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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

大日本人

2007年06月05日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_263  <なんばパークスシネマ>

 大学を卒業し、あるビデオ会社に勤めていた私は、早く帰ることができるときは、かならずといっていいほど、なんば花月に寄った。当時の入場料は、今の4,000円とは違い、映画料金と同じだった。漫才ブームも峠を越え、お笑いが斜陽になっていて、500人も入れるかと思われる場内に、客は100人。少ないときは50人だった。毎日、満員御礼となっている今の現象が私にはよくわからない。吉本というところはすごいなと、意味もわからず思う。その少ない客の中で、前座として出ていたのが、ダウンタウンだった。私は、ダウンタウンの漫才を腹が痛くなるくらいの勢いで笑った。窒息死するのではないかと思うくらいだった。マジギレしているかのような浜ちゃんの絶叫のつっこみ。まったく笑い顔を見せない、はじめて見る、はじめて体験するボケ。こんなに笑わせてくれる漫才コンビは、あの空前の漫才ブームの頃でもいなかったのではないかと思った。私は、まわりの知人に、ダウンタウンの面白さを伝えた。見に行ってほしいとしか言えなかった。あの空気感は、劇場でしか味わえない。私は、無名のダウンタウンの漫才を何度も何度も見に行った。いつも同じネタだったが、それでも腹をよじらせて笑った。

 やはり・・・ダウンタウンは、関西で大人気となり、冠番組を持ち、知名度を上げていった。仕事柄、夕方からの番組は見ることはできなかったが、場所を東京へうつしてからは、全国放送となり、ダウンタウンの番組を待つ日があった。「ごっつええ感じ」のコントは、他の誰にも出せない独特の味で、笑いの天才だと、これは何度も思った。天才の中でも、笑いの・・・は、上の上をいくと私は思っている。いつまでも取り上げられる、伝説の二人になるだろうと思っている。二十代の頃の飛んだりはねたりはなくなったが、落ち着いた観のある現在でも、ダウンタウンはダウンタウンの流れをきれいに歩いている。どこにもない独特の世界をもった笑いは、誰にも真似ができないだろう。敢えて偉そうに、感心させないところが、また、凄い。凄いとしか表現できないダウンタウンだ。浜ちゃんは、いろんな仕事をマルチにこなすが、松っちゃんは、それができようがどうだろうが、笑いというものがなければ、他になにもしない。一本、しっかり筋を通していて、実際、そうでありたいのだろうと思う。

 5年がかりで制作した映画・・・漫才のネタを作るように、大変な作業だったろう。この空気感、この笑いがわかる人にはわかる、つまらない人には徹底的につまらないだろう、と思われるのはちょっと残念だが、私は、まったく才能を失っていない監督ぶりをみた。前座で舞台に立っていた頃、テレビのコント、トークの集大成が、本作であると、私は思う。25年以上のすべてが、このフィルムにつまっている。笑いの天才が、観客を笑わせる為に撮った映画だ。ごっつええ感じのコントのいいとこ取りを映画にした・・・そうとも言える。コントはテレビでおさまるが、これを見事に映画にしている。つまり、映画をしっかりとわかっているのだろう。やはり、天才だ。

 もう一度、観たくなる・・・この宣伝文句は私には本当で、丹念に観るとか、解りづらいから観るとかではなく、もう一度、この不思議な天才の笑いの世界に触れたいという気持ちにさせる。土台の発想もとんでもないが、気が狂ったように展開されるストーリーも楽しくて仕方ない。大きな笑いと細かな笑い。私は変なところで笑うようだ。まわりの観客と、笑うタイミングが違う。細かな笑いが、とんでもなく大きな笑いになっている。この笑いの空気、わからない人には残念だ。どうしてもわかってほしいが・・・どうも賛否両論あるようで、テレビのコメンテーターは、間の抜けたコメントをしていた。

 ビートたけしと比較されているようだが、比較対象にはならない。お笑い芸人が監督というだけで、別次元の作品だ。これは、今までにない、異質の、まったく新しい映画作品である。私は大絶賛するが、誰に勧めるか、これが難しい。方向性や感性の合う人に勧めるのだろう。わかる人にはわかる・・・私はそういう作品には否定的で、一貫性を持ち続けるには、これを褒めるわけにもいかないのだが、敢えて我が儘を許してもらって、大絶賛としたい。       <90点>

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バベル

2007年05月19日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_260  <TOHOシネマズなんば>

 文才のないのは以前から承知だが、ことここにきて、さっぱり言葉が浮かばない。映画だけではなく、仕事に関してもそうで、人に書く手紙もそうで、数年前までは1時間ばかりで書いていた企画書、手紙が、2時間も3時間もかかってしまう。ボキャブラリーが少ないのはわかっているが、同じような文章を書き綴っているのが、自分でもよくわかる。創造性も衰えてきたようで、これではいかんのだが、どうしていいかものか、よくわからない。東京、千葉への行脚が日常になり、仕事をまとめてやるようになってから、ますますそれは顕著になっている。ここ一ヶ月の私のブログを読むと、よく恥じることもなく、単純な言葉で、偉そうなことを書いていると思う。

 そんな思いで、ここのところ、悶々と過ごしている。やらなきゃならないことは山のようにあるが、今日という日を逃したら、またしばらく、映画から離れる。24日の夜から、東京、千葉へ行くことになっている。平日を休むので、その間、仕上げてしまわねばならないこと、行っておかねばならないことがギュウギュウだ。3本観ると、翌日がややつらい。これはもう何年も前からだが、昨年は5本なんて馬鹿をやっている。映画を観て疲れるのは、良い場合と悪い場合があるが、いずれにせよ、2作品にしておこう。それでも、今日の2作品は、どちらも2時間を超えるじっくりタイプのもので、体力はいるかな?・・・用事をあれこれ済ませ、夕方、自宅を出た。

 賛否両論あると思う。評価が高いか、どちらでもないか、低いか・・・要するに、この3つだが、はっきり3つにわかれるのではないかしらん?などと、エンドロールをながめながら思った。私の評価は、ひどく高い。3つ、4つの話が同時進行していくドラマは、毎月のように観ているが、この映画の時間差攻撃、質の良い流れ、こまかな演出は、今までになかったような気がする。ドラマがあり、ドラマがあり、そのドラマが時をさかのぼって、ある時点から進行する・・・いくつかのテープを同時に回し、ひとつだけを観て、あるところまでいくと巻き戻して、別のドラマを観る・・・そしてこのドラマ、わかりやすい。観るものをまったく混乱させることなく、よくここまで構成していったと思う。語りたいものは山のようにあるのだろうが、そんなことを意識せず、固唾をのんで椅子に固まった。

 すべてのドラマにはつながりがあるが、バラバラと考えてもいい。もっと言えば、オムニバスにしちゃってもいいのではないか。オムニバスだったら、何度か観ないといけないけど・・・でもって、この映画・・・どのドラマも、起承転ですべてが終わっている。面白い、こんな中途半端なジレンマをかきたてるような終わり方。続きがいっぱいありそうで、様々に考える。続くならば、すべてのドラマがひとつになる画を想像するが、それがないから、もっといい。 私は、米国アカデミー賞の選考する作品を純粋に良いとは思わないタチの人間で、はじめの30分は、またこれかと顔をしかめたが、またこれの、かなり高い位置をゆく秀作だ。観てみなきゃ、わからない。とはいえ・・・私は、こういうタイプの映画を嫌いだとする人の気持ちもよくわかる。私がツボにはまっただけだとも言え、高評価であっても、敢えて、観なきゃダメってこともない。  <90点>

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ブラックブック

2007年04月21日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_255  <TOHOシネマズなんば>

 「氷の微笑」のポール・バー・ホーベン監督作品などと宣伝しても、続々とあらわれる映画ファンにはぴんとこないだろう。素晴らしいときは、どんな大監督もはねのけ、その世界の虜になる。派手で地味で才能豊かで秀作と凡作を、ジャンルなく撮る不思議な監督で・・・観ても観なくてもどうでもいい作品も少なくない。

 時代の流れにそいながら、運命に逆らいながら、従順に自分の生命を力強く生きる女性を、とても丁寧なカメラが追い、美しい色彩の中で煌びやかな魂の輝きを放つ。一人の波乱な人生をじっくりみせる映画作品としては、私の知るかぎり、他を寄せ付けぬほどのとびぬけた逸品だ。波乱万丈の人生をじっくりみせる映画は少なくないが、これほど、シーン、カット、台詞に無駄が無く、であるにもかかわらず、スピード性を兼ね備えたドラマは・・・他にあるか・・・あるかもしれないが、この映画に出会えた私はいま、本作品に満点の花丸をつけたい。

 ポール・バー・ホーベンは過去の人だとばかり思っていた。しかし、過去の人ではなかった。監督の手腕に震えた。スクリーンはじっと観ていて、ポール・バーなんとかもすべて忘れていたが、観終えた後、震えた。観ている最中も、震えていたのかもしれない。これから起こることをさまざまに想像しながら、私の凡頭では、そのすべてが外れた。ハズレの気持ちのいいこと。たっぷりではないが、すぱすぱとじっくりみせてくれるので、楽しむ性質の作品ではないのだろうが、楽しくてしかたなかった。脚本がいいのだろう。それが、観るものに伝わる。

 長い時をかけて練り上げた作品だということもわかる。こうした場合、その監督やスタッフの苦労を思うが、思う余裕を与えてくれない。まだまだ回数を観たかった。何度観ても、いいものはいい!なんて、感想を言いそうだ。ついさっき観たはずの「ロッキー・ザ・ファイナル」が、私の中では、観たのか観てないのかわからぬ存在になっていた。

 もう帰りたい。このまま帰って、誰とも喋らず、テレビもつけず、スクリーンを反復しながら眠るとしよう。 <95点>

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デジャヴ

2007年03月17日 22時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_248  <TOHOシネマズなんば>

 TOHOシネマズは、会員ポイントカードを発行していて、6回観ると、1回は無料になる。全国どこでも使えるので、便利だ。また、映画を分単位で計算し、マイルが加算される。航空会社のマイレージと同じシステムだ。1,000マイルでポップコーンやドリンクに引き換えられる。6,000マイル(六本木をのぞく)で全国のTOHOシネマズ一ヶ月フリーパスと引き換えることができる。一ヶ月フリーパスなんて、大手のシネコンでは他にないだろう。全国で使えるのだからとんでもない特典だ。

 私は映画を観るのが好きだが、映画鑑賞マニアとは自分で思っていない。マニアとまではいっていない。えいがを観るのは好きだが、たいした知識はない。また、マニアという言葉は、なんだか気が狂っているように聞こえてしまう。だが、私を知る者はマニアと言う。憮然とするが、映画をあまり観ない人が言わんとすることはわかっているので、黙っている。私がマニアと思っている人は、目がすわっていて、興味のない難しいことを喋ったり聞いたりする。私はついていけない。だが、映画をやたら観ることは確かだ。

 9月末からポイントカードを持ち、わずか5ヵ月半しか経っていないのに、すでに5,000マイルを超えた。あと1ヶ月もしたら、一ヶ月のフリーパスをいただけることになる。私はちょっと遠慮して、マイルを抑えるために、「ドリームガールズ」と「デジャブ」をポイントで観ることにした。前売り券や正規のチケットで観てきて、すでに43ポイントも貯まっている。6ポイントで一本観られるわけだから、無料で7作品も楽しめる。だが、こんなにいっぱいのお客さんの中で、無料で2作品を続けて観るのはやっぱり気が引けた。これから観る「デジャブ」も×印で、満員御礼だった

 配給会社、製作会社のオープニングからすでに、映画ははじまっている。色を変えたり、オーバーラップさせたり、ひっくりかえるという手法を観てきたが、「デジャブ」というタイトルで、なんとも粋なことをやってくれる。見慣れているから、思わず微笑んでしまうが、あまり映画を観ない人は、何気なく通り過ぎていっているのかと思うと寂しい。オープニングのオープニングを凝っているので、本編のオープニングはやはりびっくりさせなければならない。さっき、微笑んだばかりなのに、それを忘れ、びっくりさせてくれる。なんでやねんっ!なにがあったんやねん!と感嘆するだけに唖然とさせる。音響もすさまじい。

 私はサスペンスものは大好きで、前後左右して小難しいのは困るが(観終えたあと、続けて前半を観たいので)、ストレートでリアルタイムに進むサスペンスは手ばなしで喜ぶ。どんな単純な作品でも、B級作品でも、とりあえず観る前から楽しい。本作は、サスペンスものの中でも最高級に挙げられると私は思う。途中、三次元だのタイムマシンだの出てきて、幻滅させるかと思いきや、流れてきた物語をラストでがっちりと固める為には必要だったのだとわかる。よく結び付けている。「あぁ、あの時の!」・・・素早いので、いちいち納得している暇を与えないが、うまい。観客を楽しませようとしている。のりにのってるジェリー・ブラッカイマー製作だが、やはりこれは脚本のテリー・ロッシオ、監督のトニー・スコット2人のものだと思う。脚本が面白そうだ。無理なのは承知だが、読んでみたい。

 面白いよ、面白いけど、タイムマシンごっこで、「デジャブ」じゃないじゃないか!そう思っていたが、これがラストの答えとなっていた。「デジャブ」という現象を追いかけるのではなく、「デジャブ」を体感する仕掛けになっている。それに、何度も観た予告篇は、ほぼラストシーンを多用していて、とても自信のある作りかただ。私たちは答えをすでに予告篇でみせられていたのだ。予告を作る予告専門エディターも、楽しい作業だったに違いない。 私にはとても先が読めなかった。読むどころか、読むすきを与えようともしない作品だった。観終えた感想は「恐れ入りました。満足させてもらいました。」・・・単純な頭かもしれないが、それしかない。サスペンス・ノンストップ・エンターテイメント大作。こういう映画を作ることのできるアメリカという国が・・・やっぱり、ちょっと、羨ましい。  <90点>

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パフューム ある人殺しの物語

2007年03月12日 23時45分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_242  <TOHOシネマズ高槻>

 映画を観た後、「もう他の映画を観る必要なんかない。」と思わせるときがある。そう思いつつ、やっぱり違う作品も観るのだが、そう思わせてしまう映画にたまに出合うことがある。久しぶりに、そういう作品に出合った。それもこれまで感じてきた以上だった。私は観終えた後、「しまった!」とも思った。観るべきであったが、観るべきではなかった・・・どちらとも言えぬ不思議な感覚が私の頭をグラグラさせた。映画でここまでやるか!と思ったろうか・・・後で思ったのだろう。私は完全に我を忘れてスクリーンをみつめていた気がする。時間を忘れることはあるが、自分の存在をも忘れさせてくれる映画に出合った。

 100点である。100点を超える点はつけられないので、私の映画人生は終焉を迎えなければならない。だが、本作は、舞台はどこであれ、英語で喋り捲るわけで、好き嫌いのはっきりする作品だろうとも思う。ここらあたり、突いてきそうだ。しかし、私は好きである。大好きである。1500万部の大ベストセラーの原作は知らないが、知らなくてもいい。原作を読んだ方は、比較するかもしれないが、比較なんてしたくない。私は、原作を読みたくない。映画・・・映画として、これ以上のものはあるか?私はそう思った。

 オープニングから、一般的に、胸の悪くなるような描写がアップで続くが、私は美しいと思った。腐った魚、うじ虫、ボロボロの服、産み落とした子供・・・アップでグロテスクだが、私はただ「美しい」と思った。もちろん、目をしかめてしまう映像で、大嫌いな観客の方が多いだろう。 この汚い画を撮るカメラワークがとても凝っている。また、「汚いモノ」のアップのつながりを編集の手が魔術のようにつなげていく。バックに流れる音楽も見事だと思う。悪臭の漂うリアルな画ででありながら、私は心地よいめまぐるしさに包まれた。

 流されていく人生、成長を、映像でわかりやすく、カメラを駆使して無言で説明する。展開は早い。こういう波乱な人生を追う他作の手法とは若干違っている。端的に、彼の成長と共に、天才ぶりのみを画で説明する。彼の性格がどうで、何を考えていて・・・それは取るに足りないことなのだろう。後にわかる。これはラストまで貫く。カメラはアップをとらえ、落ち着き、ステディカムで走り、クレーンに乗り、スカイカムで飛び、俯瞰で無人のワイヤーを動かせる。実に1カット1カット、とても丁寧で凝っている。わずか一秒のカットすら気を抜いていない。しっかりした構成、脚本、台詞であるのに、さらにそこに、現場でも、スタジオでも、命を命を吹き込んでいることが読める。アップと広角、アップの重なり・・・ほとんどはその撮影と編集である。完全に画と音楽はリンクしていないが、その美しい旋律は、主人公の心を表現しているのだろう。聞きながら、主人公の純粋な心を知ることもできる。

 先の展開など読めないが、知らず知らずのうちに、私は主人公の心に溶け込んでいた。「ある人殺し」の「ある」は・・・私にもわかるような気がする。まったくわからない世界ではない。そんな天才だったら、何をやるかわかったものではない。殺人も、その後の作業も、演出はとても冷静である。あの「ラン・ローラ・ラン」を撮った監督とは思えないほど、落ち着いて息を殺してみつめる。緊張感の持続には限界があるが、2時間30分の緊張感と快感は、とても心地よいものだった。心地よい・・・まったく違った言葉も私の頭から出てきそうだが、一言で表現するなら、心地よいである。

 全体のエピソードは、ほとんどが大袈裟である。画も大袈裟に表現する。あまり大袈裟にすると、苦笑してしまうが、この大袈裟は貫かれているからか、空気感がそうしているのか、敢えてこれでいいと思う。まだ大袈裟でも、私は納得しそうだ。だって、凡人にはわからない、そういう男なのだから。殺人は純粋な心が起こす出来事だ。彼が悪いのか、彼の才能が悪かったのか。次々と若い女性が死んでいく。それでも、私は彼の味方だった。殺人者になっていく、連続殺人をくりかえす彼の味方になっていた。こんな気持ちになったことはなかった。「感情移入」なんて簡単に書くが、私は映画を観て、なかなか感情移入のできない人間である。そんな凡頭が、感情移入した。

 ベテランのエキストラを集めて、エキストラのような顔立ちをしていない群集の場面も見事だ。ここだけ観ると、また違った観方をすると、馬鹿みたいだが、流れとして観ると、クライマックスであり、これ以上のシーンがあるかと思う。映画の中の映画という言葉が通じるかどうかはわからないが、本作は誉め言葉で、映画の中の映画だった。私は汚い画にも、美しい画にも、同じような美しさを感じた。そして、主人公の心を覗いた。彼の心は澄んでいた。澄み切った青空の中で、行われる殺人。本作は、それを淡々と激しく、押し殺すように魅せる。

 なかなか言葉が浮かばずに申し訳ないが、本作を観て良かったことは間違いない。そして、封切に出合えたことに歓びを感じている。もうしばらく映画を観る必要はないが、予定はこなそうと思う。浮いて水平移動しているような気持ちを少しずつ下げながら、高槻松竹セントラルへと向かう。  <95点>

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それでもボクはやってない

2007年01月22日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_195  <TOHOシネマズ高槻>

 私は、周防正行監督はもう引退したのかと思っていた。自体験の映画化、「Shall we ダンス?」が当たりに当たって、全米で公開され、さらにリチャード・ギア主演でハリウッドリメイクされたのだから、一生自由に暮らせるだけの財産はあるはずだ。地位も名誉もお金も手に入れた。憧れの草刈民代も妻になった。この頃は周防監督より、草刈民代の活躍が目ざましい。世界中をかけめぐり公演を行う他、雑誌にもテレビにも(積極的ではないが)登場する。いろんなテーマで本も出版している。周防監督の出版本もあるが、草刈民代の輝きは眩しい。

 「変態家族兄貴の嫁さん」というポルノ映画をご存知だろうか。とんでもないタイトルだが、これが周防正行の初監督作品である。ポルノ映画はこの一作品しかないと思うが、この映画は、ポルノ映画界だけではなく、日本の映画界に衝撃を与えた。あの名匠、小津安二郎が監督をつとめたのではないかと思われるポルノなのである。設定、台詞、撮り方など、すべてが小津安二郎の世界なのである。「東京物語」の小津安二郎である。まさか、小津安二郎が監督するはずもなく、もう亡くなっている。小津安二郎監督を敬愛する周防正行の監督へのオマージュと、映画雑誌は伝えていた。私は「変態家族兄貴の嫁さん」で、周防正行監督を知った。インターネットもなかった時代、私は周防監督について懸命に調べたが、なにしろキャリアがなく、黒澤清や高橋伴明の助監督だとはわかったものの、どこの誰だかはわからなかった。ただ、この一作品で、監督は終わりだという記事をみつけた。後の活躍を知らないので、私はもっともっとポルノ映画を撮ってほしいと思った。

 伊丹十三監督が「マルサの女」を撮るときに、約1,000万円で、メイキングビデオをテレビマンユニオンに依頼した。そのメイキングビデオを監督したのが周防正行だった。「マルサの女をマルサする」というタイトルで、120分の作品を作り上げた。これが傑作ビデオとなった。伊丹監督はとても気に入り、「本編より面白いよ。」と観終えた後、つぶやいたという。何年か前までレンタルビデオ店に並んでいたが、いまはどこにもない。「マルサの女2」の時も周防監督は「マルサの女2をマルサする」というメイキングを作り、これもレンタルされた。私はこのメイキング版をダビングして、何度も繰り返して観た。大切に持っていたのだが、今はどこにあるだろう。物置の隅にでも転がっているかもしれない。

 「ファンシィダンス」もあるが、周防正行の名を広く世に知らしめたのは「シコふんじゃった」だろう。この年は、映画賞を総なめにした。なにせ、キネマ旬報が第一位とした。日本アカデミー賞は、唯一オンエアされるので、この影響力は絶大で、後にビデオになってからもヒット商品となった。その次が「Shall we ダンス?」ではないだろうか。本数は少ない。この監督は割と我がままで、また、お金に執着がないようで、撮りたいものと心から思わなければ監督はしないのだという。しかし、その撮りたいものがどれも素晴らしい。一部の映画マニアや映画ファンを喜ばせるのではなく、万人を楽しませる才能を持っている。あまり映画館で映画を観ない人の足を運ばせる力を持っている。誰でも楽しめる映画を作る監督である。そして、どんな材料であっても、エンターテイメント化させてしまう。「変態家族兄貴の嫁さん」もポルノなのに、エンターテイメント映画と言えるだろう。作ることに積極的ではないが、いざ作れば、それは間違いなく面白い映画である。また、面白いだろうと大きな期待をもって行っても、その期待を裏切ることはない。大きな期待以上に満足させてくれる。「変態家族兄貴の嫁さん」で初監督して以来、私は期待感いっぱいで観に行っていて、それを一度も裏切ってない。制作本数は少ないが、一度も裏切らない監督は、周防監督だけだ。

 映画の世界で、刑事事件の法廷劇というのはいっぱいある。アメリカは陪審員制度なので、検事と弁護士が陪審員へ向かってパフォーマンスを繰り広げる。陪審員の表情が見もので、どちらが優勢か観客も頭を悩ませる。陪審員の頭の中の謎解きという形の映画もある。ホラー映画と思わせる「エミリー・ローズ」は、実は法廷劇で、白熱したやりとりに興奮する。日本の法廷劇は陪審員がいないので、検事対弁護士合戦である。単に法廷内のやりとりでは面白くないので、ドラマティックに進行する。森田義光監督の「刑法第三十九条」は淡々としながらも、どんどんドラマティックになっていって、ラスト30分はスクリーンに釘付けとなる。ただ、本作「それでもボクはやってない」は、これまで私が観てきた法廷劇とはまったく違っていた。検事対弁護士ではなく、法廷では裁判官が主役になっていた。また、多くの映画は殺人を取り上げるが、本作は「痴漢冤罪」である。これも今までになかったのではないか。殺人と痴漢は比較にならないほど開きのある犯罪だが、刑事事件としてということならば、同じである。証拠もなく、被害者の供述にしか頼ることができない痴漢は、冤罪をたくさん生むのだという。周防監督が「これを映画にしなければ!」と思ったのは、まさに、明日にでも、女性ならば痴漢に遭う、男性ならば痴漢に間違われるという事実を広く多くの人に知ってほしかったからだった。こういう身近な、痴漢という犯罪を軸にして、白熱した法廷劇をみせるのではなく、リアルな法廷で十分、エンターテイメントとなると考えたのだろう。なっている。

 11年ぶりの監督作品だが、周防監督の手腕は一縷の揺るぎもなかった。現実の事情聴取の様、留置所の様、判決までの十一回の法廷は、緊迫したドラマを生み出した。被告人は、殺人や強盗や暴行で逮捕され、弁護士がその犯行の軽減を求めるものではない。痴漢をやったのかやってないのかわからない中で進んでいく。つまり、有罪か無罪かを問うものである。やっていないのなら無罪である。やっているなら有罪で、どんな判決が下るか判らない。本作はタイトルどおり、やっていないことをはじめに観客に伝える。逮捕されたのは間違いであることはわかっているから、取り調べる刑事にも、副検事にも、留置係官にもムカムカする。一度つかまった犯人が法廷で「無罪」にするということは、警察、検察の間違いを認めたことになる。警察、検察の面目を潰すことになる。ここが最大の難点であることがわかる。裁判官は、完全に有罪と考えて被告人をみつめる。これまで映画で観てきたかぎりは、法廷というところは、検事と弁護士が熱戦を繰り広げ、裁判官は傍観者のような印象だったが、本作では真ん中に座る主役だ。裁判官の補足質問なんて、有罪だと決め付けていじわるな質問をする。とてもいじわるだが、弁護士は何も言わない。というより、言えない。裁判官は、「無実の者を罰してはならない」とする正名僕蔵から、「有罪無罪ではなく、有罪だと決め付けて進めていく」小日向文世にかわる。まったく違った性質の裁判官によって、被告人はどうにでもなることがわかる。この小日向文世がいい。有名になり、ここ数年は善人役が多いが、もともとはいじわるな役やイヤミな役が多かった。『古畑任三郎』の田中美沙子犯人の一本は、とってもイヤミないじわるな夫役を演じている。本作の小日向文世が憎たらしい。いや、憎ったっらっしっいっ。うまいなと思うが・・・。

 痴漢犯罪の場合、事情聴取で認めてしまえば、示談で済む罰金5万円の事件だという。朝の通勤電車で逮捕されて、昼過ぎに警察から釈放される。やっていようがやってなかろうが、認めなければ有罪率は99.9%。認めれば昼には釈放されたが、認めないので4ヶ月の留置所暮らしを強いられる。保釈金200万円。約10ヶ月の裁判。

 痴漢は犯罪である。刑事事件である。機能ある普通の男は、痴漢をしたいと一度は思ったことがあるだろう。あれだけの痴漢電車アダルトビデオが量産されている。風俗もそれらであふれているという。しかし、常識、道徳、理性がそれをさせない。してはならないことはしない。それが機能はあっても普通の男である。だが、明日の朝にでも、それが自分の身にふりかからないともかぎらない。裁判となると、男性対女性の構図だけではなくなる。被告側の身内にも女性はいる。本作は母親と元恋人だが、結婚して子供もいれば、母親、妻、娘までも巻き込む。その身内は冤罪を信じることになる。痴漢と間違われてしまい、刑事裁判まで持ち込んだら、人生は終わる。本作を観て、私自身は、ここまで戦う勇気、力があるかと思う。刑事の大声の執拗な尋問、副検事の恐ろしい威圧、留置所内の人ではないような扱い・・・「認めて、5万円払えばそれで済む。」と言われれば、やっていないのに、認めてしまうかもしれない。

 どれだけの勉強をしたのか、大変な知識を要したろう。取材も難しかったろう。ありのままを淡々とみせていく。ありのままでありながら、面白い。こういう事件を取り扱っている検事、弁護士、裁判官はどう思うだろうか。ただ自分の職場を見せられている感じというだけだろうか。周防監督は、裁判官のあり方に疑問を持っている。悪人とはしていないが、好意は欠片もない。おそらく、観た人は、この裁判に疑問を抱くだろう。裁判官という職業にも疑問を抱くだろう。冤罪がたくさん生まれるのも当然だと思うだろう。それでも、裁判官はこれでよしと思いながら、この姿勢を続けていくのか。警察と検察の名誉の為に。国家権力を認めさせる為に・・・。

 ラストで小日向文世が長い長い判決文と補足を読む。とても長い。普通ならば「主文・・・」だけで次のシーンへいくが、とても長い。私は聞きながら、脚本を読みたくなった。月刊誌の『シナリオ』に、本作が載ってないだろうか?帰りに本屋に寄ってみよう。エンドロールを観ながら、続けてもう一度観たいと思った。どうして入れ替え制の指定席映画館ばかりになってしまったのか・・・。周防監督の「作りたい映画がなければ何もしない。作りたい映画が思いついたらどうしても撮りたい。」という気持ちが伝わる秀作である。ヒットするだろう。そして後の世に伝わる映画だ。これを機に、法廷劇の描き方がかわるほどの影響力がありそうだ。周防正行監督モノは、どんなに期待していっても裏切らない。

 ロビーへ出て、久しぶりにパンフレットを買おうと売店へ向かった。驚いたことに、そこにPhoto_197 は「それでもボクはやってない(完全シナリオブック)」が置いてあった。私は興奮してシナリオブックを指差し、「それでもボクはやってないを下さい。」と言った。売店の女の子は「シナリオブックの方ですか?」と言った。私は迷わず「シナリオとパンフレットの両方です。」と言った。 <95点>

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デート・ウィズ・ドリュー

2007年01月19日 00時44分32秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_189  <TOHOシネマズなんば>

 ドキュメンタリーを東宝の全国系で上映することは少ない。世界へ話題を振りまいたマイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」「華氏911」の例はある。ドキュメンタリーは、問題があり、知られざる何かを訴えたい(その90%は戦争にまつわるドキュメント)事実を写しだしたモノがほとんどである。ジャンクフードのマクドナルドハンバーガーを身をもって体験し、ぶっ叩いた「スーパー・サイズ・ミー」も痛快だったが、これも知られざる危険性を私たちに訴える。今週末公開の全国公開される「不都合な事実」は、温暖化による地球環境の危機、環境汚染の危機を知らしめる。ドキュメンタリーは、ほとんどが単館系、ミニシアターで上映され、8割が大都市でのみとなり、全国をロードしない。ありがたいことに、本作は全国系である。

 ちらしを見ただけでは、ドリュー・バリモアを主演としたラブ・コメディと勘違いしてしまいそうだが、本作は『これまでになかった異色のドキュメンタリー』であった。2年前に完成されたドキュメント映画を2年後に、それも東宝系で上映する・・・私はそれだけでもドキドキしたが、このチラシでは、映画がはじまって、ドキュメンタリーと知って、「ええっ?」と思う方も多いだろう。だが、そんな勘違いしてでも観てほしいドキドキのドキュメンタリーである。勘違いして入った人も、劇場を出る頃はハッピーになるだろう。満足するだろう。私は、ストーリーは基本的に書かないが、本作は流れに触れながら書いていくので、観ようと思っている方は気をつけてほしい。

 スティーブン・スピルバーグの「E.T.」で子役だった可愛い女の子、ドリュー・バリモアが、今も主演、プロデュースと第一線で活躍するとは思わなかった。つい先日、観たような映画である。あれから25年も経つのか?・・・本作は、彼女がプロデュースした「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」の頃の出来事である。10歳で彼女の熱烈なファンになったある男が、たまたまクイズ番組で1,100ドルを手にし、『この賞金を元手に、30日以内にドリュー・バリモアとデートをするぞ!』・・・映画にひっぱりだこで、全世界を駆け巡り、年収何億ドルを稼ぐドリュー・バリモアと1,100ドルが全財産の一ファンの男がデートするなんて、夢のまた夢だが、それに向かって突っ走る。未完成に終わりそうだが、これをビデオを撮り、ちゃんとしたドキュメント映画にしようとしたのも、成功するはずと、ある意味、自惚れである。そう、ただそれだけの90分なのである。

 ストーカーにはなりたくない。純粋なファンとして、ドリュー・バリモアと接したい。デートをしたい。それを30日間に渡って(気のいい二人の友人が手伝い)撮り溜める。何とも馬鹿馬鹿しいが、観ている側は彼を応援してしまう。ちょっとしたミスを悔やみ、新しい発展に喜ぶ。しかし、デートどころか、会うまでにもいかない。到底、無理だ。彼女は世界的大スターだ。一人のファンが「会いたい」と、どんなに努力しても空回りは続く。デートできた時のことを考え、練習してみたりする。馬鹿馬鹿しさ極まるが、本人は本気の本気である。ここまで頑張っているし、観客は彼がストーカーなどではないとわかるから、ますます愛着が湧いてきて、会えないの!?デートできないの!?と、不可能に近い現実を切に思う。

 アメリカンドリームというべきか、為せば成るというべきか、思いは届くというべきか・・・本作の伝えたいことは、オープニングの「バリュー・ドリモア自身の言葉をそのまま引用」している。本作が誕生したのは、まさにバリュー・ドリモア自身の言葉によるものだった。その言葉を励みに、苦労しながら、奇跡は至るところで起こる。ドリュー・バリモアの婚約なんて記事を読んで愕然とする時は、私も肩を落とす。この30日間はとてもスリリングだ。オープニングで彼が「1,100ドルあれば一ヶ月生活できるが、ただ生活し、一ヵ月後には元の俺に戻ってしまう。この11,00ドルを持って、一ヵ月後に目標を現実にできれば。」という夢物語が現実を帯びてくる様子。人は何でもやろうと思えばできる。前を向いて一心に突き進めば、叶わぬ事なんてないのではないかとも思わせる。

 眉間に皺を寄せながら難しい題材のドキュメンタリーを好む人は怒るかもしれない。これを作った意味を言え!と顔を真っ赤にしそうだ。意味なんてどうでもいい。一点を目指し、そこに突き進み、そして彼を助ける友達の我が事のように思う情が嬉しいではないか。平和そのもので、平和にボケていることが楽しくて楽しくて、私はラスト10分をニコニコしながら観た。声をあげて笑うわけではない。目がへの字になって、頬があがって笑顔になっている自分に気づいた。笑顔だけでスクリーンをみつめたなんて、何十年もなかった。

 こんなに観るものを喜ばせ、あったかい心にしてくれるドキュメンタリーが他にあろうか。「チャーリーズ・エンジェル」でプロデュースをしたドリュー・バリモアに、ギャラの吊り上げを迫ったキャメロン・ディアスが対象でなくてよかった。あんなことをしたら、パート3を作ることができない亀裂が生じる。バリュー・ドリモアだからよかった。この貧乏で無名の男、なかなかの人物だ。計算はするが、子供っぽい。そして何事にもめげず、いつも明るい。誰に対しても(ドリュー・バリモア以外)怖気づかない。そこにも好感がもてる。純朴な気持ちが、奇跡を生む。緊張感がほぐれ、後味の良い爽やかな印象を引きずって、劇場を後にした。

 今まで何も思わなかったが、私もドリュー・バリモアのファンになりそうである。そう、私も単純なのだ。気持ちのよい後味を噛み締めた。すべて民生機のDVminiで撮影しているが、撮影後の構成、編集の力、音響の力によって、「立派なドキュメント映画」に仕上げている。機材なんて二の次だと本作を観てつくづく思った。内容で勝負したドキュメンタリーの秀作を観た。  <90点>

 

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リトル・ミス・サンシャイン

2007年01月09日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_177  <シネ・リーブル梅田>

 「この世に奇跡なんてない。」と言う人がいる。面倒なので黙っているが、私はこの世は奇跡の集まりのような気がしてならない。奇跡と奇跡が複雑に絡み合って、人と人の出会いも生まれる。その前に、宇宙規模で考えると、この世があることそのものが奇跡だと思う。どうやって太陽系ができたか見たとこないので知らないが、研究者たちが考えるところによると、奇跡と奇跡が重なり合って今の状態になったとしか言いようがないらしい。生物を誕生させることができるのは、太陽系にかぎっては、地球と火星の2つだという。他の星は、太陽に近づきすぎているか遠すぎて、生物を誕生させることはできない。太陽は、小さな隕石が重力によって吸い込まれ、いくつもの爆発が起こった。どんどん吸い込むうちに、地球の300倍以上の大きさになったが、その間、地球はよく呑みこまれなかったなと思う。ちゃんと自分の重力をもち、太陽のまわりを回っている。このまま吸い込むものが無ければ、いつかは太陽も燃え尽きるが、同時に地球も死の星となる。と、あれこれ書いたが、そもそも宇宙ができたことが奇跡だあるから、その奇跡から生まれた末端の私たち人間に奇跡の雨が降るのは当たり前のような気がしている。偶然という言葉もあるが、あくまでも、奇跡の寄り集まりの中で起きる偶然だ。

 その映画を観たのは偶然であっても、秀作を観終えると、私は、奇跡を観たと思う。一流のプロデューサーが一流の監督を選び、一流のキャスティングディレクターを選び、一流のカメラマンを選ぶと、一流と言われる映画は出来上がっても、秀作になるとは限らない。A級の凡作になることも少なくない。何百も観てきた。二流のプロデューサーがすべて二流を選んで、二流として公開して二流として楽しむ。これも多い。何千も観てきた。一流と二流が重なり合って凡作となる、秀作となる。どういう組み合わせでもいいが、スタッフとキャストの呼吸が見事にぴたりと重なることが稀にある。そういう作品を観終えた後は痛快の気分で、奇跡を観たと私は思うのだ。奇跡を観たと思える作品は、年に数本しかないが、本作を観終えた後、私はそう思えた。宇宙規模で考えると末端の奇跡だが、目でみることのできる奇跡を体感する。

 ドタバタと忙しい物語は深く濃い。タイムリミットを観客に知らせ、観客の気持ち、焦りを煽るが、それを軽いタッチで演出する。平凡な俳優と癖のある俳優を配した。みんなが見事だ。シーンのひとつひとつは室内劇であっても、1本のロードムービーとなっている。ロードムービーは流れるように進むことが多いが、本作はドライブインに着く、モーテルに泊まる度に、ズシンッと居座る。不要なシーンはない。そのシーンの中の台詞もよく考えられてある。だらだら喋っているようでも、よく聞いていると無駄がない。目標に向かってみんなの心がひとつになった時がクライマックスなのだろうが、俳優が慌てる気持ちが観る私たちとリンクする。大きな問題ではないが、とても大きな問題のようにみえてくる。無理に気持ちを高ぶらせるわけではないので、監督術、演出術、編集術の見事さを思った。

 構成、脚本、俳優、監督、編集などが一体となって、平凡なストーリーを息づかせた。地味に息づかせることはあるが、小品でありながら大きな息づかいだ。この息づかいはオープニングのダイニングでの家族劇からすでにはじまっている。みんなの喋りと表情と行動が入り乱れて飛び交い、出演者すべての過去と現在を観客は知る。バラバラのようだが、端的にまとまっている。私たちはすべての登場人物を知らされた上で、さてロードムービーへと展開する。ダイニングのシーンは7台くらいのカメラがあるようなカット割りだ。カメラは2台で、何度も同じシーンを撮りなおして、カット数を増やしていったのだろう。とにかく巧い。

 リトル・ミス・サンシャインを除き、すべては負から生まれたエピソードだ。負のエピソードは負の道を突き進む。だが、リトル・ミス・サンシャインというプラスがひとつだけ用意されている。そこへ向かって、バラバラがひとつになる。コメディタッチであるが、私は負を負として捉えながら、一縷の望みを捨てずに走るみんなの様を観ていて、心にぐっときた。みんな、悩みや苦しみをいっぱい抱えているにもかかわらず、エンドロールが上がりはじめた時、爽やかな空気が身体を包む。温かいものを抱きかかえるような気持ちになれる。スタッフとキャストがバラバラに集まり、奇跡を起こした。今日を大切に生きなければ・・・人にもっと優しく接しなければ・・・そんなことを思わせる珠玉の一本である。 <90点>

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このすばらしきせかい

2006年12月24日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_171  <シネ・ヌーヴォX>

 25分の待ち時間が、舞台挨拶の為、15分となった。本作も舞台挨拶がある。監督だけではなく、主演の2人も来阪しているらしく、私はますます息苦しくなった。「ジャポニカ・ウイルス」は3人に向かって監督が挨拶をした。本作は3人が何人の観客に向かって挨拶をするのだろう。また観客が3人だったりしたら、私は舞台挨拶が終わった後、場内へ入ろうと思った。挨拶する側も寂しいだろうが、観客側もつらい。切ない。そう思いつつ場内へ入ると、私を含めて7人だった。7人の観客も寂しいが、先ほど、3人を体験済みで、多く感じた。しかし、こんなに観客の少ない舞台挨拶は過去、一度も経験がない。

 もっと、みんな、九条へ来てほしい。良作、秀作を次々にかけてくれる。場所がわからないと言う方が多い。遠いと感じている方も多い。梅田から15分、難波から10分。遠くはないし、駅から近い。騙されたと思ってもいいので、「九条シネ・ヌーヴォ」「シネ・ヌーヴォX」を味わってもらいたい。騙されないと思う。良い映画をかけているのに、営業が苦しいというのはいけない。東宝ばかり儲かって、邦高洋低ではいけない。この劇場は、作品によっては入るが、平日は数人ということが多い。左枠の シネ・ヌーヴォ道案内 を参考に歩いていただければ、駅から3分で映画館にたどり着く。

 予算がないのはしっかりとわかるし、DVCAMで撮られた作品であることもわかるが、秀逸と言える日本映画が誕生した。舞台挨拶で監督は「わかってもらえたら、良いと感じられるかも・・・」と言っていたが、誰でも、この作品の良さはわかるだろう。なんといっても脚本がいいのがわかる。脚本は、構成、ト書き、台詞からなるが、スクリーンからト書きは読めないまでも、構成と台詞は読める。台詞がいちいち気が利いている。ありそうでなさそうで、なさそうでありそうな台詞の嵐。何気ない台詞にも美味しいスパイスを加える。その台詞を噛み締める間もなく次へと移る。ゆったりのんびりした風を吹かしているが、台詞に味わいがあるから、スピード感が生まれるのだ。落ち着いたカメラワークで、長回しも少なくないが、画面そのものにも飽きがこない。それは、俳優たちの動きによる構図に頼っているからだ。俳優の動きは監督の仕事なわけで、あまり凝るとうんざりするが、観客を思っているからだろう、ほどよい動きで構図をビシッと決める。

 俳優は無名であっても、抜群の芝居を魅せてくれる。自然な台詞とアドリブのような台詞が同じカットの中で放たれる。後を考えると、アドリブでつなげようがないので、脚本に書き込まれたものだろう。それを主演の2人だけではなく、脇役、ちょい役までもわかっていて、作品に溶け込む。リハーサルを繰り返してそれを自然にみせたのか、リハーサル抜きでぶっつけでみせたのかはわからないが、映画はやはり監督一人のものだとした場合、本作の監督は今、天才だと思う。

 特別な物語ではない。普通の家族の普通の話である。地味である。それを仰天させる映画に仕上げた。こんな風、こんな空気をどこから持ってくるのだろう。タイトルの「このすばらしきせかい」の意味は観終わっても不明だし、タイトルだけを読むと食指は動かず、そこでまず損をしているが、タイトルは忘れても、作品そのものは心に残り続ける。舞台挨拶はともあれ、本作をハシゴに入れたのは大正解だった。このまま、この風に吹かれたまま帰って眠ってしまいたい気もするが、あと2作品は前日の夜に指定席を取った。1時間以上の待ち時間があるので、腹ごしらえをしたい。しかし、映画の余韻を持ち続けたいので、食事はせず、難波へ行き、しばらく雑踏をふらついた。クリスマス・イヴの夕方は、花火大会でもあるような人ごみでごった返していた。 <95点>

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unknown アンノウン

2006年12月17日 22時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Unknown  <シネ・リーブル梅田>

 4階の梅田ガーテンシネマから3階のシネ・リーブル梅田へ移動する。40分あるので、チケット売り場の前の喫茶店で珈琲を飲む。朝から日本映画を2本で、次は字幕なので、目をぱっちりさせる為だ。眠気はまったくないが、念のため、私はこういう行動をよくやる。本作については穴埋め的な時間割を組んだだけで、まったく予備知識がない。静かで子守唄のようなメロディが全編に流れてしまう恐れもある。そうなると、目をばったりと開けたオジサンも子供のように丸くなって客席で眠りにつくかもしれない。

 発想が面白いという映画はよくある。だが、発想だけで、あとはスカスカという映画がほとんどを占める。折角、これだけのアイデアなのに、どうして物語がつまらないのか、進行がとろいのか、どうでもいい台詞の羅列なのか・・・こういう思いを何百としてきたと思う。それらはコケオドシでRPGのように、終われば中身はすべて忘れてしまうのだが、発想だけではなく、はじめから終わりまで楽しませてくれたのは最近では「SAW」「キューブ」だった。今までにないとんでもない発想を生み出し、それが発想の面白さだけで終わってはいなく、身震いするような「楽しませてくれる映画」に完成させていた。構成と脚本だけでは完成されず、やはり、監督の力もあり、編集の力もあるだろう。「キューブ」は室内劇だが、舞台化はできない。秀逸と言える映画だ。「SAW」はシリーズにするつもりで制作したのか、パート3は見事だった。パート1が単に大きな物語の小さなエピソードだと知った時は、唖然とした。こんな構成を考えられる、思いつく人は天才の中の天才だ。残酷なスプラッターだが、何をやらせても成功させてしまう勢いを感じる。パート4、パート5もあるらしいが、中途半端なエンディングのパート3で終わってもいいような気がする。クライマックス中のクライマックス・・・謎が怒涛の如く解き明かされるラスト・・・いやしかし、新たな出来事が!男の驚愕した顔のアップ!カットアウト、エンドロール。あれで完結とすれば、永遠に語れる作品だと思う。 私は基本的にストーリーは書かない。ストーリーは幾つもあるわけではなく、ひとつだからだが、本作については敢えて、ストーリーを散りばめて書くので、ご覧になっていない方は読まない方が楽しめる。

 本作も、いきなり、発想から生まれた映画ではないかと思う。5人の男がすべて、記憶喪失で密室の廃工場に閉じ込められている。癖のある男たち。自分が誰か、どうしてここにいるのかわからない。外へ出ようにも出られない。瞬時に遠い記憶が蘇るが、すぐに消えうせる。そのうち、これは事件であることを知る。誘拐した犯人と誘拐された被害者。5人のうち、誰が犯人で誰が被害者かわからない。5人のうち、誰かが誘拐して連れてきて監禁した。誰かが連れてこられてきて監禁された。これだけで面白い。私は最初、SAWに似ているなと思ったが、まったく違っている。SAWからは何のヒントも得ていない。自分が犯罪者なのか、被害者なのかも記憶を失っているとはある意味楽しいが、5人がすべて、被害者だと思っているところがいい。人間というものはすべて元々、善人であるのかもしれない。5人は、緊迫した精神的に極限状態にある。これは室内劇ではなく、外側の仲間の犯人(5人が記憶を失っていることを知らない)と刑事との緊迫した追いかけっこも交わる。これもスピーディだ。室内とロードムービーが同時進行している。時間的にもほぼ同時なのだろう。

 1人は記憶を取り戻す。これが大きな鍵となっているのだが、途中で力尽き死ぬ。この男を失ったことは大きな損失であったが、残った4人が力を合わせるシーンへと導かれる。流れがうまい。帰ってくる仲間の犯人を4人が結束して叩きのめそうとする。そのとき、まず、おそらく犯人側であろう音が口笛を吹く。それにあわせて別の男が口笛を吹く。4人がきれいに口笛を揃える。犯人だか被害者だかわからぬのだが、4人の心、意志がひとつになった表現をこんな形で画にする。うまい。

 ラストは、刑事と犯人との銃の攻防戦となり、これで終わるのだなと思ったいたら、ここから記憶を頼りにドンデンする。おとなしいドンデンだが、記憶を失っているからこそのドンデンで、誘拐された悲劇の妻を演じていた女の正体を知ることになる。うまいなあ。このラストがなければ80点としたいところだが、発想、構成、伏線、脚本、撮り方、個性のある役者陣に加え、エンディングが抜群にいい。80点なんかでは足りない気がしてきた。新人監督だというが、サイモン・ブランド監督、マシュー・ウェイニー脚本の名は覚えておこうと思う。単館、ミニ・シアターで、これから全国にロードされていくのだろうが、是非、映画に吹き込まれた新しい世界を劇場で。映画館で観るより、DVDで借りると安いけれど、先を思うと、逆に高くつく。 <90点>

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トンマッコルへようこそ

2006年12月06日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_159 <動物園前シネフェスタ>

 今年は「邦高洋低」だという。なんのことかと聞くと、洋画より邦画の客入りがよいということらしい。字をみて、なるほどであるが、実際、そうなのだろうか・・・私にはそんな感じがしない。興行成績の比較か、封切本数の比較か、私はいつもの年のように感じる。まわりを広く見ていないのか、こんな言葉が出るくらいだから、私は鈍感なのだろう。韓国映画は洋画だろうから、ブームは定着せず、低迷してきたのか。何れにしても、邦画が華やぐのは嬉しいことである。

 松竹、大映、東宝、東映、日活、新東宝、大蔵・・・一年中、自社制作は東宝と東映だけで、あとは独立プロ制作作品の配給を主としている。大映が徳間になり、角川になり、角川大映になったが、今は大映という名前を消し、角川ヘラルド映画とした。なんとも情のない会社だと思う。大映の名を消すとは・・・。今の角川が、角川ヘラルドとして自社制作、配給できているのは、覚醒剤で逮捕された前社長である角川春樹のおかげである。角川出版の原作を映画化し、本でも映画でも儲けようとした作戦だったが、そもそも角川春樹は、映画への情熱が高かった人だった。角川映画第一作「犬神家の一族」は、まわりの幹部が大反対した。角川源義の顔に泥を塗るのかと。出版社の蛮行だと言った。文芸を扱うデスクの幹部は保守的だという。その大反対を押し切って、角川映画は誕生した。しかし、これが大成功し、次だ次だと映画化される。大作、大作で、制作費に合わなくなって、大企業に大量のチケットを買わせるというわけのわからぬ所業に出た。興行成績はダントツのトップでも、劇場へ行くとガラガラなんていう作品もある。しかし、今では当たり前の・・・ロケ場所も小道具も衣裳もタイアップでエンドロールにずらずら並ぶスタイルは角川から本格的になった。いろいろな意味で角川映画は他の日本映画会社に影響を与え、観客にも影響を与えた。そのひとつは、映画のテレビCMであった。角川映画が誕生する前は、テレビで映画のCMを流すことなんて考えられなかった。角川は、テレビを大いに利用した。「読んでから観るか、観てから読むか」・・・角川のキャッチコピーは当たった。当時、角川商法として、世間を賑わした。角川春樹は、ちょっと調子に乗りすぎていたのは、一映画ファンから見ても明らかで、私には映画道において、邪道に感じていた。だが、今思えば、大した冒険心、遊び心、熱意だったと思う。刑期を終えて出てきた角川春樹社長の椅子は無く、特別顧問というただのお飾りになり、現在、独自で映画のプロデュースを行っている。角川ヘラルドが、徳間の名を消したのはヨシとして、大映の名前まで消すとは思わなかった。大映は日本映画の歴史にはなくてはならない存在である。「大日本映画株式会社」略して「大映」。ガメラ復活のときに懐かしくみたあの雲と太陽に輝く大映のマークは永遠に消えるのだろうか。映画を作るきっかけになった角川春樹を切り、大映を切る。金さえあれば何でもゆるされる。高い立場から見下ろすことができるのだろう。邦画が強くなるのは結構なことだが、こういう事態は、私としては、あまり嬉しくない。スポンサーを募って、頭にどんどん出てもいいから、独立プロの健闘を望みたい。配給会社も今よりもっと日を当ててほしい。そう思う。

 けっして戦争を賛美するわけではないが、戦争から多くの財産を私達はもらっている。アメリカとソ連が核爆弾の量を競い、あの冷戦がなかったら、アメリカはインターネットを作る必要はなかったろう。冷戦が今も続いていたら、私達はインターネットの存在すら知らないはずだ。ソ連が崩壊したおかけで、私達は毎日、ブログを書くことができる。戦争のための偵察、武器がその役目を終えると、民間で使えるものは開放される。これは悪いことではない。そして良いことでもない。良くも悪くもないものは、あってもなくてもいいものだが。インターネットもそれに属される。

 実に長い歴史の中で、実に多くの戦争が繰り返されてきたかと思う。学校の歴史教科書は、日本史であれ、世界史であれ、まるで戦争の歴史を学んでいるのではないかと錯覚する。戦争という項目を切っていくと、歴史はすっからかんになる。それほどまで、人は人を殺してきた。虫や動物でも喧嘩はするのであって、狼や犬や兎は縄張りに厳しい。群れが規律を壊すと、群集と群集の争いになる。生まれてきたからには戦争は避けられないのかと思う。しかし、人間にはしっかりと考える力がある。後悔も動物と比べたら半端ではない。その後悔は後悔として学ぶべきで、後悔を繰り返す必要なんてない。そんなことはわかっているはずだ。同じ民族、同じ言葉を交わし、これ以上なにが不足なのか。なぜ戦わねばならぬのか。なぜ殺さねばならぬのか。本作は、繰り返される人間の蛮行を嘲笑うように描く。戦争も知らない、人を傷つけることも知らない村人と、戦時中の兵士。この対面は滑稽である。同じ人間でありながら、どうみても村人らが人間らしく生きている。純粋な村人に触れるうちに、敵対する軍人達は、村に溶け込む。連合軍のアメリカ兵が何気なく言う「楽しいよな!これが人生だよ!」の言葉が、戦争なんて必要ないのだということをはっきりとわからせてくれる。

 多くの戦争映画が作られてきた。昔は「パットン大戦車軍団」「ノルマンディ上陸作戦」「トラ・トラ・トラ」「戦場にかける橋」と、戦争を面白おかしく伝える作品ばかりであった。どれも名作ではあるが、反戦映画とは程遠いと私は思う。あの作品群を観て、反戦映画と考えられたら、とても敏感で頭のよい方だろうと思う。今は、誰が観ても反戦とわかるように作品を作っている。本作も完全なる反戦映画だ。純粋な心と狂気の心を交差させ、いかに人殺しが蛮行であるかを考えさせる。そのものズバリをみせられるより、私は苦しかった。知能が遅れているとても心の澄み切った少女が息絶える場面は、奥歯を噛み締めた。人民軍と連合軍が、同じ人間として、考えは逆転したのに、それでも武器を持って戦わねばならない苦しさ。ここまでやるかと思わせる。戦争を扱った韓国映画としては、今まで私が観た中で、最高の作品だろう。見事である。80点、いや85点といいたいところだが・・・。

 いつの時代も戦争は起きてきたし、今も起きている。私達は、戦争はいけないと気がついたら頭にあった。ずっと言われてきたからだ。私の祖父は戦争に行った。祖父は戦争の話をしない人だった。祖母、両親は、内地で戦争の恐怖を知った。幾度もの空襲から生きのびた。直接、体験した肉親から聞く戦争の悲劇は心に響くものである。私達はそれを次の世に伝えることはできるのだろうか。戦争を放棄すると憲法を作ったのはアメリカで、そのアメリカの要求によって自衛隊が作られたことをどう説明するか。自衛隊という名でありながらイラクに行ったことをどう説明するか・・・後世に説明できぬことはやってはならない。いくら戦争がいけないと言っても、ニュースでは違うことを伝えている。ということは、戦争の悲惨さを教わった私達の世代がいくら言ってもウソっぽく聞こえはしまいか。私は戦争を直接は知らない。しかし、お伽噺や神話で伝えられたものではない。子供の頃、苦しさ、悲しさ、残酷な場面が頭に浮かんだ。絶対にイヤだと思った。反戦とわからせぬ映画でなくてもいい。戦争の恐怖を腹の底からわかるような作品を今だからこそ、量産させてほしい。

 邦高洋低ならば、一般の民間人を叩いた大空襲、世界で唯一の原子爆弾を落とされた国だから、ネタはいくらでもあるはずである。第二次世界大戦も知らない、8月15日が終戦記念日だと知らない中学生、高校生がいてはいけない。「どうしてこんなに戦争映画が?」というほど、戦争はしてはにらない、戦争しない為にはどうすればいいかを考えさせる映画を量産すべきである。歴史の勉強に興味はなくても、戦争の歴史は知っていてほしいと、私は思う。反戦映画が多く作られるのは、映画がそれだけの影響力をもち、観る側の集中力をもたせ、多くの者へいっぺんに伝えることができるからだ。戦争で亡くなった方には敬意を表し、しかし、もうこの世から「人殺し」を絶滅させてほしい。戦争の歴史は、インターネットを残し、私達はそれを利用して多く広く活躍の場を設けているが、インターネットもEメールも、無きゃ無くてもよかったのだ。      <90点>

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シュガー&スパイス 風味絶佳

2006年09月23日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

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<なんばTOHOプレックス>

 何が楽しくて哀しくてこんなことをするのかわからない・・・。インターネットでなんばTOHOシネマズの会員となり、仕事が終わって、オープン初日の23時過ぎに窓口へやってきた。客は誰一人いなく、数人のスタッフが清掃、明日の準備をしている。新しい映画館は気持ちがいい。新建材のにおいも嬉しい。大きく広く天井の高いロビーを歩き、近くのスタッフに声をかけ、インターネットで登録をしたことを告げる。客はいなく、チケット売り場も閉じていたので、無理かと思いきや、こころよく応対してくれた。こういう融通の利き方はきぶんがいい。登録番号を告げただけで、名前も住所もわかり、10秒もかからず、カードを受け取った。そのまま難波の夜の街をひた歩き、カプセル&サウナ「アムザ1000」へ行く。明日の朝から映画をハシゴする為に、準備万端とする。・・・という意味で、何が楽しくて哀しくてこんなことをやっているのかと思う。こういうことを私はよくやる。馬鹿らしさ極まって、自分が偉くなった気分になる。これも馬鹿馬鹿しい妄想だ。誰にもわかってもらえないだろう。ということは、こういう事は書くべきではない。

 朝の一番は10時20分からの上映だが、寝づらくて7時に目覚めた。3時に寝たから4時間しか寝ていない。久しぶりにいっぱい寝ることができるとサウナに入ったのに、貧乏性なので、長く風呂を楽しんだせいからか、ちょっと体の自律神経がおかしくなっているような感覚がある。湯あたりかもしれない。が、早く起きたのに何もすることがなく、朝風呂となった。私の行動は一貫性がない。思いつきで行動するからまとまってない。こんな事をしながら老いていくのかと思うと、悪い意味で少しドキドキする。

 朝の千日前は歩きにくい。パチンコ屋の前に何の祭りかと思うほど行列している。両側が巨大なパチンコ屋なので、広い道路も真ん中一人分しか隙間がない。体を傾けながら通り抜け、新しいなんばTOHOプレックスへと歩く。祭日だが、朝が早いからか、ロビーはガラガラだ。パチンコ屋の前はあんなに人がいっぱいなのに。

 中江功監督はテレビの人である。映画監督になりたくてテレビに居た人なのだろう。私は「冷静と情熱のあいだ」を観ていない。このタイトルが記憶にあるのは、仕事をしながら毎日のように「今日は間に合うだろう。」「今日こそは行こう。」と思い続けて観ることができなかった無念さが頭に残っているからである。というわけで、監督の詳細を私はまったく知らない。映画監督になりたくてテレビにいた・・・と書いたのは、本作は見事な映画芸術だからである。

 網の糸のように細い飴細工。私は本作を観て、そう思った。こんなに胸詰まる、くるおしい思春期を題材にした映画を観たのは初めてかもしれない。 自分の体験と重なる部分が多かった。昔のことになる。それもあり、私は胸を熱くした。大切な大切な今にもこぼれ落ちそうな心、潰されそうな心。夢ではないかと思う至福のひととき。叫びたくなるような、どこまでも走りたくなるような、胸の張り裂けるような恋。「本物の恋」をするということ。そんな心をカメラは冷静に捉える。 きっと、人生最高の幸せ者は自分ではないかと思う恋・・・そんな恋を一生のうち、一度でもできたことを私は幸せとも思い、不幸であるとも思う。真剣に、恰好もつけず「この女の為なら、俺は死ねる。」・・・肉親にも思ったことはないのに、私はそう確信したことがあった。短くはなかった。・・・崩れ去る瞬間。しかし前へ進まなければならない様。カメラはそこまで追う。若いというのは素晴らしい。若いということだけで素晴らしい。私は取り戻せない思春期、青春期の自分の生き様をぶっ叩かれる気分だった。 構成、脚本、キャスティング、カメラワーク、美術、演出・・・どれをとっても、私には文句のつけようがない。壊れそうな心、壊れる心。心をカメラは写した。

 柳楽優弥、沢尻エリカという大人気、旬の確かな俳優を求める気持ちはよくわかる。これから演技力を身につける俳優ではいけないのだろう。夏木マリも欲しかった一人だろう。私には、他に適役をみつけられない。 沢尻エリカはベビーフェイスで、これから延びていく女優の一人だろう。何でも受けている今だが、この機会で大女優に変身していくと思う。男優は違うが、ベビーフェイスは女優として得である。長続きする場合が多い。場をたくさん踏むので、磨きがかかる。グラビアで水着なんてやっているが、もうそろそろいいのではないかと思う。業界も監督も、しっかりした女優として認め、求めている。

 網の糸のように細い飴細工・・・カプセルに泊まって、準備万端でハシゴをするつもりが、次の映画を観る気がしない。映画が終わったのが12時30分。何も観ずに帰りたい。 <90点>

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マッチポイント

2006年09月07日 22時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_88 <梅田ガーデンシネマ>

 ウッディ・アレン監督作品がミニシアターだけの上映になってしまって何年になるだろうか。「魅惑のアフロディーテ」はミニシアターだった。ということは10年以上も前からということだ。 私が中学生になり、保護者なく映画を観られるようになった頃は、ウッディ・アレンといえば全国公開で、そしてヒット間違いなしであった。多くの映画雑誌は「天才」と褒め称えた。私もウッディ・アレン最新作が待ち遠しく、封切するとすぐに観に行った。どれも発想が面白く、何気ない台詞も楽しく、映画そのものも素晴らしい。この頃、毎年のようにウッディ・アレンは賞を獲っていた。まだまだ若く、エネルギッシュな映像で、そして心が見えるような脚本、画作りだった。 私は思春期だったので、その印象は強く、今でもウッディ・アレンを神様に近い存在のように思っている。

 若い頃の想いをつのらせたネタは出尽くしたし、天才ぶりはあの頃ほどでもなくなっているが、ウッディ・アレンは健在だと思っている。一斉風靡したスティーブン・スピルバーグやフランシス・フォード・コッポラは抜け殻になり、凡作しか発表しないが、ウッディ・アレンは違う。ただし、最近の作品群は、それほど観るべきものでもないと思っていた。機関銃のような台詞は相変わらずだったが、哲学者同士のようなやりとりをしていて、ストーリーも際立つものではなかった。「魅惑のアフロディーテ」が最後の秀作で、その後は自分を抜く映画を撮っていない。だが、そういう意味で全国一斉公開していないわけではないだろう。私は韓国映画の目白押しが要因だと思っている。韓国映画の日本爆撃で、ウッディ・アレン監督の映画をかける上映館がないのだろう。この頃は、印象深い映画を撮っていないウッディ・アレンだったが・・・

 もう一度、天才になって戻ってきた。多くは自分が主演または準主演となるが、本作は監督に専念している。ウッディ・アレンは、探しても探しても映画にぴたりと合う俳優が見つからない場合、自分が俳優を兼ねる。自分も適役ではないと思いつつも、その(架空)人物を知っているのはウッディ・アレン本人しかいないから仕方ない。本作は、俳優がすべて揃い、安堵して監督の仕事をしたのだろう。

 スカーレット・ヨハンナンは監督と作品に恵まれ、次々に映画に出演しているが、とても魅力のある女優だと思う。どれもハリウッド大作ではないのも好感がもてる。この女優、映画の役を演じる度に別人になる。髪の色は変わるが、それ以外はスカーレット・ヨハンナンそのものなのに、どこにいるかわからぬほど地味になったり、けがれを知らぬ処女のごとく清楚になったり、大勢の中でもオーラを撒き散らしたり・・・とにかく変わる。日本人の男性の好きな顔立ちではないだろうが、感情や精神だけではなく、ここまで容姿をころころと変えられる女優は数少ない。シャーリーズ・セロンも変幻自在な女優になったが、無理矢理に変えているところがある。ところが、スカーレット・ヨハンナンには無理矢理を感じさせない。女優になる為に生まれてきた人なのだろう。

 本作では、魅惑的エロスを感じさせる役をこなした。ウッディ・アレン好みの女優という気もする。そして、彼女の為に書いたシナリオのような気もする。さらに、それが高揚して素晴らしい構成、ストーリーを誕生させたのだろう。ありがちな官能映画なのに、まったく新しい映像を私達にみせてくれた。ここ何年かの監督作とは意気込みが違う。スクリーンからそれが伝わる。その伝わり方は激しく、息を殺してただ観るのみだ。オープニングから30分はウッディ・アレンらしいが、徐々にこれまでの作品とは変わってくる。そしてラスト30分は今までのウッディ・アレンが撮ったとは思えぬ展開になる。主人公もドキドキハラハラと無我夢中で突っ走って行動するが、観る方も同じ気持ちだ。どうする、どうなる、どうする、どうなる・・・短い時間の中で、緊張し、安心し、嫌悪を感じる。息を殺して観ている方も忙しい。そして、その気持ちを高めて高めて、あの終わり方。眠気もふっとぶ。

 女性が本作を観られたら、この主人公に嫌悪するだけかもしれない。しかし、私にはこの男の気持ちがよくわかる。愛と愛欲。その違いは骨に沁みている。これほどの豪勢な環境の中ではなかったし、結婚もしなかったし、人殺しもしなかったが、私はこれと似た体験をしている。エゴの塊だった二十代後半の頃のことだ。これを今も引きずっている。ということは、一生のものなのだろう。私は、取り戻せない一生の後悔をしている。忘れたくても忘れられない自分を侮蔑しているところもある。普段、映画の主人公と自分を照らし合わせるなんてことはしないが、本作は観終えた後、それが広がるように頭に浮かんだ。しかし、自分の体験が・・・という、つまらぬ理由で高い評価をしているわけではない。作品として、客観的に観て、秀逸だと思う。ウッディ・アレンが、天才になって戻ってきた。嬉しくて嬉しくてたまらない。 <90点>

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ゆれる

2006年07月21日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_60 <シネ・リーブル梅田>

恥ずかしながら、映画ファン(ミニシアターへ足を運ぶ人)なら誰でも知っている「蛇いちご」を私は観ていない。評判は聞いていて、上映中にも好評との記事を読んだ記憶がある。行かなきゃならないと思いつつ、本業が忙しくて観ることができなかった。「蛇いちご」が公開されていた頃、私は朝10時から夜23時までが通常の仕事時間であった。過去の手帳を見ると、一週間に二度は徹夜している。たまに20時頃に終わると、早く帰宅できて嬉しかった。ただ、独身男の一人暮らしの為、その時間を、たまった洗濯や掃除にあてた。2002年、2003年は、仕事的にも金銭的にも大変な年だった。人に騙されて、少ないお金をすべて無くしたのもこの年だった。生きているといろいろある。 上映は終わり、毎日映画コンクールに輝き、外国の映画賞もばさばさとかっさらっていき、雑誌に映画評が躍った。上映は終わったが、私は「観たい」ので、一切の映画評を読まず、現在に至っている。ビデオで借りて見ればいいのだが、頑固にも私は映画とテレビを完全にわけている。「観る」と「見る」は、まるで違うと思っている。だから、ビデオで映画は基本的に見ない。

ビデオの脚本、ディレクターとして有るまじき考えだし、自分の本業を蔑んでいるように聞こえるかもしれないが、そうではない。私はビデオを制作しているのであって、映画を制作しているのではない。私が脚本を書き、演出し、制作したものの中には、完全なるドラマ作品も少なからずあるが、これを映画館でかけては困る。私は見る側の「寝転びながら見る」「一時停止して続きから見る」「ブラウン管、液晶、プラズマというハードを使って見る」という事を念頭に作っているからだ。いくら予算があったとしても、映画のようにダイナミックな映像は作らず、テレビ画面で耐えられない間も作らない。映画とテレビ(ビデオ)は同じようで、まったく違う。

例えば、映画館で映画がはじまり、オープニングの5分間、東京の夜景がじっとそのままのカメラアングルで、無音で写されていたとしよう。観客はどうするか。じっと観ているだろう。無音だから、音もたてられないので、息をのんで観るだろう。館内は静かだ。スクリーンには夜景のみ。シーンとしている。腹がグルグルと鳴る音も恥ずかしいくらいの静けさ。個々で観客は、次に起こることは何かを期待する。長いなあとも思う。しかし、じっとスクリーンを観続けるはずだ。 これをテレビでやったとしたら、見るものは耐えられない。放送事故かとも思う。チャンネルをころころ変えてみて、まだ夜景が写っているぞ?なんだこれ?と思うに違いない。 ビデオを借りてきた場合、1分もすれば「あれ?」と、早送りするだろう。 同じ映画であっても、映画館で観る映画と、ビデオで見る映画と、テレビ放送される映画を見るのとでは、受け側がまったく違うのである。  受け側が違うように、作り手も違う。テレビ、ビデオを作る人は、テレビで見る事を考えて制作する。映画を作る人は、映画館で観る事を考えて制作するのである。映画を撮りながら「みんなビデオで見てくれるだろう。」なんて考えている監督はいないだろう。いたとしたら、それはテレビ放映で十分の作品を撮っているに過ぎない。と、自分勝手なことを長々と書いたが、私が映画を観のがしても、ビデオで借りず、再映を待つ理由はそこにある。

いつだったか、ついこの頃、電車で隣の席の女性二人が「最近、オダギリジョーって、CMにしか出ないね。見かけなくなったね。」「こないだ、ドラマに出てたやん。何てタイトルやった?」と話していた。それを聞いて、私は苦笑してしまった。彼女らは、テレビに傾倒していて、映画を観ないらしい。ついでに言えば、香川照之も同じ感覚だろう。映画をたくさん観ている人は「オダギリジョーって、精力的に活躍するね。」「邦画を観たら、香川照之って、絶対に出てこない?」という会話が聞こえてきそうだ。オダギリジョーも香川照之も、お馴染みだ。そうか。映画俳優とテレビ俳優にわけられる時代がやってきているのかな。今頃になって。

しかし、テレビドラマにワンクール(3ヶ月)出演する方が、俳優もスタッフも、何倍もギャラが高い。モノによっては10倍はもらえる。拘束期間も同じようなものだし、ギャラだけを思うとテレビの方がいい。知名度も老若男女、常に高い。四季を通した背景を必要とする映画などは1年もかかるわけで、映画というものは、俳優にとっては非効率な仕事なのである。裏方も同じだ。しかしこれは日本の話で、ハリウッドは逆であるが・・・。 そういう中で、主演の二人は映画人として頑張っている。映画は強く役柄を要求されるので、精神的にも苦労は多いと思う。

「蛇いちご」は観ていないが、本作は必ず、早めに観ておきたい一本であった。34才の天才女性監督である。どんな脳みそを持っているのか。このような原案を思い浮かべ、それを脚本として書き、監督し、名作を生み出すのは、天才としかいいようがない。私はオダギリジョーの芝居をあまり好きではなかったが、はじめて「うまいっ!」と思った。香川照之のうまさは、たくさんの映画を観て、もう知り尽くしている。自分を自由自在な人に変えてしまう名優だと思う。本作のオダギリジョーは、これまでとは別人のように、役をこなしていた。監督の演出によるものかもしれないが、俳優として成長したのだろう。

複雑ではなく、ストレートにことは進む。だから観客も混乱することはない。流行の妙なテレコで、観客を悩ませたりすることもない。でありながら、うまく構成され、坦々と、淡々と、しかしスピーディに物語は運ばれる。地味でありながらショッキングな映画だ。ほとんど、カメラはフィックス(三脚で固定し、カメラを動かさずに撮る画)だが、ワンシーン、とんでもなくハンディ(カメラを肩に担いで撮る)で、わざと振り動かして撮っているシーンがある。それは事件の場面ではない。注意してみればわかるが、兄弟が兄弟である事を確認し、兄が弟に対し、どう思っているかを直球でぶつける緊張した場面なので、気づかないかもしれない。Aカメ、Bカメ(二台以上のカメラで撮影する場合、メインカメラをAカメラ、サブカメラをBカメラと呼ぶ。何台にもなるときはCカメ、Dカメと続く)ともに、カメラマンがびびっているようにぶるぶると震えるのだ。事件の橋上でも揺れるが、構図は決められている。とても丁寧に、考えられた構図だ。そこにこの脚本、台詞、監督、俳優陣だから、観ている側は、唖然、圧倒されるだけだ。

金曜日の夜の映画館は、人が多いように思うが、全体として、意外と少ない。だが、本作はほぼ満席状態の客入りだった。「蛇いちご」を観て、期待してやってきた人も多いだろう。観ていない私は悔しい。あと3年。あと3年、再上映されなかったら、DVDに頼ろうと思う。<95点>

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玲玲(リンリン)の電影日記

2006年07月02日 20時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_49 <OS名画座>

中国映画がなかなかやってこない。「山の郵便配達」で満足しているわけにはいかない。あれは秀作とは言い難い。『中国映画祭』がなくなり、韓国映画が大量輸入される中、希少な中国映画である。公開されるものはすべて観ておきたいと思う。

そういう想いがあるからか、本作の完成度の高さに、私は愕然とした。また、出合った。「こんなに素晴らしい映画があるのに、これ以上、映画を作り続ける必要かあるのか。」と思う作品を。あたまから最後まで、2時間以上、どれをとってもケチのつけようがない構成、物語、台詞、演出、芝居だと思う。この映画にケチをつける材料が見当たらない。子供の頃の時代と現代の時間的疑問はあるが、そんなもの、どうでもいい。よくぞ、ここまで心を打つ、くるおしく愛すべき映画を作ってくれたものだと、33才の女性監督にありがとうと言いたい。中国映画何千本の中で、輸入されるのはごくわずかだから、どれもが秀作だろうが、本作は「マーホー売りの女」「宝物の椅子」に匹敵するくらいの力の入った名作だ。私はそう思う。

私は中学生、高校生、大学生、社会人になってから30才あたりまで「映画芸術」や「キネマ旬報」や「イメージフォーラム」の愛読者であった。しかし、ある日、ぴたっとやめた。あまりにも偏屈で屁理屈ばかり書き立てる評論家の記事が多いからだ。特に「映画芸術」はそうである。彼ら、彼女らは、頭はいいが、馬鹿である。書く文章も確かだし、視点もうまいところをついていて、凡人には書くことはできないのはわかる。が、読む側を無視している。難しく、鼻高々に、自分は偉いとばかりに書いている気がしてならない。「観てやろう。書いてやろう。読ませてやろう。」の鼻をへし折りたい気がして、私は体に虫ずが走り、読むのをやめた。本作も「まあ、時間があれば・・・」なんて書いている。頭でっかちで、プライドの高い優雅な奴らだ。あまりにも頭が良すぎて、かしこまって独自の世界観だけで他を寄せ付けない評論家が多すぎる。評論家という看板を掲げて、偉そうに試写室に入り、ロハで鑑賞し、プレスシートを受け取り、「学がありすぎて書くのか」「頭が悪いのにそれを隠すために書くのか」哲学書か博士論文のような評論を書く奴らは大嫌いである。 本作は、お偉い大先生がなんと言おうが、客観的に(普段、映画を観ない人にも勧めたい)観て、映画ファンの一人として、素晴らしい珠玉の一本である<95点>

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