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ソフトパワー・世界へ~コミケ67考

2004年12月31日 02時06分16秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 日本最大(そして恐らく世界最大)の同人誌即売会コミックマーケット67が12月29、30日に東京都下お台場東京ビックサイトにて開催された。今まで小生は、このコミケ分析を社会学的見地から小生HPの「世情雑記」において分析してきたが、今回からはこのBlogで分析してみる事とする。
 コミケはただ単なる同人誌の即売会ではない。コスプレ会場でもあるし、サブカルチャー系の企業にとっては格好の宣伝会場である。その企業が出店するのが企業ブースである。その会場で目を引いたのが年齢制限仕様ゲーム業界で「マブラブ」等のヒット作を製作した「age」のブースであった。このブースのスタッフは全員が国連平和維持軍が着用する青いベレー帽を被っていた。それは単なるコスプレにしか過ぎないだろうというのが世間一般の見方と言うものかも知れない。企業ブースでパンフレットを配っているメイドのコスプレをした人々と同様の存在であると言うのは極めて妥当な思考である。しかしながら、彼等が意図したかは別として世界平和にある意味で貢献しているのは事実なのである。
 ソフトパワーという言葉がある。
 米国の著名な政治学者であるジョセフ・ナイが使用している用語だ。この語は軍事力に象徴される国家のハードパワーと対比的に扱われる。その国が持つ文化や習慣を含めた相対的な国家的魅力の大小が国際政治に大きな影響を与えていると言うのがそ語の根幹である。このソフトパワーというものは今や世界各国でも関心を浴びている。国際政治に無頓着に行動しているという言説がある我が国でさえ、小泉首相が本年秋に召集された第161回国会の所信表明演説において「映画やアニメ、能や歌舞伎など内外の人々を魅了する
文化・芸術を振興し、豊かな国づくりを進めます」と述べているほどなのだ。これらの文化の中で我が国が今後力を注ごうとしているのが漫画やアニメ等であるのは周知の通りである。つい数年前までは我が国の恥部として認識されていたものが、象徴へと変化したのだから180度的な転換だ。コミケの主軸である同人誌と言う存在は多くがアニメや漫画、ゲームを基礎として成立している。つまり、ある意味では二次市場と言えるだろう。二次市場が豊穣であると言うことは、其れほどまでに我が国のサブカルチャーは大きな影響を持っているということだ。
 このサブカルチャーは我が国の最大のソフトパワーである。確かにSONYやTOYOTAも世界においては大きな評価を得ており、ソフトパワーであることは言うまでも無い。しかし、工業製品は後発国や企業の追い上げによって直に評価が変わってしまう事が多い。IBMパソコン部門が中国のLenovoに売却され、或いは日本の企業が世界市場から米国製品を駆逐していったようにである。しかし、日本のサブカルチャーの一種の無思想性は未だ他国の追随を許していない。だからこそ、コミケという日本文化に対する諸外国の関心も大きい。コミケ会場にも多くの外国人の姿を見る事が出来るし(近隣諸国・地域からはツアーも企画されている)、台湾のようにコミケを始めてしまう地域もある。それは、それだけ日本のソフトパワーが影響を与えているという事なのである。
 国連のベレー帽は国連と言う幻想さに裏打ちされたソフトパワーの持つハードパワーである。そのコスプレが日本のサブカルチャーが生み出すソフトパワーを補強している。21世紀に世界が抱える多くの問題をハードパワーだけで解決する事は難しくソフトパワーの活用は重要である。コミケの企業ブースへ出店した一企業のコスプレは国際社会を平和にする一端を担っているとも言えるのかも知れないだろう。

不安定だが、安定した三角形

2004年12月29日 23時27分00秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 三角関係という人間関係は多くの小説、ドラマ、漫画、映画等の題材に使われる。例えば、日本の韓流ブームを巻き起こした「冬のソナタ」がまさにそれであるし、本日言及しようとしている年齢制限仕様ゲームにおいても同様の傾向が見られる(無論、構成が男2女1なのか男1女2なのかという差異はあるにせよ)。それは三角形という構造が安定しているといわれているからだ。三者三様の思惑が交錯する情景を描き出す時に三角形と言う形は最も分かりやすい構図を提供している(4者の場合は1対3か2対2のグループへと移行していく傾向がある)。この三者三様の思惑とはゲーム理論で言うところのナッシュ均衡であると言えるのかも知れない。三者の最善が存在しながらも、実質的には三者の最悪に落ち着いてしまうと言うものだ。三角関係の人間ドラマとはこのゲーム理論のマトリックスの中で展開される人間関係なのだとも極言出来るかも知れない。
 我が国の年齢制限仕様のゲームを製作しているメーカーに「Overflow」という会社がある。この会社の新作の「School Days」(明年2/25発売予定)というある意味でそのままなタイトルをつけられた作品は、この三角関係をドラマ的に仕上げている作品と言えるかも知れない(現在、第1話、第2話体験版が公開されているので内容自体はこれらで確認して頂きたい)。この作品はこの種のゲーム業界に一石を投じる作品となるかもしれない。この種のゲームにおけるクオリティと言うものを追求しようとした「age」の「君が望む永遠」のようにだ。この「School Days」の描写がアニメーション的に展開されていくという事だ。その質も俄か作りではなく其れなりに作りこんでると言っても良いだろう。質と言う点において、ゲーム会社独自に作ったという点を考慮するのであるならば、その意義は新海誠の「雲のむこう、約束の場所」に匹敵し得るかも知れない(ちなみに新海誠の「ほしのこえ」はしばしば同人ゲーム「月姫」と対比される)。そもそもにおいて、「School Days」はこの種のゲーマーとは対象が異なるゲーマーに焦点を併せているかのような印象を受ける。それは要求する性能が極めて高いということだ。メーカーのHPで公開されている仕様に拠ればCPUはPentiumⅣ1.5Ghz以上、RAMは384MB以上、VRAMは64MB以上とその要求性能は3DCGを多用した欧米製の一般ゲームかオンラインゲームに近いものがある(体験版でもほぼ同スペックが要求されるし<*>、必要HDD量も体験版なのに730MBに達している)。確かに現在発売されているPCにおいてこれらの性能を備えている事は当たり前とも言えるが、年齢制限仕様ゲーム業界の標準が5年前のPCでも十分に動くと言う点とは一線を画している。この種のゲームを好む人々は得てしてPCのチューニング等には余り関心を抱かず、高性能PCを自作して使用する人々とは嗜好が異なると言われて来ているからである。
 このスペックと高水準のアニメーションを多様という手法は、ユーザーとしてどのような層を想定しているのかと言うものも見えてくる。DVD/HDDレコーダーというものが新しい録画機器として注目されて来ており、市場を猛烈な勢いで拡大しているが、このDVD/HDDレコーダーのそもそもの発端はTVチューナーとDVD、HDDを連結させた自作PCで有ると言われている。高性能なCPU、大容量のVRAM、HDD――この種の自作PCを製作する人々には、アニメを敬愛する人々が多いと言われておりこの作品はこれらの人々をターゲットとしているのかも知れない。
 もっとも、大容量化は純粋にシナリオとそれに基づくアニメーション部分に容量が大きく取られている点に起因しているようにも思われなくもない。三角関係とは心情の機微をどの程度プレイヤーに伝わるのかと言う部分が成否を握っているとも言える。現に、「君が望む永遠」は音楽、台詞、描写演出に等に於いて詳細な検討が行われている。アニメーション化は連続性という部分において、それを表現しやすくする一方で、リアリティを追求出来なければ誰もが投げ出してしまうと言う難しさも併せ持っている。しかし、この「School Days」は体験版等を見る限りにおいてはそこそこの所までは行けるという見方も出来るかも知れない。より重要なのは、三角関係という極めて陳腐化された内容にどの部分まで斬新性を盛り込む事が出来るのかにかかっているのかも知れないだろう。

<*>但し、PC環境次第ではこの動作環境に適合していなくても不安定ながら動作するようである(VRAMが小さいと処理が追いつかなかったりするようだ)。

MOETANⅡ

2004年12月28日 17時16分19秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 「もえたん」、それは英単語帳である。
 しかし、ただの英単語帳ではない――「萌える英単語帳」だ。
 2次元の美少女が優しく大学受験生を英語の世界へと誘ってくれる。世界的に見ても英語の水準が立ち遅れていると言う日本の若年層には革新的な一品だ。三才ブックスから2003年に世に送り出された革新的単語帳の第二弾「moetanⅡ」が店頭に並び始めている。しかも、今度は上下巻で現在店頭を賑わせているのは上巻である。何故、この「もえたん」が衝撃的なのかと言えば、今までの受験参考書にありがちな能面のような紙面を脱してカラフルかつ動画的に受験勉強を楽しめるようになったと言うコペルニクス的な点にあるだろう。多くの、そしてこの国で生活している人々の大半が受験と呼ばれるイベントを経験している。この受験の結果によって人生すら左右されてしまう事があるという現実において受験における勉強内容の成否が人生を分けると言っても過言ではないだろう。そして、やるならばいやいややるよりも楽しんでやるべきではないか?という発想から生み出されている本書はサブカルチャー好きな受験生だけではなく、既に受験生と言う立場を脱した人々にも広く受け入れられたと言えるのではないだろうか。何しろアマゾン・ドット・コムで売上一位を記録した20万部の大ベストセラーなのである。
 それは置いておくとして、「柔らかな萌え」で描かれた「moetanⅡ」はより先鋭的なアプローチを受験生に対して展開している。この「もえたん」のHP(http://www.moetan.jp/)において公開されているプロモーション映像を見て頂ければよく分かる。そもそも、英単語帳にプロモ映像が存在している事自体が常軌を逸している(恐らくプロも映像付の初の参考書ではあるまいか)。そしてそのプロモ映像は、明らかに年齢制限仕様の美少女ゲームのOP映像やデモムービーを模して作られているのだ。しかし、ここでこれがおかしな現実だという事に気付かねばならない。この映像は明らかに年齢制限美少女ゲームを模して作られているが、これを単語帳として購入する受験生は大学受験(なんと、Ⅱでは難関大学も想定に入れているらしい)を想定している以上、高校生であると考えるのが妥当だろう(無論、浪人生も買うかもしれない)。つまり、常識的に考えるならばこの映像の持つ意味合いについて主購買層たる高校生は理解出来ない事になる。確かに、今時の高校生が法的規範に則って年齢制限仕様の美少女ゲームをやっていない訳はないではないかという意見は極めて不穏当であるが、現実的である。しかし、そのような現実があるにせよ、正規の販売ルートに乗せている品物のプロモ映像に若者の法規違反を導くような行動を肯定する要素を含めるだろうか。常識的には考え難い。ならば、これは受験生にとって福音を与えようとしていると考える事が出来るのではないだろうか。
 大学にこの単語帳を使って合格できれば、君達にも輝かしい「萌」の世界が待ち受けているのだと――。
 それが良い事なのか悪い事なのかは、現時点において判断されるべき事ではないし、何よりも如何なる参考書を用いたとしても受験において志望校に合格するのはその人の努力にかかっている。そして、不正行為を行わない限り如何なる手法を受験勉強においてとっていようと受かってしまえばよいと言うのが現在の日本だ。そう、どんな手段であっても努力は肯定されるべき存在なのである。

「萌え上がる」怒り

2004年12月25日 23時44分58秒 | 世情雑感(妄想政治論)
 我が国から海を渡った先にある半島の北部に某国との関係が急速に悪化している。
 我が国の政府はこの国の政府に対して「厳しい対応も」行う可能性があるとした調査報告書を手交した。某国にとっては痛烈なクリスマスプレゼントになった事だろう。「厳しい対応」とは経済制裁の事だ。我が国に経済面で依存度の高いと言う言説が実しやかに流れている某国には経済制裁は大打撃になると言う。それは事実なのかも知れない。某国は経済制裁もあり得ると言う、我が国の世論とそれを主導しているとされる右翼勢力に対する警告を発し続けている(我が国政府との外交チャンネルを閉ざさないようにしている姿勢は某国の外交巧者ぶり示していよう)。この某国の警告もまた「強力な物理的方法」とまた威勢がよい。しかし、この流れは止められないのかも知れない。燃え上がった怒りは水でもかければ正気に戻り収まるが、「萌え上がった」怒りは如何ともしがたい。
 「漫画アクション」誌(第1、第3火曜日発売、双葉社)が連載を開始した「めぐみ」は日本国民の怒りを「萌え上がらせ」ている。「めぐみ」は横田夫妻が執筆した拉致への怒りを表した同名書籍の漫画化である。この事件がどのような事件であったかをここでくどくどと説明する必要はあるまい。テレビや新聞で大々的に報道され我が国国民にとっては周知の事実だからである。この「めぐみ」の吊り広告(http://www.futabasha.co.jp/assets/html/magazine/img/action/20041221/ad.html?SESSIONID=33abb4646dabe516e0dc9f0a8d9076e9)を御覧頂きたい。めぐみさんが柔らかな「萌え」として描かれているのである。柔らかなと書いたのは近年の顔面の過半を占める眼を描いて「萌え」と称する(一部の人にしか受けないような)描写ではなく、万人が納得をできるという側面においてである。このような「萌え」な少女が某国への更なる怒りを「萌え上がら」せるのは目に見えている。電車の吊り広告を見た人々は思うだろう。某国は「このような可憐な少女を拉致するとは、なんと不倶戴天の敵なのだろうか」と。まさに国民の感情のスイッチをオンにしてしまうのには十分なインパクトだ。某国は我が国のテレビ報道等をウォッチしていて対応してくると言う。果たしてこの漫画版「めぐみ」に対してはどのような対応をしてくるのだろうか。
 我が国の対某国世論は悪化の一途を辿っているし、それを止めるだけの努力は某国と我が国の双方において行われているのは事実なのだが、それが裏目に出ていると言うのも事実である。経済制裁は武力制裁に至る可能性を有していなければ意味がないと言うのも周知の事実だ。その事実を政府が知らぬ筈はない。と言う事は世界最強の同盟国との間で武力制裁への筋道も既に出来つつあると言う事だろうか。「萌え」に象徴される我が国サブカルチャーは世界に喧伝されるべきものとされている。そのソフト・パワーを使うべきであると言う訳だ。某国との間に戦争が起こり、某国において王朝体制を敷くメガネを掛けた小太りの独裁者が滅ぼされるという事になるならば、それはまさに「萌え」というソフト・パワーが世界を変えるという新しき世界を示す事になるのではないだろうか。
 「めぐみ」は拉致問題を訴えた内容である。まかり間違っても「萌え」漫画ではない。この事は最後に付言しておかねばならない。

サンタクロース追跡(?)

2004年12月24日 21時59分42秒 | 世情雑感(社会情勢)
 アメリカ本土を防衛するNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)は毎年その世界中そして宇宙に張り巡らした探索システムの総力を挙げたサンタクロース追跡作戦を実施している(今年で50回目になるそうだ)。納税者の皆さんにNORADの誇る技術の一端をユーモラスに使用して頂く為に行っているイベントなのであろう。この追跡作戦用のHPには日本語版も存在している(http://www.noradsanta.org/japanese/)。もっとも、サンタクロースが実際に探知される事はない。一説によれば、サンタクロースが全世界の子供達にプレゼントを配って歩く為には時速370万キロの速度が要求されると言う。実際にその速さで世界を回っているかは想像に委ねる部分として、12月24日から25日にかけてNORADが探知した目標があったとすればそれは米国へ向かってくる弾道弾かUFO位なものだろう(無論、そのような事態になると言う自体が世界に何らかの重大事が訪れるのと同義語である)。
 それとは別にこの時期になると街中にはサンタクロース姿の人々が溢れ出す。そのような服装をする事を普通の時期においてはコスプレと言うのだがその点に関して誰も言及しない。そこで今日は、街中を歩いていて発見した「サンタクロース」について論評してみたい(相当にお馬鹿なBlogだ)と思う。それでは遭遇したサンタについて時系列的に紹介して行こう。小生がサンタクロースに最初に注目したのは今朝(0900時)、ふとした要事から拠った首都圏近郊の某県某市のコンビニエンスストアの店員がサンタクロース姿であった事だった。サンタクロースはプレゼントをくれるどころかきちんと小生に商品の代金を請求してきた。次にサンタを目撃したのは東京・山手線内北西部の某駅前にあるファーストフード店の前(1230時)であった。サンタクロースはトナカイと共に何故か「ピカチュウ」のおまけを振りかざしながら呼び込みをしていた。これまたプレゼントを配っている訳ではない。一方でサンタクロースが存在しない街もあった。東京中心にある古本の街・神保町(1300時)では人々はこぞって新年から使用されるであろう手帳を買い求めていたのである。
 この神保町の近くには日常からコスプレしていても誰も驚きはしないという秋葉原という電気街である一方でサブカルチャーに制圧された街が存在している。其処では恐らくサンタクロースが氾濫(反乱)しているに違いないと考えて小生は秋葉原に向かった(1415時、無論、サンタを探しに「逝く」為ではなく別の要事があったのだ)。果たして秋葉原はサンタで満ちていた。ゲームセンター「秋葉原ギーゴ」ではサンタが店の前を掃除していたし、「Laoxホビー館」にも髭までつけたサンタクロースがおり、外国人にデジカメで写真を撮られていたし、その横を何故か浴衣にちょんまげを結ったお相撲さんが店内に入っていくと言う貴重な情景も目撃した(ここで「MOETANⅡ」なる怪しげな書籍を発見したがその想像され得る内容については言及しない事にしよう)。我が国において西洋から入ってきた異教の文化と我が国独自の文化が融合していると言うのは事実らしい(考えてみれば相撲とはそもそもは我が国の神事である)。次に中央通り沿いに上野方面へ進行していくと「TEPCOひかり」やら「YahooBB」の販売員がサンタの帽子を被っている。まぁ、彼等の格好自体には違和感がない。何故ならば彼等は何時もサービス名が入った赤いパーカーを着用しているからだ。単純に其処に帽子を被っているだけだ。彼等は道行く人々にサービス内容を記載したビラを配布している。初めて出会うプレゼント系サンタだが、彼等はビラを配布した後でサービスの勧誘をしようとしてくるのだからプレゼントをくれる純粋なサンタではない。秋葉原はビラを配る人が結構存在している。多くは、何時もメイド服を着用している女性達だが、今日ばかりはサンタ服が多い。こう見てしまうと秋葉原が新宿や渋谷の街頭とでも言えるかのような状況である(掲載した写真を見れば分かるが、街の様子自体は何時もの金曜日と変わらない。若者が多いのは今日が繰り返すが「金曜日」だからである<※>)。末広町の交差点で折り返し秋葉原駅の方向へ向かう。途中で埼玉方面で店舗が放火された「ドンキホーテ」の前を通る。あの事件のせいからか店舗の前にたむろっている人々は少ない。
 店内を覗き込むと・・・いました、メイド服を丹精に着こなしながらサンタ帽子を被った最狂なサンタメイドが・・・(爆)。
 まぁ、このドンキホーテの中にはテレビにも取り上げられるメイド喫茶なる珍奇な存在があるから(この街には他にも幾つかあるらしいが、場所的には一番目立つ場所だろう)理解は出来るのできなくはないが。やはり、秋葉原は何時もが異状であるが故にクリスマス・イブという世間で言う非日常(ある意味では「祭」)が「祭」になっていないように思われる。日常が「祭」の街に訪れたまさに年に一度の安息日であろうか。続いて京浜東北線で東京駅に南下(1500時)。オアゾの地下街を見るが、此処にもサンタはいた。欧米系飲食店に限らず中華料理店までにもサンタクロースが存在すると言う無節操さには笑わされるが、これはサンタクロースが夢を叶える存在と言う誰もが心の中において抱いている願望を刺激させる為なのであろう。それは商売に携らない一般の人々においても同様のようである。何故か、この時期、カップルのうちで女性が赤いコートを着ている情景を間々見受ける。これも一種のサンタクロースのコスプレであると考える事も出来るだろう。夢を叶えるのは私と言う訳だ。
 サンタクロースは欧米伝来の風習に過ぎないが、日本人はそれを夢を叶える一種のツール(特に人が「特殊を力」を獲得する為に仮面を被るように)として使用しているようである。そして、それは人々の心を補完している。人々はサンタからモノを渡される事によって季節的、心理的充足を得、売り手はサンタに姿を仮託する事によってより強い力を得たかのような意識を持つ。サンタクロースと言う存在はプラスサムの要因であるが故に我が国に定着したと言えるだろう。世界の多くの人に言わせるならば日本人とは優れた機会主義者であるそうだから。

<※>分からない人々為に申し上げると、金曜日には一般、年齢制限の多くのゲームが発売される。それを買いに来る人、特典だけ得て商品自体を中古ショップに販売する人等が秋葉原を交錯するのである。

「スクラン」という笑撃

2004年12月19日 22時26分44秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 「School Rumble」はアニメ化もされ漫画も先日第7巻が刊行される等、表に見えない部分で静かなる笑撃を各方面に展開している。前巻に引き続き主人公に成り得る筈の烏丸は相変わらず登場せず、明らかに播磨の漫画執筆漫画と化している本作品だが(付言するならば、播磨とその周りを取り巻く女性達との関係も一見すると進展しているかのようにも見える)、設定の誇大妄想さ感心してしまうほどだ。読んでいれば、笑って飛ばしてしまうが、何故、播磨が失恋するとマグロ遠洋漁船に乗らねばならないのか(外国へ行くと言うだけならば別の手段もあろう)、そして何故、マグロ遠洋漁船の船長が元漫画家でなければならないのかと言う部分が脈絡なく展開されている。ある意味で漫画家自身の現状(漫画執筆の部分は)を描いているとも考えられ、そうであるとするならばネタ切れか?という疑問も涌いてくる。ただ、完全に脈絡がない訳ではない。それは基本的に播磨が天満に恋し、天満は烏丸に恋しているという基本構造が継続されているからだ。基本構造が余りにも単純であるが故に、何でも出来てしまうと言うのがこの漫画の最大の特徴だろう。
 次巻では予告を見る限りでは「今度は戦争だ!!」と言う事である。無論、これは真実の戦争を描く訳ではないが、サバゲーすら内包出来るこの作品の背景的余地には感服せざるを得ない。ある意味ではかの1980年代の名作学園ラブコメ(?)の「うる星やつら」に類似するものを持っているだろう(「うる星やつら」はこの規模を宇宙にまで拡大させていたが、「スクラン」も今後宇宙に拡大していく事も有り得るかも知れない)。
 このスクランという作品は常に我々に「いきなり笑顔で核攻撃」を繰り出してくる漫画なのである。

ホリエモン、宇宙へ!?

2004年12月16日 21時15分28秒 | 世情雑感(社会情勢)
 プロ野球新規参入を表明し、楽天に敗れたものの次々と画期的なプランを世にぶち上げるライブドアの堀江貴文社長が今度はライブドアによる宇宙進出を公言した。しかも、それを公言したのは我が国の宇宙開発を主導する宇宙航空研究開発機構(JAXA)主催の「宇宙の利用を考えるシンポジウム」においてである(http://www.jaxa.jp/news_topics/hot_topics/index_j.html)。堀江社長は「数年以内に日本初の民間有人ロケットを打ち上げる計画を持っている。ブッシュ米大統領より先に、火星に人を送りたい」と大風呂敷を広げ、米国の民間有人宇宙飛行計画の成功や、ロシアの民間人の宇宙旅行に世界のIT関連企業が資金面で関与している事をしている事を指摘し、「日本の宇宙開発には夢がない。われわれベンチャーが成果を挙げて、市場を開拓したい」と旧態依然の宇宙開発姿勢を示すJAXAを一喝した(http://www.kahoku.co.jp/news/2004/12/2004121601001192.htm)。しかも、ロシアからロケットエンジンを購入する考えを明らかにしたと言う。この計画をどれほど堀江社長が本気で言っているのかは分からないが、今まで日本では衛星利用(通信、放送、衛星写真等)と言う面では民間企業が参入していたが宇宙旅行やロケット打ち上げと言う面ではまったくと言って言うほどJAXA任せであった。無論、これはリスクを最低限にして最大限の収益をあげようと言う日本式資本主義の結果であると言ってしまえばそのままであるが、宇宙開発は国家的事業という見方が強かったのも事実である。その左証が中国の有人宇宙船打ち上げ後に出た日本でも有人宇宙飛行計画をという意見であった。此処での計画は基本的にJAXAが有人宇宙船を打ち上げると言うものだったが、その計画すらまともに纏まらないうちに米国では民間企業スペース・コンポジッツ社が「スペースシップ・ワン」という有人宇宙船による宇宙飛行を成功させてしまった。このように考えるならば、堀江社長がぶちあげた有人宇宙飛行計画もあながち非現実的とは言えない(無論、それをやる意思が本当にあるのかは疑問があるのだが)。日本の宇宙開発がNASDA(宇宙開発事業団)、ISAS(宇宙科学研究所)、NAL(航空宇宙技術研究所)と分かれていたものが独立採算のJAXAへと統合された背景には民間活力を生かした宇宙開発という方向性があったからに他ならない。しかし、現状では開発体制が統合されただけであり(あとは、東京本部が浜松町の世界貿易センタービルから大手町のオアゾに移った位か)、特に新しい事業を始めた訳ではない(無論、H2A6号機の失敗に関する様々な事象が存在している事は理解しなければならない)。日本の宇宙開発は目的をもっていないとしばしば言われている。そして、それは日本の宇宙開発が一流国の証を求めると言う目的だけで行われているからだと言う事もしばしば指摘されるところだ。目的ある宇宙開発、それは日本の場合は如何にして新しいビジネスモデルを宇宙において確立するかにあるだろう。その実効性の有無は別にして有人宇宙飛行計画をぶちがえた堀江社長の今後の動きには注目してみたいところだ。
 

上海燃えゆ

2004年12月15日 15時34分07秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 中国の経済発展と共に上海と言う街がクローズアップされて来ていると言えるだろう。上海は今や北京以上に中国を象徴する都市と言っても過言ではない(上海は戦前は欧米の租界が広がっており、アジアにおける一大商業都市だった子を考えれば再認識が正しいのかも知れない)。このような背景があるからかは分からないが、上海を「壊滅」させる作品と言うものを最近は多く見るようになった。例えば、毎週土曜日夕刻に放送されている「機動戦士ガンダムSEED Destiny」ではユニウスセブンの破片の落下によって上海が消滅しているし、現在全国公開中の映画「ゴジラファイナルウォーズ」においても怪獣アンギラスが上海市内を破壊し尽くす。ここで指摘できる点は、目立つ建造物がある都市は映画やアニメにおいて「破壊」し易いと言う事だろう。そのような視点で考えるならば上海にあり最も注目される建物は、1995年1月1日に完成したオリエンタルパールタワー(468メートル)だろう。上海を睥睨するかのように立つこのタワーは先に指摘した二作品においても上海を示す象徴として登場している。「ガンダムSEED Destiny」では破片が激突する瞬間にタワーの姿が中央に描かれているし、「ゴジラファイナルウォーズ」では地球防衛軍の空中戦艦「火龍」がタワーに激突している。このような描写は上海と言う都市が、重要であると日本人に認知されてきた事の現れであるとも言えるのではないだろうか。今までの映画やアニメにおいて破壊される都市は日本の都市であるか、欧米の都市であった。機動戦士ガンダムシリーズでもコロニーが落ちたのはシドニーとダブリンという西欧に属する都市である(「逆襲のシャア」ではチベットのラサに小惑星落としが成功しているが)。しかし、中国の経済成長は中国の存在感を増大させている。そして上海にあるのは歴史と言うよりも商業都市としてのイメージである。そして歴史的建造物というものは現代文明を象徴する存在であるとは言い難い。このような映画やアニメにおいて重要なのは現代の科学文明が破壊される部分が重要だからである。このように考えていくならば、今後も上海は「燃え」続ける事になるだろう。

GODZILLA――其れは、全てを破壊し尽くす幻想の巨獣

2004年12月12日 23時28分42秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 「やっぱり、マグロ喰ってるよーな奴は駄目だな・・・次!」。
 これは12月4日から公開されている映画「ゴジラファイナルウォーズ」の中でX星人参謀/統制官(官と言うよりは「漢」と表現するのが正しいのかも知れない)が、シドニーでゴジラを迎え撃ったジラ(1997年の米国版ゴジラのゴジラではないかと言われる)が一撃の下に粉砕された時に発した台詞である。このシーンは、この映画において何も特別な部分であるから紹介している訳ではない。「マトリックス」張りのワイヤーワークに、シートベルトを着用してHONDAの軽トラの助手席に座るミニラ(警察庁が見たら涙を流しそうな情景だ)、そして全人類を家畜化すると公然と言い放つX星人参謀役の北村一輝の名演技・・・etc、これら全てがこのゴジラ最終作を最高のエンターティメントとして仕上げる道具となっている。無論、これは小生がゴジラ映画と言うものと無縁な位置にいる一介の映画観賞人だからかも知れない。その半面で、これらの部分はゴジラ映画と言うものを愛しつづけた怪獣映画ファンにとっては容認する事が出来ない情景なのかも知れない。この映画は本来ならば、ゴジラと共に主役を張る筈の怪獣達を次から次へと登場させてと言えば言葉が良いが、実際には使い捨てにしているようなものだからだ(冒頭の発言はその一部である)。しかし、これは批判すべき部分ではない。世間一般の人々にとってゴジラ映画とは怪獣のプロレスでしかなく、子供達にとっては多くの怪獣が登場すると言う事はそれだけで魅力的だからである。
 このゴジラについての詳細は今後、小生HPのG2分類における「キネマ雑記」において行う事にして、今回のBlogではこのゴジラのエンターティメント性という部分に焦点を合わせてみたい。ゴジラと言う映画は素人にはとっつき難い部分がある。特に何の関心もなかった人が旧に見ても面白いとはいえないだろう。それは言ってしまえば、ゴジラ世界観と言うべきものが根底に存在していたからだろう。ゴジラと言う世界を咀嚼しなければその面白さにはたどり着けないような部分があった。だからこそ世間一般ではその著名さの裏で怪獣のプロレスと揶揄されたのである。しかし、今回のゴジラには其れはない。何故ならば、現実と言うものをどうでも良いとでも言うかのように完全に投げ捨てているのである。つまり、ゴジラと言う存在が幻想の怪獣であるならば、世界そのものも幻想であっても良いではないかと言う訳である。その為に科学的講釈等は無視した上でのアクション映画になっているのである。怪獣映画と言う割には人間同士の格闘シーンが以上に多いのもその典型だ。しかし、これは何も批判すべきではない。このような今までのゴジラと言うものの観念を破壊し尽くした最終作が作られたのは評価すべき事なのだ。ゴジラは半世紀に渡る歴史がある為にゴジラ批評やゴジラ論と言ったゴジラへの解釈学がまかり通っていた。しかし、解釈学はそれを知りうるものの議論にしか過ぎない(学者同士の議論を普通の人が聞いても面白くないのと同じだ)。その点において今回の映画はこのようなゴジラの解釈学を完全に粉砕し尽くしてくれたと言えるのではないだろうか。

 GODZILLA――其れは、全てを破壊し尽くす幻想の巨獣である。

補足:ゴジラと自衛隊。それは「やるもの」と「やられるもの」の関係であると言っても過言ではない。ゴジラを知る者にとっては自衛隊とはやられ役である。しかし、その両者には密接な関連性がある。それは共に今年が50周年であると言う点である。だからか分からないが映画館の売店では平成16年版防衛白書のコンパクト版が発売されていた。一見すると関係のないような二つのコラボレーションは時代と言うもの、そして我が国の防衛と言うものを考える上で大変に興味深いと言えるのかも知れない。
 冷戦体制の崩壊から10年を経て自衛隊の仮想敵がまた一つ消えていった。
 
 その名はGODZILLAと言う。

さらばIBMPC

2004年12月08日 15時34分22秒 | 世情雑感(社会情勢)
 IBMパソコンと言えば、1980年代から90年代にかけてパーソナルコンピュータの代名詞であった。このIBMPCがIBMから中国の聯想(Lenovo)集団へ1800億円で売却される事が正式に発表された(日本の東芝にも交渉が持ち込まれたが交渉が纏まらなかったと言う)。IBMは安値競争が止まらないPCをもはや家電として判断しており、今後はエンタープライズ部門をより強化して行くと言う(以前にもIBMはハードディスク部門を日立に売却している)。1981年のパソコン発売以来、パソコン業界の実質的な標準として君臨してきた。当時はOSと言うよりもパソコンの機種との互換性が重視されていた時代でもあり、PC/AT互換機と言えば、IBMが1984年に発売し内部仕様を公開したパソコンであるPC/ATとの互換性がある事を示している。発売以来独自路線を貫くMachintosh等を除く、この後に登場するMS-DOS搭載機やWindows搭載機はすべてこのPC/AT互換機の延長線上に存在している(ちなみにWindows機=PC/AT互換機という見方が世間ではあるが正確ではなく、Linuxマシーン等でもPC/AT互換機がある。と言うよりもLinuxはPC/AT互換機上でも動くOSである)。
 現在では大半がPC/AT互換機である上に、パソコンが業界標準を作ると言うよりはOSが業界標準を決定するような状況になっている為に、IBMは単なるパソコンメーカーとしてしか見られていない。しかし、半導体大手の米国Intelやソフト大手Microsoftが現在の地位を築けたのはCPUやOSがIBMPCに採用されたからに他ならない。今でこそ堅牢な(国際宇宙ステーションでさえ使用される)ThinkPadのメーカーという認識を受けやすいIBMだが、PCの歴史(たか4半世紀ほどだが)と言うものを振り返って見るならば大きな役割を果たしていたことが分かると言うものである。もっとも、ThinkPadというブランドが無くなる訳ではないLenovoがThinkブランドを使用し続けるからである。しかし、老舗IBMがPC業界から撤退するという衝撃は大きい。LenovoはPCの世界市場においてデル、HPに次ぐ第三位のメーカーとして浮上する事になるし、中国のメーカーだけあり巨大な中国市場を活用すれば首位を目指す事も不可能ではない。家電化するPCからのIBM撤退は業界再編を促す事も考えられる。特にSI事業への転換を視野に入れ始めている日本のPCメーカーも統合や売却と言った状況に成る事は十分に考えられる。家電化するPCを見越して日本のメーカー各社は高付加価値のPC作りを目指しているが、消費者の心理は安いPCという方向へ向かっていると見る見方もある。IBMの撤退はハイテクマシーン、情報化時代の尖兵と持て囃されたPCが最早、家庭内にある一機械として定着した事を如実に示しているかも知れない。

「ULTRAMAN」――これぞ民生支援

2004年12月04日 01時37分34秒 | 世情雑感(社会情勢)
 民生支援とは自衛隊が民間への支援を行う事である。分かりやすく言えば箱根駅伝で審判を載せたジープが走っているのを見るがあれであるし、オリンピック等での会場設営への支援や訓練を兼ねた道路工事等も含まれる。その半面で最近になって自衛隊が力を注いでいるのが映画やアニメ等への協力である。以前の映画において自衛隊の役割と言えば怪獣に踏みにじられる役か、クーデターを企む悪役であった。だからこそ、米国の映画に比べて我が国の映画では自衛隊が正義のヒーローとして活躍すると言うのは少なかった(日本の「トップガン」たる「ベストガイ」という映画はある意味で例外だろう)。しかし、近年ではその状況が大きく変わっている。怪獣映画においてもリアルの追求を行うにはやはりホンモノの兵器がかかせず、自衛隊の出番となったのである(平成「ガメラ」シリーズ等、アニメでは「戦闘妖精雪風」や「青空少女隊」か)。一方で自衛隊を舞台とした映画も増加の傾向がある。来年公開予定の「亡国のイージス」や「戦国自衛隊」はその典型であろう。「亡国のイージス」はイージス護衛艦の艦長が反乱を起こすのであるから、ある意味で自衛隊が協力する道理は無い筈である(自衛隊員が国家へ反逆すると言うありえない事態を想定している訳であるし、汚れ役では士気に関わるからである)。しかしながら、海上自衛隊はイージス護衛艦等を投入して全面的に撮影をバックアップしている。「戦国自衛隊」では陸上自衛隊が最新鋭装備を惜しみなく投入して撮影に協力していると言う。まるで陸海自衛隊が競い合っているように見えるこの構図だが、航空自衛隊もただ指をくわえて見ている訳ではない。今月18日公開予定の映画「ULTRAMAN」では主人公が航空自衛隊のイーグルドライバーなのである。まさに自衛隊映画花盛りといったところであろうか。
 何故、これほどまでに自衛隊は映画撮影に協力するようになったのであろうか。それは、情報公開という部分に集約されている。冷戦構造の崩壊によって自衛隊は装備の縮小を迫られている(現在策定が進められている新防衛大綱はまさにその方向に向かっている)。その一方で新しい脅威には対抗せざるを得ない。国家と言う脅威が減る中でも安全保障の重要性を国民に知らせる格好の手段が映画と言う媒体なのである(ある意味では古典的手段でもあるし、子供には「愛国心」を植え付ける事が出来る)。つまり、戦争と言う存在証明を与えられていない自衛隊にとって(近年は海外派遣で部分的に補完されてはいるが)、映画によって与えられた架空の戦場は国民に対して自己の存在を示す格好の場を提供しているのである。だからこそ、航空自衛隊はF-15J戦闘機を投入し、海上自衛隊はイージス艦を展開させ、陸上自衛隊は90式戦車を走らせるのである。民生協力の主眼は基本的には後方支援職種である。しかし、ここにきて主力装備が民生の主軸になってきたとも言えるのかも知れない。それは、情報公開という時代の流れが生んだ皮肉な現実と言えるのであろうか。