仲居たちの間では評判が悪く、三水閣の女将もまたにがにがしく思っている。
しかしこの旅館の主には、金をかせぐめん鶏がいちばん大事だ。
傍若無人にふるまう光子にたいし、大物然とした度量の大きさをしめしたがる客がすくなからずいた。
地位のたかい層がおおく、そんななかでひとり、光子のふるまいに興味をおぼえた人物がいた。
風変わりな女たちを指名してくる、ある大物政治家だった。
三十路を過ぎた里江が、仲居頭として腕をふるっていられるのも、このKという政治家に可愛がられたからだった。
「フェミニストとして世に知られた、えら~い政治家さんなんですよ」と、里江に教えられた。
「女性を大事にしない国家は、かならず衰退していく」。
「考えてもみなさい。世の男どもにはすべからく、おっ母さんがいる」。
「みな、おっ母さんのおなかを痛めてこの世に出てきたんだ」。
「とつきとおかという長い月日ではぐくんでくれたんだ。仕込まれてすぐにポンとでてきたわけじゃない」。
「なにかを創りあげるときの『産みの苦しみ』ということば、あれは出産時のことから生まれたものだ」。
演説会でかならず弁ずることばを、そのKの口調をまねて話す里江は、そのときだけはこの世に産まれてきて良かったと感じている。
けれども、光子には諸手をあげて受けいれる気にはならない。
(こんな場所で遊んでいるのよ。みんなのおっ母さんだとおっしゃる女性を相手に、奇態をご要求されるのです。
それとも、巷でささやかれております、2種類でございましょうか。
高等市民と平民。もしくは選民と、賎民……。
あらあら、申し訳ありません。つい口をはさんでしまいました。どうぞおつづけくださいまし)。
「お前、どこぞの旅館の跡取り娘だろう。
若女将じゃないのか? あの行儀作法の悪さは、その基本がしっかりしていないとできない所作だ。
どうせ、男に騙されて売られてきたんだろう。
どうだ、わしが身請けしてやる。どこぞで旅館でもやってみる気はないか。
いまさら実家に戻るわけにもいかんだろうし」。
再々声をかけてくる。
しかしその裏にかくれている下心が見えみえでは、光子ならずともふたつ返事で応じることはできない。
里江からも「ご厚意を受けなさい」と言われるが「そうですね」と答えるだけだ。
ここを抜けだせる、地獄のような日々を送らずにすむ、気持ちがかたむきかねなくはない。
しかし囲い者になるのがうとましい。ひとりの男のためにだけ生きることなど、からだが身震いするような感覚に襲われてしまう。
清二、そして三郎。もう男にふりまわされることだけはされたくない。
その思いが強い光子だった。
それよりも、ここにやってくる男どもをうまくあしらっている方が余ほどにましだ、そう考えてしまう。
しかし、とも思う光子だ。底辺をうごめいている己だと身にしみている。
いくら強がったところで、しょせんは売春やどの仲居なのだ。
胸をはって外をあるける身ではない。
大鏡に映ったおのれを見たとき、胸がはだけた着物姿のおのれを見たとき
(これは自分ではないと愕然とした。人として生きていない。
このままでは、こころのなかに夜叉をかかえてしまう。
なんとしてもここから逃げだそう。人の世に戻らねば)。そう強く感じる光子だった。
といって、Kの申し出を受ける気にはなれない。
なんとしても明水館に戻りたいと、心底から念じる光子だった。
そして雨の早朝、まだみなが寝しずまっている早朝に、あのぬかるみの道をひとり歩いた。
街灯ひとつない道を、雨を降らせる雨雲の上にあるであろう太陽からの薄明るさだけを頼りに、ただひたすら静かに歩いた。
さいわい、この強い雨のなかを行きかう人はいない。
(このぬかるんだ道は、1年の余をすごした三水閣での生活。
ふりつづく雨は、女たちの流したなみだの量。でも、この雲の上にはお天道さまがいらっしゃる。
わたしを導いてくださるおてんとうさまが)。
両手を組んでいのりをささげる仕種で、ただひたすらに歩いた。
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