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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

次郎長三国志(2008)

2008年12月12日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

1_5                                                                                                                  2008.10.04鑑賞

 <シネプレックス小倉>

 在阪の頃に比べたら観る映画の本数は半分以下、1/3以下という有様になってしまった。映画を観る大阪市民が、映画を観ない下関市民になったように思える。映画ばかりの頭でもかまわないと思っているけれど、芸術、文化と誘われれば出向くようになった。美術館や市民コンサートや市民劇場なる会員になり、この8ヶ月の間に6本の舞台を観た。文化レベルが低いと思っていたし、会う人会う人がそう言うので、てっきりと落ち込んでいたけれど、集まるところには集まっている。催し物も少なくない。人口が少ないから長丁場はできないが、1週間や10日くらいのイベントなら、まずまずは集まるようである。この分だと悪いとは言い切れない。なのに、なぜ、映画に人が集まらないのか・・・これを出会う人にとりあえずのように訊ねると、最も多いのが「いま、何をやっているかわからない」ということだった。次に「何時から上映するのか情報がない」「どんな映画なのか見えてこない」である。

 私のようなモノは別として、映画に対して関心はあるけれど・・・という人が少なくないこともわかった。「いま、何をやっているかわからない」ということは、「いま、何をやっているかわからせればいい」と、単純に思う。これにはたくさんの協力が必要になるが、銭勘定だけで動いている大都会ではないので、方法はいくらでもある気がする。「何時から上映するのか情報がない」というのは私もハラハラしているところで、『下関スカラ座シアター・ゼロ』は、シネコンのように毎週時間が変わり、その上、スケジュールの出し方が遅い。時間は土曜日から変わるが、金曜日の夜になって、ホームページを変えたりするものだから、ギリギリだ。映画を観たら駐車場3時間無料だし、正確な時間を知りたいのは当然だろう。小倉のシネコンは、遅くとも木曜日の朝には、翌週のスケジュールが提示されている。「どんな映画なのか見えてこない」というのは私も同じで、映画というものは観なければ、どういう映画なのかさっぱりわからない。ただ、『下関スカラ座シアター・ゼロ』にかかる映画群は、良質であるということは言える。良質の映画をいつもかけている・・・これを広く多くの方に認知させたいと思う。大型のシネコンで流れる全国区とは違う、こだわりのミニシアターである。『小倉昭和館』にも大いに足を運ばせたい。

 などと、近頃の私の記事は、その作品の良さよりも、映画そのものの良さを書き綴っていることが多いけれど、これは、大阪市内をうろうろしている間は、ほとんど思いつかなかった。地方都市でもなんでもいいのである。観てくれたらいいのだ。映画館で映画を楽しむ時間をみんなが再発見してくれたら、私のブログは終わるだろうから・・・。書きはじめた本質がようやく自分で見えてきた。しかし、こんなことを書きつつ、全国区のシネコンへ足を運ぶのはケシカランが、私だって全国区のミーハー気分になりたい。映画に対する気持ちは様々でも、7割はミーハー気分である。じゃないと、映画というものは理屈っぽくなる。また、シネコンといっても、地方都市のシネコンは、楽ではない。悪戦を強いられている。平日の人のまばらなロビーに佇んでいると、図体がでかくなりすぎて、あっという間に散ってしまうのではないかと心配になる。

2  このポスターを見た時、そうか!津川雅彦ことマキノ雅彦監督はこれを撮るか!とウキウキした。津川雅彦のおじさん、マキノ雅弘監督のリメイクである。私は、マキノ雅弘監督の伝説の映画、「次郎長三国志」を観ていない。昨年だったか、高槻松竹セントラルでシリーズ全作を上映すると聞いて、これが最後の劇場公開とばかり鼻息を荒くしていたのだが、平日の日替わりで上映した為、どうしても仕事を抜けるわけにはいかず、1作目、2作目、3作目と過ぎていく上映を、毎日毎日、指をくわえて見ていたのだった。あんなに窮屈なスケジュールでは誰に観てほしいのかわかりゃしないとも思った。

 そんな重い思いがあったから、本作のポスターには胸が高鳴った(私は大抵、最初に映画の情報をポスターや予告篇で知る)。だが、期待しすぎていたからだろうか、私としては、急ぎ足過ぎて物足りなさを感じた。話がどんどん先へ先へと進むけれど、それほどテンポがいいとは言えない。速くて鈍い印象なのは、話が速いのに、場面場面がゆっくり、のんびりだからである。エピソードをごそっと抜いて、長門裕之と鬼吉のシーンのようなテンポにしてしまえばいいと思う。この印象は、最後の殴りこみシーンまで続いた。木村佳乃が家の裏の祠に願うシーンはけだるさまで覚えた。「寝ずの番」の次の作品ということもあって、あまりにも過度な期待をしていたかもしれない。  <60点>

 今日は久しぶりに、3本のハシゴをしようと思っている。本作も娯楽映画で、次は「アイアンマン」、最後は「ウォンテッド」となっていて、すべて娯楽である。最近、娯楽映画をよく選んで観ている。ここのところ、映画に徹底した娯楽を求める精神が続いているのだろう。

 映画はハシゴして観るものか・・・昔は2本立て、3本立てと当たり前の世界だった。だけど今は、1本の興行が多い中、映画の観かたが変わってきている。好きな方でも、とんでもない駄作に当たってしまった以外、本当は一日一作品が望ましいと思う。浸っている間がないのはいけない。ただ、私がハシゴをするのは、ハシゴと決めただけで、テンションが上がって楽しい一日になるからなのだ。こうなったら、もう誰にも理解できぬ話しで、作品を楽しんでるのか、映画を観る自分を楽しんでいるのかよくわからない。実際、自分でも頭をかしげることがなくはない。

  

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シャッター

2008年12月03日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_4  <小倉コロナシネマワールド>

 2008.09.15鑑賞

 小雨が降ったりやんだり、あいにくの天候だが、今日は4月に完成したばかりの小倉のシネコンまで散歩しようと思う。シネコンは、「小倉コロナワールド」の施設のひとつで、「小倉コロナシネマワールド」という。この会社は、ここ数年、破竹の勢いで全国に巨大娯楽施設を展開していて、いよいよ九州へ上陸した。その第一号が、小倉なのである。施設は、西小倉駅と九州工大前駅との中間で、地図で見ると、西小倉からの歩きからの方がちょっと近い。もっとも、電車と歩きで行こうなんていう人はなかなかいないようで、車は詳しく書いていても、駅からの案内図はいい加減である。まあ、いい。私は歩くのは好きである。

Photo_5  西小倉駅は元の小倉駅で、目の前に小倉城が見えて交通の便のよいところPhoto_7 にあるけれど、今は鹿児島本線と日豊本線の乗り換え専用駅 のようになっていて、下車する者も乗車する者もとても少ないようだ。真新しい駅も安普請のにおいがする。小倉城側に用事はあっても、都市高速道路を見上げて喜ぶような気の持ち主でないと、海側には用事はない。 コロナワールドの不親切な案内図によると、こちらを歩けとなっているので、ゴーゴーと車の爆音のする方へ出る。人は見えない。信号が少ないようで、横を猛スピードで大Photo_8型トラックが走っていく。軽自動車も体のことを考えずにとばす。歩道にはゴミが散乱している。車窓から投げ捨てられたものだろう。拾うものなどいないらしく、どのゴミも年季が入っている。暑いけれど、寒々しい思いで、高速道路の下をテクテクと歩く。この際、大雨でも降ってくれれば散々なのだが、見えるか見えないかの小雨で、傘を出すまでもない。

Photo_9  徒歩20分、コロナワールドが姿を現した。殺風景な建物で、実際には2階建てだが、概観だけ見ると平屋かと思う。すぐに建てることができ、すぐにつぶすことができるといった印象を受ける。巨大なコンビニのようだなと私は思った。西小倉側から入ると、ここは裏側で、顔はもっと先になる。こちらの面はすべてパチンコ屋になっていた。今はとんでもない不景気なので、パチンコ屋は流行る。中に入ると、大阪にあっても珍しいくらい巨大なのに、座る席がないほどの混雑ぶりだ。どんどん、お金が集まってくる。

Photo_10 パンフレットを見ると、ここでは買うものがなく、お金を使うのみだと感心した。施設の中は、「パチンコ屋」「ゲームセンター」「カラオケ店」「ボーリング場」「温泉」「映画館」だけである。買って帰るものが一切ない。お金を使うだけに徹してある。お金を落とすだけの店舗を考えてひとつの中に入れました・・・。玄関口の「コロナの湯」は、全国のコロナワールドすべてにあるようで、名前も同じだ。駐車場の真ん中に、無料の足湯が設けてあり、ごったがえすように足が並んでいた。日本という国は、1300mも掘削すれば、どこでも温泉が出るらしいので、温泉を営業したいからと場所を選ぶ必要はないのだという。

Photo_11  表口から入り、2階へのエスカレーターをあがると、すぐ目の前にシネコンがPhoto_12 見えた。それにしても閑散としている。他のシネコンでは強く は感じないのに、今日は強くアンテナが揺れる。パチンコ屋は座るところがないほどいっぱい、カラオケ店やボーリング場は順番待ちで並んでいる、ゲームセンターは子供が走り回ってぶつかってくるし、足湯はソコに何があるのかと覗いてしまうほどおびただしい足が並んでいるのに・・・映画館のテケツもロビーも図書館のように静Photo_13かだ。シネコンがもっともスペースを割いているだろうに、パチンコ屋にいる1/10でもいいから、客を呼び込みたい。映画料金は、パチンコでスルほどの大金は要求しない。

Photo  今日の散歩は、嬉しい2本立て付きである。何も考えることはない、感動なんて面倒なことはしなくていい作品を選んだ。「シャッター」と「デイ・オブ・ザ・デッド」である。映画を崇高なものと考える方にはとてもお馬鹿扱いされるだろうが、私はこういうB級お馬鹿映画の大ファンだ。やっぱり映画は娯楽だぁ!と心の中で叫びながら、トイレで用を足しながら雄たけびを上げたりする。いつも行く「シネプレックス小倉」も「T・ジョイリバーサイド北九州」でも上映されていない。わざわざ来る甲斐が、私にはある。

Photo_2   こういう映画をジャパニーズ・ホラーというらしいが、ジャパニーズ・ホラーと聞くと、「怪猫シリーズ」を私は思い出してしまう。あれは、ホラーを観ても恐がらない私であるのに、今観ても恐ろしい。つまりは、都市伝説たらなんたら言う類のシリーズからはじまったジャンルなのだろう。本作は、奥菜恵が幽霊を演じるから、ニコニコしてしまうけれど、アメリカ人からすれば、どなたか存じない日本人が化けて出るので、とても恐ろしかろう。黒髪に黒い瞳が睨む・・・これだけで、アメリカ人は恐いらしい。いい傾向だ。ストーリーもわかりやすく、幽霊の出方もよく考えてある。後半、出まくってしまって、やや幻滅だが、出し惜しみしている中盤までは、奥菜恵と知っていても、現れ方がおどろおどろしいので、ゾクッとする。なかなかいいぞと、嬉しい。

 アメリカ映画だが、日本が舞台で、日本人が監督だ。アジアものがハリウッドによって次々にリメイクされている中、オールアメリカにしないで、日本人の指揮によって映画を作り上げることはとても喜ばしい。B級といっても、アメリカだから、制作費も日本の比ではない。タジタジしながらワクワク撮ったろう。これまで、あまりいいとは思わなかった落合正幸の演出がとてもいい。日本人の手腕とは思えなく、これから名を上げていくアメリカ人監督といった感がある。もっとも上手いのは、山中で奥菜恵の霊を車で轢いてしまうシーンだ。これまでの日本的な演出、編集方法ではなかった。しかし、アメリカ映画では何度も繰り返し観てきた。日本映画も、車で轢くカットをこのように上手に撮れればなとその度に思っていた。私が勉強することはないが、ここだけは、ビデオのコマ送りで見てみたい。

 ただこの映画、落ち度が多い。車で轢いた後の警察の応対・・・死んだ少女の母親はどうして葬儀に出ているのか・・・日本人だけが観れば、おっかしいなぁ?と思うところが随所にある。娯楽映画だからと馬鹿にしてはならない。こういう小さなところで、喜びの雄たけびが、一瞬で、鼻水をすする音に変わってしまうのである。そういうわけで、あの場面まで、宮崎美子はついてくることはない・・・。  <75点>

 まだまだ、楽しみがある。ゾクゾク映画の次は、ゲロゲロ映画である。今日は、遊園地のお化け屋敷に2つも入ることができる。

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ザ・マジックアワー

2008年08月26日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

2  <Tジョイ・リバティウォーク北九州>

 2008.07.01鑑賞

 1本でやめると言っていた三谷幸喜脚本、監督作品はこれで4本目。私としては今まで、「これは!」と感心した映画作品はまったくない。それでも期待してしまう。テレビドラマの完成度の高さを期待して、映画に期待しているのだ・・・テレビから映画を期待する・・・こういう脚本家、監督は、私の中では、ほとんどいない。「テレビを20時間観るなら、テレビは我慢して映画を2時間観よ!」などと、日頃、偉そうに唾を撒き散らしながら息巻いているのに、言っていることと思っていることが違う。こんなことがあるものだと自分でも驚く。

 前作が大ヒットして、ロングランだったから、今回は大金をかけ、またまた主役級の俳優陣をしこたま集め、フルセットで撮られていた。セットを見ているだけでも、楽しい。今どき、美術に、ここまで贅沢をさせてくれる映画は珍しいだろう。戦争映画でも怪獣映画でもない。日本映画を、単館系でたくさん観ていると、そのほとんどがオープンロケで、それに目が慣れているので、俳優がセットを駆け巡るなんて映画は、とても新鮮だった。

 三谷幸喜という人は、映画とテレビドラマを交互に鑑賞していると、どうしてもテレビドラマの方が印象に残る。印象とは、面白いである。私はテレビで見る舞台しか知らないけれど、映画<テレビドラマ<舞台という感じがしている。テレビドラマの設定も、ひとつの狭い空間の中で物語の広がりをみせる構成、脚本で、これらは、舞台でも十分、通用しそうだ。長い間、舞台脚本を書き続けていたからだろう。大学時代より、テレビ化、映画化などと大胆な考えはなく、舞台に徹底したから、そういう頭の構造となったのか?三谷幸喜のテレビドラマの脚本を、そのまま舞台化することは難しくなさそうだ。山田太一の脚本も何度か舞台化されたが、舞台脚本への書き直しには、かなりの無理が感じられた。「早春スケッチブック」は、ワンクールの長さも作品の魅力となっていて、2時間半の舞台では物足りなく、いいとこどりをしたただけの舞台脚本のような印象だった。山田太一の脚本は、テレビドラマどっぷりの脚本なのである。

 しかし、この監督・・・いや、脚本家・・・いや、監督・・・どのような頭をしているのだろう。コメディタッチが多いけれど、ジャンル関係なく、本当に面白い脚本を精力的に書いている。天才なのだろう。テレビドラマを、舞台の脚本だなあと思いながら見ることが多いけれど、それを途中で忘れさせてくれるほどで、計算された優れた構成、台詞に完全に酔わされてしまう。見終えた後は、気持ちのよさだけが残る。まだ見たいと思う。

 ジョン・ランディス監督、スティーブ・マーチン、マーティン・ショート、チェビー・チェイス主演のコメディに「サボテン・ブラザーズ」というのがある。山賊に悩まされている村の女性が、街の西部劇映画観て、それを事実と勘違いし、ヒーローの俳優三人組に手紙を書く。公演依頼だと思い込んだ三人組は、お決まりの台詞と最高の笑顔で村にやってくる。だが、これはお芝居ではなく、本当だと知ったときはすでに時遅くというか、プライドも手伝い、わけのわからぬ正義感が出てきて、本物のワルを相手に戦うことに・・・休日の梅田ピカデリーはガラガラだったし、ヒットはしなかったと思うが、とんでもなく楽しいおバカ映画である。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、くだらなくて、きっと通じない真面目な人もいるのでは?と思いながら、私は「サボテン・ブラザース」を大いに楽しんだ。ジョン・ランディスは「ケンタッキー・フライド・ムービー」「ブルースブラザース」などの快作を次々に発表し、好きな監督だったが、「トワイライト・ゾーン」の撮影中にビッグ・モローが事故死し、かなり意気消沈したようで、以前のようなめまぐるしい活動はしなくなった。大人しくなってしまった。しかし、「サボテン・ブラザース」は事故後に撮っている。ジョン・ランディス監督は、コメディを得意としたが、本作は、これまでとは雰囲気がガラリと変わって、ジョン・ランディスが撮ったとは思えないような作品だった。私としては、スティーブ・マーチン主演コメディの上位3位には入ると思っている。笑わせてくれるというより、あまりにも馬鹿馬鹿しいことを、くだらないことを、延々と、くそ真面目にやっているのが愉快でならなかった。「ザ・マジックアワー」を観終えたとき、ブログに何を書くかは漠然としていたけれど、このことだけは書こうと思った。あの映画を観てからもう、20年以上経った。私はまだ二十代半ばだったらしい・・・。

Photo  書こうと思ったのは観終えた後だが、「サボテン・ブラザーズ」だと思ったのは、この作品を観る前であった。滅多にやらないことだが、私は、薄目をあけて、<ものがたり>を読んでからでかけたのである。読むのを避けるように・・・しかし、どんなに薄目であっても、瞑るわけではないから、読めてしまう。なんだ、パクリではないか・・・?読み終えた後、そんな気持ちになった。しかし、悪い意味ではない。「ザ・マジックアワー」というタイトルが付いているから、過去のたくさんの映画にオマージュを捧げているのかもしれない。パクリの中からどんな広がりをみせるのか・・・映画好きが観たら、たまらない一本になっているのかもしれない。実際、そのとおりで、三谷幸喜という監督は、映画をよく知っている。俳優たちは、脚本を読んで、楽しかったに違いない。真面目に悪ふざけができると思ったかもしれない。スクリーンから伝わるソレは、目いっぱい楽しんでいる俳優の『気』のようなものだった。監督が三谷幸喜ということもあり、自由に演じることができたのかもしれない。観客は、脚本という土台に乗って、俳優たちと一緒に楽しむことができるようになっていた。全4作品の中で、私は最も楽しく観ることができた。

 ラストのクレジットで、先日観た、「僕の彼女はサイボーグ」で光っていた綾瀬はるかが、一枚看板で出るけれど、クレジットを見ながら、あれ?出てたっけ?と思った。しっかり出ていて、重要な役どころを演じていたらしいが、とても印象が薄い。あれだけの俳優陣の中に入ってしまうと、まだまだなのか・・・それとも、とても抑えて芝居をしていたのか・・・帰りにポスターを見ると、写真も名前もかなり大きく扱われていて、準主役のような扱いだった。私の頭が鈍ってしまったのか、帰りの電車の中で何度も反芻したけれど、なかなかはっきりとした色は出てこなかった。観ながら消化してしまったのかもしれない。ならば、反芻しても出てこないはずだが・・・。三谷幸喜という人は、俳優の実力より、好き、嫌いというフィーリングでキャスティングするらしい。もしかしたら、綾瀬はるかは、三谷幸喜の好きな女性のタイプなのではん?と、思うだけアホらしいが、勝手に決め付けた。だが、いや、そうじゃないぞ・・・この作品は、俳優陣の楽しむ『気』を楽しむ映画であるとも言える。だとすると、綾瀬はるかだけ、その『気』が、スクリーンを通じて伝わってこなかったのではないだろうか。そんな風に思った。  <70点>

 

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ジャンパー(字幕版)

2008年03月06日 23時30分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

2 Photo_3  <シネプレックス小倉>

 2008.03.01鑑賞

 本作とは、まったく関係のない記事を書いています。本作を観て、ただ思いついたこと、最近感じていることを綴ったものです。

 大人になってしまうと、子供の頃は素直に受け止めていたものでも、受け止められなくなる。長く生きていると、だんだんと、経験や体験が自分の常識になり、それ以外のことは非常識になるようだ。「私はUFOを見た。」「私は幽霊をよく見る。」「あの人は未来がわかる。」などは、ほとんどの人が常識外で、歳をとるほど馬鹿にして笑う。信じるよ、なんて言うと自分が馬鹿にされるというフシもある。それでも、中には、素直に信じる大人もいる。素直に信じるか、疑うかは本人の勝手だけれど、いくつになっても信じているのは、それはそれで素敵なことだと思う。また、今の時代、これから先、素直な人が救われていくような気がする。かつ、頭が冴えていれば、申し分ない。頑固は見苦しい。

 人間が知る物事は、すべての物事の1%と言われている。ということは、残りの99%はまだ私たちの知らない世界なわけだから、ほとんどが常識外のことであると言える。大人になると、すべてがわかったような顔をしているけれど、この世のものか?そんなことがあり得るのか?と驚くべき事実が、私たちのまわりには恐ろしい数、存在するはずである。現在の地球温暖化は、そんなことがあり得るのかを、私たちは目で見て、体で感じている。みんなが言うからではない。この危機をそのまま通り過ごしてしまうわけにはいかないのだが、それでもまだ、空気は澄み渡り、水は澱みなく、地は汚れなくと思っている不感症な人も少なくない。複合汚染を通して、私たちの間違いを問うてみて、これまでの常識ではあり得ないことがいっぱい起こって、いっぱい分ってくる。それが21世紀、これからのン十年だと思っている。一人の人間が、小さな事からはじめて、世界中の動植物を助ける。自分を助ける。とても不思議なことをやらねばならない。しかし、それで元に戻れるなら、素直に行動すべきだ。環境問題を通して、今、不思議なことがいっぱいまわりで起こっているけれど、見方を変えれば、現在の地球環境、人間の生きる環境が不思議だということがわかる。こんな滅茶苦茶な環境、経済にしてしまって、あたり前ではいけない。私たちは、地球の歴史の中で、これまで人類が体験したことのない転換期に出くわした。

 最近のドキュメンタリー、雑誌を読んでいて、そんなことを感じていた。実は、私の中では、危機的な状況である。だから、わざわざ映画館で「アース」を上映する必要はあると思う。できるならば、不感症な人を連れて行って、首を固定してみせたい。ところがどうもうまくいかないもので、映画が好きか、または、そういう危機感をもった人だけがこぞって行くようである。小さな輪の塊があちらこちらでタムロしているけれど、もう少し手を延ばして、ちょっだけ広い輪、もうちょっとだけ広い輪、よいしょっと!もすこし広い輪としていって、大きな輪でくるんでしまう時にきている。大袈裟ではなく、このままでは、10年後に地球人はいなくなるだろうに。

 「ジャンパー」を観て、映画そのものよりも、こんなことを書いてみたくなった。まったくあり得ない荒唐無稽なものであっても、それは自分の生きてきた常識の中ではかるから、馬鹿にしてしまうだけだ。ソレは、いつかあり得ることかもしれない。「2001年宇宙の旅」は、荒唐無稽だったかもしれないが、今観ると、未来を予言したかのような、未来に行って撮影してきたかのような映像が広がっている。予見するまでいかないでも、荒唐無稽と思われることであっても、映画は観客をひきこむ力を持っている。真実味を帯びさせる。その力を、「アース」「ダーウィンの悪夢」などを通して、たくさんの人に訴えてほしいと思った。

 本作は、勝手に、善対悪と思っていたが、実はどこにもジャンパーはいて、それを追う捜査官がいるという「サトラレ」を思わせるひねりがあり、とても楽しませてくれるCGごってりSFスピードアクションに仕上がっている。そんなバカな!から、徐々に、手に汗握らせてしまうスクリーンの力は凄いものがある。映画は本当はうそつきである。絵空事を観る。それでも感情移入したり、心がしめ付けられたりするのは、映画のマジックだ。もちろん、このような楽しい映画もいっぱいほしいけれど、私たちが置かれている環境問題に、これが活かせないだろうかと思う。良質のドキュメンタリーが封切られるようになって嬉しいけれど、まだまだ足りない。

 ちょっと、何を書いているのか自分でもあやふやになったが・・・ドキュメンタリーを上映することによって、普段、映画を観ない人が映画館にやってくるという現象も起こっている。こういう機会に、「映画ってなかなかいいものだなあ。」と、再認識させられるきっかけになっても、映画館に足を運ぶようなきっかけになっても、映画を愛する者としては有り難い。  <75点>

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ジェシー・ジェームズの暗殺

2008年01月19日 23時30分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <なんばパークスシネマ>

 もっと簡単に引っ越し作業は終わると思っていた。22日に引越しセンターがやってくるのに、まだ分別などをしている。急いでやらねばならぬのに、私は金曜日の夜、ボケたように、4枚の座席指定をした。土曜日の「ジェシー・ジェームズの暗殺」の1本、日曜日の「シルク」「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の3本のハシゴである。金曜日の夜にマンションに戻り、部屋を眺めていてドキドキした。間に合うわけがない、俺はいったいギリギリまで何をやっているのか・・・。未練たらしく持っていても後ろ髪をひかれるばかりなので、土曜日の夜、日曜日の3本のハシゴのチケットを破り捨てた。これは、本当はとてもいけないことだとは分っている。座席を取ったら、日時の変更はできないのだから、そこに空気を座らせてしまう。心から観たい観たいと思ってやってきて、満員と出ているのに、本当は席があいている。観たい人の邪魔をしているのと同じ事で、とてもけしからん。貯まった鑑賞スコアで座席指定したのだから、尚更、たちが悪い。ジョニー・デップ主演なぞは、満席に違いない。そこを私が、2日前に来て、一番いい真ん中の席を取った。みなさん、ごめんなさい。まだまだ時間はあると思いながら、平然と大阪での暮らしを続けようとしてしまった私のミスです。考えもなく・・・。とても、日曜日に映画を観にでかける余裕はないです・・・。

 そういうわけで、ブラッド・ピット主演なのに、ほとんど広告をせず、たった二週間で終わることがはじめから決まっている本作だけやってきた。今日、土曜日も一日頑張ったけれど、とてもとても、日曜日という時間を映画という時間にしてはいられない。段ボールに詰めるだけ詰めて、後は引っ越してから捨てなくては!別のことで焦っているのに、今日は早歩きである。早歩きしても、部屋は片付いてくれないし、掃除もしてくれない。ちょうどの時間のつもりが、30分も早く劇場ロビーに着いた。

 私は何度か映画化されたジェシー・ジェームズという伝説の男のことを知らない。実在した男の実話という予告篇だけでやってきた。160分と長いし、全体的に地味な作りだからだろうか、ブラッド・ピットが主演で、19時40分の回なのに、大して入ってない。娯楽作品ならば、満員だろう。やや破天荒な男で、やや棘を触るような男で・・・すべてに「やや」のつく印象を受けたけれど、後で実際の人物像を読んでみると、「やや」なんて付かない、とんでもない荒くれ男だ。こんなに恰好いい感じじゃない。何を考えているのか、針先で風船を撫で回すような接し方じゃないと・・・その感じはビシバシと伝わってはくる。・・・ジェシー・ジェームズ本人より、まわりにいる人物、中でも、それを殺してしまう男の印象がとても強く残る。あの素人芝居を何度も何度も自分で演じ、自堕落していく二人の姿に圧倒された。

「ジェシー・ジェームズの暗殺」公式サイト  オフィシャルサイトへ、ビシバシッと、とびます

 160分という上映時間でも、最後まで飽きさせないのは、丁寧な演出、カット割り、カメラワーク、オープンセット、鮮やかな照明のおかげだろうと思う。主演男優賞も獲ってはいるけれど、アメリカ人俳優の細かいところまでは、生まれも育ちも日本人の私にはわからない。とりたてて意識する場面ではなくとも、飾ることのできる一枚の画となっているのが見惚れてしまう。。人物を大きくアップで狙うところも、空間をきれいにしていて、決めた構図だ。こういう作品を何本も観ると疲れるけれど、今日は一本なので、この絵画のような映画が心地好く体を疲れさせてくれた。この後、何か観たくないタイプの映画だった。

 明日は、チケットを無駄にさせてしまったことを映画ファンに謝って、22日に、大阪在住の最後の映画を観るとする。最後の映画は・・・ほぼ、この時点で決まってはいる。  <70点>

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サラエボの花

2008年01月17日 23時30分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネ・リーブル梅田>

 人間が歴史を刻みはじめて以来、戦争、紛争のなかった日は一日もないということは、女性が性的屈辱を受けなかった日も一日もないということである。戦争時の強姦の多くは、最前線で死を意識した男たちの種をのこすという欲望だが、戦後もたくさんの女性達が酷い目に遭ってきた。結果となるが、欲望を満たす他の理由もあった。強姦した女性が妊娠すると、敵はその子供を産ませた。我ら民族の血を敵に混ぜ、同化させようとしたのである。これは、後の世に必ず起こりうるであろう戦火を回避しようとする考えであった。実は、セルビアの紛争にもこれはあった。

 戦争の悲惨さは、これらを避けてきて、こんな話しはタブーになっているけれど、タブーにしてはならないのではないかと私は思う。日本だけを例に挙げると、古く「蒙古襲来、元寇」では、こちらに被害がないように思われているが、文永の役、弘安の役の二度の襲来で、かなりやられている。しかし、台風か暴風雨か、どちらも悪天候で、海は荒れ、日本は大した武力も持たないのに、敵はやられてしまう。これを後に神風と言い、第二次世界大戦末期にその名が使われるようになる。この暴風雨で、ただ退散するのが腹立たしかったのか、帰りに、敵は、行きに襲撃したはずの対馬に寄り、とんでもないウサ晴らしをしている。女は強姦して殺され、男は手のひらに穴をあけられて、その穴に縄を通し、島を巻くように並べられて日干しにしたのだという。

 近くは、第二次世界大戦後の満州からの引揚者の中には、強姦され、身ごもった女性たちが多くいた。負けたからには、何をされても仕方の無いことだったのか。他民族の血を日本に入れるわけにはいかないと、博多で何百人の女性が中絶手術をさせられている。日本へやってきた10万人を超える通称GHQは、数万人という日本女性を強姦していたらしいが、それらも封印された。教科書に載っているわけはない。挙げていったらきりがないが、そういう悲劇が、戦争中にも、戦争後も確実にあったし、今もある。

「サラエボの花」公式サイト  オフィシャルサイトへ、どっかーんと、ふっとびます

 本作の根に張る、ボスニア紛争の強制収容所での強姦は有名だが、これは第二次世界大戦の後始末が完全に終わったと思った他国のマスコミが騒いだからである。元をだとれば、先進国といわれる国が起こした結果の紛争であるのに・・・。ここだけでやられていたような印象を受けるが、そんなことはない。他は圧力によって、目を瞑らされたからで、収容所はなくとも、他の国も同じ事をやっている。文書も何も残っていず、記憶しかない。日本人は、何度、単一民族を棄て去り、大陸人という民族にされようとしたことか・・・。ただ、本作は、マスコミが騒いだのでタブー視されず、堂々と映画として仕上げることができた。ボスニアだけではなく、戦争、紛争そのものの酷さを考える機会になる。

 集団強姦を受け、妊娠しつつもまだ強姦され続け、子供を産む。この映画は、10年経ったその後の母と娘の「愛の物語」である。妊娠しつつも強姦され続けるのは、最終目的を失い、野蛮などという言葉ではゼロに等しく物足りない。もう、人間とは呼べない。

 自分が生きるか死ぬか、産まれてきた子供を殺すか・・・それでも女性は子供と生きた。この娘の母となる為だ。育って、反抗期になったこの娘に、母は、戦争の惨劇、自分の悲劇を見せようとはしない。娘には、父は殉教者だと言ってある。厳しいが、我が子を愛し、見えぬところで苦労する。お金も無く、家計も苦しい。その苦労も娘には伝えない。ただ、娘が父の話しをするのをとても恐がっている。父のことを話せないジレンマが、窓の外の遠い風景を見つめさせる。殉教者ならば、自慢の父であるはずなのに・・・母は喋らない。それを娘は気づいているけれど、どうしていいものか。・・・母が娘をがむしゃらに叩き、絶叫する姿。娘は何に対して涙を見せたのか。私は、自分のことではなく、母の心を知ったからだろうと思った。

 本当は弱い女性である。夜の酒場で働く彼女は、とても弱々しく物怖じばかりしている。しかし、娘と対峙するときは歯を食いしばって強くなる。言い方もきつく、手も出すけれど、とんでもない迫力の愛情をスクリーンから感じる。私は、店で働く彼女、家での彼女、一人の男性の前での彼女のあまりにも違う様子を見ていて、涙腺が緩みかけた。本当の彼女はどれか。すべて本当だろうが、強いと思われる母は、かよわい一人の女性である。

 通じ合えない母と娘だが、血は通っているのであって、その温かい心がひとつになる様子が、遠く二人を離すラストシーンでみせてくれる。見た目の距離は遠くなるけれど、心の距離は近づく、ほっとする素晴らしいシーン。はじめてか・・・母は、「うれしい涙」を拭う。この映画は、人が人を愛し、人が人から愛されることを知るけれど、この映画の根底に流れる黒い血は、誰もが忘れてはならいない、記憶に残しておかねばならないものであった。けっして、タブーではいけない。映画ファンだけではなく、みんなに観てもらいたい作品だ。「日本って戦争してたんだね。」と、目を丸くして言う中学生、高校生にも。  <85点>

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ジャーマン+雨

2008年01月17日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <梅田ガーデンシネマ>

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 最近は、自分でもとんでもなく長いとあきれ返っているので、ちょっと短く・・・昨年の暮れに東京で独占公開されたインディーズ映画である。何やらの50万円を元手に制作をはじめたらしい。50万円ではビデオも作れない。グラビアアイドルのDVDの制作費にも満たない。このお金を元にはじめようとする気持そのものがすごい。すべてギャラなしだったらできるかも・・・どういう作り方をしたのだろうか。キャストもスタッフもしっかりしている。撮影も丁寧な仕事をしている。インディーズらしくない。

 大阪では、一日1回のみのレイトショー(8:45)。私のもらったチケットは2番だったのでガラガラだろうと思っていたが、口コミからか、結構入っている。ミニシアターでスタンダードサイズなので、ほとんどの観客が前の方に詰めていた。2番だったけれど、ギリギリに入り、一番後ろに座る。

 この映画をなんと伝えればいいのか私はわかりかねている。言い出したら止まらないようでもある。不思議な映画を観た。私がこれまで観てきたものとはまったく違う。もしかしたら、テレビを映画で流しているのかもと思うが、テレビではない。テレビだと間が抜ける。これは間違いなく映画だが、私の映画の概念がちょっとへそ曲がりにされた感じがした。

 日本的ではない主人公の女性とエピソードだが、そこに映るのは間違いなく日本の空気だ。主人公の考える世界が、日本人のそれではない。ニックネームのように、どこか別の国の人の原風景、環境を頭に入れ込んだようだ。大らかで、殺風景で、計算高く、単純で、高貴で、下品で、懸命で、どうでもよく・・・支離滅裂とも思えるけれど、それは鑑賞者の私が思うのであって、主人公のまわりの人々はまったくそうではない。主人公の蒔いた種は、まわりの人々を複雑に行動させて、ただただ面白い。どういう風にというのが書くということだろうけれど、何やら面白いぞ・・・短く書くならば、私はそうとしか書けない。

 大胆なことだけど日常のように語る友達をはじめ、「情熱のない、気力のない人々」のやること、言うことは、実に退屈でつまらないはずが、この主人公の言葉や行動によって魅力あるもののように思えてくる。そこが不思議に面白いのだろう。この映画の魅力は、観てみないと伝わらない。いくら言葉で言っても、だらだらと筋を追うだけだ。その筋を書いていっても、何が?と言われてしまいそうである。普通の映画とは違う、奇妙な不思議な映画の世界。珍しいものを観に行く気でもいいので、たくさん映画をご覧になる方ならば、まずはテンションを下げてから、ちょっと覘いてみてほしい。  <75点>

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再会の街で

2008年01月15日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <梅田ガーデンシネマ>

 日本語のあやふやな私であるけれど、人の話しを聞いていて、どうしても納得できないことが、いろいろある。その最たるものは、「癒」という言葉、文字で、この何年か、「癒す」「癒し」「癒し系」という言葉が頻繁に聞かれるようになったことだ。テレビが火をつけ、本上まなみが、「癒し系」と言われる最初のタレントだったような気がする。単に流行語だと思って聞き流していたが、なぜかこの言葉は、定着してしまった。テレビで、新しいタレントが出てくる度に、その風貌や性格から「癒し系」と付けられる。この言葉はテレビを飛び出して、普通の人たちが何気なく使いはじめた。

 気軽に「癒されるぅ」「癒されるね」と、楽しそうに話す。私は、自分にも人にも「癒す」こという言葉は使ったことがないと思う。『癒す』という言葉は、よほどの事がないかぎり、なかなか出てこないはずである。自分ではとても立ち直ることのできない精神的ダメージを受けた場合、社会生活ができないほどの大怪我や病気をしてしまった場合、それらを癒すものが必要になる。大まかに言えば、そうである。一般に、普通に生活している者が、会社で仕事をして疲れてマッサージを受けるなどは、癒すとは言わない。遊びつかれて温泉に入ったときも、癒すとは言わない。可愛い女の子と話したからといっても、癒すとは言わない。小さな人形を見て、「癒されるなぁ」と言う人を見ると、あなたはいったいどのような目に遭って、ここにいるのかと思う。それでいて、人形から目を離し、別の話題で楽しく盛り上がり、癒されたはずの人形はどこえやらであるから、どうも納得がいかない。

 『癒す』という言葉が、こんなに軽く使われるようになるとは思いもよらなかった。『癒す』という言葉が口から発せられるのは、一生に一度か二度のはずである。それ以上あったら、もう自分を取り戻せないほどの人となるかもしれない。多くの人が、毎日のように、毎週のように使っていて、本当にそうであれば、よくまともに生きていっているものだ。そう感じる人もいるだろうから、まったく無いとは言わないが、「癒し系タレント」などという言葉にはかなり無理がある。傷ついた自分を、心の部分、傷の部分で、そのタレントに直接癒してもらうならば、それでいいのだが・・・。

 話しはそれるが、「台場」に「お」を付けて、『お台場』というのもあまり好きではない。調べてもらったらわかるが、あそこは砲台跡地で、その後、土地の名となっただけで、現代に生きるならば、「台場」と呼んでも何もおかしくないし、それが自然のように私は思う。『お台場』は、とても大そうな呼び方である。徳川幕府によほどの尊敬の念があるならば別であるが・・・。「台場」でいい。そんなこんなで、日本語の不確かな私でも、おや?と思う言葉が多い。

 本作は、9.11のテロで妻と二人の娘を一瞬のうちに亡くし、それを抱えて生きている、「癒すことを必要とする、元歯科医の主人公(アダム・サンドラー)」と、それをとりまく人々(ドン・チードル、リブ・タイラー、サフロン・バロウズ)の物語である。こういう場合、『癒す』『癒してあげる』という言葉を使う。ドナルド・サザーランドまで贅沢に使っていて、コロンビア・ピクチャーで、超A級映画だが、全国公開ではなく、単館系で順次、公開されている。

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 大学時代のルームメイトであるドン・チードルとの偶然の、奇跡の再会が、運命を変えられ暗澹たる人生をただ過ごす主人公を外に引っ張り出す。そこには、しつこいくらいの友情があった。社会人になってからの友達は利害関係を伴うが、大学時代の友達は、お金とは関係ない友情で結ばれている。友達ではなく、親友であり、彼にしてあげることはあっても、してもらおうなんて微塵も思っていない。私も、友達、親友と呼べる相手は、大学時代にできた。寮に入ったからであろう。貸し借りご法度のお金にシビアな友達もいるけれど、私には、お金をいくら出しても惜しくない、貸しても返していらない友達が二人いる。お金なんぞより大切な人がいる。それが本当の私の親友である。

 気がふれるくらいにおかしくなってしまった主人公に、長年会わず、久しぶり会ったのに、ルームメイトだったというだけで、精魂つきるように立ち直らせようとするドン・チードルの姿に私は心を打たれた。そんな友がいてよかった。だが、このことによって、ドン・チードルの歯科医としての社会的立場も、順風満帆な家庭もおかしくなってくる。どっちも取りたい。どっちも取りたいけれど、目の前の親友をそのまま放っておくことはできない。これは、親友をもっているならば、難なくわかるだろう。彼女より親友を取るか、親友より彼女を取るか・・・そんな愚問もあるけれど、どちらも取りたく、しかし、頭に大きな方に行動してしまうものである。

 親友、カウンセラー、亡くなった娘の両親、精神を病んだ美しき女性・・・それらが単純に、複雑に融合し、主人公の鉛のような心を開く。開こうとする者、どうとも思っていない者が、奇跡のように彼に絡みつき、彼を未来へと導く。ニューヨークの夜の街を、飛びぬけた音楽にあわせて駆け走るけれど、ゲリラ撮影を得意とする監督らしい手法だ。ニューヨークは無償でロケに全面協力してくれるのに、ゲリラ撮りしている。

 「メル・ブルックス」なんて今の十代、二十代は知らない人も多いだろうけれど、1970年代にロードショーやスクリーンを読み漁っていた私などは、垂涎の三本立てだ。彼の心は、ルームメイトに出会ったことで、大学時代のその日に帰っていた。だから、このようなことでも平気でやる。ドン・チードルはとまどうが、それでもあの頃を楽しみ、家に電話を入れることすら忘れる。時には助け、時には共に楽しみ、時には怒鳴りあう。この大切な時間が、主人公の開かぬ筈の心の扉を開けた・・・その先は、観客の想像に任せている。

 ちょっとだけ出てくる裁判官のドナルド・サザーランドがいい。ノミネートばかりで、あまり賞に恵まれない俳優だが、ドナルド・サザーランドが出ると、画がひきしまる。うまいなぁ、この俳優。       

<80点>

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スリザー

2008年01月12日 23時30分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <ホクテンザ2>

 映画とはいったい何であるか。昔からいろいろな書物で語られているけれど、まだまだその答えは出ていない。歴史が浅いからこそだろう、作り手も観客も、その答えを問いつつ、人生を過ごしていく。映画とは何であるか・・・これは、人間が文化や芸術を創造する意味を問うているのと同じで、答えが出てしまったら、すべてそこで終焉となる。つまりは出ないわけで、なーんだだが、人間そのものも廃業してしまわなければならない答えなので出ない。ただし、映画を含め、すべての芸術を鑑賞する者のきっかけは、「それを楽しもう」であろう。作り手は苦しみ、悩み、魂を削るけれども、観る者は、面白がりたいし、楽しみたい。苦しみたくて、悩みたくて、芸術を鑑賞していたとしたら、それはウソである。

 日常というものは退屈である。私は退屈ではない!と言われそうだが、大部分は、退屈であり、退屈でなければならないと思う。朝起きて、満員電車で仕事場に通い、会いたくもない人と会って、体と心を酷使し、昼飯を食い、今日も残業かと嘆き、帰って風呂に入って晩飯を食らって、ニュース番組でも見て寝る。そしてまた朝起きて、満員電車で仕事場に通い、次の週は連休かとほっとする。そんな日常があるからこそ、私たちは、日常とは少しでも離れようと、電車で文庫本を読んだり、携帯でゲームをやる。娯楽は、退屈しのぎにやっているようだが、文庫本にも携帯ゲームにも意味はあり、それが日常を生きる私たちの糧になっている。日常に芸術がなければ、人間は、現実を突きつけられすぎて、どんどん自殺していくに違いない。ということは、芸術とは生き甲斐である。自分の人生がどんなに平凡であっても、楽しく生きていくモノなのだろう。しかし、映画とは何か、芸術とは何かを考えていくと、人間とは何かという問いに突きあたり、なぜ人は生きるのかなどと考え、生きさせるべき芸術が、逆に人を殺すことになるようだ。芸術家の自殺は珍しいことではない。神様は、人間に生きるモノを両手に与え、ひたすら人を殺すことを創造したみたいだ。どちらに転んでも、死へと導く。

 私は、これまでの人生で、何度、映画という芸術に助けられてきただろう。映画館に足を運ぶほど落ちぶれなかったのが幸いしたが、崖っぷちに立たされた私の袖をグイッと後ろに引っ張って力をくれたその多くは、間違いなく映画であった。映画を観ながら、まったく別のことを考えていたこともあるけれど、目の前のそれは、映画だった。だからこそ、私は多くの人に映画を観ることを勧めている。けれども、それは映画だけとは限らず、小説が好きな人は小説でもいいし、音楽なら音楽でもいいのだが・・・。

 わけのわからぬ事を、またダラダラと書いたが、日常における人間の映画の大きな存在の象徴は、娯楽作品だろうと、私はン十年も思っている。もし、心にゆとりがないならば、何も考えさせず、ただただ、観客を楽しませてくれる映画がいい。難しい評論など書かせぬほどの娯楽に徹した映画。もっと言えば、評論家が眉間に皺を寄せて叩くような映画・・・私の愛してやまない「スラップスティックコメディ」「ホラー」「スプラッター」という分野だ。A級だろうがB級だろうが、監督をはじめとしたスタッフ、キャストが精一杯の気力を振り絞って楽しんで撮った娯楽映画は、それがズシンズシンとスクリーンから伝わってくる。同じ船に乗った感じで、制作者と共に、私たち乗客は波に揺られる。本作は、その典型的な映画だろうと思う。大の大人が、はしゃいで撮っている。

Photo  「ゾンビ」のリメイク、原題は同じで「ドーン・オブ・ザ・デッド」のジェイムズ・ガンによるオリジナル脚本、監督作品である。2007年12月8日に全国公開されたけれど、いつの間にやら終わっていたのを、番館落ちで今年の今日、鑑賞することができた。リメイクのゾンビを楽しめなかったので、オリジナルと聞くと、まだレベルが下がるのではないかとも思ったから、さほど気にとめなかったせいでもある。ゾンビが走ってちゃいけない。ゾンビのあの動きは、ジョージ・A・ロメロが最高に形作ったもので、以上も以下もない。最初に傑作ができたのである。つまり・・・「日清のカップヌードル」と同じである。違うか・・・。

 少年の頃からホラー映画が大好きだった監督らしいので、ゾンビのリメイクでも、自分のものにしたかったのだろうかと思う。だが、オリジナルとなると、もうこれは別物で、自分の好き勝手に創造できる。似たような映画は山ほどあるけれど、間違いなくオリジナルのホラー映画だ。はじめは、きっかけがゾンビとまったく同じじゃないかと思う。でも、ここで命削って凝ることはないのだ。大きなナメクジのようなクリーチャーがどんどん人間を蝕んでいく、それを回避しようと悪戦苦闘する姿を待ち望んでいる観客に、凝った前戯はいらない。ところが、この映画、はじめの30分がどうしようもなく退屈である。退屈な日常に相応しくない。このまま2時間観るのかと砕けてしまいそうになるが、実は、面白いはずの「クリーチャーは何物か?」がみんなにバレるまでが退屈で、バレた頃からグンッと針が高く振れ、一気に面白くなる。ここからエンディングまで、なだれ込むように観る者を惹きつける。あり得ないし馬鹿らしいが、脚本より、技術的な面がすべて巧いので、スクリーンから目がはずせない。クリーチャーは、頭脳をもったゾンビのような人間を作り、それらゾンビのような人間は、ジョージ・A・ロメロの考えた動きで集まってくる。走らなくてよかった。肉を好むので、もう、ゾンビそのままだ。

 予告篇は、迫力ある場面をかなりみせているように思えたが、実際は、ごく一部だった。あまり食指の動く予告ではない。これだけ楽しませてくれるB級映画だったのか。ホラーだが、ごった煮で、SFホラースプラッター映画。とにかく、思いつく要素はすべて放り込んだようで、楽しませる。血のりがどれだけ必要だったか。ちなみに、血のりは結構、値段が高い。こういうアホらしさ極まる映画は、私は大好きで評価は他のジャンルより高くなってしまうけれど、昔から、まともな評論を書く人は、相手にはしない。書かねばならない時は、気分が悪くなったとクダラナサを叩く。これは、お決まりである。

 私はあまり好きな方法ではないけれど、長いエンドロールの後、もうワンカットある。こういう映画で、もうワンカットあるのは・・・言わずともわかるだろう。定番の構成、脚本でも、スタッフとキャストの情熱が、はじめて観るタイプの映画?のような、娯楽作品に見事に仕上げている。

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Photo_2  ホクテンザでの上映は1月5日から2週間の予定だったけれど、1月12日から1週間のみと直前になって変えられた。この劇場だけの前売り券まで売っている。翌週まで延ばされた挙句、1週間だけの上映とは、配給会社との間で何があったのだろうか。客入りがよくて封切の劇場がロングランをしたのか、フィルムの貸し出しが高く設定されたか?いろいろ想像してみる。それにしても、番館落ちでも、近頃はフィルムに傷がほとんどない。少し雨が降っている方が、二番館、三番館の場末の劇場で観ている気がして、私としては好きなのだが、雨も二番館もすでにない言葉・・・場末という言葉そのものが、もう死語になりつつある・・・のかな。  <75点>

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