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「ルパン三世 天使の策略」に見る真の「反米」

2005年07月23日 14時13分56秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 昨日、日本テレビ系の「金曜ロードショー」で放送された「ルパン三世」シリーズの最新作「ルパン三世 天使の策略」が放映された。この作品は「ルパン三世」シリーズの中では久しぶりの好作と言えるだろう。過去の「ルパン三世」の作品の様々なエッセンスをふんだんに盛り込んでいる(中には往年の「ルパン対複製人間」や宮崎駿監督の「カリオストロの城」等をモチーフした情景もある)。そして、不合理を合理として見せてしまう「ルパン三世」の中で珍しく不合理の合理を論理的に説明しようとしている点は注目に値する。作品全般を通してネタがふんだんにあるので(オリジナルメタルが「真実の目」であるとか)一度目は楽しみながら見て、二度目はネタを解きながら見るというのも悪くは無いかもしれない。しかし、本日の題名にあるように最も着目すべき点は「反米」という側面にある。
 アニメーションにおいて「反米」という政治思想を盛り込む事は別段に批判されるべき事ではない。しかし、それをどう描くかには批判すべき要素がある。例えば、小生がこのBlogを通してしばしば批評する「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」等は現実認識の錯誤という点で「反米」の描き方を誤った例の一つだ。この「ルパン三世 天使の策略」はその反対の例として名を残す事は間違いが無い。この作品はグレーム・レイク空軍基地(通称、エリア51)にある墜落したUFO(1947年のロズウェル事件の物と言う設定になっている)の破片(オリジナルメタル)をルパン一味が盗み出すところから始まる。もっとも、この破片と称されるものは米軍がプラズマ兵器用に開発した新素材で情報隠匿の為に宇宙金属というフェイクを作り上げているという設定になっている。そして、無論、それを単体では加工できない(斬鉄剣より硬い)ので、それを加工するのに必要な液体を持つ反米テロ組織「ブラッディ・エンジェルス」が付狙うのである。「ブラッディ・エンジェルス」とルパン一味からオリジナルメタルを奪回するように銭形警部に依頼するのが眼鏡をかけた国防総省の高官である。
 プラズマ兵器に、反米組織とまさに現代の世界情勢を現す情景である。プラズマ兵器の存在は現在米軍の中で研究開発が進められている兵器だ。無論、建物を破壊せずに内部の人間を殺傷するという規模の物ではなく、内部の人間の行動を阻害させるという非致死性兵器というレベルではあるが。これは第2次湾岸(イラク)戦争後のイラクの治安安定化作戦等の過程での要望から開発が進めらているものだ。反米組織「ブラッディ・エンジェルス」の幹部ポイズン・ソフィーは彼氏をアメリカが起こした戦争(第2次湾岸戦争の事か)で作戦を優先した米軍の誤爆によって戦死するという背景があって反米組織に入っているし、「この国(アメリカ)は力を持ちすぎた」と言わしめるのである。この辺りは反米組織がイスラム原理主義という設定になっていないだけで(「亜マゾネス軍団」と称されるが、どちらかといえば右派原理主義的側面か)殆ど、現実世界の構図と変わっていない。更に、この「ブラッディ・エンジェルス」のボス、エミリーが乗る野戦車は米軍のハマーであり、この辺りは一時報道されたアルカイダのオサマビン・ラディンが米軍の野戦服を着ていたという隠喩を込めているのだろう(「ブラッディ・エンジェルス」の部下が使う短機関銃に至ってはイスラエル製のUZIである)。そして、国防総省の眼鏡の高官は明らかに現ブッシュ政権の国防長官ラムズフェルドなのである(つまり、ここでソフィーの彼氏を殺す事になった命令を出した張本人が描かれる)。
 結局のところ、反米という背景設定でルパン一味、銭形警部、「ブラッディ・エンジェルス」がオリジナルメタルを巡ってどたばたを繰り広げるわけであるが、ここで重要なのは、オリジナルメタルを開発した米軍はオリジナルメタル関係の技術を全てを知っているという事である。「ブラッディ・エンジェルス」は米国の敵対国(核兵器を遥かに凌駕する兵器を開発中と一時期主張した北朝鮮の事だろうか)へオリジナルメタルを売却しようとするが、ここで売却が成功して技術が拡散すれば(原爆開発においても中心となった爆縮レンズ技術は米国からソ連へスパイが持ち出した事によって技術拡散したとも言われている)、新たな冷戦構造のようなものが生じる事になったかもしれないが、ルパン一味は基本的に政治思想の無い存在として描かれるので(前述の「この国は力を持ちすぎた」発言の後で、ルパンは「そんな事はどうでもよい」という発言をする)結局のところは米軍から技術は流出しないのである。つまり、反米といいながら現実世界において世界最強は米国なのだという一般常識を持って作品が構築されているのである。更に、作品の最後においてエミリーが持っていた偽物のオリジナルメタルを新海調査艇「しんかい6500」まで持ち出して賢明に探す銭形警部の行動は日本が米国の行動に賢明に追従しようとしている現実世界をある意味で面白おかしく演出している。
 この「ルパン三世 天使の策略」はまさに反米という存在が実際は如何に喜劇であるかというものを描いている。思想としての反米は理論的に成立しうるが、行動としての反米はある意味でとことんまで喜劇なのである(ある意味で米国の全て手の内で「反米」とは転がされてしまうような存在なのだ)。それはこのルパン三世という喜劇アニメによって題材になったという事でよく理解出来よう。つまり、反米を生真面目に取りう上げるのではなく喜劇化することによってこそ真の「反米」は演出可能なのである。この作品をルパン三世シリーズの中でも面白さに仕上げた監督の宮繁之の今後の活躍にも期待が持てると言えるだろう。

TOKYO WAR再考

2005年07月17日 22時46分56秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「攻殻機動隊」や「イノセンス」等の作品で、今やアニメーション界において世界的な巨匠の一人に数えられる押井守監督の小説執筆の第一作が「機動警察パトレイバー TOKYO WAR 上/下」(富士見書房、1994)であった。そしてこの度、全面的に改稿してエンターブレインから出版されたのがこの「TOKYO WAR」である。無論、この小説は1994年に公開された「機動警察パトレイバー The Movie 2」の小説版であることは周知の事実だろう。もっとも、映画版については公開から10年以上経過した現状においても賛否両論が渦巻いているのも事実だ。賛成論はこれぞ押井アニメの真髄発揮であると主張する。押井が常に題材として提起する「東京」そして「軍事」という部分を濃密にリンケージさせた作品である点にこの賛成論は帰結する。一方の否定論は、前作に比べて余りにもチープであるというのがその論の中心をなす。映画版の第一作は1989年に公開されたが、コンピュータ犯罪をアニメーションで描き上げるという先進性を有していたと多くの人々が評価する。それに反して、第二作はOVA版の「二課の一番長い日(上/下)」(自衛隊のクーデターを描く)の焼き直しにしか過ぎず、教条的な戦争論ではないかと主張するのである。
 いかなる議論があるにせよ、この作品が衝撃的な内容であることは間違いない。現在でこそ、ライトノベルズやその他の作品に自衛隊は頻繁に登場してくるし、自衛隊を主役級で抜擢する事も珍しくない。しかし、1994年当時においてそれを行う事は間違いなく英断だった。この作品の冒頭はカンボジアに派遣された自衛隊PKOレイバー部隊が全滅するシーンから始まる。当時、カンボジアPKOに自衛隊は派遣されており、もっとも取り扱いやすいテーマであったとも言えるが、イラクやインド洋へ恒常的に自衛隊が派遣されているのとは異なった状況であった事を理解せねばならないだろう(自衛隊を国連の活動で派遣するという、今では日常の光景になったものを導き出す為に、国会では牛歩戦術すら行われたのである)。そして、自衛隊が東京の市街へ展開するという情景も当時では異質に写ったが、市街地へ自衛隊が展開するという光景は公開の翌年に起こった阪神大震災や地下鉄サリン事件で現実の情景となり、2000年の「ビックレスキュー2000」以降は話題にも上らなくなった(先日には、映画「戦国自衛隊1549」の公開を記念試写会が開催された六本木ヒルズの前に陸上自衛隊の装甲車輛が展開した程である)。
 何よりもこの作品が指摘している事実は、日本の平和という存在が如何なる物に存しているのかという点だろう。この作品においては「テロ」という存在を通して描き上げたが、これは冷戦後、21世紀が米国同時多発テロ事件というテロの世紀で幕を開けた事を勘案するならば極めて暗示的なものであったと言えるのではないだろうか。そして、この作品において東京に展開した自衛隊はテロを鎮圧する事に成功しているとは言えない。この構図も何処かで見たようなものである。東京という都市を題材にしているだけで、戦争の本質というものをこの作品は描き出しているし、逆に都市という存在を戦争を語る為の題材に選んだ事は現在の視点からすると卓見としか言えないだろう。この作品は公開及び刊行から10年以上を経た現在においても未だ輝くものを持っている(だからこそ改訂版として刊行された訳だが)。そこにはこの「機動警察パトレイバー」という作品が持つ近未来性(時代という側面で考えれば既に「通り過ぎた未来」)というものが存在しているからかも知れない。テロの時代というこの中で、平和を享受している日本という存在は何なのかという点を考える上で、この「TOKYO WAR」と映画版を再度見直してみるというのも面白いのではないだろうか。 

大化けしたストラトス4

2005年07月15日 23時49分25秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「ストラトス4」というアニメが2002年の初旬(丁度、NASA(米国航空宇宙局のスペースシャトル・コロンビアの事故があった頃である)に地方局週末深夜枠で放送されていた。この種のアニメは基本的に3ヶ月(13回)でストーリーが終わるようになっているものが大半である。そして、多くの作品ではその続編が登場する事無く歴史の闇の中に消えて行くのである。「ストラトス4」も本来ならばその中に名を連ねている筈であったのだが、その異様ぶりは放映中から際立っていた。本来ならば丸々1話は掛けても良いかもしれない登場人物の過去の描写をわずか3分程度で終わらせてしまったりするところに多くの人物が衝撃を受けたのである。そして、彗星迎撃というストーリーにも先進性があった。先日、NASAがテンペル第一彗星に観測体を突入させた「ディープ・インパクト」計画によって彗星という存在は現在注目されているが、その何年も前に彗星を題材にしたのは着眼点が良いと言えるだろう。そして、その彗星が生命の種を地球に運んできたという「スターシード仮説」にまで結びつけてしまったところには誰もが驚きの念を禁じえなかった。更に、SFファンだけでなくミリタリファンの支持を獲得出来たのも本作にとってはメリットだった。英国の戦闘偵察機TSR2や練習機としてYak-28を登場させるセンスが支持されたし、舞台を下地島に置いたところも秀逸だろう。この下地島は知る人ぞ知るというツボな場所なのである(旅客機訓練用の3000メートルの長大な滑走路があり、米軍の前進配備予定地としてもしばしば名前が挙げられる場所である)。
 だからこそ、続編がOVA(X-1、X-2)で登場出来たのである。しかも驚くべき事にOVAは第二期シリーズ(アドバンスフォー)までが登場している。現在では組織内対立という何かパトレイバー辺りを髣髴とさせる背景設定が裏にあるという状況で進んでいるが、アドバンスフォーでは新たに地上配備型迎撃機としてTSR2に続いてMig-31の改造型が登場してくる。このMig-31という選定センスも大変に面白い。Mig-31の前身に当るMig-25(1976年に函館に亡命したべレンコ中尉が使用した機体)はF-15との高度上昇記録を競り合ったほどの上昇性能を有しているし、現有の戦闘機の中では最速のマッハ3をたたき出すことが出来るという性能を有している。しかも、Mig-25が真空管を搭載していたという事実が逆に核爆発のEMP(電磁パルス)から防衛する為に必要として活用されている点も面白い。「ストラトス4」は登場人物の絵柄から下手すると「萌え」系に分類されそうになるが、米国での販売トレーラー等を見ると相当に真面目に描かれている事が分かる。我が国では何事も「萌え」や「お色気」が優先されてしまう世情が存在しているが、確固たるSF設定を有している作品はSFの本場では認められているのである(これは日本においても「ストラトス4」が支持され続けた理由とも重なるだろう)。小生個人的にはこの「ストラトス4」が日本という国から失われてしまった良きSFの断片でも継承してくれれば良いと思えてならないのである。

侘び寂びという「ジャパニメーション」

2005年07月14日 17時15分34秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 ジャパニメーションという言葉は今では最早使わなくなった言葉である。日本の世界に誇るサブカルチャーであるアニメーションを表すには、「アニメーション」で十分になったのである(「ジャパニメーション」が差別語だと言う意見が出たので使われなくなったと言う意見も聞く)。しかし、今から10年程前に日本国内において蔑みの眼で見られていたアニメーションが諸外国においては「ジャパニメーション」として尊敬の念(性格には「cool」なのだが)で見られていると知った時に、蔑みの対象は後ろめたい尊敬の対象となった。小生はこのBlogにおいてありきたりの日本のアニメの賞賛を行いたい訳で(「後ろめたい」とは日本人自身がその尊敬を咀嚼出来ていない点にある)はない。日本製アニメが「cool」である背景が、どうも異文化間の差異でしかない事は今では周知の事実になりつつあるからである(残念ながらその点に、昨今アニメや漫画の価値に着目した日本国の公機関はまだ気付いていないらしい)。
 日本人は日本語でアニメを見る。これは当たり前の事だ。日本語を標準言語とする人間がわざわざ他の言語でアニメを見る必要は無いからだ。そして、日本で放映されているのと同様のアニメを諸外国の人々も見、感激しているのだと考えてしまいがちである。しかし、実際のところそれは正しくない。小生はふとした事情から日本アニメの外国輸出版(主に欧米向)のトレーラーやPVを見てみた。そこに示されているのはトレーラーやPVと言っても国内向けとはまったく異なったものである。例えば、我が国の国内向けトレーラーではお色気(或いは「萌え」)に焦点を合わせたトレーラーの編集が行われている場合が多い。これは現在の「萌国主義」とでも言うべき世情を考えれば妥当な事なのかも知れない(資本主義とは、その本質において顧客の嗜好に合わせた商品を提供する事なのだ)。つまり、この論理で行くならば、日本人と欧米人の嗜好は異なっている。文化的背景の相違もさることながら、当然ながら欧米人の大半は日本人が「侘び寂び」以来の発見と称する「萌え」の概念を理解していない(理解する必要すら感じていないだろう)。そこで、トレーラーは得てしてアクションシーンを中心に編集されている(あるいは日本的側面を強調した部分)。これは何もガンダムのようなSF/ロボット作品に限った事ではない。「お願いツインズ」やら「ラブひな」だろうが同じなのである(一部にはこれらの作品が一種のアクション作品ではないかという意見があるかも知れないが)。
 つまるところは、アニメーションとは結局のところ新たなジャポニズムでしか無いのかも知れない。開国後、明治初期といった時代において日本は欧米にとって神秘の存在であった。それはある意味で一貫して続いているとも言えるのだが(考えてみれば、先進主要国にアジアから名を連ねているのは日本だけであり、他の国の人々から見れば稀有な存在だろう)、現在においても世界第二位の経済大国であり、ハイテク製品の産地である日本に珍妙な文化が存在している点に欧米は関心を抱いているのかも知れない。流石に日本がTVや自動車を生産しながらサムライ闊歩している国と言うイメージを持つ欧米人は少なくなったらしいが(先年には「ラストサムライ」なる人を喰った映画があったのも事実であはあるが)、欧米人にとっては、サムライ、ゲイシャがデジタルサムライ(ガンダム等のロボット物)やデジタルゲイシャ(所謂「萌え」物)に取って代わっただけかも知れないのだ(日本アニメは「cool」であるのと同時に「hentai」でも通用する)。このように考えてみるならば、結局のところは訳の分からぬ存在として「ジャパニメーション」たる日本のアニメは存在していると言う事も出来てしまうのかも知れない。

アウシュビッツ幻想~Destiny考

2005年07月13日 00時53分18秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 新たなOPテーマとEDテーマが第38話から採用された「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」だが、この作品の最大のモチーフがやはり一極化という点にある事が示されてきた。無論、これは単純な一極化ではない。それはこの作品がフィクションだからに他ならない。現実世界では米国が「一極」であると言われており(現実的側面では、これは必ずしも真実ではない)、DESTINYにおいてはその役割を地球連合特に大西洋連邦に負わせていた。これは直線的で分かりやすいという批判が以前から為されていたのは事実であるし、大西洋連邦が主導して結成した世界安全保証条約機構(字句は第13話のカガリの手紙より引用)が「対テロ」或いは「対イラク」を標榜して世界を結集させようとした米国の姿勢を投影させようとしていたのは事実である(流石に「保証」のおかしさに気付いたのか先日刊行された小説版第2巻では「保障」に改められている)。話の後半においては対ロゴス(ロゴスとはDESTINYにおける軍産複合体の総称である)という文脈において世界を一つに結集した事への批判が描かれている。つまり、ロゴスは対テロの文脈で示されたイスラム原理過激派であり、この後ザフトの攻撃対象となるオーブにはイラクの役割を与えていると言えるだろう。ここで重要なのはオーブの描かれ方である。以前から指摘されているようにオーブには日本の姿が仮託されていると考えるのが常道である。つまり、大西洋連邦と言うアメリカに加担したオーブはロゴスの指導者ジ部リールを匿っているとして世界の敵として糾弾される。これは明日は我が身と言うように視聴者に提示しているのと等しいだろう。無論、明日は我が身論はある種の強迫性を有しているのは事実だ。しかしながら、明日は我が身論は現実から推論されない現実に基づいて提起される場合が多かったのもまた事実なのである。
 以前、小生はこのBlogにおいてロゴスはイスラエルの暗示ではないかと言う事を言及した。新OP映像の最初にミネルバのパイロットの背景に何か城郭のような建物の門へと線路が通じているシーンが描かれている。この建物がどうしてもアウシュビッツ強制収容所の門に見えてしまうのは小生だけだろうか。つまり、ここで示されているのは一極主義とは最終的に人類の優良種論というナチス・ドイツが示した論理へと行き着くという製作者サイドの意図が見え隠れしているのではないだろうか(つまり、人類を導く優良種たるアメリカ人とその他という構図である)。そして一極主義を打破する事こそが正義なのだと言う論理を製作者は示そうとしている。
 しかしながら、この短絡的な構図が正しいとは言えないのは誰もが容易に考え付く事だ。一極主義は必ずしもナチス・ドイツの優良種論と同じではない。確かに米国は世界の警察官を自負している面があるが、それはアメリカが選ばれた国家であると言う以前に米国が最善である為に自らの秩序を作り上げようとする国民に意思の表れである(そのような意思はどの国家も国民も有しているが、それを実現できるだけの国家資源と言うバックボーンを有していないだけなのである)。多元主義こそが最善と言うのは最もな論理である。しかし、現在の一極主義に見える世界も多元主義が基盤として存在しているが故の可視的一極主義なのである(米国も日欧露中の意見を常に考慮している)。アウシュビッツの幻想とは世間的に言えば、アウシュビッツに代表されるユダヤ人大量虐殺が存在していなかったというような論理を指して言われる言葉である。しかし、ここで着目したいのは必ずしもナチスは一極主義を目指していた訳では無いと言うことだ(ナチスは絶滅すべき民族とその他を峻別してはいた)。つまり、一極主義と優良種論をアウシュビッツをイメージさせる事によって同一化させるというDESTINYの危険性を我々は警戒の意識を持って考えていかねばならないだろう。

幻想の中の「青春」

2005年07月12日 21時49分36秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 ライトノベルズと呼ばれるジャンルの小説がある。所謂、10代半ば以降の青少年を対象としたファンタジー或いはSFに範を取った小説群の総称である。その中の作品には漫画化やアニメ化が行われた物も少なくない。本日のBlogで取り上げる「イリヤの空UFOの夏」もその一つだ。秋山瑞人原作の本作は駒都えーじのイラストと併せてライトノベルズ界において一世を風靡した。しかし、今日の主題は電撃文庫から刊行されている小説版ではない。アニメ界の大御所である東映アニメーションが製作したアニメ版の第2話「ラブレター」と第3話「十八時四十七分三十二秒」である(アニメーションの細かな描写には秀逸部分が多い)。
 最初に確認しておくべき事柄だが、ライトノベルズの登場人物は読者と想定される年代とほぼ同じくして設定されている。つまり、登場人物の大半は中学生から高校生と言う訳である。それは本作においても同様であり主人公の浅羽にせよイリヤにせよ14歳という設定になっている(14歳と言うと1995年の大ヒット作「新世紀エヴァンゲリオン」を想起させる)。これは書き手が読み手にストーリーへの没入を与える為に行っていると共に、自身の過去への追憶である場合が多い。無論、これらの小説と同様の事を書き手が行っている訳ではない。しかし、自身の体験の延長線上が描かれている場合は多いのではないだろうか(無論、そこには自身が当時夢見ていたものも含まれていよう)。
 今回分析対象としている部分において、その「青春」とでも呼べる部分は、第2話において浅場とイリヤの乗った原付を水前寺のカブが負い掛けて行くというシーンであろうし、第3話のマイムマイムのシーンに象徴されているだろう。無論、これはこの「イリヤの空UFOの夏」というストーリーの中ではまだ前半に属しているとも言え、少年(或いは少女)の夢の拡大期に存していると言える。書き手にとって「青春」が幻想の域に収まってしまったように、少年期の夢と言うものは挫折する為に存在している(極めて王道的な見方であるが、夢に破れる事によって少年は大人になるのである)。それは本作でも同じであり、それは話を追って明らかになってくる。そしてその結末が殉愛であったとしても、それは幻想の中の「青春」を構成するには十分なものなのである。
 しかし、逆説的に考えてみるならばこの構図は極めて不自然である。確かに書き手側には失われた「青春」を描き上げようとする原理が存在するのは理解できる。一方で、読み手の側は現在その幻想の「青春」の中に存在している以上、その幻想を現実へと転換する僅かばかりの可能性を有している事になる。しかし、ライトノベルズの市場は衰退の一途にあると言われている書籍産業の中においても市場を拡大している現実が存在している。これは、こう説明する事が可能なのではないだろうか。それは、少年期に体験すべき「青春」の背景が喪失しているという点である。少子化の急速な進展(以前は兄弟は2人が標準だったが、今では子供は一人が標準になりつつある)と都市部において「青春」とされるものを体験しやすい場所が急速に減少している点にあるのだろう。これは何も小生が何の裏づけも無く指摘している訳ではない。ライトノベルズが市場において橋頭堡を獲得したのは1980年代であり、この時代以降急速に少子高齢化と個化する子供の存在が教育界において指摘されるようになっているからである。幻想の中の「青春」としてのライトノベルズ。その先端に位置すると言われる本作は、まさに最良の「幻想」を青少年に提供していると言う事も出来るのかも知れない。