情報分析研究促進開発機構

統制経済推進委員会(CEPC)のブログ運用サイト。

軍産複合体が戦争を作る~Destiny考

2005年02月27日 21時31分32秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 昨日、放送された(一部地域では来週放送される)「。機動戦士ガンダムSEED DESTINY」第19話においてプラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルは戦争の始まる根源を兵器産業の集合体――「ロゴス」――によってなされると指摘した。これは一面的には事実だ。人類史上のほぼ全ての戦争が新兵器の実験場であり、戦争とは破壊という名のもとに(広義ではその後の復興も含められるかもしれない)経済活動を遂行する一つの産業でもあるのである。別に真新しい指摘でもない。今から半世紀近く前に米国のアイゼンハワー大統領が軍産複合体として言及している事なのだ。
 しかし、デュランダル議長が言うように軍産複合体が戦争を引き起こしている訳ではない。このように書くと先の第2次湾岸(イラク)戦争はどうなのだという意見が出て来るだろう。昨年、人気を博したようで博さなかったムーア監督の「華氏911」によれば、M2ブラッドレー歩兵戦闘車を生産するUnited Diffense社を有するカーライル・グループ等は自社の利益の為にブッシュ政権を動かしているのだと言う。
 だが、これは正しい見方ではない。最早、一般経済界は戦争を望んでいないからだ。戦争、特に国民を総動員せざるを得ない戦争等はやってもらいたくないのが現状だろう。統制経済ほど資本主義社会を生きる企業にとって悪夢は無いからである(市場が何より縮小するからだ)。そして、そのような状況を民主主義国家に生きる市民は許容し得ない。このように考えるならば、恐ろしい結論が出て来てしまう。戦争の発端が軍産複合体にあるにせよ、その戦争を国民や企業は経済や自身へ影響が出ない限り支持し得るという事になりかねないのだ。第2次湾岸戦争は米国の経済社会を総動員した戦争ではない。米国政府はテロとの戦争に米国の総力を上げるとしているが、米国経済は相変わらず堅調さを保っている。つまり、米国は総力戦等行っていないのだ。
 自国が勝つと分かりきっている戦争は、軍産複合体の存在があろうと無かろうと国民の支持を得て遂行されてしまうとも言えるだろう。
 

日常の傍らにある非日常

2005年02月26日 13時42分57秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「イリヤの空、UFOの夏」は秋山瑞人の原作(全三巻、メディアワークス・電撃文庫刊)の小説のOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)だ。原作小説は現代ライトノベル界において最も著名な作品の一つに上げられると言っても過言ではないだろう。そして人気作品でもある。多くの書店のライトノベルコーナーで本書が並んでいるのを見る事になるであろうし、さもなければOVA化等されない(最もその人気が駒都え~じのイラストに起因しているのではないかと小生等は考えてしまうのであるが)。内容は典型的なボーイ・ミーツ・ガール形式ではあるが、作品中にUFOや軍の特務機関と言ったSFの重要な要素をふんだんに盛り込み、その根源は笹本祐一の「妖精作戦」へのオマージュとなっている。この作品世界は我々が知る世界とは異なっている。我々が暮らす日常に極めて近い現実が繰り返される世界に存在しているのは米空軍と共に「航空自衛軍」が存在するという日常だ。戦争の危機は近づいているように思われているが、既に戦争は始まっているのである。
 OVAは端緒を描き出しているが、最大の見所はブルパップ型小銃でもOVA版「戦闘妖精雪風」に出てくる雪風ではないかと思わせるUFO戦闘機ブラックマンタでもない。防空避難演習の一コマとして映し出される「対爆姿勢」のシーンだ。このシーンを見たものは誰もが気付くであろうが、あれは核爆発が起きた時に行うべき行動とされているものだ。そして、その行動に意味は無い。核の閃光を見た時には既に遅いのである。
 だからこそ、イリヤは「死ぬのに」と漏らすのである。
 戦争が既に始まっている事を知っている者からすれば、訓練という平時を楽しむ者は愚劣な存在に見えるのであろう。日常の傍らにある非日常とはこのような事なのかも知れない。いや、それはこのような小説や漫画、アニメにおいて提示され得るものだけではないだろう。我等生きるこの世界もそうである可能性があるからだ。

デジタルデバイドは縮小する

2005年02月25日 11時32分06秒 | 世情雑感(社会情勢)
 デジタルデバイド(情報格差)という言葉が、情報通信技術の飛躍的進歩により生まれた。IT技術を使いこなせる者と使いこなせない者の間に所得や待遇や機会等の格差が生じるとする考え方である。これは国内的な格差にのみならず、先進諸国と発展途上国の間で最も顕在化していると言われていた。これは、国内での格差という点で考えるならば、パソコンや携帯電話が安価になり誰にでも入手できる存在になっている以上、それを扱う扱わないは個々人の責任に帰する状況になっているという点が指摘出来るだろう(自動車の免許を持っていない健常者が、仕事の上で制約を受ける事があってもそれは自己の責任であるのと同じである)。
 一方で国際的な面でのそれは異なっているのが今までの通説であった。先進諸国は次々と開発される先端技術を導入できるが発展途上国はそれが出来ない故に格差が拡大するというのが主流を成す見方だった。しかし、「デジタルデバイドは急速に縮小――世界銀行報告」というITmediaの記事を読むと実態がそうではないことが見えてくる。発展途上国と先進諸国との間のデジタルデバイドは縮小に向かっているとさえ言えるかも知れないほどだ。これは、何も不思議な事ではない。発展途上国が通信インフラを導入する場合に今では固定電話網を整備せずに携帯電話網を先に構築する事も珍しくは無い。新しい技術は、既存技術の活用をせざるを得ない先進諸国に比べて無からの導入が可能である為に発展途上国に有利な面も存在しているのである。
 無論、発展途上国内でのデジタルデバイドの解消は難しいものがあるだろう。発展途上国内でITインフラが整備されたとしてもそれを使いこなせるのは一部のエリート層だけであるからだ。これを改めるには、発展途上国の経済システム自体を改める必要があるとも言えるだろう。デジタルデバイドの議論は再び経済格差という基本問題に回帰してきた印象を受ける。

Blogと世論

2005年02月24日 17時59分16秒 | 世情雑感(社会情勢)
 Blogは、Weblogの略称であり日付入りの記事にリンク等を自由自在に行う事が出来る点が注目されて米国で2000年頃から発展してきた。米国同時多発テロ事件や第2次湾岸(イラク)戦争を経て一種の報道体として生まれてきた。しかし、日本では必ずしもBlogは報道体としての役割を果たしているとは言えないだろう。本日のBlogは、Blogにおいて議論する事が正しいかは分からないがこのBlogと言うものについて分析してみたいと思う。
 米国でBlogが報道体になり得たのは、マスコミによって取材出来ないイラクの米兵の状況等を伝える事が出来たからである。このBlogの発達はマスコミという存在の概念を覆すほどになった。例えば米国大統領選挙では著名なブロガーが党大会等にマスコミの一部として参加するまでになっている。しかし、日本ではそうではない。確かに商品紹介等では報道体としての役割を果たしているとも言えるかも知れないが、ニュース等の側面ではまだ果たしている役割は小さい。それは、その基盤となる情報をマスコミの報道に頼っているからだ。しかし、ここで重要なのはそのマスコミの報道もインターネット上にも掲載される官庁や企業の報道資料を基にしている場合が多いという事である。つまり、そのような情報をBlogに記した場合はその情報は複数のバイアスを掛かった情報をネット上へ示していると言えるだろう。無論、報道機関等のサイトから引用する事は小生も行うし、一般的に行われている事ではあるが(ネット上に情報が直接提供されるようになったにも関わらず、その膨大な情報を我々は処理出来ないのであろう)、この場合は報道というよりは分析をおこなうBlogという存在であると言うのが妥当である。
 つまり、我が国においてBlogは報道体ではなく世論の一翼と考える方が正しいようである。世論とは総体であるが、そこに現出している意識や概念は個々人の分析の集合体であると考える事が出来るからである。インターネット上における世論は今まで掲示板において示されるものと考えられてきた。しかし、現在ではTB(トラックバック)やコメントをも含めて構成されるBlogという存在に取って代わられたようにも思われる。

The WorldⅥ~雲のむこう、約束の場所~

2005年02月18日 22時54分19秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 昨年後半にインターネットから生まれ新たな文学形態「電車男」が一世を風靡した。「雲の向こう、約束の場所」は新海誠監督の最新作であるが、本作はまさに「電車男」時代にもたらされた新たな少年と少女の恋物語と言えるかも知れない。しかし、そこには歴然とした内輪受けの構造が存在していると言わざるを得ない。無論、この作品を単体として評価してもそれは指摘可能であろう。精緻な科学技術考証、メカニックや軍事、社会描写はその方向に関心を持っている人々に微笑をもたらすに十分なものであるが、それはそのような視点でこの作品を見ない人々にとっては無価値な要素に他ならない。そして、それはこの「雲の向こう」と類似した視点で少年と少女の恋物語を描きだしたジブリアニメ「耳をすませば」と対照的に語る事によってそれは明白に導き出せるかもしれない。
 何がこの二つの作品で異なっているのであろうか?最大の相違は時間的なものである。「耳をすませば」は時間的に連接してストーリーが進展していくが、「雲の向こう」は話の前半と後半では3年という時間差が存在しているという事だろう。しかし、「雲の向こう」の中では少女の時間は一種、固定化されているために連続性が維持されているという見方も可能であろう。少年と少女の忘れられない夏休みという設定は両作品にも共通している。その後の話の展開に相違が見られるのは、「耳をすませば」が少女の視点で、「雲の向こう」が少年の視点で進められるからだ。少女は英雄にならなくとも、努力を行えば自身の望みを叶える事が出来る――まるで「おしん」以来の伝統でもあるかのようにだ――。しかし、少年は英雄にならなければその努力が報われる事は無いのであろう。いや、そういう矜持を持たせようとしているのかもしれない。あたかも「電車男」がその恋に報われるために女性を痴漢から守るという英雄行為を行う必要があったようにである。だからこそ、「雲の向こう」の少年も蝦夷にある塔まで少女を連れて飛ぶという――そしてその為には北海道民500万の犠牲を許容する――という必要があったのである。しかし、普通は英雄になる事は出来ない。だからこそ視点を女性において淡々と恋物語を描いたのが「耳をすませば」なのである。英雄になる事を諦めた――或いは英雄になれない事を知っているからこそ――、一般人は「耳をすませば」に共感できる。しかし、電車男へシンパシーを抱ける人は、英雄になれる可能性をほんの一かけらでも信じているのだろう。つまり、この作品は少年はとは、恋を成就させるには英雄にならなければならないという共通認識を持つ人々には自然と受け入れられる内容であると言えるだろう。つまり、この作品は少年の英雄性の追求という内輪受け的世界観――The World――を有していると言えるだろう。
 「雲の向こう、約束の場所」を製作した新海誠監督は背景と透過光の魔術師と表現出来るかもしれない。この二点の描写から我が国アニメーション界に於けるポスト宮崎だという指摘はあたっているだろうし、ストーリー性という側面においても継承者と言える(宮崎監督よりも脚本面ではしっかりしているかも知れない)。少なくとも、押井守や庵野の後継者ではなさそうである(メカニカルな面やSF的側面では類似点は多いが)。しかし、この点だけは指摘する事が出来るのではないだろうか。ジブリの「耳をすませば」と新海誠の「雲の向こう、約束の場所」は同じ物語を描こうとしていると。その両者の相違点は「耳をすませば」は一般人向けに作られ、「雲の向こう、約束の場所」は電車男向けに作られている。

IE7.0登場へ

2005年02月17日 22時11分48秒 | 世情雑感(社会情勢)
 次世代WindowsOSであるLonghornまでIE(インターネット・エクスプローラー)のメジャー・バージョンアップをしないとしていたMicrosoft社が方針を転換した。ビル・ゲイツ会長がそのようにRSA conferenseの基調講演で明言したのである。「MSが方針転換、IE 7.0をSP2向けにリリースへ」にその詳細が出ているが、Longhornを待たずにWindowsXPSP2ユーザー向けにIE7.0をリリースし(夏までにβ版が提供される)、Windows2000についてもユーザーの意見を聴取しているところだと言う。WindowsXPSP2のIE6.0はセキュリティが強化されているが、いまやユーザーの過半が使用しているとも言われるXPのセキュリティ対策にMicrosoft社が本腰を入れ始めたという事なのだろう。もっとも、Microsoft社が他のブラウザーによってIEが急迫を受けていた事に懸念を持っていたという側面もあるのかも知れない。OperaやMozila、Netscape(もっとも、Netscape8β版のリリースは延期される見込みが出ている)へユーザーが移り始めた事によってIEを使用するユーザーは最盛期に比べて5%程度減少してきており、その傾向は現在でも続いている(無論、大半のユーザーはIEを使用し続けている)。これはMicrosoft社がOSとメジャーバージョンアップを連動させると表明した事にも影響を受けているだろう。セキュリティが強化されているIEを新型OSを導入しなければ使用出来ないというのでは、同等の能力を有する他のブラウザーに流れてしまうのは自明の理である。もっとも、NetscapeからIEへとブラウザーが置き換わっていったように、IEから他のブラウザーへと直ぐに置き換わっていく事は無いだろう。多くのユーザーにとって最初から入っているIE以外に他のブラウザーをわざわざ入れるメリットは少ない(セキュリティを考えるユーザーはごく少数なのだ)だろう。そう考えればOSとブラウザーを同じ会社が作っているというメリットは大きいのだ。しかし、それでもIEユーザーが減少し、Microsoft社がIE7.0を前倒しする背景にはセキュリティへの人々の関心が高まらざるを得ない状況がある。フィッシング詐欺等の存在がインターネットへのセキュリティへの関心を高めているのだろう(もともと、多くのユーザーが使用するIEは狙われやすい)。IE7.0をリリースするという事は、ブラウザー一人勝ちのMicrosoft社に暗雲が漂い始めているからとも考える事が出来るだろう。

Cellという近未来

2005年02月08日 23時45分50秒 | 世情雑感(社会情勢)
 ソニー、ソニー・コンピュータ・エンターティメント(SCE)、東芝、IBMの4社が共同開発した次世代プロセッサ「Cell」の仕様が公表された。その驚異的な性能についてはITmediaの「明らかになったCellの詳細」を御覧に頂きたいが、動作周波数は4Ghzで現行の最高性能を有するPC用MPUの10倍の演算性能を有するというからその性能の凄まじさが分かるというものである(無論、マルチコアアキーテクチャだから既存のMPUと単純比較するのも筋違いかも知れないが)。早い話が、このCellを使えば簡単にスーパーコンピュータを製造する事すら可能になるし、更にマルチOSにも対応しており、その幅は限りなく広いように思われる。つまりCellは現在のPC業界を牛耳っているWintel(Windows-Intel)に対して重大な挑戦状を突きつけていると言えるのかも知れない訳だ。
 無論、Cellがド級戦艦「ドレッドノート」が登場したときのように、明日にでも現行のPCを旧型に追い遣ってしまう訳ではない。それはCellが最初に搭載されようとしているのがSCEの次世代ゲーム機PS3(今年春にも発表されるという)であるからである。ゲーム機というものであるならば、その影響範囲はゲーム産業に限定される。しかし、デジタル家電の覇者を目指しているソニーがPS3を単なるゲーム機に留めるとは思えない。PS2はDVD再生機能を搭載した事によって過程におけるエンターティメントマシーンの地位の獲得に成功した。PS3ではブルーレイ・ディスク(BD)を搭載する事によってその路線を継承すると共に、Cellの高度な情報処理能力によって家庭における情報のハブたらんとしていると考える事も出来るだろう。つまり、Cellの登場は家庭における情報機器の中心がPCか複合エンターティメント端末(或いは複合情報端末と言い換えられる)かという覇権競争に複合エンターティメント端末の勝利と言う事で決着がつく事になるのかもしれない。そのような状況になればPCは我々にとって鉛筆や消しゴムと同様の単なる文房具(電子的な)に収まってしまうだろう。このCellの存在は他の参加企業にとっても大きなメリットが存在している。東芝やIBMはパソコンメーカーとして一世を風靡したが、周知の通りIBMはパソコン部門を中国のLenovoに売却した。東芝もPCの廉売を行うHPやDELLと真っ向勝負が出来るとは考えていないだろう(東芝の方針は高付加価値路線である)。であるならば、Cellは新たな世界標準を作るという上で極めて有益な存在である筈である。Cellの能力はサーバーやスーパーコンピュータにも応用可能であるし、どちらかと言えばそちらの用途の方がメインになるかもしれないほどの物だ。
 Cellは恐らく、数年以内にデジタルによって支配される産業全てにとって重要な構成要素となって行くであろう。このゲーム業界と言うデジタル産業界において最も生き馬の目を抜く競争を行っている業界(この業界において最も影響力を有する日本人は、世界で一番厳しい消費者であると共に、世界一のオタクでもある)の要請によって生まれたモンスターであるCellは、モンスターであるが故の強さを持っている。小生はこのように断じる事が出来る。
 「我々はCellという近未来の目の前に立っている」のであると。

郵政民営化と国家

2005年02月06日 15時39分36秒 | 世情雑感(妄想政治論)
 小さな政府は、犯罪を助長するかもしれない――。
 民間で出来る事は民間でやらせると言うのが小泉政権の方針であり、小泉政権下で50万の公務員が削減された。大学は独立行政法人とされ独立採算を求められ、郵便事業は郵政省→郵政事業庁→日本郵政公社となっており、小泉政権の民営化案が達成されれば完全に民営化が行われる事になる。郵政民営化は銀行や保険業界と殆ど同様の業務を行っているとされる郵便局が民業圧迫をもたらしていると言う指摘から行われているものだ。確かに、巨大な貯金を有する郵便局が民間企業となれば日本経済へ大変革を与える事になる事は疑う余地はない。その観点に立つならば郵政民営化は経済学的に正しい判断であり、推奨されなければならない案件である。このような経済学的判断の前には自民党等で反対のあるユニバーサルサービスとしての郵便局と言う言説は吹き飛んでしまうかも知れない。自民党等が指摘する郵便局が過疎地において重要な役割を果していると言うのは事実である。しかし、その役割はインターネットバンキング等でも代替可能かもしれないし、ニッチな分野として新規参入が進むかも知れない。このように近年のITの発達を考えるならば自民党等の指摘は説得性が無い。
 小生は本日のBlogで郵政民営化の持つもう一つの問題について考えてみたい。国民に国家を意識させる道具としての国家機関の出先という考え方である。手元に東京の地図がある方は広げて頂きたいが、官公庁の街として存在していた霞ヶ関や大手町は年々その官公庁エリアが減少している。例えば現在の大手町で官公庁があるのは気象庁等の合同庁舎群の部分だけだが、NTTビルが建つ部分も20年近く前までは日本電信電話公社という国家機関の施設だったのである(より広範に視野を入れれば東京駅周辺の国鉄関係施設も範囲に入る)。それは霞ヶ関でも同様だ。例えば日本専売公社がJT(日本たばこ産業)となるまでは虎ノ門周辺も官公庁街に含まれていたと言えるだろうが、現在では霞ヶ関駅周辺の各省の本省が集まる地域に縮減している。何よりもつい20年程前まで我々は「国」が存在しなければ生活が出来なかった。電話(電信電話公社)、郵便(郵便局)、生活に欠かせない「塩」(専売公社)、移動の為に使用する鉄道(国鉄、営団地下鉄)、道路(道路公団)、金融機関(政府系金融)、教育機関(国立大学)等「国」という存在は我々の生活の奥深くまで浸透していた。この中で未だに国の残滓があるのは政府系金融くらいなものだ。後は大方、民営化されたか民営化への道筋がつけられている。
 これは国民からするならば国家と言う存在へ頼る頻度が低下していることを示している。つまり、日本人は20年前に比べて日本国という存在を知覚する機械が減少しているとも言えるだろう。戦前の学校には天皇皇后両陛下のご真影が飾られていたと言う。これは国民へ国家と言う存在を知覚させる為の重要なツールであった。この構図は、多数の国家機関を国民生活へ深く関与させる事で国家の意向を全国津々浦々へ浸透させようとしていた20年前までの日本と殆ど変わらない。国民は国家の強制力を理解するが故に、国家が国民を支配しようとする束縛を許容する。その強制力を理解させる手段が20年前までは多数の国家機関だった。しかし、その大半が民営化された今日では国家が国民へ「支配している」という現実を知覚させる事は以前に比べて格段に難しくなっていると言う事が出来るだろう。これは国家の政治支配が弱体化していることを示している。そして、政治支配が弱体化しているならば政治的権力もまた民営化していくという過程が現われてもおかしくは無い。
 政治的権力の民営化とは何かといえば、国家が独占的に有している暴力の行使権限に他ならない。犯罪率の上昇や凶悪化という事案が近年指摘されているのは周知の事実である。この事実は本来、暴力の行使を行う事が出来ない筈の一国民が暴力を行使してしまっていると言う事実である。つまり、国家の暴力の独占にほころび生じ、個々人が行使してしまう状況が生まれてきているという事である。郵政民営化が経済学的には極めて正しい選択肢である事も又、多くの理解が得られているし、多くの人々は其れを推進すべきだと考えている。小生もその考え方と同じ路線に存在している。しかし、国家の威信を日本全国に知らしめている存在であるとも言える郵便局の民営化は日本国という存在の政治的威信を更に低下させていくことは間違いないだろう。
 この国家の威信と言う側面についての議論はまだこの国では殆ど議論が行われていない。

その名はザムザザー~Destiny考

2005年02月04日 18時59分34秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 機動戦士ガンダムSEED DESTINYは放送開始から15話を数えている。この作品の内容の賛否は色々分かれるところだが、リアルさを追求するとされるガンダムシリーズにおいて、これは明らかにおかしいだろうという点を取り上げている企画の今回は第3段である。今回は兵器と言うものが持つ国家的特性と言う側面に着目してみたい。
 ガンダムシリーズにおける主力戦闘兵器の地位に君臨しているのはニ脚ニ腕の機動兵器である。多くの作品ではモビルスーツ(MS)と呼ばれている。別に今回此処でMSが実際においては殆ど効果を有しない兵器であろうと言う至極真っ当な軍事的見地からの分析ではなく、兵器生産国によって同種の兵器であっても兵器の特質には差異があると言う事である。例えば、現実の戦闘機で考えてみるならば、冷戦期の旧ソ連のMigシリーズが無骨な外観をしている一方で、米国の戦闘機は空力に重点をおいていた。冷戦後ではロシアのSu-27に象徴されるフランカーは空力に優れた設計となった一方で、米国はステルス性能を重視するようになり無骨な外観になりつつある。時代によって変化はあるとは言え、特定の時期の兵器生産国のデザインには共通性がある。無論、この差異と言うものは現代の戦闘機に関心を抱いていない人にとっては区別もつかないような程度のものでしかない。
 ガンダムSEED世界において兵器は大きく二つの流れが存在している。ジムに近い印象を受け継いだ連合のダガーシリーズとザクのモノアイ思想の系譜にあるザフトのMS群である。DESTINYではザフト側に往年のザク(ザクウォーリア)やグフ(グフイグナイティド)が登場して来るまでなっているが、その流れは基本的には変わっていない。この部分のみに着眼するならば、ストライクダガー→ダガーL→ウィンダムと発展した連合軍、ジン→ゲイツ→ザクと発展していったザフトの兵器開発思想に全く異論を挟むべき点は存在しない。しかし、ガンダムと言う点になると話は別になる。連合・ザフト双方にガンダムが登場するのはストライクやイージス、デュエル、バスター、ブリッツを連合が開発し、イージス以下4機をザフトが強奪した為にザフトが技術を習得したからであるという指摘は最もな意見である。しかし、ガンダムに付与されていた様々な技術を新型機に転用する事は考えられても、姿形まで似たようにするというのは考え難い(オーブのM1アストレイやムラサメの場合は、アストレイを開発したモルゲンレーテがストライクの主契約企業だったという点が起因している。ここでも果たして次世代主力兵器を第三国に設計生産を委ねるのかと言う疑問はある)。それは本日の題名に記したモビルアーマー・ザムザザーでも同様だ。デザインを見る限りでは明らかにザフトの印象を受ける。
 そもそも強奪したMSを使用するという事は現実では考えられない。米国の新型戦闘機F-22を何処かの国が盗み出してもそれを戦闘に投入する事はまず不可能である。西側の諸国ならば兎も角、東側系の武器を装備した国では兵装が異なってしまうからである。つまり、MSを強奪しても兵装を自軍に併せなければ戦闘に投入する事など出来ないだろう。そして、その改造にはどう考えても数週間は最低でも要する。以上のような点から考えるとガンダムを強奪して作戦に直に投入した前作(この構図はDESTINYでも同様だが)はあり得ない光景である。兵器システムというものは極めて繊細な機械の集合体である。兵器と言うものは通常の兵器と異なり独自の企画で設計される場合が多く、その基準に適合するような兵器体系を戦時において増設すると言う事は余り考えられない。日本は先の戦争において整備や補給を軽視していた事は衆目の一致するところである。この反省から日本は戦後、カンバン方式等を発展させてきた。しかし、その大元の軍事の描写においてはその点をしばしば失念してしまっているようである。

JustSystem VS Panasonic

2005年02月01日 21時30分12秒 | 世情雑感(社会情勢)

 「一太郎」「花子」の製造・販売の中止と在庫品の廃棄を命ずる――。
 この東京地裁が下した判決は、衝撃的なニュースとして各新聞Web版やTVニュースで報じられている。「一太郎」と言えば日本人ならば一度は聞いた事がある日本がワープロソフトである。NECのPC-98シリーズ全盛の時代から日本語ワープロとして定着し、現在でも多くの企業や官庁で使用されているベストセラーソフトであり、今月10日には最新のVer.15の発売が控えている状況においては青天の霹靂とも言える物だ。この判決の概要は「ジャスト『一太郎』の販売中止を命じる 松下アイコン訴訟で判決」を参照して頂きたい。それにしても、製造・販売の中止と在庫品の廃棄を命ずると言うのは重い判決のように個人的には思われる。松下の特許があった部分を製品から除去する等の処置でも良かったのではないだろうかとさえ思えてしまう。もっとも、ジャスト側は控訴する構えであり、既に製品を購入しているユーザーには関係が無い判決なのではあるが、米国マイクロソフト社のOfficeシリーズに唯一対抗できていた日本語ワープロソフトであった同製品においては大きな打撃である事は間違いない。
 米国マイクロソフト社のOfficeがビジネス上必要不可欠なツールである事は疑う余地は無い。多くのパソコンにOfficeはプリインストールされているし(小生だってお世話になっている)、その他のビジネスソフトでもOffice系のファイルとの互換性が保てるようにされているいるように、その影響力は大変に大きいものがある。しかし、日本語ツールと言う側面で考えるならば「一太郎」や「花子」は日本人にとっては「Word」よりも身近で操作性の良い存在であった事も真実である(日本の官庁が「一太郎」を使用する背景には日本使用になっているのでハッキング等に強いからと言う噂も合ったほどだ)。無論、その点と特許権と言う部分は別問題であるのは事実である。しかし、今日の判決はIT時代における日本語文化の保護、育成と言った観点からも活発な議論が求められているものであるのではないだろうか。