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日本は何に「さよなら」を言うのか?

2004年11月29日 00時47分58秒 | 世情雑感(妄想政治論)
 「グッバイ・レーニン」という映画がある。当初は別の項目で分析しようかと思ったが、HPの世情雑記には掲載出来ないような好き勝手な政治論を記載する為に新設した「妄想政治論」の第一回で分析してみたいと思う。この映画は、東ドイツ(ドイツ民主共和国)と言う国家が崩壊していく時期に、その過程を知らない心臓発作からショック厳禁の自分の母親(理想的社会主義者を演じている?)に東ドイツの崩壊を気付かれないようにするために主人公が東奔西走する内容である。つまり、最後の社会主義者に捧げる挽歌と言ったものだろうか。この内容を考えるならば、この「グッバイ・レーニン」と言うのは面白いネーミングである(作品中にはヘリコプターで解体されたレーニン像が運ばれていくシーンもある)。昨日までは社会的地位があった人々がその地位を失い、怠惰な文化とされていたものが常識として跋扈する。その常識が当たり前になっている現在では笑い話のように見えるが、それは我々が西側と呼ばれていた世界に住んでいるからに他ならない。
 しかし、我々が生きている日本という社会は果たして常識なのだろうか。しばしば、我が国の事を世界最後の社会主義国家と表現される。それはナショナル・ミニマムという名の下に1940年代初頭の戦時下体制を60年近くが経過した現在も継続する結果の平等主義と官僚体制に起因している。ある意味で我が国は世界で最も成功した社会主義経済体制の上に存在しているのである。社会主義の権化と言われるマルクスが我が国を見たらまさに「地上の楽園」、「社会主義の理想郷」と表現するのではないだろうか。この社会主義国家の現実は冷戦体制の崩壊によって我が国でも少しずつ瓦解してきている。政治体制では1993年に自民党の一党体制が崩壊し、それ以降は連立体制で政権運営が行われているし、経済も日本的美学とされた年功序列、終身雇用が終焉し(その過程で、銀行の国営化という社会主義化が達成されたことはある意味で皮肉だ)、欧米流の経済体制へと変わりつつある(その中で日本的経営と組み合わされた新日本型経営と言う現実が現れつつある)。そして、現在の三位一体改革や郵政改革は官僚制という部分へとメスを入れている。
 1年と言った短い期間での急激な改革は無かったが、日本も着実に変わって来ていると言えるだろう。十年前と比べれば我が国は別の国と言えるかも知れない。あと10年もすれば1990年代と言う「失われた10年」を笑い話として見る時代が来るのであろう。しかし、日本は何に「さよなら」を言うのであろうか?日本は個人によって変わる国ではない。多くの改革は個人の偉業と言うよりも国民の総意と言う部分にあると言えるのではないだろうか。戦争責任も1億総懺悔で乗り越え、誰に言われることも無く社会主義国家を建設した。ならば知らないうちに新しい国家へ変貌していてもなんら驚くには当たらないのではないだろうか。きっと、我が国は何者にも別れの言葉を言わないという国家なのであろう。

待たれた未来への絶望

2004年11月28日 13時45分15秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 宮崎駿監督の最新作「ハウルの動く城」の中でヒロインのソフィーは「待ってて、私、きっと行くから。未来で待ってて」と言うシーンがある。このシーンはハウルとソフィーの宿命的連関と言うものを表現する部分と解釈されるが、別の見方も可能ではないだろうか。この映画についての分析は近日中に小生のHP内のG2分類キネマ雑記内で詳細に行う事として、今回のBlogでは映画の感想に近いものを掲載してみたいと思う。
 「ハウル」の舞台は概ね産業革命以降だけれども、近代国家が必ずしも誕生したとは言い切れない状況を世界的な背景としている。其の中で「魔法」と「科学」が並存している。しかしながら、「魔法」は新しく登場してきた「科学」によって徐々に隅に追い遣られようとしてもいる世界である。この二つの存在で対照的に描かれるのが「火」である。「魔法」の火は火の悪魔カルシファーに象徴され、「科学」の火は都市を焼き払う巨大な飛行戦艦(戦略爆撃機)によって現される(ドゥーエの戦略爆撃論の影響からか飛行戦艦に護衛戦闘機は存在していない)。この作品を作った宮崎監督からすれば、この時期は一種の人間の選択であったという意味が存在しているのかも知れない。周知の通り、現在の我々が住む世界には魔法は存在していない。「科学」に象徴される火は核兵器に象徴されるこの世界を滅ぼす事が出来る規模にまで発展している。この映画の中でも巨大な飛行戦艦が都市を戦略爆撃するシーンがあるが、そのシーンはアフガニスタン空爆や第2次湾岸(イラク)戦争で大量な爆弾を投下していくB-1ランサーやB-2スピリットをあたかも想起させる(映画内のシーンで考える限り、報道映像等の其れに類するシーンを明らかに参考にしているようだ)。無論、戦略爆撃というものは日本人の潜在意識に強く意識されている。それは我が国が先の大戦に於いて日本本土を蹂躙したB-29スーパーフォートレスの空襲によって無条件降伏に追い込まれたという現実をその時代に生きたものでなくとも「記憶」として受け付いているからだ。だからこそ、「科学」の火は戦略爆撃という形で表されるのである(「科学」は使い方次第で人類に破壊も福音も与えるから、「科学」が人々の家を照らし出す無数の灯火であっても問題は無い筈なのである)。
 一方の「魔法」の火と言うものは、一種の伝承や神話と言ったものの延長線上にある。現実には、物質的に「魔法」は存在していないが、精神的に内在して存在しているものである。無論、この世界には魔法は存在していないが、「魔法使い」や「魔女」という言葉が未だに存在しつづけ、「ハリーポッター」やこの「ハウルの動く城」と言った「魔法」を題材にした作品が人気を集めつづける事自体が、人々の心の中に「魔法」が精神的に残りつづけている事を示している。
 この作品は、「科学」へ仮託された未来への期待というものが存在していた時代を舞台にしている。しかし、「科学」が万能とされた時代に現出したのは戦略爆撃そしてその延長線上に存在した互いの国が相手を殲滅するだけの核兵器を保有する事によって平和を維持しようとする相互確証破壊(MAD)という狂気の世界であった。我々が生きる現在と言うものは宮崎監督にしてみれば「絶望」的な世界でもある。だからこそ、人々の精神の中に存在しつづける「魔法」という存在へ訴える事による現実(世界、国家)への懐疑という側面が強調されてくるのである。宮崎監督の作品には束縛されない「個」という存在が多く存在している(「紅の豚」のポルコ・ロッソ等は其の代表だろう)。未来が絶望に染まらない為には「個」という存在を重視しなければならないというメッセージがこの「ハウルの動く城」には包括されていると言えるのではないだろうか。

ハンドメイドの小宇宙

2004年11月24日 22時07分20秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 昨日のBlogで紹介した「雲のむこう、約束の場所」の監督である新海誠は「ほしのこえ」で鮮烈なデビューを飾った。「ほしのこえ」は石原慎太郎東京都知事が「この知られざる才能は、世界に届く存在だ!」と絶賛しておりアニメーションやサブカルチャーに関する様々な賞を受賞した。何故、新海誠が絶賛されたのかと言えば、彼の作り上げた作品が「ハンドメイド」であったからに他ならない。小説、漫画は早くからハンドメイド(同人)が行われていたし、ゲームというジャンルについてもそれは同様であった。しかし、コンピュータ技術の急速な発達はアニメーションを個人で作成できる状況にまで至ったのである。「雲のむこう、約束の場所」もある意味ではこの「ほしのこえ」の延長線上に存在している。無論、規模が「ほしのこえ」の25分から85分へと拡大している為に個人製作ではないが基本的に彼の個人作品であると言っても過言ではないだろう。
 新海誠という人物は会社員生活の後に映像クリエーターになった(一部情報では著名なPCゲームメーカーである日本ファルコムの社員であったという話である)。しかしながら、彼は奇妙な作品にもそのアニメーションを提供している。年齢制限仕様ゲーム製作会社であるminoriの作品に数々のアニメーションを提供しているのである。彼がminori作品でアニメーションを提供しているのは「BITTERSWEET FOOLS」、「Wind-a breath of heart-」、「はるのあしおと」である。彼をこの年齢制限仕様ゲーム界で名を知らしめたのは「Wind」のOP映像であろう。この作品が制作された2001年当時のこの種のゲームのOP映像は端的に言って電影紙芝居であった。しかし、彼の作ったOP映像は躍動性がある映像として一躍勇名博する事になる。ゲーム紹介HPである「SOFTBANK GAMERS」(現ITmediaソフトバンクゲームズ http://www.itmedia.co.jp/games/)のダウンロードサーバーを機能停止に追い込んだのであるからそのクオリティが衝撃的であったことが分かる。彼とminoriの関係性は所謂、「業界人の繋がり」があったからと思われる。このminori作品の映像を見ても彼のアニメーションの質は向上している事がわかる。宮崎駿の後継者と言われるほどの背景描写に加えて登場人物の動きや動的描写に「雲のむこう、約束の場所」で獲得したと思われる技法が散見されるからだ。
 新海誠は間違いなく、個人製作のアニメーションの敷居をより簡単なものとし、個人製作でも商売作品を作りえることを年齢制限仕様ゲーム「月姫」同様に証明した。この部分は極めて評価できる部分である。「ハンドメイドの小宇宙」とでも言うべき彼等の作品群は21世紀における新たな芸術の表出の形と言うものを世界に提示した点において大きな役割を果していると言えるだろう。

グレイゴーストのある風景

2004年11月23日 23時26分10秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 YF-23グレイゴースト――このYナンバーを付された米国の試作戦闘機は、冷戦後の大空の覇者を選んだYF-22との次期主力戦闘機選定に敗れて歴史の影に姿を消していった。このグレイゴーストが大空を舞いロシアのスホイ27戦闘機に追撃を受ける。このような状況は現実には存在出来ない。この情景が描かれているのは新進気鋭の映像作家新海誠の最新作「雲のむこう、約束の場所」である。この映画についての分析は近日中に小生のHP内のG2分類キネマ雑記内で詳細に行う事として、今回のBlogでは映画の感想に近いものを掲載してみたいと思う。
 米ソ両大国(作中では「ユニオン」と「連合」)によって分断されたもう一つの戦後。それは現在の日本と言う国家を考える上でありえた現実である。歴史の針が微妙に触れていれば、この映画が背景として用いた世界観は現実に存在していたのかも知れない。分断国家にとっての補完とは統一国家の形成にあることは旧東西ドイツや南北ベトナム、現在の朝鮮半島を見るにつけても明白である。一方でこの映画が描くのは少年と少女の「恋愛」の補完の側面を有している。そして、少女の存在はふとした事から長い眠りへと陥ってしまう。この少女の眠りは北海道に立つ巨大な「塔」に象徴されるこの世界の補完と密接な関係がある。三つの補完を成し遂げる為の最大公約数がこの映画が導き出した結論だ。この結論は種明かしになってしまうかも知れないので言及しないが、最大公約数が平成と言う現実を描いているのかも知れない。我々が生きる「現実」と言う世界、少年と少女の関係の補完、そして日本統一という補完を成し遂げる為に失うものは最小限度で無ければならない。それがこの映画の結論だ。
 グレイゴーストはステルス性能の極限を進めた戦闘機だった。しかしながら、其の代償として空戦能力は現行の機種と比べて悪かったとも言われている。米国空軍が現実に選んだのはステルス性能と空戦性能の最大公約数を有していたYF-22(現FA-22Aラプター)だった。ありえたかもしれない現実、それはもう一つの世界「平行世界」が存在する可能性を秘めているとも言う事が出来るかも知れない。表面的に類似している世界であっても、其の内面はこの我等生きるこの世界とは大きく異なっているのであろう。平行世界はSFで語られる世界ではない。IFというものも一種の平行世界を構築しようと言う作業でもあるからだ。ありえたかもしれない世界と其のありえたかもしれない世界を現実へ戻そうとする「補完」作業。その作業を「塔」というランドマークによって果させようとしている。この「塔」のモデルと言われる塔は東京都某区の清掃工場の煙突であると言われている。「塔」は存在している時は大きな影響を周囲にもたらしているが、なくなってしまえばそれは急速に人々の記憶から失われていく。
 現実は最低でもこの世界を生きる人々の意思の集合体であり、不作為であれど最善であるが小生の認識である。グレイゴーストは現実世界では、上述の結果として歴史と言う灰色の闇に消えていった。例え205系の埼京線が走っていて、新宿から某区の清掃工場の見える方向に「塔」が立っていようともグレイゴーストのある風景は「平行世界」でしか存在し得ない。

人類の代替可能性

2004年11月17日 01時24分43秒 | 世情雑感(社会情勢)
 NHKスペシャル「地球大進化~46億年・人類への旅-第6集ヒト果てしなき冒険者-」の取り上げているテーマは極めて面白い。現在のところ人類はホモ・サピエンス・サピエンスという単一種族のみが地球上に存在しているが、この単一種族へ至るまでには19種類の人類が登場しては消えていっているという。例えばほんの3万年前までホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)が並存して存在していたのであるが、氷河期の最盛期に言葉を我々ホモ・サピエンスと異なり身体的特徴から自由に操れなかった為に生存する事が出来なかったという。しばしば、人類はホモ・サピエンスは選ばれた人類であると言う意識があるが、実態ではそうでもない。ネアンデルタール人の外見は殆ど変わらず、この言語能力という点の自由度以外において人類と同等であったと言えるだろう。つまり、ほんの小さな身体的特徴によって人類の命運は決まっているとさえ言えるのかも知れない。
 選ばれた人類というのはあたかも人類が生物の頂点に君臨しているかのような印象を与える。しかし、人類の歴史において多くの時期に於いて代替可能性というものが存在していた事も事実である。ほんの3万年前まではネアンデルタール人という代替可能性が存在していた。その代替可能性が失われているのは人類文化の安定性(類似種族同士の闘争がないという点において)を保障する一方で、疫病や気候の大規模な変動で人類と言う種族が滅び去ってしまうという可能性をも示している事になると言えるのではないだろうか。人類の優越性というものは自滅との表裏一体の関係にあるといっても過言ではないであろう。
 しかしながら、人類はその代替可能性というものを現在獲得しようとしている。それは自然の進化によって起こっていると言うよりは人工的なものだ。スポーツ選手が薬物等を用いて肉体を強化しようとする事はその現実的側面であるし、将来的には遺伝子改良等による改良された人類が人類自らの手で生み出される可能性は十分にあるのである。毎週土曜日に放送されている「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」は遺伝子改良されたコーディネーターと通常の人類ナチュラルとの戦いを描いている。このような闘争はホモ・サピエンスとネアンデルタール人との間で起こった事かも知れないし、今後起こり得る現実かもしれない。人類の代替可能性は現在のところ存在しない。それは文化の発展に貢献してきたが、人類の存続と言う地球的規模で考えるならば別の側面も指摘出来るだろう。無論、人類が地球規模で拡散した現在において地球上での人類の変化というものは生まれてこないと言う指摘も出来るかも知れない。人類の宇宙開発によって地球外へ人類が進出していけば全く違った人類が生まれる事になるかもしれないが、これは将来に属する話でしかない。地球規模で考えた人類の代替可能性という問題は生物学的に考えると極めて面白い事実である。

現実が先か、妄想が先か

2004年11月15日 00時09分58秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 オタクと呼ばれる人達は得てして「変」或いは「異質」として描き出される。例えば本日のEZTVで紹介されていたオタク達はその典型かもしれない。しかし、彼らは確かにある面では行き過ぎかも知れないが、ある一面では事実を描き出しているとも言えるのだ。「気持ちよくない」という表現はEZTVのキャスターのセリフだが、正論ではある。何故、日々の食事を抜かしてまでして秋葉原にやってきて、「ギャラクシー・エンジェル」のバニラのフィギュアを買って帰るのか?常識的に考えるならば疑問である。しかし、彼らはオタクであるがこのような行動を行うのが全てオタクという訳でもないのである。彼らを現実を見ていないであるとか、妄想の世界に生きていると簡単に断じてしまうが、それも間違っているだろう。彼らが現実の世界を生きられず、妄想の世界に逃避することになったとするのであるならば現実世界においてそれなりの理由が存在していたと考えることが妥当であるとも言えるからだ。
 いや、それ以前にこのような議論を展開すること自体が無意味とも言えるかも知れない。このようなオタク文化が日本のGDP(国内総生産)の0.1%にしか寄与していないと仮定してもその近年の取り上げられ方はあたかもGDPの5%には相当しているかの印象を与えている。オタクという文化が開花したのは純粋にんネットワークと言う技術革新によって個として存在していたオタクが集合体として認識できるものとなったからに他ならない。秋葉原には妄想が渦巻いているが、秋葉原が妄想によってのみ構成されているわけではない。秋葉原は未だ電脳街としての側面が残存しているし、現実の街として存在している。妄想とは人の脳内に宿るものであって街に宿るものではない(例え、街全てが「滅んでも良い国」が存在しているように思えたとしてもだ)。秋葉原は日本の文化をある面において代表する街であって妄想の街ではない。