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資本主義における常識と自己責任

2005年01月09日 23時11分15秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 米国ブッシュ大統領とキリストは似たものなのか?いや、これは本日のBlogの本論ではない。
 確かに、偉大なる資本主義的外食産業の象徴たるマクドナルド切ってのヒーロー、に比べれば同じかもしれないが・・・(ちなみに小生は宗教的に基督教に何らの感情も抱いていない)。
 重要なのは何事も常識と自己責任だということだ。その事を現在公開中の衝撃的な映画「スーパーサイズ・ミー」は知らしめてくれる。資本主義社会とは価値の極大化を誰もが目指す社会である。そして政府はそれをなるべく妨げては成らない。妨害は公平な市場競争を阻害するからである。この現実が示してくれるのは、企業も、国家も市民の支持者足り得ないという事だろう。確かにマクドナルドに示されるようなファーストフードは我々に簡便且つ安価な食生活を提供していると言うのは厳然たる事実である。しかしながら、我々はここで一つの現実に気付かねば成らないらしい。ファーストフードは手作りの食事に比べれば健康に取って悪い食事なのである。それはそうだろう。保存料や着色料等をファーストフードでは結構使用している場合が多いが、手作りの食事にわざわざ添加剤を加える人間はいない。つまり、これは常識である。常識というものは国際法で言うところの慣習国際法みたいなものだ(厳密には違うが)。誰もが知っている事はわざわざ文面に示されないという事は無駄な所作だからだ。その観点で行くならば、常識に逆らう行動を行う事は馬鹿者に他ならない。一方で、自己責任について考えてみよう。これは企業や国家がその危険性を提示した場合の行動だ。その危険性をどのように解釈して行動するかの基準である。つまり危険だとされる行動を行う場合、その決定権はもはや市民に投げ出されていると言えるだろう。この行動における責任は全てそれを行ったものに与えられる。
 この二者は資本主義における素晴らしい方便だ。結局のところ、最終判断は個々人にあると規定しているに他ならないからである。それは、この映画が取り上げようとしているファーストフードの健康への影響と言う点においても同じである。つまり、ファーストフードが健康に危険性があるのは常識であり、企業側が精分表やカロリー計算を提示している場合は自己責任に成る。そして、それは子供への影響と言う点でも同様だ。企業が営利活動を行っているのは資本主義社会において常識であり、その行動は社会における如何なる存在にも及んでいるのもまた常識だ。無論、子供は判断能力が無いという法的能力について言及する事は可能かも知れない。しかし、その場合親権者はその権能を発揮せねばならず、その常識の中で権能を発揮しないのは単なる親権の放棄と同義語だ。
 この国は表面上は平和この上ない。物質に満たされたこの社会はまさに「地上の楽園」とでも表現するのが正しいのかも知れない。しかし、忘れてはならないのは資本主義とは騙しあいと言う事だ。如何にして相手から金を出させるのかというのがある意味では本義である。そして、資本主義にとって不健康とは市場の拡大でもある。ファーストフードの売上増は、不健康者を増大させ、これはダイエット等の新しい産業を導き出す他、保険、健康産業の拡大にも繋がるだろう。この経済システムにとって市場の拡大の為には犠牲とは止む得ないものとして解釈されるのである。

GODZILLA――其れは、全てを破壊し尽くす幻想の巨獣

2004年12月12日 23時28分42秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 「やっぱり、マグロ喰ってるよーな奴は駄目だな・・・次!」。
 これは12月4日から公開されている映画「ゴジラファイナルウォーズ」の中でX星人参謀/統制官(官と言うよりは「漢」と表現するのが正しいのかも知れない)が、シドニーでゴジラを迎え撃ったジラ(1997年の米国版ゴジラのゴジラではないかと言われる)が一撃の下に粉砕された時に発した台詞である。このシーンは、この映画において何も特別な部分であるから紹介している訳ではない。「マトリックス」張りのワイヤーワークに、シートベルトを着用してHONDAの軽トラの助手席に座るミニラ(警察庁が見たら涙を流しそうな情景だ)、そして全人類を家畜化すると公然と言い放つX星人参謀役の北村一輝の名演技・・・etc、これら全てがこのゴジラ最終作を最高のエンターティメントとして仕上げる道具となっている。無論、これは小生がゴジラ映画と言うものと無縁な位置にいる一介の映画観賞人だからかも知れない。その半面で、これらの部分はゴジラ映画と言うものを愛しつづけた怪獣映画ファンにとっては容認する事が出来ない情景なのかも知れない。この映画は本来ならば、ゴジラと共に主役を張る筈の怪獣達を次から次へと登場させてと言えば言葉が良いが、実際には使い捨てにしているようなものだからだ(冒頭の発言はその一部である)。しかし、これは批判すべき部分ではない。世間一般の人々にとってゴジラ映画とは怪獣のプロレスでしかなく、子供達にとっては多くの怪獣が登場すると言う事はそれだけで魅力的だからである。
 このゴジラについての詳細は今後、小生HPのG2分類における「キネマ雑記」において行う事にして、今回のBlogではこのゴジラのエンターティメント性という部分に焦点を合わせてみたい。ゴジラと言う映画は素人にはとっつき難い部分がある。特に何の関心もなかった人が旧に見ても面白いとはいえないだろう。それは言ってしまえば、ゴジラ世界観と言うべきものが根底に存在していたからだろう。ゴジラと言う世界を咀嚼しなければその面白さにはたどり着けないような部分があった。だからこそ世間一般ではその著名さの裏で怪獣のプロレスと揶揄されたのである。しかし、今回のゴジラには其れはない。何故ならば、現実と言うものをどうでも良いとでも言うかのように完全に投げ捨てているのである。つまり、ゴジラと言う存在が幻想の怪獣であるならば、世界そのものも幻想であっても良いではないかと言う訳である。その為に科学的講釈等は無視した上でのアクション映画になっているのである。怪獣映画と言う割には人間同士の格闘シーンが以上に多いのもその典型だ。しかし、これは何も批判すべきではない。このような今までのゴジラと言うものの観念を破壊し尽くした最終作が作られたのは評価すべき事なのだ。ゴジラは半世紀に渡る歴史がある為にゴジラ批評やゴジラ論と言ったゴジラへの解釈学がまかり通っていた。しかし、解釈学はそれを知りうるものの議論にしか過ぎない(学者同士の議論を普通の人が聞いても面白くないのと同じだ)。その点において今回の映画はこのようなゴジラの解釈学を完全に粉砕し尽くしてくれたと言えるのではないだろうか。

 GODZILLA――其れは、全てを破壊し尽くす幻想の巨獣である。

補足:ゴジラと自衛隊。それは「やるもの」と「やられるもの」の関係であると言っても過言ではない。ゴジラを知る者にとっては自衛隊とはやられ役である。しかし、その両者には密接な関連性がある。それは共に今年が50周年であると言う点である。だからか分からないが映画館の売店では平成16年版防衛白書のコンパクト版が発売されていた。一見すると関係のないような二つのコラボレーションは時代と言うもの、そして我が国の防衛と言うものを考える上で大変に興味深いと言えるのかも知れない。
 冷戦体制の崩壊から10年を経て自衛隊の仮想敵がまた一つ消えていった。
 
 その名はGODZILLAと言う。

待たれた未来への絶望

2004年11月28日 13時45分15秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 宮崎駿監督の最新作「ハウルの動く城」の中でヒロインのソフィーは「待ってて、私、きっと行くから。未来で待ってて」と言うシーンがある。このシーンはハウルとソフィーの宿命的連関と言うものを表現する部分と解釈されるが、別の見方も可能ではないだろうか。この映画についての分析は近日中に小生のHP内のG2分類キネマ雑記内で詳細に行う事として、今回のBlogでは映画の感想に近いものを掲載してみたいと思う。
 「ハウル」の舞台は概ね産業革命以降だけれども、近代国家が必ずしも誕生したとは言い切れない状況を世界的な背景としている。其の中で「魔法」と「科学」が並存している。しかしながら、「魔法」は新しく登場してきた「科学」によって徐々に隅に追い遣られようとしてもいる世界である。この二つの存在で対照的に描かれるのが「火」である。「魔法」の火は火の悪魔カルシファーに象徴され、「科学」の火は都市を焼き払う巨大な飛行戦艦(戦略爆撃機)によって現される(ドゥーエの戦略爆撃論の影響からか飛行戦艦に護衛戦闘機は存在していない)。この作品を作った宮崎監督からすれば、この時期は一種の人間の選択であったという意味が存在しているのかも知れない。周知の通り、現在の我々が住む世界には魔法は存在していない。「科学」に象徴される火は核兵器に象徴されるこの世界を滅ぼす事が出来る規模にまで発展している。この映画の中でも巨大な飛行戦艦が都市を戦略爆撃するシーンがあるが、そのシーンはアフガニスタン空爆や第2次湾岸(イラク)戦争で大量な爆弾を投下していくB-1ランサーやB-2スピリットをあたかも想起させる(映画内のシーンで考える限り、報道映像等の其れに類するシーンを明らかに参考にしているようだ)。無論、戦略爆撃というものは日本人の潜在意識に強く意識されている。それは我が国が先の大戦に於いて日本本土を蹂躙したB-29スーパーフォートレスの空襲によって無条件降伏に追い込まれたという現実をその時代に生きたものでなくとも「記憶」として受け付いているからだ。だからこそ、「科学」の火は戦略爆撃という形で表されるのである(「科学」は使い方次第で人類に破壊も福音も与えるから、「科学」が人々の家を照らし出す無数の灯火であっても問題は無い筈なのである)。
 一方の「魔法」の火と言うものは、一種の伝承や神話と言ったものの延長線上にある。現実には、物質的に「魔法」は存在していないが、精神的に内在して存在しているものである。無論、この世界には魔法は存在していないが、「魔法使い」や「魔女」という言葉が未だに存在しつづけ、「ハリーポッター」やこの「ハウルの動く城」と言った「魔法」を題材にした作品が人気を集めつづける事自体が、人々の心の中に「魔法」が精神的に残りつづけている事を示している。
 この作品は、「科学」へ仮託された未来への期待というものが存在していた時代を舞台にしている。しかし、「科学」が万能とされた時代に現出したのは戦略爆撃そしてその延長線上に存在した互いの国が相手を殲滅するだけの核兵器を保有する事によって平和を維持しようとする相互確証破壊(MAD)という狂気の世界であった。我々が生きる現在と言うものは宮崎監督にしてみれば「絶望」的な世界でもある。だからこそ、人々の精神の中に存在しつづける「魔法」という存在へ訴える事による現実(世界、国家)への懐疑という側面が強調されてくるのである。宮崎監督の作品には束縛されない「個」という存在が多く存在している(「紅の豚」のポルコ・ロッソ等は其の代表だろう)。未来が絶望に染まらない為には「個」という存在を重視しなければならないというメッセージがこの「ハウルの動く城」には包括されていると言えるのではないだろうか。

グレイゴーストのある風景

2004年11月23日 23時26分10秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 YF-23グレイゴースト――このYナンバーを付された米国の試作戦闘機は、冷戦後の大空の覇者を選んだYF-22との次期主力戦闘機選定に敗れて歴史の影に姿を消していった。このグレイゴーストが大空を舞いロシアのスホイ27戦闘機に追撃を受ける。このような状況は現実には存在出来ない。この情景が描かれているのは新進気鋭の映像作家新海誠の最新作「雲のむこう、約束の場所」である。この映画についての分析は近日中に小生のHP内のG2分類キネマ雑記内で詳細に行う事として、今回のBlogでは映画の感想に近いものを掲載してみたいと思う。
 米ソ両大国(作中では「ユニオン」と「連合」)によって分断されたもう一つの戦後。それは現在の日本と言う国家を考える上でありえた現実である。歴史の針が微妙に触れていれば、この映画が背景として用いた世界観は現実に存在していたのかも知れない。分断国家にとっての補完とは統一国家の形成にあることは旧東西ドイツや南北ベトナム、現在の朝鮮半島を見るにつけても明白である。一方でこの映画が描くのは少年と少女の「恋愛」の補完の側面を有している。そして、少女の存在はふとした事から長い眠りへと陥ってしまう。この少女の眠りは北海道に立つ巨大な「塔」に象徴されるこの世界の補完と密接な関係がある。三つの補完を成し遂げる為の最大公約数がこの映画が導き出した結論だ。この結論は種明かしになってしまうかも知れないので言及しないが、最大公約数が平成と言う現実を描いているのかも知れない。我々が生きる「現実」と言う世界、少年と少女の関係の補完、そして日本統一という補完を成し遂げる為に失うものは最小限度で無ければならない。それがこの映画の結論だ。
 グレイゴーストはステルス性能の極限を進めた戦闘機だった。しかしながら、其の代償として空戦能力は現行の機種と比べて悪かったとも言われている。米国空軍が現実に選んだのはステルス性能と空戦性能の最大公約数を有していたYF-22(現FA-22Aラプター)だった。ありえたかもしれない現実、それはもう一つの世界「平行世界」が存在する可能性を秘めているとも言う事が出来るかも知れない。表面的に類似している世界であっても、其の内面はこの我等生きるこの世界とは大きく異なっているのであろう。平行世界はSFで語られる世界ではない。IFというものも一種の平行世界を構築しようと言う作業でもあるからだ。ありえたかもしれない世界と其のありえたかもしれない世界を現実へ戻そうとする「補完」作業。その作業を「塔」というランドマークによって果させようとしている。この「塔」のモデルと言われる塔は東京都某区の清掃工場の煙突であると言われている。「塔」は存在している時は大きな影響を周囲にもたらしているが、なくなってしまえばそれは急速に人々の記憶から失われていく。
 現実は最低でもこの世界を生きる人々の意思の集合体であり、不作為であれど最善であるが小生の認識である。グレイゴーストは現実世界では、上述の結果として歴史と言う灰色の闇に消えていった。例え205系の埼京線が走っていて、新宿から某区の清掃工場の見える方向に「塔」が立っていようともグレイゴーストのある風景は「平行世界」でしか存在し得ない。

華氏911度とは摂氏488度のことならんや

2004年09月12日 20時08分36秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 摂氏488度、それは華氏に換算すれば911度に相当する。そして「華氏911」と言えばマイケル・ムーア監督の現在公開中の映画だ。何でもカンヌ映画祭ではパルムドールを授賞しているらしい。辛辣なブッシュ批判で知られるムーア監督の作品と言う事で、前評判は極めて高かった。しかしながら、公開されてからと言うものこれという評価は聞かない。その疑問は映画を見ることで容易に氷解した。この映画は、まったくもって見る価値の無い映画だったからである。
 この映画に関する分析は後日、小生HPのキネマ雑記の項目において記載する事として細目については語らないが、マスコミが知らせる事実だけが、事実ではない。別に新聞とテレビジョンがマスコミの代名詞ではないからだ。書籍、雑誌、インターネットでさえコミュニケーション手段である(前二者についてはマスコミと言えるだろう)。この映画で語られる内容には、真実とはいえない内容が多く含まれているし、仮にムーア監督の主張する陰謀史観的な論理が「知らされなかった」内容であるとしても、それは知りたいと思わないから知る事が出来ない内容であって、少しでも米国同時多発テロ事件に関心を抱いて関連の書籍を渉猟すれば容易にアクセス出来る情報である。この映画を見て、仮に観客が知らされなかった事実を知らされて憤慨するのは勝手だが、知ろうとする努力を怠っていた事実こそをまず猛省すべきであろう。
 あえて言うならば、この映画は三流のドキュメンタリーであり、三流のコメディであり、三流のエンターティメントである。映画を見た者として言える事は、この映画は、純粋に米国同時多発テロ事件について研究を行う学者や、テロを防ぐ努力をする政治家や外交官、実際に対テロ戦争の現場に立たされている兵士達(無論、其処にはイラクやインド洋に展開する自衛隊員も含まれる)そしてテロを抑止するために発展途上国等で精力的に活躍するNGOへの冒涜であろう。
 この映画は自由を確かに燃やしている。しかし、それは政府による弾圧によって自由が燃やされているのではない。ムーア監督自身が、この作品によって思想信条の自由や報道の自由の持つ価値というものを、真実を語るという事をやめた裏切りの業火へ投げ捨てているのである。

失われた記憶2

2004年08月27日 20時52分40秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 中央公論新社の今月の新刊の新書に「韓国の軍隊」という書があるが、この帯には韓国軍に入隊したサッカー韓国代表のアン・ジョンファン選手が敬礼する写真が使われている(参照:http://www.chuko.co.jp/new/200408/101762.html)。その一方で、本日よりレンタルが開始された映画「ロスト・メモリーズ」では冒頭部分でサッカー日本代表として日の丸を胸に付けたアン・ジョンファン選手の姿が登場する。この2つの対照的な姿こそがこの映画の主題とも言える部分ではないだろうか。この映画自体は小生HPのG2分類内のキネマ雑記において近日中に内容分析を掲載する予定だが、今日はDVD発売を契機として再度この映画を分析してみようと思う。
 この「ロスト・メモリーズ」は世間一般で広く知られているかといえば微妙だろう。上映館数が少ないからかも知れないが「シュリ」や「JSA」は言うに及ばず、今年になって公開された「シルミド」や「ブラザー・フッド」と比べても知っている人は少ないようだ。別に俳優が悪い訳ではない。チャン・ドンゴン等の有名な俳優も出ているからだ。そして、舞台は日韓両国を舞台にしており日本人にとっては色々な意味で面白い映画なのである。日本が舞台となっている点では微妙に「ユリョン」等とも類似している。もっとも、この「ロスト・メモリーズ」にせよ「ユリョン」にせよ、背後では歴史問題が関わっている。だからこそ、韓国だけで問題が収まっているように見える(南北問題という点において)「シュリ」や「シルミド」の方が注目されるのかも知れない。アクションという点では、「シュリ」や「シルミド」とさしては変わらないのかも知れないが、その内容ではこの「ロスト・メモリーズ」に軍配が上がるだろう。日本では一部の人しかまだ着目していない「ロスト・メモリーズ」だが、その内容は日本人だからこそ楽しめる部分が多い事もまた事実である。

城、動く

2004年08月08日 11時11分24秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 城(城郭)とは、その威容によって敵を圧倒し、或いは自己の配下にある人々を睥睨するような存在である。我が国における大阪城や姫路城の存在と言うものを考えてみれば、其れを容易に理解出来るであろう。その「城」という圧倒的な存在の形を借りる事によって、科学力を表現しようとしたのが現在公開中の映画「スチームボーイ」だ。「スチームボーイ」は「AKIRA」、「MEMORIES」等の斬新な作品で世界に衝撃を与えた大友克洋監督の最新作である。この映画の分析は後日、小生HP内の「キネマ雑記」において分析する事とするので詳しくは語らない。
 この映画を見た人々は、「科学は力だ」という表現にあるように、巨大な力が秘められたスチームボールこそがあの映画における重要点なのではないかと指摘する向きもあろう。しかし、実態は異なっている。スチームボールの力が何故、「城」という形において用いられたのかと言う方向を精査してみるべきなのだ。ここで指摘して出来るであろう点が、二重の圧倒性というべきものだ。「城」というものは単体においても圧倒的な存在である。「城」というものにはしばしば難攻不落という言葉が前置される(もっとも不落だった城はないというオチになるのではあるが)。つまり、それだけ城の影響力は大きいが、この圧倒的な存在が動き出した時の影響性と言うものは計り知れないものがある。
 「スチームボーイ」における「城」であるスチーム城はスチームボールで生み出された力で飛行し、歩行する。「スチームボール」に仮託された科学力は、二重の圧倒性を実行する為の要素にしか過ぎないのである。この構図は、様々な作品で展開されている。例えば、今年の秋に公開予定である宮崎駿監督の「ハウルの動く城」等はまさに題がその内容を示しているようなものだ(「ハウル」の公開延期の代わりに「スチームボーイ」が前倒しされたと言う話があるが、この「城」が動くと言う点での共通要素があったからかも知れない)。「スチームボーイ」は産業革命期への憧憬と回顧という部分も多分にあるし、スペクタクル的側面で見ることもまた可であろう。しかし、この「城、動く」という観点から見てみる事もまた面白いのではないかと思う。

失われた記憶

2004年04月18日 21時46分21秒 | 世情雑感(ムウビイ)
韓国の映画「ロスト・メモリーズ」が日本公開されている昨今である。この映画の内容は近日中に小生HPの「キネマ雑記」の項において詳述するとして、この映画の感想に近きものを記載してみようかと思う。この映画の背景設定として、2009年の日本統治下の韓国は今までの韓国では生み出しえなかったものであろうと言う事が言える。その内容において日本との融和が恐らく後50年は出来ないと言う内容であったとしても、Ifであれ日本統治が継続していたらという発想を韓国が持つようになった事は今後の両国の歴史研究においては大きな進歩と言える。この議論を拡大して議論する事が出来れば日本の植民地支配が韓国にもたらした影響について韓国側との冷静な議論も可能であるだろうからだ(今までの議論は植民地支配は「絶対悪」との基本概念が無ければ話にならなかった)。韓国が日本の植民地支配を脱してから60年近くが経つが、その間の進歩がこの程度なのかと言う事は少々悲しい気もするが、それだけ国家の意識としての両国の差は存在していると言う事なのだろう。ただ、一つ言える事は伊藤博文が暗殺されていなければ韓国が日韓併合と言う道を辿ったのかは疑問の余地が残るところである。