きょうもそうでした。
「あたくしなんか」と哀しげな口調ながらも、目は笑ってらっしゃいました。
「長女だからと、いちことされましたのよ。
一つの子なんですから。
一子なんて漢字にしましても美しさは感じられませんし。
イチコというカタカナにされてしまえば、これほどに冷たく感じられる名前はありませんわ。
せめても、初子という名前にしてほしかったと思うのですよ」
つづけて貴子さんです。
一子さんに対する慰めといった風のことばは、わたくしもですが貴子さんからもありません。
もう、当たり前といったことになっています。
「あたしもなんです。貴子という響きが固くていやですわ。
ですので、答案用紙などには、わざとたかことひらがなにしてますのよ。
それでよく先生からは、『親御さんからいただいたなまえは、大切になさい』と、おしかりをうけますけど」
たしかに、名前とはうらはらにいつも穏やかな、そしておしとやかな貴子さんです。
「交換いたしましょうか?」と言いますと、「ぜひに」と返ってまいりました。
そうした名前の感想を言いあううちに商店街をぬけて、角をまわる段になりました。
普段ならば気をつけるところなのですが、きょうはワイワイと騒ぎながらのことでしたので、つい……。
「あっ?!」と、いう一子さんの声が。
やはりでした。正夫がとつぜんに現れたのでございます。
その日にかぎって、などではございません。
もう毎日のことでございます。ええ、ええ。ひっしの言い訳をいたします。
「おたなのまえをはいているうちに、ここまできてしまいました」
腰をかがめて頭をなんどもさげて、毎日おなじ台詞のくりかえしです。
もう聞きあきましたわ。たまにはちがう台詞でも言ってくれれば、それはひとつのお芝居になることでしょうに。
その日もいつものようにあやまるかと思いましたら、
「ああびっくりした! おじょうさんがた、しっかりと前をむいて、あっ、あっ、ああ。
さよこおじょうさま。こ、これは、その。お、おかえりなさいませ」
と、さも一子さんが悪いかのように申します。
おもわずカッとなってしまいまして、正夫の持つホウキを取り上げてふりかざしておりました。
「あやまりなさい、あやまりなさい! わたくしの大切なお友だちにあやまりなさい!」
何度もなんどもホウキで叩いてしまいました。
こんな見てくれの悪い男なぞが使用人だとは、情けないことです。
恥ずかしくてはずかくして、それこそ穴に入りたい気持ちでございます。
それまでの楽しかった会話がすべて風で吹き飛ばされて、それこそ乾いた砂漠の地に立っているような、春には咲き誇っていた花たちがすべて枯れてしまった野原に立ちすくんでいる、そんな心持ちになっていました。
「結構よ、もうけっこうよ。おやめになって、小夜子さん。あたくしはなんともありませんことよ」
一子さんが止めに入ってくれなかったら、いつまでも叩きつづけていたことでしょう。
頭に手をのせていた正夫が、
「すみません、すみません」と叫びながら、走って行きます。
まるで、庭先で生け垣の間から顔を出したたぬきが家人に見つかってあわてて逃げていく、そんな態でございました。
「どうにも最近は図にのっているのですよ。
お父さまが『正夫や、まさおや』と可愛がるというか、『助かるよ、ほんとに』などと頼りにするようになってしまわれて」
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