昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百三十九)

2024-09-03 08:00:35 | 物語り

 昭和27年11月12日に、武蔵がふた月の余をすぎて自宅にもどってきた。
憔悴しきった小夜子を「おかえりなさいませ、おくさま。それから、旦那さまも」と、千勢があかるく迎えいれた。
「たけしぼっちゃんは、ついさっき、おねむになりました。
それから竹田さんたちにおてつだいいただいて、きゃくまにごよういいたしました」

 その夜、通夜が執りおこなわれた。
入れ替わりたちかわり社員たちが武蔵の○に顔に手を合わせるなか、小夜子はただただ呆然と座りつづけていた。
今日いちにちなにも食していない小夜子にたいし、千勢が汁物を用意したが、ひと口ふたくち口だけで、「もういいわ」と下げさせた。
しずかにねむる武蔵をじっと見つめながら、「ひどいよ、ひどいよ」とお念仏のようにつぶやいている。

 五平はむろん、竹田ですら声をかけることができない。
「結婚前はしかたないとしても、結婚されてから。しばらくはおとなしかった社長なのに、また女あそびはじまったもんな」
 庭先での服部のことばに、みながうなずいた。そして小夜子のことばを、武蔵への恨みごととうけとった。
五平ですら、
「社長の女遊びは筋金入りだった」と口にした。
「原動力、ガソリンといったほうがいいかな」とも、付け加えた。

 そんななかでただひとり、千勢だけはその言にくびを縦にふらなかった。
武蔵の女あそびを是としているのではなく、憔悴しきった小夜子の、いまの気持ちをおもんばかっていた。
「ひどいよ」ということばは、浮気ぐせにたいする恨みごとではないと断じた。
いぶかる面々にたいして、ただひとつ武蔵の守らなかった約束を思っているのだ、と。
「小夜子を送ってから、つぎの日に俺も逝くよ」。そのことだという。
そしてもうひとつ付け加えるならば、アナスターシアの墓参りをさせてくれなかったことだ、とも。
「そんなあ……」と驚きのこえがあがるなか、五平だけは「なるほど。かもな」とうなずいた。

そして葬儀の日、ひともんちゃくがおきた。とつぜんに小夜子が
「きょうはやめにします。まだ武蔵とのお別れがすんでいないのよ!」と、金切り声を上げた。
それまで葬儀屋にたいして、ひと言の文句もいわずに、ただ「はいはい」と応じていた小夜子だった。
いや応じるもなにも、小夜子にはそれらすべてが耳にはとどいてはいるものの、文章としての体を成していなかった。
たんなる単語の羅列にすぎず、まったく理解していなかった。

それがとつぜんに「読経が終わりましたら、会社の方へご遺体を……」と聞かされ、それが、この家から武蔵がいなくなると言う意味だと千勢に教えられた。
「だめだめ、そんなことだめ! 
こんなせま苦しい木の箱のなかに武蔵をいれるなんて、ぜったいだめ! 
あたし、まだお別れをしていないのよ。武蔵に抱かれていないのよ」
 はげしくことばを投げつけた。
だれにということではなく、言うならば、己にぶつけていた。



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