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2006年04月26日 13時16分01秒 | 世情雑感(総則)
<暫定記事>
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民営化という地方分権へ

2005年11月13日 14時21分47秒 | 世情雑感(妄想政治論)
 小泉首相は郵政公社の民営化を表傍して先月の衆議院選挙で地滑り的勝利を収めた。
 これは日本が1980年代の中曽根政権の行革にはじまる大きな政府から小さな政府へという政策転換が最終段階へ入りつつある事を示している。小さな政府が行き着く先は外交・防衛等の分野を除く大半の国が持つ様々な権限を地方へ移譲していく地方分権になる。小生はこのBlogのタイトルに「幻想」という言葉を用いた。しかし、誤解されたくないのは、小生が地方分権に批判的な側面で「幻想」という言葉を用いた訳ではない。地方分権が既に始まっているという観点で用いているのである。しかし、多くの人はここで懐疑を抱かれるだろう。確に地方への権限移譲や平成の市町村大合併によって権限受容は進んでいるものの、何ゆえにそれで地方分権が進んでいると言えるのかという指摘はもっともであるからである。しかし、既に地方分権は現実レベルで進み始めているのである。我々がそれを認識しないのはそれが民営化されるという一段階を踏んでいるからに他ならない。
 ここまで来れば見えて来よう。地方分権の先鞭とは公益事業の事である。1986年に民営化された日本電信電話公社は、現在、二つのNTT(東日本、西日本)という地域会社に分割されたし、日本国有鉄道も六つの地域会社(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州)に分割された。そしてこの10月1日には日本道路公団が東日本、中日本、西日本そして首都、阪神、瀬戸大橋に分割された。道路会社についてはまだ何とも言えない面はあるが、NTTやJRは分割民営化によって前よりもサービスが低下したという話は聞こえて来ない。つまり、自然と国家権力の地方化は定着してきていると言えるのである。この現実は地方分権の困難性を指摘する見方に十分な対抗要件を示すものだ。機能の一部を移譲するのではなく特定の機能全てを移管することが重要である。その為には、現在の県レベルでは規模が小さすぎるのも事実である。都道府県レベルで一つの独立した政治経済単位を構成出来るのは東京位であろう。つまり、地方分権には都道府県より大きな構成単位を設ける事が必要である。何よりも現在の都道府県の枠組みは上部構造たる国家との繋がりはあるものの、横の繋がりは極めて希薄だ。それは単純に政策決定、予算配分を国家に握られている部分が多いからだ。例えば、交通システムの整備は現在では都道府県間を越えるような国道、高速道路、鉄道等には国家の政策決定が働いており、複数の都道府県が連携して整備を進める枠組みにはない。また、「3割自治」という言葉が存在するように地方公共団体の財政の大半は国からの地方交付税交付金や様々な補助金によって支えられている。政策決定、財政を分離しなければ地方分権は難しい。
 ここで考えられるのは、権限の細分化による地方分権の率先だ。様々な権限を国の権限から分離していくが、それを都道府県に交付するのではなくそれを上回る広域な地域共同体へ付与する。様々な権限を別個に
付与するのは一括して地方分権を行うことが現行の政治システムでは難しいからだ。地方自治体には自身で地域共同体を構築していく度量がない(地域共同体の成立は都道府県の存在意義を大幅に低下させる)。そして国には様々な「抵抗勢力」(国会議員、官僚機構、圧力団体、マスコミ等)が存在しており、こちらも一括して地方分権は出来ない(そもそも「国」は地方を信用していない)。つまり、地方分権を切り売りして時間をかけて実現していくしかない。無論、最終的には権限委譲された個別の地域共同体を融合して一つの地域共同体へ移行するのである。これはEC(欧州共同体、現EU、欧州連合)が3つの多国家機構(欧州石炭鉄鋼共同体、欧州原子力共同体、欧州経済共同体)を融合して設立されていった過程に類似している。無論、EC、EUと進化して言った過程には冷戦構造とその崩壊等といった政治的背景や偶然という要素も含まれているが、このモデルは日本においても活用できる可能性は十分にある。無論、ここの議論では様々な民営化された公益企業体をもとの官業へ戻すことは意味しない。しかし、官業から地方分権が進み始めており、それは成功を収めている。そして、それは地方分権の大きなモデルとなりうるものなのだ。
 ただ――、一つ言える事があるが、「小さな政府」でも「大きな政府」でも既得権益というものは発生していく。そして地方分権も小さな政府と同義語ではない。地方分権が「大きな政府」でも「小さな政府」でもない「中位な政府」を生み出してしまう事になるかも知れないのだ。政府がいかにあるべきかは常に監視監督されるべきであるのだ。それがどこに権限の中心が存在しているかに限った事ではない。そして、それを出来るのは国民の個々人なのである。

熱気が生み出す誤解と偏見~コミケ68考

2005年08月27日 23時35分19秒 | 世情雑感(社会情勢)
 コミックマーケット、それは日本最大の同人誌の即売会であり年に二度、8月と12月に東京都下お台場の東京ビックサイトで開催される。開催期間中の来場者はゆうに50万人にも達すると言われており、現在では東京都始めて官公庁も関心を抱く一大イベントとなっている(東京都交通局は毎回記念のバス共通カードを発売しているほどだ)。このイベントがなぜオタクという人々にとって重要な存在になっているかと言えば、それは同人誌という自由な感情表現体の存在によってゲーム、アニメ、漫画等の横断的な連接が可能になるだけでなく、様々な関心の所在をも内包出来る点に存在していると言えるだろう。つまり、言論の自由がもたらした「自由」の極地とでも呼ぶべきフィールドなのである。
 しかし、現在そこに参加する人々はその「自由」の意味を深くは認識していないようだ。それは幾つかの点によって垣間見る事が出来るだろう。まずは、コミケ関係者が主張する性描写等に関する規制強化に関する動きへの反発である。無論、ここで反発を示す事は重要であるが、規制強化によって自らの筆が折られる的な論調は如何なものであろうか。同人誌の多く(パロディ作品)は、根本的に著作権の間隙を突くような形で作成されている。ある意味でアングラ的存在であり、アングラは権力から常に弾圧される可能性を有している。つまり、弾圧を受けても自らの信念を投影し続けるからこそアングラなのであって、弾圧されれば筆を折るというのは少し自らが行使する「言論」に関して甘さがあると言えるのではないだろうか。我々の現在の「自由」は幾多の犠牲の上に成立しているものであり、そこへ胡坐をかき続けるという事ではないはずである。
 これは要約すれば、自身への攻撃への感情的な反発という意味でとらえられるだろう。つまり、理性的ではなく感情によって行動するという事である。無論、オタクが傾注する分野のみに最大限の関心を抱くという点を勘案するならば、取るに足らない点かもしれない(先日、実施されたオタク検定はこの部分から考えると不適切な検定と言える)。しかし、今回のコミケでは変な方向でこの点が顕われてきた。コミケ会場に店を出したフランチャイズのアルバイト店員がBlog上で実名で行った「オタ・キモイ」発言事件である。事件の概要はITmedia『「オタ」「きもい」──スタッフのブログ発言、企業を巻き込む騒動に』でも読んで頂きたい。この発言に対して2ちゃんねる等でのネット巨大掲示板群では感情的な批判が展開された。「しかし」、と小生は言いたいのである。あの現場に社会調査として足を踏み入れたものとして言わしてもらえれば(小生はコミケで同人誌その他を買う趣味は無い)、コミケに無関係な若者があの情景を見て「オタ」「キモイ」と言ってしまうことは十分に考えられる事だ(それをBlogで実名で言う精神状態は別として)。少なくとも、3日目の会場内に異様な熱気と臭気が発ち込めていた点は否定しがたい事実である。つまり、批判も重要であるが現実は現実として受け入れなければならない。確かに、近年、オタクはエリートであるという見方が出来つつあるのは事実であり、それは「電車男」という幻想によって生み出され点もまた真実だ。しかし、それはオタクと呼ばれる人々が全肯定されるものでもない事を理解した上ででなければならない。かつてオタクとは批判されてもそれに動じる事はなった。批判がある意味で「真実」だと知っていたからである。現在ではその理性が少し毎、失われてきたように思われるのはオタクが社会化してきたからという事で片付けられることなのだろうか。
 コミケ、それは拡大し続けるオタクの祝典である。そこで誤解と偏見が交錯しているのも事実である。交錯――と記したが、所謂、「一般人」にそれが存在するとするならば「オタク」にもそれは存在している。「一般人」と「オタク」は行動特質がある意味で恐ろしく似通っているからである。その点が示されたのが今回のコミックマーケット68と言えるのかも知れない。

オタクを検定する時代

2005年08月06日 20時31分10秒 | 世情雑感(社会情勢)
 現在、日本で最もステータスある人々は何者であろうか?
 ホリエモンのようなIT企業の経営者や経営コンサルタントと言った「勝ち組」と呼ばれる人々だろうか?残念ながら、彼らではない。
 意外かも知れないが、オタクと呼ばれる人々である。
 無論、オタクといっても単純に定義付ける事は難しい。本人はオタクと思っていなくても、周囲はオタクと考える人もいるし、その逆もまたあるからだ。しかし、オタクの注目度は鰻登りだ。日本政府は、アニメや漫画等の存在が世界から認められており世界に対して誇り行くべき存在であるという妄言を吐くに至っているのである。このような世情から生まれてきた典型例が、インターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」から登場した一大ムーブメント「電車男」だろう。書籍、漫画、映画に留まらずついに民放の夜9時代のドラマとして登場した。「電車男」については現実に存在しているオタクと呼ばれている人の実態を描いていないと指摘されているし、「電車男」のようなパターン化されたオタクというものが極めて稀有な存在であるのは事実である。何故ならば、オタクとは極めて雑多な手段であるからである。つまり、極論をしてしまえば誰でもがオタクになりうる。一般では漫画、ゲーム、アニメ、アイドル、パソコン等へ傾注する人々がオタクとして解釈されているが、オタクの構成要素は好きな事に関して時間と費用を惜しまないと言う点にあり、この点を勘案するならば車好きも野球好きも、料理好きもオタク足りえる要素を有しているのである。NHKの人気番組「プロジェクトX」を見ていれば分かるが、日本人とは好きな事に関して徹底にのめり込む習性がある国民なのである。
 そんな鵺のようなオタクをはっきりと定義づけしてより確固たるステータス(或いは差別化)しようとしているのが8月5日にビブロスが発行する雑誌「マガジンエルフィックス」に収録された「第1回全国統一オタク検定試験」である。この試験の内容は新聞や雑誌にも取り上げられているし、ビブロスのHPには模擬問題が掲載されている。確かに内容を一瞥すると、素人には何を言っているのか分からない問題である。単なる漫画を読んでいるだけやゲームをやっているだけでは分からない。例えば、ゲーム機という存在やコミケ(コミックマーケット:年に二回お台場で開催される世界最大の同人誌即売会)の持つ社会的特質と言うものを含めて把握していなければ回答するのは難しいだろう。ビブロスはこの試験を雑誌の企画という段階から本物の試験へとしようとしているとも伝えられる。つまり、試験化されればこの試験を通過したものこそが真のオタクエリートという立場になれるのである。しかしながら、必ずしもこのステータスを手に入れられる人間は少数派かも知れない。オタクとは好きな事には傾注するが、他の事には人並みの関心しか有していないからである。つまり、ゲーム機については詳しくても、パソコンには詳しくないというオタクは結構存在しているのである(例えば美少女ゲームファンにとってのパソコンは道具にしか過ぎないので、自作に関する問題等は解けないだろう)。つまり、この試験は真のオタクエリートを選ぶかも知れないが、オタクというステータスを一般人が得る為の格好の道具になると言う事である(つまり、勉強しさえすれば試験は受かるのである)。
 無論、このBlogを読まれている方は疑問に思うかも知れない。誰がオタクという称号を得たいのかと。たが、思い返して頂きたい。現在の日本においてオタクはステータスなのである・・・。

「ルパン三世 天使の策略」に見る真の「反米」

2005年07月23日 14時13分56秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 昨日、日本テレビ系の「金曜ロードショー」で放送された「ルパン三世」シリーズの最新作「ルパン三世 天使の策略」が放映された。この作品は「ルパン三世」シリーズの中では久しぶりの好作と言えるだろう。過去の「ルパン三世」の作品の様々なエッセンスをふんだんに盛り込んでいる(中には往年の「ルパン対複製人間」や宮崎駿監督の「カリオストロの城」等をモチーフした情景もある)。そして、不合理を合理として見せてしまう「ルパン三世」の中で珍しく不合理の合理を論理的に説明しようとしている点は注目に値する。作品全般を通してネタがふんだんにあるので(オリジナルメタルが「真実の目」であるとか)一度目は楽しみながら見て、二度目はネタを解きながら見るというのも悪くは無いかもしれない。しかし、本日の題名にあるように最も着目すべき点は「反米」という側面にある。
 アニメーションにおいて「反米」という政治思想を盛り込む事は別段に批判されるべき事ではない。しかし、それをどう描くかには批判すべき要素がある。例えば、小生がこのBlogを通してしばしば批評する「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」等は現実認識の錯誤という点で「反米」の描き方を誤った例の一つだ。この「ルパン三世 天使の策略」はその反対の例として名を残す事は間違いが無い。この作品はグレーム・レイク空軍基地(通称、エリア51)にある墜落したUFO(1947年のロズウェル事件の物と言う設定になっている)の破片(オリジナルメタル)をルパン一味が盗み出すところから始まる。もっとも、この破片と称されるものは米軍がプラズマ兵器用に開発した新素材で情報隠匿の為に宇宙金属というフェイクを作り上げているという設定になっている。そして、無論、それを単体では加工できない(斬鉄剣より硬い)ので、それを加工するのに必要な液体を持つ反米テロ組織「ブラッディ・エンジェルス」が付狙うのである。「ブラッディ・エンジェルス」とルパン一味からオリジナルメタルを奪回するように銭形警部に依頼するのが眼鏡をかけた国防総省の高官である。
 プラズマ兵器に、反米組織とまさに現代の世界情勢を現す情景である。プラズマ兵器の存在は現在米軍の中で研究開発が進められている兵器だ。無論、建物を破壊せずに内部の人間を殺傷するという規模の物ではなく、内部の人間の行動を阻害させるという非致死性兵器というレベルではあるが。これは第2次湾岸(イラク)戦争後のイラクの治安安定化作戦等の過程での要望から開発が進めらているものだ。反米組織「ブラッディ・エンジェルス」の幹部ポイズン・ソフィーは彼氏をアメリカが起こした戦争(第2次湾岸戦争の事か)で作戦を優先した米軍の誤爆によって戦死するという背景があって反米組織に入っているし、「この国(アメリカ)は力を持ちすぎた」と言わしめるのである。この辺りは反米組織がイスラム原理主義という設定になっていないだけで(「亜マゾネス軍団」と称されるが、どちらかといえば右派原理主義的側面か)殆ど、現実世界の構図と変わっていない。更に、この「ブラッディ・エンジェルス」のボス、エミリーが乗る野戦車は米軍のハマーであり、この辺りは一時報道されたアルカイダのオサマビン・ラディンが米軍の野戦服を着ていたという隠喩を込めているのだろう(「ブラッディ・エンジェルス」の部下が使う短機関銃に至ってはイスラエル製のUZIである)。そして、国防総省の眼鏡の高官は明らかに現ブッシュ政権の国防長官ラムズフェルドなのである(つまり、ここでソフィーの彼氏を殺す事になった命令を出した張本人が描かれる)。
 結局のところ、反米という背景設定でルパン一味、銭形警部、「ブラッディ・エンジェルス」がオリジナルメタルを巡ってどたばたを繰り広げるわけであるが、ここで重要なのは、オリジナルメタルを開発した米軍はオリジナルメタル関係の技術を全てを知っているという事である。「ブラッディ・エンジェルス」は米国の敵対国(核兵器を遥かに凌駕する兵器を開発中と一時期主張した北朝鮮の事だろうか)へオリジナルメタルを売却しようとするが、ここで売却が成功して技術が拡散すれば(原爆開発においても中心となった爆縮レンズ技術は米国からソ連へスパイが持ち出した事によって技術拡散したとも言われている)、新たな冷戦構造のようなものが生じる事になったかもしれないが、ルパン一味は基本的に政治思想の無い存在として描かれるので(前述の「この国は力を持ちすぎた」発言の後で、ルパンは「そんな事はどうでもよい」という発言をする)結局のところは米軍から技術は流出しないのである。つまり、反米といいながら現実世界において世界最強は米国なのだという一般常識を持って作品が構築されているのである。更に、作品の最後においてエミリーが持っていた偽物のオリジナルメタルを新海調査艇「しんかい6500」まで持ち出して賢明に探す銭形警部の行動は日本が米国の行動に賢明に追従しようとしている現実世界をある意味で面白おかしく演出している。
 この「ルパン三世 天使の策略」はまさに反米という存在が実際は如何に喜劇であるかというものを描いている。思想としての反米は理論的に成立しうるが、行動としての反米はある意味でとことんまで喜劇なのである(ある意味で米国の全て手の内で「反米」とは転がされてしまうような存在なのだ)。それはこのルパン三世という喜劇アニメによって題材になったという事でよく理解出来よう。つまり、反米を生真面目に取りう上げるのではなく喜劇化することによってこそ真の「反米」は演出可能なのである。この作品をルパン三世シリーズの中でも面白さに仕上げた監督の宮繁之の今後の活躍にも期待が持てると言えるだろう。

TOKYO WAR再考

2005年07月17日 22時46分56秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「攻殻機動隊」や「イノセンス」等の作品で、今やアニメーション界において世界的な巨匠の一人に数えられる押井守監督の小説執筆の第一作が「機動警察パトレイバー TOKYO WAR 上/下」(富士見書房、1994)であった。そしてこの度、全面的に改稿してエンターブレインから出版されたのがこの「TOKYO WAR」である。無論、この小説は1994年に公開された「機動警察パトレイバー The Movie 2」の小説版であることは周知の事実だろう。もっとも、映画版については公開から10年以上経過した現状においても賛否両論が渦巻いているのも事実だ。賛成論はこれぞ押井アニメの真髄発揮であると主張する。押井が常に題材として提起する「東京」そして「軍事」という部分を濃密にリンケージさせた作品である点にこの賛成論は帰結する。一方の否定論は、前作に比べて余りにもチープであるというのがその論の中心をなす。映画版の第一作は1989年に公開されたが、コンピュータ犯罪をアニメーションで描き上げるという先進性を有していたと多くの人々が評価する。それに反して、第二作はOVA版の「二課の一番長い日(上/下)」(自衛隊のクーデターを描く)の焼き直しにしか過ぎず、教条的な戦争論ではないかと主張するのである。
 いかなる議論があるにせよ、この作品が衝撃的な内容であることは間違いない。現在でこそ、ライトノベルズやその他の作品に自衛隊は頻繁に登場してくるし、自衛隊を主役級で抜擢する事も珍しくない。しかし、1994年当時においてそれを行う事は間違いなく英断だった。この作品の冒頭はカンボジアに派遣された自衛隊PKOレイバー部隊が全滅するシーンから始まる。当時、カンボジアPKOに自衛隊は派遣されており、もっとも取り扱いやすいテーマであったとも言えるが、イラクやインド洋へ恒常的に自衛隊が派遣されているのとは異なった状況であった事を理解せねばならないだろう(自衛隊を国連の活動で派遣するという、今では日常の光景になったものを導き出す為に、国会では牛歩戦術すら行われたのである)。そして、自衛隊が東京の市街へ展開するという情景も当時では異質に写ったが、市街地へ自衛隊が展開するという光景は公開の翌年に起こった阪神大震災や地下鉄サリン事件で現実の情景となり、2000年の「ビックレスキュー2000」以降は話題にも上らなくなった(先日には、映画「戦国自衛隊1549」の公開を記念試写会が開催された六本木ヒルズの前に陸上自衛隊の装甲車輛が展開した程である)。
 何よりもこの作品が指摘している事実は、日本の平和という存在が如何なる物に存しているのかという点だろう。この作品においては「テロ」という存在を通して描き上げたが、これは冷戦後、21世紀が米国同時多発テロ事件というテロの世紀で幕を開けた事を勘案するならば極めて暗示的なものであったと言えるのではないだろうか。そして、この作品において東京に展開した自衛隊はテロを鎮圧する事に成功しているとは言えない。この構図も何処かで見たようなものである。東京という都市を題材にしているだけで、戦争の本質というものをこの作品は描き出しているし、逆に都市という存在を戦争を語る為の題材に選んだ事は現在の視点からすると卓見としか言えないだろう。この作品は公開及び刊行から10年以上を経た現在においても未だ輝くものを持っている(だからこそ改訂版として刊行された訳だが)。そこにはこの「機動警察パトレイバー」という作品が持つ近未来性(時代という側面で考えれば既に「通り過ぎた未来」)というものが存在しているからかも知れない。テロの時代というこの中で、平和を享受している日本という存在は何なのかという点を考える上で、この「TOKYO WAR」と映画版を再度見直してみるというのも面白いのではないだろうか。 

大化けしたストラトス4

2005年07月15日 23時49分25秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「ストラトス4」というアニメが2002年の初旬(丁度、NASA(米国航空宇宙局のスペースシャトル・コロンビアの事故があった頃である)に地方局週末深夜枠で放送されていた。この種のアニメは基本的に3ヶ月(13回)でストーリーが終わるようになっているものが大半である。そして、多くの作品ではその続編が登場する事無く歴史の闇の中に消えて行くのである。「ストラトス4」も本来ならばその中に名を連ねている筈であったのだが、その異様ぶりは放映中から際立っていた。本来ならば丸々1話は掛けても良いかもしれない登場人物の過去の描写をわずか3分程度で終わらせてしまったりするところに多くの人物が衝撃を受けたのである。そして、彗星迎撃というストーリーにも先進性があった。先日、NASAがテンペル第一彗星に観測体を突入させた「ディープ・インパクト」計画によって彗星という存在は現在注目されているが、その何年も前に彗星を題材にしたのは着眼点が良いと言えるだろう。そして、その彗星が生命の種を地球に運んできたという「スターシード仮説」にまで結びつけてしまったところには誰もが驚きの念を禁じえなかった。更に、SFファンだけでなくミリタリファンの支持を獲得出来たのも本作にとってはメリットだった。英国の戦闘偵察機TSR2や練習機としてYak-28を登場させるセンスが支持されたし、舞台を下地島に置いたところも秀逸だろう。この下地島は知る人ぞ知るというツボな場所なのである(旅客機訓練用の3000メートルの長大な滑走路があり、米軍の前進配備予定地としてもしばしば名前が挙げられる場所である)。
 だからこそ、続編がOVA(X-1、X-2)で登場出来たのである。しかも驚くべき事にOVAは第二期シリーズ(アドバンスフォー)までが登場している。現在では組織内対立という何かパトレイバー辺りを髣髴とさせる背景設定が裏にあるという状況で進んでいるが、アドバンスフォーでは新たに地上配備型迎撃機としてTSR2に続いてMig-31の改造型が登場してくる。このMig-31という選定センスも大変に面白い。Mig-31の前身に当るMig-25(1976年に函館に亡命したべレンコ中尉が使用した機体)はF-15との高度上昇記録を競り合ったほどの上昇性能を有しているし、現有の戦闘機の中では最速のマッハ3をたたき出すことが出来るという性能を有している。しかも、Mig-25が真空管を搭載していたという事実が逆に核爆発のEMP(電磁パルス)から防衛する為に必要として活用されている点も面白い。「ストラトス4」は登場人物の絵柄から下手すると「萌え」系に分類されそうになるが、米国での販売トレーラー等を見ると相当に真面目に描かれている事が分かる。我が国では何事も「萌え」や「お色気」が優先されてしまう世情が存在しているが、確固たるSF設定を有している作品はSFの本場では認められているのである(これは日本においても「ストラトス4」が支持され続けた理由とも重なるだろう)。小生個人的にはこの「ストラトス4」が日本という国から失われてしまった良きSFの断片でも継承してくれれば良いと思えてならないのである。

侘び寂びという「ジャパニメーション」

2005年07月14日 17時15分34秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 ジャパニメーションという言葉は今では最早使わなくなった言葉である。日本の世界に誇るサブカルチャーであるアニメーションを表すには、「アニメーション」で十分になったのである(「ジャパニメーション」が差別語だと言う意見が出たので使われなくなったと言う意見も聞く)。しかし、今から10年程前に日本国内において蔑みの眼で見られていたアニメーションが諸外国においては「ジャパニメーション」として尊敬の念(性格には「cool」なのだが)で見られていると知った時に、蔑みの対象は後ろめたい尊敬の対象となった。小生はこのBlogにおいてありきたりの日本のアニメの賞賛を行いたい訳で(「後ろめたい」とは日本人自身がその尊敬を咀嚼出来ていない点にある)はない。日本製アニメが「cool」である背景が、どうも異文化間の差異でしかない事は今では周知の事実になりつつあるからである(残念ながらその点に、昨今アニメや漫画の価値に着目した日本国の公機関はまだ気付いていないらしい)。
 日本人は日本語でアニメを見る。これは当たり前の事だ。日本語を標準言語とする人間がわざわざ他の言語でアニメを見る必要は無いからだ。そして、日本で放映されているのと同様のアニメを諸外国の人々も見、感激しているのだと考えてしまいがちである。しかし、実際のところそれは正しくない。小生はふとした事情から日本アニメの外国輸出版(主に欧米向)のトレーラーやPVを見てみた。そこに示されているのはトレーラーやPVと言っても国内向けとはまったく異なったものである。例えば、我が国の国内向けトレーラーではお色気(或いは「萌え」)に焦点を合わせたトレーラーの編集が行われている場合が多い。これは現在の「萌国主義」とでも言うべき世情を考えれば妥当な事なのかも知れない(資本主義とは、その本質において顧客の嗜好に合わせた商品を提供する事なのだ)。つまり、この論理で行くならば、日本人と欧米人の嗜好は異なっている。文化的背景の相違もさることながら、当然ながら欧米人の大半は日本人が「侘び寂び」以来の発見と称する「萌え」の概念を理解していない(理解する必要すら感じていないだろう)。そこで、トレーラーは得てしてアクションシーンを中心に編集されている(あるいは日本的側面を強調した部分)。これは何もガンダムのようなSF/ロボット作品に限った事ではない。「お願いツインズ」やら「ラブひな」だろうが同じなのである(一部にはこれらの作品が一種のアクション作品ではないかという意見があるかも知れないが)。
 つまるところは、アニメーションとは結局のところ新たなジャポニズムでしか無いのかも知れない。開国後、明治初期といった時代において日本は欧米にとって神秘の存在であった。それはある意味で一貫して続いているとも言えるのだが(考えてみれば、先進主要国にアジアから名を連ねているのは日本だけであり、他の国の人々から見れば稀有な存在だろう)、現在においても世界第二位の経済大国であり、ハイテク製品の産地である日本に珍妙な文化が存在している点に欧米は関心を抱いているのかも知れない。流石に日本がTVや自動車を生産しながらサムライ闊歩している国と言うイメージを持つ欧米人は少なくなったらしいが(先年には「ラストサムライ」なる人を喰った映画があったのも事実であはあるが)、欧米人にとっては、サムライ、ゲイシャがデジタルサムライ(ガンダム等のロボット物)やデジタルゲイシャ(所謂「萌え」物)に取って代わっただけかも知れないのだ(日本アニメは「cool」であるのと同時に「hentai」でも通用する)。このように考えてみるならば、結局のところは訳の分からぬ存在として「ジャパニメーション」たる日本のアニメは存在していると言う事も出来てしまうのかも知れない。

アウシュビッツ幻想~Destiny考

2005年07月13日 00時53分18秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 新たなOPテーマとEDテーマが第38話から採用された「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」だが、この作品の最大のモチーフがやはり一極化という点にある事が示されてきた。無論、これは単純な一極化ではない。それはこの作品がフィクションだからに他ならない。現実世界では米国が「一極」であると言われており(現実的側面では、これは必ずしも真実ではない)、DESTINYにおいてはその役割を地球連合特に大西洋連邦に負わせていた。これは直線的で分かりやすいという批判が以前から為されていたのは事実であるし、大西洋連邦が主導して結成した世界安全保証条約機構(字句は第13話のカガリの手紙より引用)が「対テロ」或いは「対イラク」を標榜して世界を結集させようとした米国の姿勢を投影させようとしていたのは事実である(流石に「保証」のおかしさに気付いたのか先日刊行された小説版第2巻では「保障」に改められている)。話の後半においては対ロゴス(ロゴスとはDESTINYにおける軍産複合体の総称である)という文脈において世界を一つに結集した事への批判が描かれている。つまり、ロゴスは対テロの文脈で示されたイスラム原理過激派であり、この後ザフトの攻撃対象となるオーブにはイラクの役割を与えていると言えるだろう。ここで重要なのはオーブの描かれ方である。以前から指摘されているようにオーブには日本の姿が仮託されていると考えるのが常道である。つまり、大西洋連邦と言うアメリカに加担したオーブはロゴスの指導者ジ部リールを匿っているとして世界の敵として糾弾される。これは明日は我が身と言うように視聴者に提示しているのと等しいだろう。無論、明日は我が身論はある種の強迫性を有しているのは事実だ。しかしながら、明日は我が身論は現実から推論されない現実に基づいて提起される場合が多かったのもまた事実なのである。
 以前、小生はこのBlogにおいてロゴスはイスラエルの暗示ではないかと言う事を言及した。新OP映像の最初にミネルバのパイロットの背景に何か城郭のような建物の門へと線路が通じているシーンが描かれている。この建物がどうしてもアウシュビッツ強制収容所の門に見えてしまうのは小生だけだろうか。つまり、ここで示されているのは一極主義とは最終的に人類の優良種論というナチス・ドイツが示した論理へと行き着くという製作者サイドの意図が見え隠れしているのではないだろうか(つまり、人類を導く優良種たるアメリカ人とその他という構図である)。そして一極主義を打破する事こそが正義なのだと言う論理を製作者は示そうとしている。
 しかしながら、この短絡的な構図が正しいとは言えないのは誰もが容易に考え付く事だ。一極主義は必ずしもナチス・ドイツの優良種論と同じではない。確かに米国は世界の警察官を自負している面があるが、それはアメリカが選ばれた国家であると言う以前に米国が最善である為に自らの秩序を作り上げようとする国民に意思の表れである(そのような意思はどの国家も国民も有しているが、それを実現できるだけの国家資源と言うバックボーンを有していないだけなのである)。多元主義こそが最善と言うのは最もな論理である。しかし、現在の一極主義に見える世界も多元主義が基盤として存在しているが故の可視的一極主義なのである(米国も日欧露中の意見を常に考慮している)。アウシュビッツの幻想とは世間的に言えば、アウシュビッツに代表されるユダヤ人大量虐殺が存在していなかったというような論理を指して言われる言葉である。しかし、ここで着目したいのは必ずしもナチスは一極主義を目指していた訳では無いと言うことだ(ナチスは絶滅すべき民族とその他を峻別してはいた)。つまり、一極主義と優良種論をアウシュビッツをイメージさせる事によって同一化させるというDESTINYの危険性を我々は警戒の意識を持って考えていかねばならないだろう。

幻想の中の「青春」

2005年07月12日 21時49分36秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 ライトノベルズと呼ばれるジャンルの小説がある。所謂、10代半ば以降の青少年を対象としたファンタジー或いはSFに範を取った小説群の総称である。その中の作品には漫画化やアニメ化が行われた物も少なくない。本日のBlogで取り上げる「イリヤの空UFOの夏」もその一つだ。秋山瑞人原作の本作は駒都えーじのイラストと併せてライトノベルズ界において一世を風靡した。しかし、今日の主題は電撃文庫から刊行されている小説版ではない。アニメ界の大御所である東映アニメーションが製作したアニメ版の第2話「ラブレター」と第3話「十八時四十七分三十二秒」である(アニメーションの細かな描写には秀逸部分が多い)。
 最初に確認しておくべき事柄だが、ライトノベルズの登場人物は読者と想定される年代とほぼ同じくして設定されている。つまり、登場人物の大半は中学生から高校生と言う訳である。それは本作においても同様であり主人公の浅羽にせよイリヤにせよ14歳という設定になっている(14歳と言うと1995年の大ヒット作「新世紀エヴァンゲリオン」を想起させる)。これは書き手が読み手にストーリーへの没入を与える為に行っていると共に、自身の過去への追憶である場合が多い。無論、これらの小説と同様の事を書き手が行っている訳ではない。しかし、自身の体験の延長線上が描かれている場合は多いのではないだろうか(無論、そこには自身が当時夢見ていたものも含まれていよう)。
 今回分析対象としている部分において、その「青春」とでも呼べる部分は、第2話において浅場とイリヤの乗った原付を水前寺のカブが負い掛けて行くというシーンであろうし、第3話のマイムマイムのシーンに象徴されているだろう。無論、これはこの「イリヤの空UFOの夏」というストーリーの中ではまだ前半に属しているとも言え、少年(或いは少女)の夢の拡大期に存していると言える。書き手にとって「青春」が幻想の域に収まってしまったように、少年期の夢と言うものは挫折する為に存在している(極めて王道的な見方であるが、夢に破れる事によって少年は大人になるのである)。それは本作でも同じであり、それは話を追って明らかになってくる。そしてその結末が殉愛であったとしても、それは幻想の中の「青春」を構成するには十分なものなのである。
 しかし、逆説的に考えてみるならばこの構図は極めて不自然である。確かに書き手側には失われた「青春」を描き上げようとする原理が存在するのは理解できる。一方で、読み手の側は現在その幻想の「青春」の中に存在している以上、その幻想を現実へと転換する僅かばかりの可能性を有している事になる。しかし、ライトノベルズの市場は衰退の一途にあると言われている書籍産業の中においても市場を拡大している現実が存在している。これは、こう説明する事が可能なのではないだろうか。それは、少年期に体験すべき「青春」の背景が喪失しているという点である。少子化の急速な進展(以前は兄弟は2人が標準だったが、今では子供は一人が標準になりつつある)と都市部において「青春」とされるものを体験しやすい場所が急速に減少している点にあるのだろう。これは何も小生が何の裏づけも無く指摘している訳ではない。ライトノベルズが市場において橋頭堡を獲得したのは1980年代であり、この時代以降急速に少子高齢化と個化する子供の存在が教育界において指摘されるようになっているからである。幻想の中の「青春」としてのライトノベルズ。その先端に位置すると言われる本作は、まさに最良の「幻想」を青少年に提供していると言う事も出来るのかも知れない。

アドルフが告げたものは~Destiny考

2005年06月26日 10時58分03秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 アドルフ・ヒトラー――。
 それは、20世紀前半に欧州大陸を軍事的に統一したドイツの指導者である。こう書くと違和感があるが、彼が独裁的な統治手法を行っていたとしてもドイツの指導者であった事は間違いない。しかもその選出プロセスは民主的に選ばれたものであった(その選出の背景となったワイマール憲法は当時世界で最も進んだ憲法とされていた)。ここで重要なのは今でこそかれは極悪非道な独裁者として歴史に記憶されているけれども、1930年代においてはドイツと言う敗戦国を甦らせた偉大な指導者であったのである。アウトバーン、労働者への余暇の提供、そして英独海軍条約によるドイツ再軍備の復活。ユダヤ人への排斥政策と言う暗部が見えなければ彼は非の打ち所の無いような指導者だったし(当時、全体主義というのはそれなりに支持されていた主義だった)、排斥される立場でなければ彼の政策は多くの人から支持されると言うのは納得の行くところだ(特にヒトラーの支持基盤が保守的な中産層だった事は記憶にとどめる必要がある)。
 これが「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」と何の関係性を持っているのかと言う点に疑問を差し挟む向きは大きいかも知れない。第2次湾岸(イラク)戦争において、米国がイラクに示した自由は定着しつつある。戦争終了後の混乱は収束しつつあり、今日ではイラク国内で爆弾テロ事件を繰り返す集団が米国への占領政策へ抵抗するレジスタンスだとは誰も見なしていない。彼らが変節したのではなく、テロを引き起こしていたのは最初から外部からイラクに侵入したテロリストだったのである。第33話においてザフトのデュランダル議長は多国籍軍産複合体「ロゴス」を敵だと認定した。これによって人類はロゴスを敵だとして結集した。しかし、キラ等「アークエンジェル」はこれに疑義を唱えている。これは、視聴者からすれば論理的に理解しにくい点があるのではないだろうか(無論、主人公たる「アークエンジェル」が常に「正義」であると言う確固たる信仰を持っているのならば話は別だが)。「ロゴス」を敵としてみない「アークエンジェル」は「正義」の論理に反しているように一見すると思えるからだ。
 しかし、ここで視点を少しずらしてみよう。国内の求心力を得る為に外部に敵を見出すのは何れの国もが行う常套手段だ。このSEED世界の戦争構図も本質的にはそこに帰結しようとしている。だが、ここで話を整理してみると「ロゴス」が第2次世界大戦における「ユダヤ人」の立場を当てはめているように解釈できなくもない。「ユダヤ人」を敵とレッテルを貼ることによって求心力を高めると共に絶滅戦争も正当化する訳である(ユダヤ人が戦争で儲けているというのはナチスが批判の口実によく使っていた事を想起したい)。ロゴスはユーラシア西部の紛争においてデストロイガンダム等による大量破壊を実行した。ユーラシア西部というと漠然だが、地図で見るとどうも現在の中東辺りをさしているらしい。世界各国に太い人脈を有し、ユーラシア西部の民衆に残虐な行為を行う――これはイスラエルと言う国家の姿にも重なって見える(そしてあまり知られていないことだが、イスラエルがある意味で見境無く兵器を輸出する国家であるのも事実だ)。考えたくも無いが、暗にイスラエルの政策を批判しているというようにも捉えられてしまうのがこの構図だ。以前、小生はこのBlogにおいて「アークエンジェル」は最強の武力と言う点においてこの世界におけるアメリカの地位を有していると言及した。この観点から見れば、イスラエルと米国が共闘関係にあるように見えてしまうというのも説明できるだろう。しかし、ここで気をつけたいのが米国が必ずしもイスラエルの代弁者ではないという点だ。確かに現今の世界情勢において米国はイスラエル寄りの政策を示しているが、細部において必ずしも両者が協調関係にあるわけではない。現に世界各国がイスラエルに好意的な政策を示すようになったのは第2次世界大戦後であるからだ。
 デュランダル議長の主張は、人間はその目的に沿った人生を歩むべきだというものだ。この考え方も一種の全体主義思想に通じるものがある。ヒトラーはアーリア民族の優越性の語ると共にその民族の使命を語った。そしてその対極におかれたのがユダヤ人であった。では、このデュランダル議長の方針へ対峙する「アークエンジェル」は正義なのかといえばそうではない。そもそも彼らの「正義」が個としての「正義」でしかないからである。この点においてはデュランダル議長の言う言葉は正しい。結局のところは、個を中心にストーリーを構築するという機動戦士ガンダムSEEDの世界観に問題があるのである。

帝国秩序と紐育~サクラ大戦Ⅴ

2005年06月16日 22時36分26秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 7月7日にセガから発売される「サクラ大戦Ⅴ~さらば愛しき人よ~」に関して東京都交通局がTカード(パスネット)を発売する事となった。これは何も驚くべき事ではないだろう。東京都交通局は以前から年に二回お台場で開催される「コミックマーケット」の潜在的な支持者であったし、東京都の石原慎太郎都知事はアニメやゲーム等を日本の今後の基幹産業として認識している。そして、「サクラ大戦」は周知の通り帝都・東京を舞台としたゲームなのである。これを民間活力を重視したい東京都が手を拱いている訳がない。
 「サクラ大戦Ⅴ」は1996年に発売された「サクラ大戦」シリーズの最新作であり、舞台は東京、巴里を経て紐育の登場となった。「サクラ大戦」というゲームを分かりやすく紹介するならば、主人公他の正義の味方が「愛の御旗」の下で悪を討つという内容である。「サクラ大戦Ⅴ」の舞台は1920年代であるので一概には比較しようが無いが、まさに2001年9月11日の米国同時多発テロ事件後に相応しいゲームと言えるのではあるまいか。紐育華劇(華撃)団星組にも、東京、巴里同様に人種、宗教、国籍を超えた多くの「乙女」が参集する事によって構成されている。指揮官は無論、アメリカ人である。この構図は以前にも当Blogにおいても言及したが、帝国秩序と言わざるを得ないだろう。そして、製作者側に意図があるか無いかは不明であるが米国を主軸とした「有志連合」の存在を思い浮かべてしまう。
 しかし、ここで我々は重大な煩悶を抱かざるを得ないのだ。米国は民主主義国家であり、所謂ローマ帝国のような「帝国」秩序とは存在が異なっているのである(「デモクラシーの帝国」という言葉も存在しているが)。現在の国家は民族自決による「帝国」の崩壊によって国民国家を形成していった。この状況を「帝国」で解釈してしまうならば、「国民国家」のシステムを崩壊させようとしてテロ行為を行うイスラム原理主義過激派勢力等が「国民国家」を樹立する存在として描き上げられてしまうのである。一見するならば、帝国秩序として描き出される「サクラ大戦」であるが、その舞台が「帝国」にあごがれ続けるものの(周知の通りニューヨークには「エンパイアー・ステートビル」がある)「帝国」から最も離れた位置に存在する米国に舞台を置いた時にその解釈論は旧来のものと異なった視点を付与されて語られなければならないとも言えるのかも知れない。

THE EDGEが描く「正義」への懐疑~Destiny考

2005年05月22日 17時03分17秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」はアニメによって展開されているだけではなく漫画や小説による展開も存在している。それらの作品は「DESTINY」というストーリーに添って展開される別個の世界を構成している。それらの作品群の中に「機動戦士ガンダムSEED DESTINY -THE EDGE-」という漫画(久織ちまき)が存在している。角川書店の「ガンダムエース」に連載され、先月末には第一巻が発売された。この漫画の特徴は本篇の主人公がシン・アスカであるのに対し、前作の主人公各であったアスラン・ザラの視点で作品が進められている点にあるだろう。現在のところのアスランの立場(第31話現在)はザフト軍の「フェイス」所属である。つまり立場的にはシン・アスカと同じ陣営に属している事になっているが、一方で内心においては「アークエンジェル」グループのカガリ・ユラ・アスハやキラ・ヤマトに通じる一面(友情?)を持ち合わせている。
 しかし、アスランはキラが示す「正義」に懐疑を抱いている事は間違いない。それはシン・アスカが「アークエンジェル」とその中にいるカガリに抱く殺意に似た感情とは別のものである。アスランの言動を考えるならば、「DESTINY」の中においては極めてリアルな思考を持っていると考える事が出来るのではないだろうか。アスランが指摘しているのは国家対国家の戦闘に個人が介入すべきできはないという点に立脚している。だからこそ、国家代表の座を実質的に追われ個人の立場になっているカガリに馬鹿な真似はやめてオーブへ戻るようにと諭すのである。
 この論理は極めて分かりやすいし、現実においても同様である。ネーション・ステーツ(国民国家)が成立したとされる20世紀後半においても戦争は完全に国家の掌握物ではなかった。確かに中進国以上では戦争(そして武装集団)は国家の専管事項であったが、発展途上国では傭兵やゲリラと言った個人が戦争に介入していた。そして、それは21世紀に入って拡大傾向を示している。例えば、戦争地域で救援活動等を行うNGO(非政府組織)や先日、イラクで日本人がテロ集団に拘束された事で脚光を浴びた民間軍事会社の存在である。これらの存在は戦争を長期化させる傾向が指摘出来る。それはこれらの存在には外交交渉能力が備わっていないからである。戦争という外交の最終手段に踏み切ったとしても国家は戦争相手国との交渉関係を中立国等を通して維持しようとする(国連等の集団安全保証組織が存在する場合はそれも用いられる)。つまり、戦争を終結させる為の努力を決して惜しまないのだ。しかし、個人にはその能力は無い。
 アスランにとって戦争を終結させるのは国家指導部であり、国家指導部同士が解決策を見出せば問題は即座に解決するという視点に立っている。一方でキラの考え方は目の前の戦闘を停止させる事によって一時の安寧を確保し続ける事が重要と言う立場である。このどちらが本来的に有効に機能するかは明々白々であろう。確かにキラの取る手法で目の前の戦闘は納まるかもしれないが、戦争とは複数の戦闘が同時に平行して進むものであって一つの戦闘を納めさせるのは自己満足にしか過ぎない。一方でアスランの指導部同士の外交的模索は時間が掛かるがその効果は全軍へ波及する。戦争を終結させるという「正義」はアスランもキラも同じである。しかし、アスランはキラの手法を「正義」と言う名の偽善として捉えているのであろう。
 THE EDGEが生まれた背景にどのような考えがあったのかを小生は知らないが(アスランの女性人気を活用する為かも知れない)、THE EDGEには「DESTINY」本編が作り上げる偽善の「正義」を補完させる為の中和剤としてアスランを題材にしているのではないかという見方も出来なくはないのではないだろうか。

神風と言う歪んだ美学~Destiny考

2005年05月21日 19時25分40秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 神風特別攻撃隊――。
 それは先の世界大戦末期に敗色濃厚となった大日本帝国が生み出した人間自爆部隊の総称である。「KAMIKAZE」の名は米軍を混乱の渦に陥れ、現在でも自爆攻撃が行われるたびに「カミカゼ」として使用される。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件もまさに「KAMIKAZE」であった。
 リアリズムという現実に則って世界安全保証条約機構に加盟したオーブが、クレタ沖でザフトの最新鋭宇宙戦闘艦「ミネルバ」を追い詰めた時に採用した戦法もまたこの「カミカゼ」であった。ムラサメ部隊のババ一尉が「ミネルバ」主砲への突入を行い、そしてトドカ一佐が超大型空母「タケミカヅチ」を「ミネルバ」に「カミカゼ」を行う理由は本来無かった。それは、「カミカゼ」とは極めて非現実的攻撃法である。この「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」というアニメーションを見る多くの視聴者が日本人である(世間的な認識では日本人は美しき敗北への憧憬があるらしい)という点を考慮しても、ここで「カミカゼ」を行う理由は無い。確かに軍人たるものは政府の命令において、その命令が理不尽であっても戦地に赴かなければならない(あくまで民主主義国家においてではあるが)。
 だが、この状況で常道的に考えてみるならば地球連合の意思はオーブをザフト側へ寄らせないという点に集約されている筈である(逆説的にオーブを引き込むことにより自軍を強化している)。つまり、オーブ軍を大損害を出すような状況へ追い込むことはオーブ国内で反連合の気運を高める事になってしまい逆効果の可能性が高いのである。現実に立ち返ってイラク問題で考えてみればそれは分かりやすい。イラクの占領政策を行っている米国は世界各国に多国籍軍への参加を求めた。それは米国一国でイラク占領政策を行えば世界各国の意思という正統性を確保出来なくなるからに他ならない。イラクに派遣されている部隊の規模を考えてもそれは明白だ。米軍は13万程度の軍を派兵しているが、数的に次ぐ英国は1万人に満たない部隊を派遣しているに過ぎないし、日本に至っては空輸部隊も含めて1000人に至らない。
 この線で考えてみれば分かりやすいが、自軍側の正統性確保の為の条約であり派兵であるならば、「カミカゼ」に結びつく事は無いのである。つまり、オーブ軍対ミネルバの戦い自体が一種の非現実な戦いなのである。宇宙戦闘艦は地球での戦闘にはそもそも向かないし、実際の戦闘においては明らかにオーブ軍がミネルバを沈めている筈である。ここで描きたかったのは大国の戦いに「小国」が参加すれば悲惨な「カミカゼ」が待ち受けている筈だという一種の先入観に他ならない。実際にはそうはならない事は、本論の中でイラクの例を引用して説明した通りである。無論、「DESTINY」において描かれた「カミカゼ」を実際の「神風」とは異なると指摘する事も可能である。歴史的側面における「神風」は国家の意思として遂行された作戦であって、部隊単位や個人に意思で行われているこの描写とは異なっているからである。しかし、その相違を何処まで受けては解釈するだろうか?自爆攻撃=カミカゼという構図が一般化している現状においてその相違を含めて議論を行う事は余り意味を持たないのかも知れないのではあるが。

ロボット新時代到来か~ランド・ウォーカー

2005年05月09日 23時17分40秒 | 世情雑感(社会情勢)
 「ランド・ウォーカー」というのは群馬県のメーカー「榊原機械」が開発した二足歩行型ロボットである。その威容について朝日新聞は「ガンダム」と表現したが、どう見てもイメージ出来るのは「パトレイバー」だ。以前にも九州のロボットメーカー「テムザック」が人間が搭乗する形の災害救助ロボットを開発したが、この「ランド・ウォーカー」はより本格的だ。全高3.4メートル、重量1トン、装備したガトリング砲からスポンジボールを発射するこのロボットはまさに初期型のパトレイバーである。現に、警備会社から「パトロール」に使用したいという問い合わせもあったそうだが(メーカーは純然たるおもちゃだからと断ったそうである)、このロボット定点の警備には有益かも知れない。移動速度が時速1.5キロと遅いものの、この威容はまさに警備ロボットにはうってつけだ。
 このロボットを「ガンダム」と朝日新聞がなぞらえたように、この発展系は二足歩行型ロボット兵器ではないかと勘ぐってしまいたくなるが、このタイプのロボットを警備に使用する事は出来ても軍用とする事は出来ないだろう。それは警備とは本質論において警察行動であり最悪でも暴徒鎮圧という点に起因している。一般的に暴徒の有する武器は、日本の例で言うならば火炎瓶にゲバ棒程度である。これならばスポンジボールや放水銃で十分に対抗出来るし、この威容と人の背の倍を有する高さによって効果的な制圧が可能かも知れない。しかし、軍用と言う事は正規部隊とある程度交戦出来る能力を有していなければならない。二足歩行型ロボットは片足を失うだけで行動不能となる可能性が高く、ロボットよりも小回りの効く兵士がRPG(対戦車ロケット弾)等で攻撃すれば容易に撃破されてしまうのは想像に難くない。何よりもこの背の高さが陸戦においては致命的と言わざるを得ない。
 しかし、背の高さが3メートル以下で敏捷性のある二足歩行型ロボット(パワードスーツの延長に近いものかもしれないが)が将来的に登場して来る事は否定出来ない。戦争が量から質へと急速な転換を遂げていく中で、兵士一人一人の能力の強化が求められており兵士一人と戦車がパリティな存在になる時代が訪れる可能性はあるからである。もっとも、その先端を行くのは恐らく日本ではないことも十分に予測できる事だ。今回、このメーカーが「おもちゃ」と言い切ってしまったように日本人は斬新な技術を持っていてもそれを趣味としてしか見ない性格を有してしまっているようであるからだ。このロボットは確かにロボット開発史の小さな一歩かもしれない。しかし、その先の大きな飛躍を日本が生み出せるのかは、このロボットをアニメの延長として捉えると言う現状を打開出来るかに架かっていると言えるのかもしれない。