情報分析研究促進開発機構

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イマジネーション・リンケージ

2004年07月30日 19時32分35秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 毎週放映の30分アニメーション作品のオープニングはおおよそに言って90秒ほどの長さである。それでは、映画等ではその長さはどうであろうか。映画等ではそもそもオープニング自体が曖昧にぼかされている場合が多いし、あったとしてもその長さはアニメーションよりも長い事は間違いない。それは単純に言って映画のほうが時間的な冗長性を有しているからに他ならない。30分アニメーションと言うものは1話の中で一応、ストーリーとしての成立をさせなければならない為にそれほど長い時間をオープニングやエンディングに掛けることは出来ないのである。これは至極当然の事であって、今更、言及するまでの事ではない。
 ここで30分アニメーションと同様のオープニング構造を有しているものに年齢制限仕様ゲームのオープニングを上げる事が可能であろう。無論、全てのこれらのゲームが30分アニメと同様の構造を有している訳ではないない。「君が望む永遠」や「Clover Heart's」のように120秒程度(「Natural2-DUO-」に至っては約240秒)のどちらかと言えば映画を思わせるような作品もある(ゲームの開始時にゲーム会社のブランド名が表示されるのは映画において製作会社の映像が流れるのと同じ効果であろう)。しかしながら、例えば「GONNABE??」や「カラフルBOX」のオープニングの時間は約90秒である。
 ちなみに、このようなゲームのプレイ時間は30分アニメや映画に比べて長いと言える。短いものでも数時間、長いものでは完全にクリアするまでに数十時間を要すると言われている。無論、その長さに比例する必要があるかといえばそれは無いであろうが、このようなアニメや映画風にゲームを見せる事がこのようなゲームにおいて潮流になろうとしているかのような印象を受ける映像を見つけた。それは、まさにゲームのオープニングがアニメのオープニングとほぼ同じスタイルで編集されているものである。その一例である「まじれす」の映像の左上には6:30という時報が表示され、最初に表示される画面には「ゲームをするときは、部屋を明るくして、画面に近付き過ぎないようにして下さい」という文言が表示されるなどまさにアニメのワンシーンを見ているかのようである(無論、時報は1分経過すると6:31と表示される)。又、「キャリばん」という作品に至っては「まじれす」に示された構図に警告の文言は「テレビに~」(しかも振り仮名つき)と現実のアニメと同じ文言になっている。そしてこのオープニングで用いられている曲は「デバック!練馬戦隊キャリばん」はその曲名からも分かるように戦隊モノをイメージさせるし(現実に、曲調もそのような感じだ)、歌詞が御丁寧にも映像の下部に表示される状況になっている(最後には、「この番組は~」というナレーションのおまけ付だ)。
 この2つの例は殆ど同時期に登場しているが製作した会社は異なっている。つまり、ゲームとアニメの逆説的リンケージが進んでいるのである。以前、このBlogにおいて年齢制限仕様ゲームからアニメ化された作品について言及したが、今日取り上げた現象は作品と言う面での還流が行われている訳ではないが、技法的な還流が行われていると見る事が出来るだろう。そして、このようなゲームにプレイヤーはあたかもアニメを見ているかのような印象を受ける事になると考えられる(この種のゲームの進化?はそれをある程度可能としている)。つまり、イマジネーションレベルでのアニメとゲームのリンケージがより明確な形で進み始めていると言う事が見て取る事が出来るのではないだろうか。

アニメーションにみる近代の欲望

2004年07月22日 00時05分24秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 東京・三鷹にある三鷹の森ジブリ美術館は、極めて面白いところである。屋上の君臨する「天空の城ラピュタ」に登場するロボット兵、館内にちりばめられた各種のジブリキャラクターの存在、「風の谷のナウシカ」、「千と千尋の神隠し」等の我が国を代表する数々のアニメ作品を制作してきたスタジオ・ジブリにおいて作品が作られる背景設定を理解できる他、何故、アニメーションと言うものが此処まで進化して来たのかという点も理解出来る場所である。
 アニメーションというものは実写では難しい情景も再現出来るという利点を有している。無論、この点に関しては現在はコンピュータグラフィックス(CG)技術の発展によって実写映画においても可能な範囲が拡大していると言うことは事実である。しかしながら、アニメーションが持つ利点は損なわれていない。アニメーションの本質は複数の絵を動かすところにあるといっても過言ではない。絵はその描き方によって叙情的にも叙事的にも描く事が可能である。つまり、アニメーションには製作者の意図と言うものを明白な形において展開出来るという点も存在している。
 この観点で解釈して行くならば、アニメーションに高度な映像能力必要ないと言う事にもなる。製作者の意図は高度な映像描写を展開しなくても可能であるからだ。しかし、珍妙な事に製作者は得てしてより高度な映像描写を追及しようとする。それをこのジブリ美術館で象徴的に示していたのが、ピクサー映画の短編上映の作品に現われていた。この短編は3Dアニメで1986年から、90年代、そして現代の三作品が連続して上映される。当初は作られた人工映像という雰囲気を漂わせている。描かれているのは電気スタンドという機械であり、機械的なものを表現する事には対応できたが、人の肌のような描写は難しかった。90年代には人肌などの描写へ対応できるようになった。現在では流れる水等の描写も現実とまったく区別がつかないように描かれている。逆にその他の描写はあえて人工に作成された映像である事を示すように非現実的に描かれるほどである。現実と見分けがつかないような映像を作る必要はない。現実と同じならばそれは実写で十分に用を足す事が可能だからだ。
 逆説的には、アニメーションは実写への究極なまでの接近とアニメーションらしさの両立と言うものさえ迫られるまでに拡大してきた。この事も一重により高次なものを生み出したいとする近代の欲望が表れている。ジブリ美術館は我が国が発展させてきたアニメーションと言う存在の一種の殿堂とも言える場所である。その一方で、此処はアニメーションと言うものが示しつづける近代の欲望と言ういうものさえ現している部分なのであると言う認識も可能である。

「はにはに」な「Wind」

2004年07月16日 01時26分42秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 週末地方局深夜枠(最近では、一概に週末と見えないが)においてアニメ番組を放映している事は周知の事実である。もっとも、その視聴率たるや微々たるものではあるし、知名度もキー局がゴールデンタイムに放送しているものに比べれば知っている者なぞ殆どいないと言う状況であろう。しかしながら、この週末地方局深夜枠というものは存続し続けている。何故か?それはそれを満たす需要と言うものが明確に存在しているからであろう(さもなければ資本主義社会において成立し得ないだろう)。
 この週末地方局深夜枠は基本的に13話構成(3ヶ月)である。その中でしばしば出てくるものが年齢制限仕様のゲームをアニメ化したものだ。現在(7月~)においては「アニメ魂」という番組における「月は東に日は西に」(通称、はにはに)と「Wind-a breath of heart-」であろう。無論、このような番組をやっている事にいまさら疑問を差し挟むのも難であろう。遥かさかのぼれば「同級生2」やら「下級生」、「To Heart」、「こみっくぱーてぃー」やらが存在していたし、つい最近でも「グリーングリーン」や「君が望む永遠」、「D.C.~ダ・カーポ~」の存在を指摘する事が可能である(そう言えば「らいむいろ戦奇譚」というものもあった)。
 これらの作品が毎期のように登場してくるのは一重に視聴層がある意味において保障されているという安心感があるのかも知れない。基本的にアニメ化されると言う事は「らいむいろ」のように当初からコラボレーションが考えられていなければ人気があったからに他ならない(アニメ化されるそれらの作品は多くがPSやDCに移植されている)。つまり、それなりの視聴率は稼げる可能性があると言うことだ。もっとも重要なのは視聴率ではない。このようなアニメ作品は後のビデオ化やDVD化によって投資を回収している面がある。このような年齢制限仕様ゲームに没入する人々は得てして、その作品に関連するものすべてに対して購入すると言う性癖を有する者が多い(その作品が持つ「世界観」を全て自分のものにしたいのかもしれない)。是を考えるならば、まさに市場は保障されているといっても良いであろう。
 「月は東に日は西に」そして「Wind-a breath of heart-」それらの作品は既に年齢制限仕様ゲームと言う市場において成功を修めたといって良い。ならば、アニメでも成功するのではないか?至極最もな発想であり、それらが資本主義的な要素と結び付くことによってこの週末地方局深夜枠というもは支えられているのかも知れない。

Destinyという嫌米

2004年07月11日 15時52分03秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 機動戦士ガンダムSEEDは2002年から03年にかけて放映されたガンダムシリーズの最新作である。旧来のU.C.(ユニバーサル・センチュリー)ではなくC.E.(コズミック・イラ)を舞台とした作品である。この作品のについてはこのBlogの4月13日付においても論評しているが、本日はまったく違った視点からである。
 各種情報によれば、今年の10月からこのSEEDという世界観を用いての新しいシリーズの放映が始まるとの事である。名称は「機動戦士ガンダムSEED Destiny」という。舞台はSEEDより2年程後に設定され、アスラン・ザラと言ったSEEDで活躍した登場人物も登場することになる。前作はストーリーが急展開を示していく。当初はナチュラルVSコーディネーターという構図であったが、途中より「原理主義」と言うものへ焦点を合わせたものになって行っている。無論、米国同時多発テロ後の世界と言うものを考えるならば「原理主義」は重要な存在だ。しかしながら、その「原理」は製作側サイドの独善的な「原理」観であったように思われて成らない。それはSEEDの最終回においてジェネシスの照準が大西洋連邦の首都ワシントンに合わされるシーンがある。確かに設定では、大西洋連邦は南北米大陸を支配する国家とされているので(現在に置き換えて考えるならOAS-米州機構のような感じか。この本部はワシントンにある)この設定自体はおかしくは無い。しかし、ここでのワシントンという言葉の生々しさは推して図るべきものだ。SEEDの製作者達は第2次湾岸(イラク)戦争に対する結論の無い感情的な疑念を提示し続けていたという背景(文庫版5巻の監督のあとがきを参照されたい)を提示された状況下においてそれは、戦争と言うものを考えさせるアニメと言うよりも嫌米というアニメである事を示してしまったと言えるだろう。機動戦士ガンダムはしばしば指摘が成されるように第2次世界大戦をある意味で書き直したアニメであった。放映されたのは1979年であり、現在よりも第2次世界大戦の持つ意味は大きいものが合ったかも知れない(この25年の間に冷戦構造が崩壊するという大きな要素があった)。しかし、第2次世界大戦と1979年の社会構造と戦争観は同じではなかった。しかし、このSEEDシリーズが舞台としているのは今戦われている戦争をベースとしているのだ。アニメの中のストーリーは如実に現実の世界と重なって考えてしまうものなのだ(SEEDにおけるオーブの中立姿勢が米国への「追従」を行ったとされる日本外交への批判以外の何者であろうか)。
 SEEDの世界には米国を象徴する用語が数多く登場する。ニュートロン・ジャマー・キャンセラーを搭載したガンダムである「フリーダム」と「ジャスティス」は米国がその行動原理としている言葉である。こレらの言葉をどのようにSEEDの文脈において語られたかは現在、語るべきものではない。しかし、この文脈に新しい言葉が付け加わる事は間違いない。
 Destiny
 新しいシリーズに冠されたその名前は、米国の西進の標語「Manifest Destiny(明白なる運命)」に起因している事は疑う余地が無い。確かにDestiny単体では運命と訳すのが正しいのかもしれない。しかし、各種情報によれば世界観的にはSEED世界と変化は無い。世界はナチュラルとコーディネーターに分かれたままなのだ。これは米国が米国同時多発テロ後に規定した世界観である米国の味方かそうでないかと同じような構図だ。つまり、この同種の構図があるということは、現実世界への肯定か否定になるという事は容易に想像できる。そして、その中でのDestinyには「フリーダム」や「ジャスティス」と同様の意味付けが成されるのではないか。米国を象徴する言葉は、今では嫌米の標語としかなり得ないそんな時代がアニメ界に訪れているのかも知れない。

The World Ⅲ~冬のソナタ~

2004年07月04日 03時02分12秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 何故か、毎日のように紹介するようになってしまっている「The World」シリーズだが、本日の紹介内容は、我が国の多くの冬ソナファンを敵に回すかもしれない内容だ。何よりも、日韓文化交流の象徴であり、「ペ・ヨンジュン」ブーム(漫画家かわぐちかいじはペ・ヨンジュンが我が国の過去の名俳優達の面影を有していると言う点を指摘している)に象徴される「冬のソナタ」が「内輪受け」的自己世界紹介の「The World」で紹介する事に疑問を差し挟む向きも多いであろう。これから、此処において記載する事項はあくまでも仮定にしか過ぎない。内容は小生の想像による帰結であり、あらゆる「冬のソナタ」に関する情報を保障するものではないことも先に指摘しておく。
 「冬のソナタ」は2002年の1月から3月にかけて韓国のKBSテレビにおいて放映されたドラマである。我が国ではNHK(「日本ひきこもり協会」ではなく「日本放送協会」)がまずBS放送で放映し、人気が出た為にその後地上波放送でも放送されている(7月3日放送分が第13回)。内容は要約してしまえば、女一人と男二人で構成される三角関係である。高校時代に付き合っていた男を事故で失った女が、10年後にその亡き男と瓜二つの男に出会うが、その時、女は幼なじみの男と婚約していた――。三角関係を題材とした愛憎劇は別段珍しいものではない。ドラマとしては良くある設定と言えるかもしれない(いや、それ以前に現実においてもだ)。しかしながら、冷静に見てみるならば、この三角関係と内容は何処かで見たような内容ではないだろうか。特に、年齢制限のゲームを2001年頃にプレイした人々にとってはある作品の名前が頭を過ぎる筈である。
 「君が望む永遠」――2001年において年齢制限ゲーム業界において最も人気を獲得したと目される作品だ(後にメディアミックス化され、小説版やアニメ化が成されている)。健全な一般人には無縁であろう(一応、週末深夜地方局枠でアニメが放送されていたが)この作品の内容を概括しておこう。この作品は二部構成である。第一部は高校生の男女が出会い愛を育んでいく過程、第二部は高校時代に付き合っていた女は事故によって、昏睡状態になり、3年後、女が目を覚ました時にその男はその女の親友と恋愛関係にあったというところからストーリーが始まる。男一人と女二人によって構成される三角関係である。「冬のソナタ」と「君が望む永遠」。両者は恐ろしいほどの類似系を示している。まず、事故によって愛する者を失う事から話が始まる点(差異があるとするならば、「冬のソナタ」が事故が冬に起き、「君が望む永遠」の事故は夏に起きる点だろうか)、時を経て全ての関係が変化してしまった状況において、昔の関係が束縛を与えようとする点(重要な点は、両作品ともに途中まで記憶を失っている点もポイントだ)、現在の愛する存在が身近に存在している点(付言するならば、「冬のソナタ」の女は優柔不断であり、亡き男の面影を有する男は微妙に天然系だ。これは「君が望む永遠」の優柔不断な女と天然系の昏睡状態の女と微妙な連関を感じさせる)。要するに男と女の立場が違うだけで本質的に同じ構造を描き上げているに過ぎない。無論、「冬のソナタ」はドラマであるからストーリーは一本である。しかし、「君が望む永遠」はゲームでありストーリーは複数だ(無論、ゲーム中には二人の女以外の女性も登場する)。つまり「冬のソナタ」的な「君が望む永遠」を体験する事は可能である。
 この両作品の類似性から、単純に放送時期が2002年の「冬のソナタ」が「君が望む永遠」のパクリであると断言する事は出来ない。ドラマの制作に掛かる時間がどれほどのものかは浅学にして分からないが、2001年8月に「君が望む永遠」が発売されていた時にロケが始まっていたとも考えられるからだ。しかし、何らかの影響を与えた可能性を完全に払拭する事は出来ない。余りにも内容に類似点が多い為だ。この両者は人気が出たと言う点にも着目すべきかも知れない。「冬のソナタ」は音楽がドラマの内容と適合しているという話があるが、「君が望む永遠」もその音楽は内容とマッチしたものであり評価が高い。そして、「冬のソナタ」は世間の中高年の婦人方に爆発的人気であり、「君が望む永遠」は世間のヲタクの人々の間で知らぬ者が無い存在になっている。この構図は、先述した通り女一人男二人の三角関係か、男一人女二人の三角関係かの相違でしかない。ここから考える事が出来る点は、世間の婦人方とヲタクの間の相違と言うものは殆ど無いのではないのかという点だ。この構造は人間の本質を抉り出しているような印象を受ける。両者において区別可能な点があるとするならば「冬のソナタ」は実写であり、「君が望む永遠」はCGであるという点だけだろう。「冬のソナタ」が「君の望む永遠」のパクリであるかは分からない(但し、「マトリックス」が「攻殻機動隊」にインスパイアされている事は有名であり、同様の関係はあるかも知れない)。しかしながら、一つの真実だけは言及する事が出来るだろう。三次元か二次元かの相違こそあれ、2つの作品には連関が背景レベルで存在し、それが一般人にも自己世界「The World」を構築させ得ると言う事だ。

The World Ⅱ~NHKにようこそ~

2004年07月02日 23時57分10秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 NHK、それは日本国民から受信料の名の下で料金を徴収し放送を行っている巨大放送機関(世界最大という話もある)であると国民からは認識されている(しばしば、国営放送局と誤解されているが、NHKは国会の予算承認こそ受けているものの国営ではない)。その組織が「日本放送協会」であるならばだ。
 今日、「The World」で取り上げるNHKはそのような組織ではない。
 「日本ひきこもり協会」、略してNHKだ。
 ひきこもりが社会において重要な問題である事は周知の通りである。ひきこもりというと怪しい雰囲気をかもし出しているが、その怪しさを極大化したのがこの「NHKにようこそ」という作品ではなかろうか。本書(小説、漫画)が出版されているのは角川書店である。本書の内容は一読すればわかるが、相当に危ない世界である。角川書店が「ネガティブキャンペーン」を張るのも理解できると言うものだ(?)。昨日取り上げた「げんしけん」以上のものを展開出来ている背景には、角川書店と言う存在を指摘出来よう。講談社が「マガジン」に象徴される「表」のサブカル世界に絶大な権勢を誇っているとするならば、「少年エース」を核とする角川書店は「裏」のサブカル世界の雄である。この「The World」で紹介している時点で「裏」な訳であるが、裏を「表」が演出すると「げんしけん」になり、「裏」が裏を演出すると「NHKにようこそ」に成るのではなかろうか。ある意味において一線を超えているのである。この作品で笑える人はある意味において社会から相当に遊離した存在に違いない。
 NHKは日本引きこもり協会と言う存在であり巨大な陰謀を展開している。偉大な妄想だ。しかしながら、ひきこもりにおける最大の友はなんであろうか。それは、妄想ではなかろうかと考える。ひきこもりの現世復帰において問題になるのは対人コミュニケーション能力にあると言っても過言ではない。そしてコミュニケーションは人間がある意味で常に行っている行動だ。では、ひきこもりにより対人コミュニケーションが出来ない者はどのようにコミュニケーションをとるのか?それは、妄想との対話に他ならない。そして対話を長引かせる為にはその妄想は大きな程、良いものなのだ。この妄想に付き合うのか付き合わぬのかは「The World」の人間が選択すべき事象だろう。

The World Ⅰ~げんしけん~

2004年07月01日 21時02分22秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 この世の中には様々な人々が住んでいる事は周知の事実だ。我が国の偉大なる特質が多様な文化を認めている事であることは以前にもこのBlogにおいても論評した。文化の多層構造が我が国の新しい輸出産業を構築しようとしているとも指摘は可能かもしれない。この輸出産業とはアニメ・ゲーム・マンガ等の世間一般で言うサブカルチャーである事は現在のところ否定する余地は無い。このサブカルチャーにおいて現在生じている構造は「内輪受け」とでも言う構造だ。この世界観はその世界に居住する人間においては極めて好感を持って受け入れられる。何故ならば、其れは日常であるからだ。しかしながら、その世界に住まない者にとってはそれは理解できぬ「鵺」のようなものだ。
 この「内輪受け」、一種の自己世界「The World」を紹介していくのが、この「The World」シリーズである(Ⅰなのは一回目だからだ)。今回紹介するのは講談社アフタヌーンKCから出版されている「げんしけん」だ。現在のところまで4巻まで発売されている「げんしけん」だが、内容的に言えば多くの大学に存在するであろう「ヲタク」系サークルを極めて写実的に描き出している点が特徴である。このようなサークルが現実にこのような行動を取るかは別としても、其処で描かれる描写自体にはその世界に住むものにとって見慣れた(あるいは、何処かで一回は見たことのある)光景に違いない。取り上げられる内容もコミケ(に類するイベント)やコスプレ、エロゲー等を包括的に網羅している。
 しかしながら、この漫画は一般人にとってどれほど理解され得るものなのだろうか。確かにこの漫画には一般人である春日部が登場する。この漫画において一般人春日部の存在は、客観視を助ける役割を果している。つまり、世界の住人であるならば春日部がヲタクに対して発する言葉の数々に嗜虐を感ずる事であろう。何故だか良く分からぬ事だが、この世界に住む人々にはそのような性癖の人々が多い。サブカルチャーが我が国の偉大なる輸出品になろうとしているにせよ、世間一般の視線は肯定的とは言い難いからだ(少なくとも10年前に比べれば世間の「一般人」の水準も、よりこの世界に接近したものになっているのだが)。つまり彼らはそのような環境に慣れているのである。一般人からすれば春日部の立場に自身を投影すれば良いのかも知れない。もっとも、「健全な」人々はこのような漫画は読まないのかもしれないが奇特な人はこの投影によってヴァーチャル的に体感する事が出来る。
 その点に関する限り、この「げんしけん」はバランスが取れているのかも知れない。だが、ゲーム「こみっくぱーてぃー」を筆頭とした同人誌」製作型恋愛シミュレーションゲーム、「花右京メイド隊」にも登場するコミケ等、現在のサブカルチャーにおいて「一般」と隔絶した象徴を展開する事は必須の事項として存在している。其れが良い事かは判断が分かれるところであろうが、これを要約すれば商業作品の同人誌化である。無論、同人ゲーム「月姫」、個人製作アニメ「ほしのこえ」のように同人から商業へと発展した事例もある以上、この流動性というものは一定の評価は与えられものなのかも知れない。「The World」を解釈する課程においてこのような同人化する商業作品と商業化する同人作品の構造をより着目する必要があると言えよう。