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TOKYO WAR再考

2005年07月17日 22時46分56秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「攻殻機動隊」や「イノセンス」等の作品で、今やアニメーション界において世界的な巨匠の一人に数えられる押井守監督の小説執筆の第一作が「機動警察パトレイバー TOKYO WAR 上/下」(富士見書房、1994)であった。そしてこの度、全面的に改稿してエンターブレインから出版されたのがこの「TOKYO WAR」である。無論、この小説は1994年に公開された「機動警察パトレイバー The Movie 2」の小説版であることは周知の事実だろう。もっとも、映画版については公開から10年以上経過した現状においても賛否両論が渦巻いているのも事実だ。賛成論はこれぞ押井アニメの真髄発揮であると主張する。押井が常に題材として提起する「東京」そして「軍事」という部分を濃密にリンケージさせた作品である点にこの賛成論は帰結する。一方の否定論は、前作に比べて余りにもチープであるというのがその論の中心をなす。映画版の第一作は1989年に公開されたが、コンピュータ犯罪をアニメーションで描き上げるという先進性を有していたと多くの人々が評価する。それに反して、第二作はOVA版の「二課の一番長い日(上/下)」(自衛隊のクーデターを描く)の焼き直しにしか過ぎず、教条的な戦争論ではないかと主張するのである。
 いかなる議論があるにせよ、この作品が衝撃的な内容であることは間違いない。現在でこそ、ライトノベルズやその他の作品に自衛隊は頻繁に登場してくるし、自衛隊を主役級で抜擢する事も珍しくない。しかし、1994年当時においてそれを行う事は間違いなく英断だった。この作品の冒頭はカンボジアに派遣された自衛隊PKOレイバー部隊が全滅するシーンから始まる。当時、カンボジアPKOに自衛隊は派遣されており、もっとも取り扱いやすいテーマであったとも言えるが、イラクやインド洋へ恒常的に自衛隊が派遣されているのとは異なった状況であった事を理解せねばならないだろう(自衛隊を国連の活動で派遣するという、今では日常の光景になったものを導き出す為に、国会では牛歩戦術すら行われたのである)。そして、自衛隊が東京の市街へ展開するという情景も当時では異質に写ったが、市街地へ自衛隊が展開するという光景は公開の翌年に起こった阪神大震災や地下鉄サリン事件で現実の情景となり、2000年の「ビックレスキュー2000」以降は話題にも上らなくなった(先日には、映画「戦国自衛隊1549」の公開を記念試写会が開催された六本木ヒルズの前に陸上自衛隊の装甲車輛が展開した程である)。
 何よりもこの作品が指摘している事実は、日本の平和という存在が如何なる物に存しているのかという点だろう。この作品においては「テロ」という存在を通して描き上げたが、これは冷戦後、21世紀が米国同時多発テロ事件というテロの世紀で幕を開けた事を勘案するならば極めて暗示的なものであったと言えるのではないだろうか。そして、この作品において東京に展開した自衛隊はテロを鎮圧する事に成功しているとは言えない。この構図も何処かで見たようなものである。東京という都市を題材にしているだけで、戦争の本質というものをこの作品は描き出しているし、逆に都市という存在を戦争を語る為の題材に選んだ事は現在の視点からすると卓見としか言えないだろう。この作品は公開及び刊行から10年以上を経た現在においても未だ輝くものを持っている(だからこそ改訂版として刊行された訳だが)。そこにはこの「機動警察パトレイバー」という作品が持つ近未来性(時代という側面で考えれば既に「通り過ぎた未来」)というものが存在しているからかも知れない。テロの時代というこの中で、平和を享受している日本という存在は何なのかという点を考える上で、この「TOKYO WAR」と映画版を再度見直してみるというのも面白いのではないだろうか。 

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1 コメント

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Unknown (BB56)
2005-07-18 08:30:29
同感ですな。そういえば、よく考えてみると、「マーシャルロー」にも一脈通じるものがあるように思えます。

ああ、それから、近日公開されるらしい「亡国のイージス」の、小説版のF15が「いそかぜ」を攻撃するシーン、無線のやりとりがそのまんま「パト2」だったのにはにやりとしました。
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