情報分析研究促進開発機構

統制経済推進委員会(CEPC)のブログ運用サイト。

文化を融合しながら我等行く

2004年10月17日 22時41分27秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 10月から様々なアニメの放送が始まっており、その各種アニメについてこのBlog上においても取り上げてきている。その中でも今日は「神無月の巫女」という作品を考えてみたい。もっとも、過去の作品の論評にしても然りであるが、このBlog上において作品の出来不出来を論証していく訳ではない。その作品の背景に存在する「何か」を解明していくことが主眼である。
 この作品の原作は角川書店から出版されている同名の作品(作:介錯)である。介錯といえば「鋼鉄天使くるみ」や「円盤皇女ワルキューレ」等で知られており、人気が高い漫画家でもある。「神無月の巫女」の作品については説明を省きたいと思う。第1話を今月下旬頃まで「Animate.TV」において無料動画配信が行われているからだ(動画ページ:http://shop.frontierworks.jp/digital/web_anime/detail32.html)。この作品は神話、少女漫画、巫女、ロボットという様々な要素によって構成された複合的な作品である。神話と巫女という部分は作品名を見ていただければ容易に理解出来るであろう。少女漫画というのは「マリア様がみてる」辺りの影響を受けているのではないかと感じられる描写が描かれる事(ちなみに、やんごとなき筋が通学する某幼稚園から大学まで存在する学校法人では「ごきげんよう」と言う言葉が現実に使われているらしいが、詳細は不明である。もっとも、「マリみて」自体はこの某学校法人を舞台とはしていない)、ロボットという点ではオロチの化身としての一種のロボット体が搭乗してくる点に集約される。ここで重要なのはやはり作品名である。名が体を現すからだ。つまり、その方向性から考えるならば「神無月の巫女」は神話と巫女が中心要素を担っている事になる。神話では得てして敵味方は明確化されるが、この作品名で示される事から見てストーリーは巫女の立場(概念的には「善」となろうか)から進められることが分かる。
 巫女、そして日本神話と言う存在は近年になって様々な側面で使用される媒体である。巫女と言う存在については単純にコスプレとしての面が着目されがちであるが、何故、日本固有の文化的存在である巫女が描かれるようになったのかというのは、我が国の所謂「右傾化」と連関して考える事も出来るかも知れない。巫女を題材としたアニメはこの「神無月の巫女」以外にも「朝霧の巫女」等も指摘出来る。両者の共通要素は巫女が守護する(或いはすべき)男が存在している点だ。この男の存在を、単純に近年の「守られたい」症候群の一例と片付けてしまうのは簡単である。しかし、これらの作品に共通する要素はその男とは世界と密接な関係性を保持していると言う事だ。ある意味で世界を破壊できる力を有しているとも言える。つまり巫女達に与えられる使命は男への一種の恋愛感情(或いはとされるもの)だけでなく世界を守護する偉大な使命――まさにノーブレス・オブリージュ――が存在しているのである。これは演繹的な見方だが、この男はやんごとなき方々の姿の仮託であるとも言えなくない。ならば、やんごとなき筋が通う某学校法人において交わされるとされる会話を展開するのも納得できようと言うものである。だが、此処で考えねばならないのは世界とは何かと言う事である。日本神話であるから、単純に考えれば「神」が違えば神に仕えるものの守るべき範囲が異なっているであろうからだ。つまり、この構図に立脚した場合、世界は日本に限定されている筈である(文化的に考えるならば日本文化が支配的なのは我が国の領域内だけである)。つまり、巫女達の使命は世界を守る事でありながら、実質的には日本を守る事になっている。この構図は一種のナショナリズムであると言えるだろう。守りたもう防人は日本の神々に仕える巫女であるからだ。
 しかし、このナショナリズムを基盤としながら、「神無月の巫女」は文化的融合を展開している。少女漫画は戦後日本における(又は明治維新以後の)西欧への羨望の表れと言う側面がある。少女漫画の登場人物の描写は得てして日本人離れの容姿で描かれる。象徴は金髪(或いは黄色から黄土色で表現される)であろう。日本人の標準的な髪の色は黒であり、その日本人を金髪で描く事自体に西欧への羨望が隠されている(「神無月の巫女」のヒロインである日の巫女も同様である)。このナショナリズム的側面を背景とした上で「西欧」を展開出来るのがまさに現代の日本なのである(同様にヒロインである月の巫女の家に何故、メイドという「西洋」が当たり前に並存しているのかを考えれば容易に理解できるだろう)。つまり、ナショナルでありながらグローバルを取り入れているのである。日本の昨今のアニメがナショナルを追及していることはしばしば指摘される事である。ナショナリズムの高揚の構図がアニメやゲームのキャラクターへの傾倒と同種ではないか、一種の「萌ナショナリズム」とでもいう共通要素が存在しているのではないかという見方もある。しかし、そのナショナリズムは純日本の追求と言うよりもグローバルな傾向を持ち合わせ、それを拡大していると見ることが出来るのではないだろうか。