情報分析研究促進開発機構

統制経済推進委員会(CEPC)のブログ運用サイト。

「保証」された世界~Destiny考

2005年01月31日 20時40分11秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 機動戦士ガンダムSEED DESTINYは放送開始から15話を数えている。この作品の内容の賛否は色々分かれるところだが、リアルさを追求するとされるガンダムシリーズにおいてこれは明らかにおかしいだろうという点を取り上げている企画の今回は第二段である。今回はこのSEED世界の安全保障概念についての考察を行ってみたいと思う。
 このSEED世界を大別するならば宇宙のプラント、地球の地球連合と大別出来る。そしてオーブのようなその他の幾つかの諸国が中立国として存在している状況である。ある意味においては冷戦状態の世界と考えるのが妥当だろう。冷戦状態というのはしばしば一触即発の状況で大変危険な状況であると言う意識を覚えてしまう。しかしながら、その半面で冷戦と言う状況は極めて安定した社会であるとも言えるだろう。現に米ソ冷戦下では両超大国が核を突きつけあっていた為に全面核戦争を行えば自国も破滅してしまうと言う相互確証破壊(MAD)の論理が働いていた。この状況について国際政治学者のジョン・L・ギャディスは「ロング・ピース」と評している。確かに、米国同時多発テロ事件後の今日のように何時テロに巻き込まれるのかという恐怖は冷戦時には存在していなかった。つまり、冷戦下においては軍事衝突というものは極めて起こり難いのである(その代わりに代理戦争は頻発していたが)。しかもSEED世界のように二大大国が角逐を合わせている状況下では両者の戦争(限定的なものも含め)へ至る可能性は極めて小さいと言えるだろう。確かにユニウスセブン落下と言うテロ事件が起こったのだからという意見ももっともであるが、だからと言って全面核攻撃を行うほどのものではない。ニュートロン・ジャマー・キャンセラーを両国が有している状況は核による恐怖の均衡が成立しているのと同じだからである。このような場合は、キューバ危機的な妥協による解決が本来ならば図られるのである。
 ここで作品に傾注している諸兄姉はブルーコスモスが存在しているではないかと指摘するだろう。しかし、政治と言うものは様々なアクターが複雑に結び付いて動いており、ブルーコスモスのような一種のロビー組織が存在していたとしてもその影響力が直接的に戦争へ至らせるだけの力を有している事は殆ど無いだろう(第2次湾岸戦争が様々なアクターの利害の上に行われた事を想起すべきである。あの戦争はネオコンの論理だけで行われた戦争ではない)。DESTINY第13話でユウナ・ロマがカガリに「国はあなたの玩具ではない」という台詞があるが、正にその通りである。政治を私にする独裁国家だけで世界が構成されてでもいなければSEED世界のような世界は現出されないだろう。もっとも、SEED世界における民主主義とは須らく衆愚政治であるようであるが。
 続いて問題点として提起されるのは世界安全保証条約機構の存在である。小生は、「世界安全保障条約機構」であると思っていたのだが、第14話のカガリの手紙の文面に合ったのは「世界安全保証条約機構」という言葉だった。同じ政治的経済的利益を共にする諸国が軍事同盟を締結する事はおかしな事ではない。特に脅威と言うものが存在しているならば尚更である。現に日米安全保障条約に始まり多国間安全保障条約のNATO(北大西洋条約機構)に至るまで仮想敵が存在していたからこそ同盟は成立しているのである。しかし、国家にとっての安全は「保障」であって「保証」ではない。そもそも字義的に「保証」は安全の後ろのはくる事が無い。辞書の定義に拠れば保証とは「たしかであるということをうけあうこと」である。ちなみに保障は「危害が及ばないように責任を持って保護すること」だ。世界安全保証条約機構は世界の安全が確かであると受け合う条約機構ということになる。つまり、この条約は何らの軍事的意味合いを持たない条約と言うようにも取る事が出来てしまうのだ。「確かであること」と「危害が及ばないように責任を持つこと」のどちらが軍事同盟をイメージするかは明白だ。このような字義的にありえない条約を作品の中で描き上げてしまうこの作品は現今の国際政治というものをモデルにしていると言う事は極めて難しいのではないだろうか。
 DESTINYにおいてユウナ・ロマやセイランはカガリの理想に反する者として描かれているが、安全保障という考え方からするならばするならば彼らは極めて現実的な対応策を提示している。国家指導部が国家を如何なる状況であれ戦争へ至らしめてしまった(幾ら相手が無理難題を吹っかけてきても)という事は責任問題である。相手が無理難題を言う前に外交的に適切に処理する事が国家の本義であるからだ。その観点からすれば「国を焼かない」という選択肢は正しいし、それは他の国を「焼く事」になったとしても正論である。国家の安全保障の第一義は国民と国家体制の防衛であって、世界平和ではない。無論、世界平和である事が前者をより磐石なものとする前提条件ではあるが、順番的に成立するのは国家防衛から世界平和の順番である。SEED世界はフィクションであり、フィクションとは理想を語るツールである。つまりSEEDはフィクションであるが故にリアルを語る事は本来出来ないものである(フィクションの時点でそもそもリアルではない)。確かにメカニカルなリアルさの追求は可能かも知れない。しかし、政治経済的要素でのリアルさの追求と言うものは破綻を来たしてしまうものであるからして、好ましいものではない。

軍は民の忠実な犬たれ~Destiny考

2005年01月30日 13時47分34秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 機動戦士ガンダムSEED DESTINYは放送開始から15話を数えている。この作品の内容の賛否は色々分かれるところだが、リアルさを追求するとされるガンダムシリーズにおいてこれは明らかにおかしいだろうという点を今回から数回かけて分析してみたいと思う。今回の注目点は軍と政府の関係――つまり「政軍関係」、分かりやすく言えば文民統制という問題である。
 文民統制とは英訳ではシビリアン・コントロールと訳される。分かりやすく言えば軍の命令系統の頂点を民主的な手法で選出された代表者が就き、軍の行動を監督するというものだ。例えば、日本国自衛隊の最高司令官は内閣総理大臣であるし、米軍の最高司令官は合衆国大統領である。この関係をSEEDの世界に当てはめてみるならばザフトと地球連合軍は文民統制の下で行動していると言える。ザフトの最高指揮権は最高評議会議長のデュランダルが握っているし(積極的自衛権の行使を最終的に決定したのは彼である)、地球連合軍は地球各国の共同軍であるが大西洋連邦等といった国家レベルでの文民統制は行われている(ザフトへ宣戦布告を大西洋連邦大統領が行っている)と言えるだろう(誕生種別差別を行うブルーコスモスとの関係を指摘する向きもあろうが、これは文民統制とは別次元の問題である)。ならば、双方が民主主義国家であるならブルース・ラセット曰くの「パックス・デモクラティア」が成立するのではないかという極めて無難な指摘が出来るのだが、そうも行かないのはこれが現実ではなく虚構という「お話」でしかないからだろう。
 しかし、オーブの場合はそれがどうなっているのか不明確な部分がある。オーブの首長が民主的な手法によって選出されているとは思えないからである。そして、その結果がどうかはわからないがオーブ軍は軍が取るべき適切な責務を行っていない。例えば、護衛隊群によるミネルバへの攻撃命令の拒否、アークエンジェル攻撃への現場での恣意的解釈はその典型である。
 更にオーブと言う国家が極めて異質な国家であると言うのを認識せざるを得ないのは、テロリストへの対処である。ユニウスセブンを落下させたテロリストに対してザフト軍は殲滅を図った。これはテロリストに妥協せずという国際観念に極めて合致したものであるが、オーブはアークエンジェルとフリーダムガンダムが行ったカガリ・ユラ・アスハ首長誘拐というテロをみすみす許容している。護衛隊群司令の「オーブとこの世界を・・・」という誘拐許容の台詞は問題以外の何物でもない。テロと言う観点で地球連合軍特殊部隊によるザフト新型ガンダム強奪はテロ事件ではないのかと言う疑問があるかも知れないが、正規の作戦としてガンダム強奪作戦が遂行された場合はそれは国家による戦争行為であってテロではないと言う事になる(テロには色々な解釈があるが、非国家主体による行為と定義するのが妥当だろう)。
 ガンダムという作品は結局のところ「異端」を描く作品である。その「異端」達は一見するならば正義を実行しているかのように思われるが、そうではない。アークエンジェルはテロリスト集団であるし、オーブから命令無きままに出港したミネルバの行動は艦を私するものであり、文民統制下の軍隊では許されざる行為である。ガンダムシリーズは正義を追及するが故に、武力の私有と言う危険性の高い選択肢を提示してしまっていると言えるだろう。軍は民の忠実な犬で無ければならない。それが我々が過去の戦争から学んできた真実であり、それを黙殺する虚構が作られるところに我が国の平和への無頓着さが逆説的に現われていると言っても良いのかも知れない。

ゼロへの集束

2005年01月24日 23時50分10秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 小生はマクロスというアニメーション作品を余り高く評価していない。ロボット「描写」アニメとしては一流かも知れないが、ミリタリー系アニメとしては然したる見るべき点を有していないからだ。しかし、先日、漸くのところ見終わった「マクロスゼロ」については別の評点を与える事が可能かも知れない。
 この「マクロスゼロ」は1982年にアニメ放映された「超機動要塞マクロス」の前編にあたる内容である。時代背景的には21世紀初頭の統合戦争末期ということに成る。登場する新型可変戦闘機VF-0は反応エンジンが間に合わなかった為にジェットエンジンを搭載していると言う設定になっているし(現実でも新型エンジンが完成しないので別のエンジンを積んだ問い言う話は良くある)、統合軍の戦闘機としてバルキリーの原型と成ったとも言われるF-14が登場するし、反統合同盟軍にはMig-29が登場する。そして、空母「アスカ」や「イラストリアス」を護衛している艦艇には「アーレーバーク」級イージス駆逐艦の姿を見ることが出来る。ミサイルにしてもAMRAAM2やFAE等明らかに現在の延長線である。ミリタリーという観点からすれば現在のほんの少し先の世界を描いていると言えるかもしれない。無論、戦術兵器としてファイター、ガウォーク、バトロイドに変形する機構が兵器として成立し得るのかと言う議論をここで行うつもりも、ミサイルが未来予測位置へ向けて発射されるという基本原則の再確認を行う必要も無い。ガンダムのモビルスーツと同様にあのような巨大ロボット兵器の現実的役割については「軍事研究」等の一流軍事誌を読んで頂ければ3歳児でも理解できる事であるからだ。
 では、何処を評価すべきなのだろうか?マヤン島という南の島を舞台としている点にあるのだろうか。是は一面的には正しい見方である。我々は南の島は自由で朴訥とした雰囲気があると言う幻想を戦前から抱いているようだ。ある意味で「南島イデオロギー」とでも言うべきものだが(「南島イデオロギー」は一種の植民地的概念として扱われる)、これについては後日、このアニメ、ゲームと「南島イデオロギー」の関連について分析してみようと思うのでここでは取り扱わない。最大の注目点は登場人物がフォッカー以外「マクロス」本編に繋がっていかないということである。マクロスシリーズは「マクロス」から始まった事になっており、「マクロス」から登場してきたフォッカー以外は後に出てきては話のバランスが崩れてしまうのである(その点では「機動戦士ガンダム0083」と同様の構成だ)。つまり、「マクロスゼロ」とはある意味において「マクロス」本編から切り離された一つのストーリーとして楽しむ事が出来る。それはゼロからストーリーが始まって「マクロス」に直接的には繋がらないと言う点においてゼロに回帰していくからである。ゼロへ集束し、且つ現実と程近い(製作された時期と題材となった時代と言う側面での)事による現実への歩みよりによって「マクロスゼロ」は「マクロス」シリーズの中で際立った特長を持った作品になっていると評価を与える事が出来るだろう。

「ほしのこえ」再考

2005年01月16日 22時58分51秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 現在、順次全国公開中の「雲のむこう、約束の場所」は其れ相応の人気を博しているらしい。今日のBlogではこの作品を制作した新海誠氏の前作に当たる「ほしのこえ」について分析してみようと思う。この作品をどのように解釈するかは見る人によって異なるが、小生の印象では「トップをねらえ」(あくまでも「2」ではない)的世界観にヲタクの願望的観念を重ね合わせたもののように読み解く事が出来た。謎の宇宙人を追跡する偉大なる人類の防衛軍――国連宇宙軍――に参加した少女とその少女を地球で待つ少年。両者の間には時間と言う存在が立ちはだかる。所謂、「浦島太郎現象」をベースにしているのである(その情景を現代的な携帯電話という存在で示している)。ここまでは世界観であるが、ヲタク的願望とは何であろうか?それは、「雲のむこう」においても示される一種の純粋性である。何故か、主人公達は少女を待ち続けるのである。一種の遠距離恋愛を描いている訳であるが、それが成立し得る可能性の高さに賭けているのである(実際面における同種の恋愛は人間と言うものが本質的に妥協的であるが故に成立し難い)。この待ちの純粋性は様々なヲタク文化に表れているものだ。無機的にコミケの行列を成立させうる姿を見れば其れは明白だ(ここで、一般でもそのような状況はあるだろうという指摘が出来るが、是について付言するならばそのような行動をしている一般人の行動はヲタク的なのである。彼らはその種の行動を行っているときはヲタクなのである)。
 しかし、この作品は純粋な意味における商業ベースにはなり得ない。確かに「ほしのこえ」は石原慎太郎東京都知事を含め各界から絶賛された。宮崎駿監督に劣るところがないとまで賞賛されたのである。しかしながら、これが一種の同人であると言う点を考慮しなければならないだろう。確かに背景やメカの描写に関しては瞠目すべき要素があるのは事実だ。しかし、人物描写に関して同様の評価を下す事は出来ないし(率直に言ってしまえば「下手」だ)、ストーリーについても完全な肯定を与える事は難しいだろう。つまり、新海誠氏の作品は高度な同人アニメなのである。無論、それを完成させた新海氏の能力は高く評価され得るものだ。繰り返すが、商業ベースとしてみるならば、不完全だ。分かりやすく行ってしまえば、同人誌がコンシューマーに決してなり得ないのと同様である。コンシューマーとは製作者の願望(思考)と言うよりも消費者の嗜好を優先しているからだ。「ほしのこえ」が日本のアニメに一石を投じているのは疑う余地は無い。ちょっとした才能さえあれば、アニメを誰もが作れる時代が来たと言う事を示しているからである。
 「ほしのこえ」――この作品は同人誌の商業化である。完全な商業化を行う為には同人の要素を捨てねばならないだろう。しかし、それは半面で訳のわからない独創性を放棄させてしまうのと同義語でもある。「雲のむこう」は分断された日本、平行世界と言った普通のアニメでは盛り込まれないであろう内容が導入されていた。何故、商業アニメで導入できないかと言えば、政治経済的要因以外にも誰もが理解できる内容で無ければならないと言う点があるからだ。このように考えていくならば、現在の日本アニメは岐路に立たされているといえるだろう。現行同様の商業アニメだけで進むのか、個々の特質を汲み取った同人アニメ化していくのかという事である。この新海誠氏に続く作品が同人から生まれてくるのであれば後者が促進されるかも知れないが、現在では前者の方が強いように小生には思われる。

資本主義における常識と自己責任

2005年01月09日 23時11分15秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 米国ブッシュ大統領とキリストは似たものなのか?いや、これは本日のBlogの本論ではない。
 確かに、偉大なる資本主義的外食産業の象徴たるマクドナルド切ってのヒーロー、に比べれば同じかもしれないが・・・(ちなみに小生は宗教的に基督教に何らの感情も抱いていない)。
 重要なのは何事も常識と自己責任だということだ。その事を現在公開中の衝撃的な映画「スーパーサイズ・ミー」は知らしめてくれる。資本主義社会とは価値の極大化を誰もが目指す社会である。そして政府はそれをなるべく妨げては成らない。妨害は公平な市場競争を阻害するからである。この現実が示してくれるのは、企業も、国家も市民の支持者足り得ないという事だろう。確かにマクドナルドに示されるようなファーストフードは我々に簡便且つ安価な食生活を提供していると言うのは厳然たる事実である。しかしながら、我々はここで一つの現実に気付かねば成らないらしい。ファーストフードは手作りの食事に比べれば健康に取って悪い食事なのである。それはそうだろう。保存料や着色料等をファーストフードでは結構使用している場合が多いが、手作りの食事にわざわざ添加剤を加える人間はいない。つまり、これは常識である。常識というものは国際法で言うところの慣習国際法みたいなものだ(厳密には違うが)。誰もが知っている事はわざわざ文面に示されないという事は無駄な所作だからだ。その観点で行くならば、常識に逆らう行動を行う事は馬鹿者に他ならない。一方で、自己責任について考えてみよう。これは企業や国家がその危険性を提示した場合の行動だ。その危険性をどのように解釈して行動するかの基準である。つまり危険だとされる行動を行う場合、その決定権はもはや市民に投げ出されていると言えるだろう。この行動における責任は全てそれを行ったものに与えられる。
 この二者は資本主義における素晴らしい方便だ。結局のところ、最終判断は個々人にあると規定しているに他ならないからである。それは、この映画が取り上げようとしているファーストフードの健康への影響と言う点においても同じである。つまり、ファーストフードが健康に危険性があるのは常識であり、企業側が精分表やカロリー計算を提示している場合は自己責任に成る。そして、それは子供への影響と言う点でも同様だ。企業が営利活動を行っているのは資本主義社会において常識であり、その行動は社会における如何なる存在にも及んでいるのもまた常識だ。無論、子供は判断能力が無いという法的能力について言及する事は可能かも知れない。しかし、その場合親権者はその権能を発揮せねばならず、その常識の中で権能を発揮しないのは単なる親権の放棄と同義語だ。
 この国は表面上は平和この上ない。物質に満たされたこの社会はまさに「地上の楽園」とでも表現するのが正しいのかも知れない。しかし、忘れてはならないのは資本主義とは騙しあいと言う事だ。如何にして相手から金を出させるのかというのがある意味では本義である。そして、資本主義にとって不健康とは市場の拡大でもある。ファーストフードの売上増は、不健康者を増大させ、これはダイエット等の新しい産業を導き出す他、保険、健康産業の拡大にも繋がるだろう。この経済システムにとって市場の拡大の為には犠牲とは止む得ないものとして解釈されるのである。