国歌への「愛」と言うものの高まりの半面で個人への「愛」も究極的なレベルにまで進化しようとしている。それを端的にしめしているのが、ゼガが12月2日のニンテンドーDSの発売に合わせては発売する「きみのためなら死ねる」であるし、本日発売された年齢制限仕様のゲームである「こんねこ」である。
 「きみのために死ねる」(公式HP→http://kimishine.sega.jp/)は、ぱっとしないふつうの男の子である主人公が一目ぼれしたナイスバディの魅力的な彼女にいつか彼女に振り向いてもらいたくて、色々な試練に立ち向かうという内容である。そんな設定は何処にでもあるだろうと言う思われる方も少なくは無いかもしれない。多くのゲームやアニメ、漫画における男の主人公(ヒーロー)はかくあるものであると主張されるかもしれない。この一種の「彼女」を神格化しその対象に対して無批判で且つ許容的な姿勢は「ふしぎの海のナディア」のヒーローであるジャン以降、ヒーロー像として確定しているのだという意見すらあるのは事実だ。しかし、ここで重要なのは「きみのために死ねる」の持つ題意がこの主人公の実質的目的と背反するものであると言う点だ。この主人公にとって彼女を振り向かせるのが目的であり、その目的は生きている事を前提としている。死んでしまえば、彼女が自分に対して振り向いているのかなぞ分からないからである。つまり、主人公は生きなければならないのであるから題名は「きみのために生きる」と本来はすべき所であろう。にもかかわらず、我々はこの題名をあたかも許容出来得るもののように考えてしまう。更に、注目すべき点は、この行為自体が無償であると言う点である。「きみのために死んだ」としても彼女は何らかの代償を払う必要はない。つまり、これは主人公が自己妄想的に遂行している行為と言う事になるだろう。その一方で、この「きみのためなら死ねる」は、現在の女性によって守られる男という作品が多い中においては久々の男性が女性を守ると言うパターンである。この流れ自体を一種の男性優位回帰へのナショナリズムの反映と解釈できなくも無い事もまた付言できる。
 一方の「こんねこ」だが、題名だけではなんだかよく分からない。しかし、この作品のサブタイトルは「She continues loving him over and over again.」であり、和訳(意訳)するならば「私は何度でもあなたのことを愛し続ける」となる。このサブタイトルについても多くの人は、それは当然の内容ではないかと言うかも知れない。しかし、この英文を解釈して見ると片務的な愛の提示でしかないとも読み取れる。愛しているのはShe(彼女=和訳では私)であり、彼(和訳ではあなた)からは愛を必ずしも求めていないと言うように理解できる。更にover and over(同、何度も何度も)は連続性というよりも何らかの障壁を越えても更にと言うように読み取れなくもない。ある意味で七生報国に近いイメージで解釈されうるものである。つまり、このSheは例え彼から愛を得られないとしても盲目的に愛し続けると解釈できる。この構図は先に「きみのためなら死ねる」における主人公の行動と同様のものと解釈出来るのではないだろうか。無論、後者の「こんねこ」は年齢制限仕様の恋愛シミュレーションであり、プレイヤーが「彼」を担当する以上、彼の側から彼女を愛する必要性は必ずしもないと言う事は指摘できる物である。
 この両者が示すのは人への盲目的な愛である。無論、人類愛は否定されるべき物ではない。人類愛が今より大きいものであるならば世界はより平和であると言うような議論は一概に否定しきれるものではないからである。しかし、盲目的な愛というのは必ずしも正常な状態ではない。それは国家への狂信的なまでのナショナリズムや宗教原理主義者が奇異に思われるのと同様である。この二作品から今日のBlogは個人主義の超現実(ちなみに、ここで言う個人主義は世間一般で用いられる個人主義とは異なっている事は上述の議論から理解頂けると思う)を考えて見たが、この作品以外にも世間一般にはこのような構図が多く存在している事は間違いないであろう。

The World Ⅴ~うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー~

2004年10月24日 16時30分53秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 最早、衰退に入ったとも見られる「萌」というサブカルチャーにおける概念であるが、この概念がその発現をしたのは1980年代に遡る。無論、当時においては「萌」と呼ばれていた訳でも認識されていた訳でもない。この最初の発現と見られているのが高橋留美子原作の「うる星やつら」である。しかし、このBlogの「The World」は内輪受け的要素への批判をコンセプトとしている以上、「萌」についての分析を行うわけではない。ここで着目するのは「夢」と呼ばれる部分についてである。しばしば、「The World」で取り上げる作品はオタクと呼ばれる人々の一種の自己満足を満たす為に存在すると解釈されている。その自己満足とは一種の「夢」であると言っても過言ではないのであるが、その「夢」とは現実には存在し得ないものである場合が大半である。本日取り上げる「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」はその部分を考える上で極め有益であろう。
 押井守という監督は我が国のアニメーションに席巻されていると言っても強ち間違いではない映画界においては著名となっている監督である。本年春に公開された「イノセンス」にせよ、1995年に公開され世界的に評価を得た「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」にせよ、「夢」というよりも一種の「現実」志向の作品を作る事で知られている(一方で、稠密なる兵器等の描写は妄想的というまでに昇華されている)。この「うる星2」を監督したのはこの押井守なのである。この作品はアニメーション界において名作と評されている。この方面に関心がある人物でこの作品を知らなければモグリと言うものだ。
 この「うる星2」を見れば押井映画の基盤を成す部分の大半を理解出来るだろう。校長が親鸞を引用しくどくど述べる部分(所謂、ある意味において「くだらない」知識の羅列)、「純喫茶第三帝国」や「ボイコット貫徹」というイデオロギー性を見出す描写、異常に細長いビルの描写、そしてハリアー戦闘機やレオパルド戦車という兵器面。その全てが「イノセンス」にまで通じる押井映画の特徴だ。この作品の主題は「夢」と言う部分にある。この世界では永遠に学園祭前日という一日が繰り返されている。これはラムが望んでいた楽しい夢という願望の世界である。この世界は極めて地域的に、そして人的に小なる世界と言う事がハリアーで脱出しようとするシーンで明らかになる。最低限度の人間が存在出来れば良く、最大限度の生活が出来る世界。その描写はあたかも現在のインターネットに傾注するだけで生活する「ひきこもり」を想起させる。無論、この映画が公開された1984年当時はインターネット等はなく大学紛争におけるセクトというユートピアの残滓が未だに残っていた時代でも合った。であるからこそ、学園祭という「祭」しかもその前日と言う「ハレ」のピークへと至る過程を通して描写されているのである。
 この「うる星2」は最終的に5作製作されているが、この作品を持って押井は監督から降りている。それは押井がこの作品こそを「うる星やつら」シリーズの集大成としたかったからであると言われている。つまり、押井はこの「うる星やつら」という「夢」世界が所詮は漫画と言う紙面や映像の上にしか存在しない世界であると言う事を示す為に、あえて「夢」というテーマでもってこの作品を作り上げたと考えられるだろう。この映画において異なっているのは「夢」と言うものも相違している点である。ラムが「夢」を志向するのに対し、あたるは「現実」を志向する。あたるが「現実」として志向しようとしているものも、視聴者(読者)から見れば非現実の「夢」にしか過ぎない。そして、映画の最後のシーンではこのラムとあたるが「夢」から本当に脱する事が出来たのか分からないような状況になっている。つまり、最後のシーンにおいて押井はこの映画において描写された世界自体が「夢」にしか過ぎないと断じているのである。しかし、この作品以後も「うる星やつら」は継続した。最終的に「うる星やつら」が歴史の存在となったのは平成を迎えてからだからである。つまり、この押井の警鐘は届かなかったと言えるのかも知れない。アニメや漫画によって描かれる世界とは所詮は「夢」でしかないという指摘は、受け入れられるどころか1990年代に入って加速度的に拡大して行ったからである。
 「うる星やつら」によって想像された世界は、読者、視聴者の資本主義的願望を受けて現在まで継続している。押井がこの作品を通して訴えたかった内輪受けてきな「夢」の世界への危惧は、その願いが通じる事無く現在まで続いており、その範囲を拡大している。この拡大はもはや止める事は出来ないのかも知れない。「夢」という世界はインターネットによって様々な「夢」と連接する事によってより大きなものへと変質しているからである。

消された感情

2004年10月22日 02時48分19秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 1942年6月5日ミッドウェー近海上のイージス護衛艦「みらい」の艦上において草加から「あなた方はどこから来た日本人だ!?」と尋ねられた角松は感情的に「21世紀の日本からやってきたんだ!!」と言い返す。これは「ジパング」の漫画版での情景だ。しかし、アニメ版では角松は逸る部下を押し留めるように冷静にその台詞を言う(もっとも漫画版では角松ではなく部下が言っているようにも見える)。この部分だけではない。「みらい」を雷撃しようとする米潜水艦の艦長は漫画版では「ジャップの新鋭艦だ」と言うが、アニメ版では「ジャップ」の部分が「日本海軍」と改められている。これは「ジャップ」が恐らく放送禁止用語になっている為であろうが、戦争状態で「日本海軍=Japanese Navy或いはImperial Japanese Navy」と言うというのは想像し難い。この感情を消し去ったような相違はいったい何処から生まれたのであろうか。
 ここで言える事は、この部分が米国同時多発テロ事件という我が国の安全保障政策を大きく転換させてしまう事になる事件の前に原作が描かれている事である。この時代の日本にとって戦争とは遠くの出来事でしかなかった。海外に派遣される自衛隊は国連のブルーのヘルメットを被ってブルドーザーを運用していた。そのような中で描く場合、戦争と言う只中に放り込まれた自衛官に感情移入している読者を傾注させる為には感情的であることが必要だったのであろう。何しろ、想像は出来たとしてもどのような状態で自衛隊が戦時派遣されるのかと言う事などを想像する事は容易でなかったからである。しかし、現在では海上自衛隊はインド洋に派遣部隊を常駐させるようになっている(政府は、派遣期間の半年延長を決定し、支援の範囲も艦船の燃料から艦載機の燃料までに拡大される方向にある)。イラクに陸上自衛隊の車両を輸送した輸送部隊はインド洋上でインド洋派遣部隊から洋上給油を受けている。このような状況をテロ事件が起こる前に誰が想像出来ただろうか。自衛隊が派遣されるとしても、其れは周辺事態安全確保(ガイドライン)法に基づく日本近海での派遣である筈だったからだ。
 海上自衛隊は戦時派遣された。しかし、その派遣は日常生活には目に見える何らの影響も及ぼさなかった。インド洋に自衛隊が展開されてる事自体が現在では殆どニュースにもならない。イラクの自衛隊派遣ですら同様だ。誰もが忘れている内に8年近く展開しているゴラン高原PKOと殆ど差がなくなってきている印象すら受ける(その半面で海上自衛隊は近年になって旧海軍77年の伝統を引き継ぐ正統な後継者である事を公言し始めている)。日常である以上、其処は得てして感情的になる必要は無い。日常生活とは得てして淡々と処理されていくものであるからだ。日常となった自衛隊の海外派遣、日常を変える事が無かったというある意味において「予期されなかった」現実が「ジパング」アニメ版における「消された感情」を導き出したのではないだろうか。

The World Ⅳ ~げんしけん(アニメ版)~

2004年10月20日 01時31分43秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 久しぶりに、この「The World」を再開して見たいと思う。本日分析の対象とするのは漫画版は以前に分析を行った「げんしけん」(原作:木尾士目、講談社)である。今回は10月からアニメ版の放送が週末地方局深夜枠で始まった事を記念して(?)アニメ版の特徴とでも言える部分の分析を行ってみたいと思う。
 対象とするのは第2話「消費と遊興による現代青少年の比較分類」という長く社会学的且つ経済学的な題名であり極めて興味深いが、この話だけに着目する訳ではない。この「げんしけん」だがアニメ内アニメである「くじびきアンバランス」の素晴らしい(独自のアニメとしても十分に通用出来るのではないかと言う)出来に視点が集まりがちであるがちであるが、よく見ると作品内部には現実世界に存在するゲームやフィギィア等が描き込まれているのである。そして、秋葉原という街、しかも現実に存在する同人誌ショップである「とらのあな」でのショッピングの描写は秀逸である。背後で流れる音楽はまさに現実に店内で流れる曲が流されている。しかし、注目すべきなのはそこではなく、この秋葉原の「とらのあな」での同人誌を買う行動と原宿で服を買う行動が、消費行動として考える場合は本質的にまったく同じであるという恐るべき真実が提起されているのである。これは、しばしばオタクと自称する人々が自身の行動を一般人と異なっていると解釈する自己中心的世界を構築することが、実際には一般社会においてもそれと同様の行動が行われている事を示しているのである。
 また、オタクというものが現実には存在しない関係性(幼馴染であるとかの部分である)というものを無意味に議論するという描写もあるが、このような会話を実際レベルでどの程度展開しているのかと言う部分には疑問がある(是は、単純に小生がそのような部分に着目しないだけからかも知れないが)。このような描写の点において秋葉系漫画とこの「げんしけん」は評される訳であるが、実際面では秋葉系と単純に言い切れない部分もあるだろう。秋葉系には単純にその作品のみに傾注し、それを否定する事が出来ないUGU(うぐぅ)と新たな地平を開拓し続けるUG(アンダーグラウンド)の二者が存在しているからである。しかしながら、UGUと言う部分を部分的に描き出しているとは言えるだろう。
 一方でこの「げんしけん」における一般人である「春日部」の存在について様々な面での指摘がなされていることは事実である。「春日部」が当初、「高坂」の家にあった年齢制限仕様のゲームの存在に気付かなかったり、秋葉原を家電を売る電気街であると思っている事等は別に可笑しい事ではない。このようなジャンルに関心がない人にとって、オタクが関心を持っている存在とはその程度の存在だからである(美少年オタクの「高坂」こそありえない存在だと言う意見もあるが、このタイプのオタクもまた厳然として世の中には存在している)。その半面で、オタクに近い(アニメや漫画、ゲームに関心を抱いている)人々こそがオタクを批判する(一種の自己弁護の為にである)という指摘もなされている。或る意味でオタクという存在を描いているこの「げんしけん」は、この作品をどのように解釈するのかと言う点において「内輪受け」世界である「The World」の住人であるか否かを峻別する踏み絵の役割を提示しているとも言えなくもないだろう。

文化を融合しながら我等行く

2004年10月17日 22時41分27秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 10月から様々なアニメの放送が始まっており、その各種アニメについてこのBlog上においても取り上げてきている。その中でも今日は「神無月の巫女」という作品を考えてみたい。もっとも、過去の作品の論評にしても然りであるが、このBlog上において作品の出来不出来を論証していく訳ではない。その作品の背景に存在する「何か」を解明していくことが主眼である。
 この作品の原作は角川書店から出版されている同名の作品(作:介錯)である。介錯といえば「鋼鉄天使くるみ」や「円盤皇女ワルキューレ」等で知られており、人気が高い漫画家でもある。「神無月の巫女」の作品については説明を省きたいと思う。第1話を今月下旬頃まで「Animate.TV」において無料動画配信が行われているからだ(動画ページ:http://shop.frontierworks.jp/digital/web_anime/detail32.html)。この作品は神話、少女漫画、巫女、ロボットという様々な要素によって構成された複合的な作品である。神話と巫女という部分は作品名を見ていただければ容易に理解出来るであろう。少女漫画というのは「マリア様がみてる」辺りの影響を受けているのではないかと感じられる描写が描かれる事(ちなみに、やんごとなき筋が通学する某幼稚園から大学まで存在する学校法人では「ごきげんよう」と言う言葉が現実に使われているらしいが、詳細は不明である。もっとも、「マリみて」自体はこの某学校法人を舞台とはしていない)、ロボットという点ではオロチの化身としての一種のロボット体が搭乗してくる点に集約される。ここで重要なのはやはり作品名である。名が体を現すからだ。つまり、その方向性から考えるならば「神無月の巫女」は神話と巫女が中心要素を担っている事になる。神話では得てして敵味方は明確化されるが、この作品名で示される事から見てストーリーは巫女の立場(概念的には「善」となろうか)から進められることが分かる。
 巫女、そして日本神話と言う存在は近年になって様々な側面で使用される媒体である。巫女と言う存在については単純にコスプレとしての面が着目されがちであるが、何故、日本固有の文化的存在である巫女が描かれるようになったのかというのは、我が国の所謂「右傾化」と連関して考える事も出来るかも知れない。巫女を題材としたアニメはこの「神無月の巫女」以外にも「朝霧の巫女」等も指摘出来る。両者の共通要素は巫女が守護する(或いはすべき)男が存在している点だ。この男の存在を、単純に近年の「守られたい」症候群の一例と片付けてしまうのは簡単である。しかし、これらの作品に共通する要素はその男とは世界と密接な関係性を保持していると言う事だ。ある意味で世界を破壊できる力を有しているとも言える。つまり巫女達に与えられる使命は男への一種の恋愛感情(或いはとされるもの)だけでなく世界を守護する偉大な使命――まさにノーブレス・オブリージュ――が存在しているのである。これは演繹的な見方だが、この男はやんごとなき方々の姿の仮託であるとも言えなくない。ならば、やんごとなき筋が通う某学校法人において交わされるとされる会話を展開するのも納得できようと言うものである。だが、此処で考えねばならないのは世界とは何かと言う事である。日本神話であるから、単純に考えれば「神」が違えば神に仕えるものの守るべき範囲が異なっているであろうからだ。つまり、この構図に立脚した場合、世界は日本に限定されている筈である(文化的に考えるならば日本文化が支配的なのは我が国の領域内だけである)。つまり、巫女達の使命は世界を守る事でありながら、実質的には日本を守る事になっている。この構図は一種のナショナリズムであると言えるだろう。守りたもう防人は日本の神々に仕える巫女であるからだ。
 しかし、このナショナリズムを基盤としながら、「神無月の巫女」は文化的融合を展開している。少女漫画は戦後日本における(又は明治維新以後の)西欧への羨望の表れと言う側面がある。少女漫画の登場人物の描写は得てして日本人離れの容姿で描かれる。象徴は金髪(或いは黄色から黄土色で表現される)であろう。日本人の標準的な髪の色は黒であり、その日本人を金髪で描く事自体に西欧への羨望が隠されている(「神無月の巫女」のヒロインである日の巫女も同様である)。このナショナリズム的側面を背景とした上で「西欧」を展開出来るのがまさに現代の日本なのである(同様にヒロインである月の巫女の家に何故、メイドという「西洋」が当たり前に並存しているのかを考えれば容易に理解できるだろう)。つまり、ナショナルでありながらグローバルを取り入れているのである。日本の昨今のアニメがナショナルを追及していることはしばしば指摘される事である。ナショナリズムの高揚の構図がアニメやゲームのキャラクターへの傾倒と同種ではないか、一種の「萌ナショナリズム」とでもいう共通要素が存在しているのではないかという見方もある。しかし、そのナショナリズムは純日本の追求と言うよりもグローバルな傾向を持ち合わせ、それを拡大していると見ることが出来るのではないだろうか。

この国は誤りなのか?

2004年10月15日 01時52分16秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 漫画でも人気の「ジパング」がテレビアニメ化されている(東京地区では10月15日現在で第2話まで終了)。この作品のテーマは前作の「沈黙の艦隊」と並んで我が国の存在意義というものを問いかけていると言えるかもしれない。特にこの「ジパング」は現在の我が国の外交・安全保障政策や歴史認識問題を基盤としており、それらの問題への疑問が作品を構成する重要な要素となっている。「ジパング」が示そうとしているのはありえたかもしれないもう一つの日本の歴史である。このような手法を持って歴史を検証しようとする試みが無かった訳ではない。例えば、第二次世界大戦を舞台とした仮想戦記小説はその典型であると言えよう。仮想戦記作家の一人である檜山良昭は「大逆転!ミッドウェー海戦」(光文社、1988年)において当時の最新鋭護衛艦「しらね」がミッドウェー沖でタイムスリップするという内容の小説を書いている。しかし、それ以上に本作が注目を浴びるのは時代的背景と言う側面も大きい。
 「ジパング」においてタイムスリップするイージス護衛艦「みらい」(概要を見ると14DDGを基礎としているようである)は周辺事態法の名の下で海外派遣されるという設定になっていた。これはこの「ジパング」の連載が始まった2000年当時においては有り得べき未来でしかなかったが、現実はその未来を遥かに通り越し、現在においてもインド洋において海上自衛隊のイージス護衛艦「きりしま」等が対テロ戦争支援の為の後方支援活動を継続している。つまり、この「ジパング」における自衛隊という意味付けは明らかに連載当初からは変わっていると言えよう。
 更に指摘できるのが、現在の日本への疑問である。「ジパング」において主人公である草加拓海は理想の日本として<ジパング>を提唱する。日本が誇りを持ち、独自の道を歩む理想の国としてである。この理想は現実への二つの提示が暗黙の内に含まれているのであろう。一つは、現在の日本の所謂、対米追従とされる外交・安全保障政策への警鐘、そしてもう一つは太平洋戦争が無条件降伏という結末になっていなければ現在の日本とは異なった「確固」とした日本があったのではないかという夢である。そこまで現在の日本は誤っているのであろうか?戦後60年の現実と言うものを否定しきってしまえるほど単純なまでに現在の日本は誤っているとは小生には思えない。無論、「ジパング」にはこのような側面なぞ仮託されていないと主張される向きもあるかも知れない。しかし、アニメ版にはこの現在日本への否定的イメージが現われていると思われてならない。作品中に使用される曲が作品を表すとは言い難いが(作品の内容は第1話の半分をかけて帝国海軍と海上自衛隊の連接を描き作品の背景説明を行った以外は、漫画版を忠実にトレースしている)、AUDIO RULEZが歌うOPテーマ「羅針盤」には現在の日本とは違う日本を求めようとする印象を感じる事が出来るからだ。
 もっとも「ジパング」アニメ版にはそのような心配ではなく、何処までを描こうとしているかと言う方に心配すべきなのかも知れない。前作「沈黙の艦隊」はOVA化されているものの北極海での海戦までしか描いておらず国連での論戦等の後半部分は描かれていない(戦闘描写が殆どないと言うので割愛されているのかしれないが)。さらに、そもそも現在連載中の作品の漫画であり、結末が出来ていないので最後までアニメ化出来ないだろうという意見もある(1話完結形式ではないのでアニメ独自の設定を持ち込みにくい)。OPの映像を見る限りではガダルカナルでの戦闘付近までは含まれているようである。13話なのか26話なのか或いは1年間52話なのかでも見通しは全く異なる。この国の誤りかどうかをこの「ジパング」を通して考えるよりも、この作品をこのタイミングでアニメ化すべきだったのかという方がより誤りであったのかも知れない。

もはや、日米決戦か

2004年10月12日 17時52分51秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」新しく始まったガンダムシリーズに登場する新型ガンダムはインパルスガンダムという。インパルス=衝撃或いは衝動と訳される単語であるが、この単語自体は前作SEEDにおいてガンダムに米国を想像させる単語が使われていたのとは少々異なるようだ。例えば、SEEDの初期の主力機であったストライク、イージスは米国軍事力を象徴する二語である。ストライクはF-15Eストライクイーグル、或いはストライカーを想像させるし、イージスは紛れも無く女神の御盾イージス防空システムを想像するしかない。後半の主力機であったフリーダム、ジャスティスも同様だ。米国は現在遂行中の対テロ戦争以外にもあらゆる機会においてこの二つの主義を振りかざして戦争を遂行して来た。
 しかし、インパルスは米国を想像させる用語ではない。インパルスとして最も身近に想像出来るのはブルーインパルスだろう。ブルーインパルスは我が国の航空自衛隊の曲芸飛行を行う演技飛行隊だ。正式名称は第4航空団第11飛行隊と言う。SEEDの世界において日本が出て来なかったわけではない。無論、地理的な日本ではなく南太平洋に存在するとされる仮想の国オーブこそが日本の理想像として登場した。SEEDにおいてオーブは連合、ザフトとも違う道を歩もうとして連合の攻撃を受ける。このザフトの行動が日本のとるべき理想の姿かといえば疑問もある。国民の犠牲を最小にすべく連合の軍門に下るべきだったのではないかという意見も成り立ち得るからだ。そして、その有り得た選択への提起が今作における主人公シン・アスカである。日本の古名を名に持ち前作における理想の日本からザフトに渡り、インパルスと言う日本を連想させるガンダムに搭乗する主人公。この主人公が合間見えようとしているのはアメリカ合衆国を範とする地球連合である。この構図はオーブからザフトへと日本の立場が移ったようにも見える。横暴なる米国へ挑む善良なる日本。そんな構図にも見えてしまう。今作は日米決戦を待望しているとでも言うのであろうか。
 SEEDが「非戦」をテーマとして、米国の第2次湾岸(イラク)戦争の課程に影響を受けているとも言われる。しかし、11月の米国大統領選挙で民主党のケリー候補が当選すれば米国の外交政策が変化していく可能性はある。その時にこの今の構図が変わっていく可能性は十分にあるであろう。アンチ・アメリカと正義の日本(あたかも八紘一宇であるかのような)は未だに強いイデオロギーと成り得るのである。

目指すべきDestiny

2004年10月11日 22時43分55秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 先週土曜日より「機動戦士ガンダムSEED」の続編となる「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」がスタートした。この作品はガンダムシリーズの中では始めての異次元世界での続編となる(「機動戦士ガンダム」シリーズを正史とした場合である)。このSEEDはファーストガンダムを模して作られているとされる。それでは、このDESTINYはどうなのであろうか。一見するとガンダム強奪という視点に立つならば、SEEDを逆の視点から描こうとしているようにも見える。しかし、ガンダム強奪と言うテーマ自体は別段珍しいものではないからである。ガンダムGP02が強奪される「機動戦士ガンダム0083」やガンダムMK-2をカミーユが持ち出す「機動戦士Zガンダム」等も実質的にはガンダム強奪からストーリーが始まっているからだ。
 この二作品はDESTINYのモデルとなった可能性はある。ファーストガンダムの視点で行くならば続編はZガンダムにあたり、経過年数と言う視点に立つならば0083ということが考えられるからだ。しかし、舞台設定と言う面では両者ともこのDESTINYを裏付けるものにはならないだろう。0083はジオン軍の残党の戦いであり、Zガンダムは連邦軍内部の抗争であるからだ。それに対してDESTINYの世界では地球連合とザフトが一種の冷戦状態を構築していると考えられる。だからこそ地球連合の特殊部隊による強襲と言う形でストーリーが始まって言うのであろう。特殊部隊は冷戦のような構図においては低烈度紛争に分類される。つまり、特殊部隊が行動を行ったくらいでは両陣営の核の打ち合いにはならないのである。最も、ガンダムシリーズにおいて主人公達は常に特殊部隊或いは独立愚連隊に近い役回りであり、この背景設定事態は描きやすいものなのかも知れない。
 SEEDとの延長、過去のガンダムシリーズとの深部での連接を予想させる部分は既にストーリーに現われてきている。既に予測される関係性というものも見えている(製作者サイドが故意に見せている部分もあるのだろうが)。個人的見解で見るならば少なくとも「非戦」をテーマとした前作よりは政治学的に見る事は出来る作品になる可能性が僅かばかりはあるような気がしている。

スクランTVアニメスタート

2004年10月05日 18時26分41秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 漫画版が一部においてカルト的人気を博している「SchoolRumble」がついにTVアニメで登場した。内容的にはかなり忠実に漫画版をトレースしている印象を受けるも、播磨拳児の声(高橋広樹)が微妙に不良っぽくない印象を受ける(もっとも、漫画版では不良的ではなくなるので良いのかも知れないが)。第1回のタイトルは「新学期でドキドキ!ラブレターでジタバタ!自転車でドキューン!」と極めて長いが、これは各回が3話構成になっているからに他ならない。つまり、このタイトル名はこの3話の状況を並べただけなのである。これは漫画版の初期が4コマ漫画に近い要素で構成されていたからであろう。つまり、回を重ねる毎に形式が変化する可能性は高いとも言える。
 本来ならば画質や音声等についても論じるべきなのかも知れないが、第1回から手を抜いては作らないので第1回を見ただけでの論評は避けるべきものと考える。あとは、この「スクラン」アニメ版が今後どのような形式を取るかであろう。漫画版は6巻までであり、このアニメが半年クールで放送されたとしても7~8巻まで出版されていれば良い状況である。つまり、漫画版を順を追ってトレースするのか季節に併せてランダムに並び替えるのかはこれからの状況を注視して行かねばならない。また、アニメ独自の回や独自キャラは登場するのか等も注目したいところである。第1回においても「藤原とうふ店」のハチロクがさり気無く登場しているが、このような一種のおふざけ要素は投入されるようである(ある意味では1800時代のテレビ東京系の典型なのかも知れない)。
 まだ、初回でありなんとも言えないが、この時間帯に久しぶりに登場した学園ラブコメディものであり注目して見て行きたい作品である。