昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~(三百六)

2023-01-11 08:00:34 | 物語り

 その日の夕方、勝子が駄々をこねた。もちろん今までにもありはしたが、今日は一段とはげしい。
「もう元気になっているんだから、このまま退院してもいいじゃないの! 
病院暮らしは、もういや! だってこんなに体調が良いのよ。
気分爽快よ、ほんとに。ねっ、小夜子さん。あなたもそう思うでしょ? 
あたし、元気よね?」
「姉さん、無茶を言っちゃだめだよ。先生のお許しをもらわなくちゃ。
とりあえず今日は戻ろうよ。明日にでも、先生に話せば良いじゃないか」
「勝子。我がままを言っちゃいけません。
もう少しでしょうに、もう少し辛抱すれば、ほんとに退院できるんだから」

 三人のやりとりがつづく。小夜子はただだまって聞いていた。
口をはさみたい、勝子の味方をしたい、そんな気持ちをぐっとこらえて聞いていた。
小夜子の母親である澄江もただ寝ているだけの状態ではあったが、その部屋に立ち入ることは禁じられてはいたが、それでもうれしかった。
廊下から障子越しに声を聞けるだけだったがうれしかった。
その日のできごとをこと細かに話せることがうれしかった。
そしてそして、たったひと言だけだったが、「おかえり、さよこ」がうれしかった。
それを、勝子に教えたかった。「それが幸せなのよ」と、つたえたかった。

「いやよ、もう。かれこれ、ひと月よ。熱も殆ど出ないし、出ても微熱じゃないの。
それも、夕方でしょ? 動きすぎたときに出るだけなんだから」
「だからね、その微熱が出なくなったらって、お医者さまもおっしゃってたじゃないの。
そしたら退院だって、おっしゃってるでしょ?」
「じゃあさ、こうしましよ。十日、いえ一週間おうちに居させて。
もちろん具合が悪くなったら、すぐに病院にもどるし。
お薬だって、キチンと飲むわ。ね、ね、そうさせて。
お母さん、明日、先生にそう言ってきてよ。あたし、おうちで待ってるから」

 今日病院に戻ればこの家に帰ることはないのではないか、そんな思いが、予感が、勝子には感じられた。
いまはたしかに体調はいいのだが、これが明日も明後日もつづくとは思えない。
どころか、こんやにも熱がぶり返すかも、と思えてしまう。
小夜子が感じた微熱を、実のところは勝子も感じている。
しかしその微熱はほんの少しの熱であり、勝子の気持ちを高ぶらせるための活力源のようなものなのだ。
「体が温まったから、これから全速力でいきますよ」。
運動選手たちの力強いことばのように、勝子もまた、新しい女にむかって進みたいのだ。



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