その昔,山形県の日本海側の,とある小さな街に住んでいた頃,おそらく人生において一度だけ下宿と云うものをしたことがあった。その町は最上川の河口に位置し,はるか沖合には小さな離れ島,目の前には鳥海富士と呼ばれる山が,遠くには霊峰月山,そして出羽三山が連なっていた。水極めて清く,米が美味しくて酒も旨くて魚が新鮮,その上,女性がキレイと何拍子も揃ったご機嫌な街だった。だだ,あの決まってやってくる冬の地吹雪と鉛色の空さえ除けば・・・・ そこで,この物語の主人公である「ばあさん」との運命的な出会いをすることになる。人が聞いたら大袈裟だと笑うかも知れないが,決して笑い事では片づけられない出会いと云うものが,そこには確かに存在した。出会った当初,お互いがそのような出会いになることなどは,当時知る由もなかった。右も左も分からない初めての土地で,しかも全くのあかの他人の家で厄介になることなど煩わしい思いで一杯だった自分にとって,その下宿は極めて新鮮だった。駅に続く大きな通りから一歩迷路のような細い裏通りを入ると,急に静かな住宅地となり,そのばあさんの下宿は,墓場の前にあった。なんとなく墓場の前の下宿と聞くと薄気味の悪いものだが,松の木はあるものの、それほど墓石の数も少なく,漂う空気もどことなくドライなカンジがしていたので少し安心した。ここだけの話,人にはあまり言ったことはないが,お化けと美女は昔から苦手だった。まあ,独り言で「俺は,もともと人が好きだし,性善説だから,どんな人間がいても,きっとどうにかなるだろう」と云うくらいの安易なカンジで下宿の門を叩いた。
(つづく)