昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

[舟のない港] (五十七) 

2016-06-11 11:44:24 | 小説
男は、消えてしまいたかった。よりによって、今夜会うとは。
「どうなさったの? お疲れのようね。
ごめんなさいね、父がご迷惑をかけたみたいで。
会社をお辞めになったと聞いて、心配してましたのよ」

あの高慢な麗子の言葉ではなかった。
心底に心配しての言葉として男の胸に入り込んだ。

「わたし、あの後に父の勧めるままに、あの方の後妻に入りましたの。
貴方とのことも、快く『若さというものは、羨ましいものだ』と、言ってくれまして。
わたし、今夜の貴方を見てますと悲しいですわ。
わたしが愛したお方は、もっと強いお方でしたのに。
自信にあふれた方でしたのに」

「それはおめでとう。今夜は特別なんですよ。
明日からのスパートの為に、少し羽目を外しただけです」

精一杯の言葉だった。
麗子の父親に対しては、恨み辛みの思いが渦巻いている。
しかしそれを口にしてしまえば、自分が惨めになるだけだ。

これ以上の会話は、男にとって苦痛以外の何ものでもない。
男は、重い足取りで店を出た。

まるで別人の麗子だった。
しっとりとして、どこから見ても重役夫人の気品が漂っていた。
店を出る時に会釈をしたその紳士は、泰然自若としていた。
風格さえ感じる。

男は打ちのめされた。
あの紳士故に、今の麗子があるのだろう。
自分では、到底 創り上げられない芸術品になっていた。

あれ程の良い女だったのかと愕然として、己の未熟さを思い知らされた。
麗子の父親の眼力に敬服させられた。
幸せそうな麗子を目の当たりにし、今まで抱いていた恨みつらみが氷解した。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿