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個人主義の超現実

2004年10月29日 15時34分39秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 秋の園遊会において天皇陛下は国旗・国歌問題に関して「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と仰せになった。このお言葉は天皇陛下が日本と言う国家において無意味且つ無背景に進んでいるナショナリズムに対して望むべきものではないという見解を示したものである。まさに民主主義国家日本の象徴として卓見としか言えぬお言葉である。しかし、国歌への「愛」と言うものの高まりの半面で個人への「愛」も究極的なレベルにまで進化しようとしている。それを端的にしめしているのが、ゼガが12月2日のニンテンドーDSの発売に合わせては発売する「きみのためなら死ねる」であるし、本日発売された年齢制限仕様のゲームである「こんねこ」である。
 「きみのために死ねる」(公式HP→http://kimishine.sega.jp/)は、ぱっとしないふつうの男の子である主人公が一目ぼれしたナイスバディの魅力的な彼女にいつか彼女に振り向いてもらいたくて、色々な試練に立ち向かうという内容である。そんな設定は何処にでもあるだろうと言う思われる方も少なくは無いかもしれない。多くのゲームやアニメ、漫画における男の主人公(ヒーロー)はかくあるものであると主張されるかもしれない。この一種の「彼女」を神格化しその対象に対して無批判で且つ許容的な姿勢は「ふしぎの海のナディア」のヒーローであるジャン以降、ヒーロー像として確定しているのだという意見すらあるのは事実だ。しかし、ここで重要なのは「きみのために死ねる」の持つ題意がこの主人公の実質的目的と背反するものであると言う点だ。この主人公にとって彼女を振り向かせるのが目的であり、その目的は生きている事を前提としている。死んでしまえば、彼女が自分に対して振り向いているのかなぞ分からないからである。つまり、主人公は生きなければならないのであるから題名は「きみのために生きる」と本来はすべき所であろう。にもかかわらず、我々はこの題名をあたかも許容出来得るもののように考えてしまう。更に、注目すべき点は、この行為自体が無償であると言う点である。「きみのために死んだ」としても彼女は何らかの代償を払う必要はない。つまり、これは主人公が自己妄想的に遂行している行為と言う事になるだろう。その一方で、この「きみのためなら死ねる」は、現在の女性によって守られる男という作品が多い中においては久々の男性が女性を守ると言うパターンである。この流れ自体を一種の男性優位回帰へのナショナリズムの反映と解釈できなくも無い事もまた付言できる。
 一方の「こんねこ」だが、題名だけではなんだかよく分からない。しかし、この作品のサブタイトルは「She continues loving him over and over again.」であり、和訳(意訳)するならば「私は何度でもあなたのことを愛し続ける」となる。このサブタイトルについても多くの人は、それは当然の内容ではないかと言うかも知れない。しかし、この英文を解釈して見ると片務的な愛の提示でしかないとも読み取れる。愛しているのはShe(彼女=和訳では私)であり、彼(和訳ではあなた)からは愛を必ずしも求めていないと言うように理解できる。更にover and over(同、何度も何度も)は連続性というよりも何らかの障壁を越えても更にと言うように読み取れなくもない。ある意味で七生報国に近いイメージで解釈されうるものである。つまり、このSheは例え彼から愛を得られないとしても盲目的に愛し続けると解釈できる。この構図は先に「きみのためなら死ねる」における主人公の行動と同様のものと解釈出来るのではないだろうか。無論、後者の「こんねこ」は年齢制限仕様の恋愛シミュレーションであり、プレイヤーが「彼」を担当する以上、彼の側から彼女を愛する必要性は必ずしもないと言う事は指摘できる物である。
 この両者が示すのは人への盲目的な愛である。無論、人類愛は否定されるべき物ではない。人類愛が今より大きいものであるならば世界はより平和であると言うような議論は一概に否定しきれるものではないからである。しかし、盲目的な愛というのは必ずしも正常な状態ではない。それは国家への狂信的なまでのナショナリズムや宗教原理主義者が奇異に思われるのと同様である。この二作品から今日のBlogは個人主義の超現実(ちなみに、ここで言う個人主義は世間一般で用いられる個人主義とは異なっている事は上述の議論から理解頂けると思う)を考えて見たが、この作品以外にも世間一般にはこのような構図が多く存在している事は間違いないであろう。

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