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アドルフが告げたものは~Destiny考

2005年06月26日 10時58分03秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 アドルフ・ヒトラー――。
 それは、20世紀前半に欧州大陸を軍事的に統一したドイツの指導者である。こう書くと違和感があるが、彼が独裁的な統治手法を行っていたとしてもドイツの指導者であった事は間違いない。しかもその選出プロセスは民主的に選ばれたものであった(その選出の背景となったワイマール憲法は当時世界で最も進んだ憲法とされていた)。ここで重要なのは今でこそかれは極悪非道な独裁者として歴史に記憶されているけれども、1930年代においてはドイツと言う敗戦国を甦らせた偉大な指導者であったのである。アウトバーン、労働者への余暇の提供、そして英独海軍条約によるドイツ再軍備の復活。ユダヤ人への排斥政策と言う暗部が見えなければ彼は非の打ち所の無いような指導者だったし(当時、全体主義というのはそれなりに支持されていた主義だった)、排斥される立場でなければ彼の政策は多くの人から支持されると言うのは納得の行くところだ(特にヒトラーの支持基盤が保守的な中産層だった事は記憶にとどめる必要がある)。
 これが「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」と何の関係性を持っているのかと言う点に疑問を差し挟む向きは大きいかも知れない。第2次湾岸(イラク)戦争において、米国がイラクに示した自由は定着しつつある。戦争終了後の混乱は収束しつつあり、今日ではイラク国内で爆弾テロ事件を繰り返す集団が米国への占領政策へ抵抗するレジスタンスだとは誰も見なしていない。彼らが変節したのではなく、テロを引き起こしていたのは最初から外部からイラクに侵入したテロリストだったのである。第33話においてザフトのデュランダル議長は多国籍軍産複合体「ロゴス」を敵だと認定した。これによって人類はロゴスを敵だとして結集した。しかし、キラ等「アークエンジェル」はこれに疑義を唱えている。これは、視聴者からすれば論理的に理解しにくい点があるのではないだろうか(無論、主人公たる「アークエンジェル」が常に「正義」であると言う確固たる信仰を持っているのならば話は別だが)。「ロゴス」を敵としてみない「アークエンジェル」は「正義」の論理に反しているように一見すると思えるからだ。
 しかし、ここで視点を少しずらしてみよう。国内の求心力を得る為に外部に敵を見出すのは何れの国もが行う常套手段だ。このSEED世界の戦争構図も本質的にはそこに帰結しようとしている。だが、ここで話を整理してみると「ロゴス」が第2次世界大戦における「ユダヤ人」の立場を当てはめているように解釈できなくもない。「ユダヤ人」を敵とレッテルを貼ることによって求心力を高めると共に絶滅戦争も正当化する訳である(ユダヤ人が戦争で儲けているというのはナチスが批判の口実によく使っていた事を想起したい)。ロゴスはユーラシア西部の紛争においてデストロイガンダム等による大量破壊を実行した。ユーラシア西部というと漠然だが、地図で見るとどうも現在の中東辺りをさしているらしい。世界各国に太い人脈を有し、ユーラシア西部の民衆に残虐な行為を行う――これはイスラエルと言う国家の姿にも重なって見える(そしてあまり知られていないことだが、イスラエルがある意味で見境無く兵器を輸出する国家であるのも事実だ)。考えたくも無いが、暗にイスラエルの政策を批判しているというようにも捉えられてしまうのがこの構図だ。以前、小生はこのBlogにおいて「アークエンジェル」は最強の武力と言う点においてこの世界におけるアメリカの地位を有していると言及した。この観点から見れば、イスラエルと米国が共闘関係にあるように見えてしまうというのも説明できるだろう。しかし、ここで気をつけたいのが米国が必ずしもイスラエルの代弁者ではないという点だ。確かに現今の世界情勢において米国はイスラエル寄りの政策を示しているが、細部において必ずしも両者が協調関係にあるわけではない。現に世界各国がイスラエルに好意的な政策を示すようになったのは第2次世界大戦後であるからだ。
 デュランダル議長の主張は、人間はその目的に沿った人生を歩むべきだというものだ。この考え方も一種の全体主義思想に通じるものがある。ヒトラーはアーリア民族の優越性の語ると共にその民族の使命を語った。そしてその対極におかれたのがユダヤ人であった。では、このデュランダル議長の方針へ対峙する「アークエンジェル」は正義なのかといえばそうではない。そもそも彼らの「正義」が個としての「正義」でしかないからである。この点においてはデュランダル議長の言う言葉は正しい。結局のところは、個を中心にストーリーを構築するという機動戦士ガンダムSEEDの世界観に問題があるのである。

帝国秩序と紐育~サクラ大戦Ⅴ

2005年06月16日 22時36分26秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 7月7日にセガから発売される「サクラ大戦Ⅴ~さらば愛しき人よ~」に関して東京都交通局がTカード(パスネット)を発売する事となった。これは何も驚くべき事ではないだろう。東京都交通局は以前から年に二回お台場で開催される「コミックマーケット」の潜在的な支持者であったし、東京都の石原慎太郎都知事はアニメやゲーム等を日本の今後の基幹産業として認識している。そして、「サクラ大戦」は周知の通り帝都・東京を舞台としたゲームなのである。これを民間活力を重視したい東京都が手を拱いている訳がない。
 「サクラ大戦Ⅴ」は1996年に発売された「サクラ大戦」シリーズの最新作であり、舞台は東京、巴里を経て紐育の登場となった。「サクラ大戦」というゲームを分かりやすく紹介するならば、主人公他の正義の味方が「愛の御旗」の下で悪を討つという内容である。「サクラ大戦Ⅴ」の舞台は1920年代であるので一概には比較しようが無いが、まさに2001年9月11日の米国同時多発テロ事件後に相応しいゲームと言えるのではあるまいか。紐育華劇(華撃)団星組にも、東京、巴里同様に人種、宗教、国籍を超えた多くの「乙女」が参集する事によって構成されている。指揮官は無論、アメリカ人である。この構図は以前にも当Blogにおいても言及したが、帝国秩序と言わざるを得ないだろう。そして、製作者側に意図があるか無いかは不明であるが米国を主軸とした「有志連合」の存在を思い浮かべてしまう。
 しかし、ここで我々は重大な煩悶を抱かざるを得ないのだ。米国は民主主義国家であり、所謂ローマ帝国のような「帝国」秩序とは存在が異なっているのである(「デモクラシーの帝国」という言葉も存在しているが)。現在の国家は民族自決による「帝国」の崩壊によって国民国家を形成していった。この状況を「帝国」で解釈してしまうならば、「国民国家」のシステムを崩壊させようとしてテロ行為を行うイスラム原理主義過激派勢力等が「国民国家」を樹立する存在として描き上げられてしまうのである。一見するならば、帝国秩序として描き出される「サクラ大戦」であるが、その舞台が「帝国」にあごがれ続けるものの(周知の通りニューヨークには「エンパイアー・ステートビル」がある)「帝国」から最も離れた位置に存在する米国に舞台を置いた時にその解釈論は旧来のものと異なった視点を付与されて語られなければならないとも言えるのかも知れない。