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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

人のセックスを笑うな

2008年05月24日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネマ5>

 2008.05.04鑑賞

 監督などの制作者側が問わないでも、どんな映画であっても、映画というものは、受け手の構えによって、何かを投げかけてくるものだ。なーんにも考えずに楽しめる娯楽色が強い作品であっても、観る側の状況、精神により、同感したり、考えさせられたりする。これがあるからこそ、映画のレビューは観た人数分、ある。観た人数分のレビューをすべて読むわけにはいかないが、いくつか読んでいると、そう感じたかと頷くこともあり、また、それはないぞと、しかめっ面になることもある。私も同じ状況なら、同じ事をと思う。みんなで同じ時間を共有するけれど、すべて違うことを感じている。

 三次元の部屋の中に映し出される二次元の光と影ごときが、後の私たちに様々な角度から影響を与えていることは間違いない。これはとてもいいことで、だからこそ、映画を含め、芸術というものに終わりはないのだろう。

 断言はできないが、芸術を追求しようとする根源は、なぜ生きているのか、なぜ生きねばならぬのかにあるように思っている。部屋の中でひとり考えあぐねるのもアリだろうが、ある芸術としてみんなの見える形に表現させることは大切である。メッセージの受け止め方は千差万別でも、その影響から、人はまた、芸術を生み出す。芸術を観た人は、新たな芸術を生む。レビューというジャンルも、まったく芸術と離れたものではない。映画を観た後の文芸・・・ひっくるめてしまってもいいと思う。想像して形になったものを観て、それを別の言葉にして、または自分の言葉にして伝えるということだ。それを読んだ者が、また違う創造物を世に出すかもしれない。いや、レビューを書いた本人かもしれない。本作を観て、いろいろ考えたが、要約すると、以上のことが頭に浮かんだ。そんなことを考えさせる映画だった。とても難しいことを考えさせてくれて、自分自身が混乱する。

 二次元のスクリーンに二次元の撮り方。カメラは動かず、俳優が動き、構図を作る。長回し。もう、珍しいことではない。またこういうタイプかと思う。ただ、こういう映画の場合、制作者が、強い意思を持って観客に何かを投げかけていることが多い。私は、それをスクリーンから読み取ろうとするので、ただでさえ疲れる作品なのに、もっと疲れる。息を殺しておかないと、ふとした小さな点をみのがしてしまう恐れがあるからだ。みのがしてもいいけれど、折角こういう映画と対面したからには、掴んで帰りたい。だが、結論だけ書くと、空気感は伝わってくるものの、私にはこの映画の真の魅力はわからないまま、劇場を出てしまった。

 女性が原作で、脚本で、監督で・・・女性なればこそなんて思う方もいらっしゃるだろうが、私はそんなことはどうでもよろしく、伝わってくる映画、揺さぶられる映画、楽しませてくれる映画・・・ならば、同性、異性は関係ない。「ゆれる」「めがね」らの珠玉の秀作たちが闊歩している現在、もうそんなものはあるものかと思う。テレビドラマの脚本も、女性が主流になってきた。男性にも女性にも受ける作品たちに私たちは囲まれている。そんな今である。男でも女でもよろしい。男の描き方がわかっていない女の作家なんて、私は気づいたことがない。

 二人の男、二人の女の心模様が、淡々と描かれている。どう生きるか疑問を持たず、しかし、生きる瞬間瞬間を大切にして、どう生きていっていいのかわからず・・・とても危なっかしく、とても初々しく、とても健気である。その心理を、スクリーンの枠を利用して表現している。寂しい時は、枠が広く、人物が小さい。ぬくもりに包まれているときは、狭い。ただ、マイクがカメラ位置と同じ場所にあり、遠くへ俳優が逃げると聞こえづらくなる。これが私にはわからない。相米慎二も映画によってはそうだっかも?と思うが、マイクの位置を観客に意識させてはならない。スタッフ、裏方の仕事を見せず、におわせず。極端なことだが、まるで、勝手に誰かが撮影していた・・・枠外を思わせるのはいいが、カメラ側を考えさせてはならないと私は思った。私は、いつもスタッフ側から書いてはいるけど、これはクセのようなもので、みんな気づかないかとも?と、ほくそえんで書いているのであって、誰でもわかる「音が遠くて聞こえにくい」では、折角、練りに練ったカットでも、台無しになることもある。カメラと照明と音声は一体のものだ。極端に突出するものがあっても構わないが、それが、聞こえにくいでは困る。マイクも一緒について行けと思わせてはならない。

 カットは、二次元の構成が主だが、時折、ギョッとする三次元の画で静止させる。駅前から二人が自転車に乗るカット、展示会場の全景、映画館ロビーでの広画の俳優の位置関係、駅前の広い俯瞰。これは何をしたいのか・・・確かに、観る者は、平坦な道を歩いてきたので、気づいてギョッとする。クッションをつけているのは間違いなく・・・目を覚ませようとしているしているわけではないだろうが、心理的なアクセントとして、とても選んでいる画だ。そのあたり、面白いとは思うが、全体的にとても長い。90分でも長いと思うだろうが、2時間を超えている。長回し、フィックスに拘るなら、リアルタイムを重視したくても、短い作品にしてもらいたい(私個人としては「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」などの例外はあるが)。観る側は普通の人であって、緊張感の持続は、2時間ももたない。夜、疲れてみたら、寝てしまうかもしれない。いい空気感なのだから、それを与えて、飽きる前にクレジットがという方が、まだ食い足りない感じがして、後味、気持ちよかったろうと思う。

 語るのがとても難しい映画で、私にはこんなことしか書けない。優秀な作品らしいが、2度はとても観たくないと思った。それより、観る力は、私にはないと思った。  <65点>

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