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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド(字幕版)

2007年07月05日 23時45分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_278  <TOHOシネマズなんば>

 やはり、引きずり男になったままで、うつ状態は続く。今日は「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」と「アポカリプト」の二作品を観ることにしたい。仕事も気になるが、今の状態では、いらぬことを考えて、ポカをやってしまいそうだ。もはや他人のせいにしたい気分だ。だが、土曜日から6日間も贅沢な休みをもらったので、明日は、何が何でも行こう。こんな仕事をしているからこそ、自由が利くのだ。自由とは、楽しくもあり、とてもやっかいなものでもある。

 本作を遅れて遅れて観る事になった。もう、人も少ないはずだ。木曜日の昼間だから、尚更、空いているだろう。昨日は雨模様だったが、今日はいい天気だ。人もまばらなチケット売り場で、後ろの通路側の席がとれた。上映5分前だから、ここが取れたとすれば、とても人入りが少ない。2日前の夜から何も食べてないので、さすがにふらつく。売店で、ホットドックを頼み、場内へ入る。30人くらいの観客だった。

 本作を観ようと思ったきっかけは、 Happy Together  のリーチェンさんとのメールの会話からである。故郷へ帰る新大阪駅から、新幹線内から、私はたくさんの友達にメールを送った(これは早まったと後悔している)が、ブログ仲間のリーチェンさんにも送った。携帯のメールアドレスをアドレスに入れていたからでもある。また、つい先日、結婚するという報告メールをしたばかりであったから、早めに伝えておこうと思った。心配と励ましの長めのメールが返信されてきた。一度だけしかお会いしたことがないのに、本当に有り難い。故郷の下関に着き、少しだけ落ち着きをとりもどした私は、リーチェンさんに、「生きてるだけで丸もうけがわかるような気がする」と、返した。リーチェンさんは、ジョニー・デップのポスターとともに「丸儲けついでに、たまにはこんな映画を観ればスッキリできるかも。彼も自由を愛する気ままな海賊ですから、人生イロイロということかな(笑)」と、返信してくれた。私が下関駅の改札を抜け、バスに乗ろうと歩いていたときのことだった。とても映画を観るどころの心境ではないが、リーチェンさんの心がありがたい。私は、まともになったら、本作を観ようと思っていた。それでも、すぐには派手な映画は観ることができず、「ブリッジ」と「それでも生きる子供たちへ」になってしまった。昨日も時間が合わず、「シュレック3」になった。今日は行こうと、修復しかけた心を抑え、難波へと出たのである。

 私としては、やはり、パート1が大好きである。シリーズとは思わなかった1を観たとき、スカッとして、続けてもう一度観た。間をあけて同じ映画を観ることはあっても、続けて観ることは珍しい。しっかりした構成と物語で、個性の強いジョニー・デップに驚かされた。パート2も良かった。物語よりも、サーカスを観るようなアクションの連続で、目を楽しませてくれた。私は、インディアナ・ジョーンズシリーズの2作目的な作り方だと思った。じっくり観るというより、楽しませてあげようという製作者の考えがあったのだろう。物語はとどまったままだったが、私は諸手をあげて楽しみ、喜んだ。

 あれこれと膨らませたのだから、それを収集する作業をしなければならない。パート3は、上映時間が長い割には、巧くはいっていない妙な空気が漂っていた。何が・・・だろうか。1と2より、真面目に製作されている気がする。表現が難しい。私は、映画そのものよりも、私は、衣裳、小道具、セット、エキストラに興味が向いた。実に細かい作業だろう。エキストラも、その場だけの仕事というような顔をしていない。しっかり、それらしくその場に、いついている。こういう大多数のエキストラにも、手を抜かずに演じさせるところが、やっぱりハリウッドで、日本にはマネのできないところだ。だからこそ、大集団となったひとつのカットでも、画になっている。

 ラストは、めまぐるしいスペクタクルになる。どうやって、こんな脚本が書けるのか。どんな書き方をしているのか、私の想像の及ぶところではない。すべてが画コンテでも、スタッフに理解させるのは大変だろう。アクションとアクションの間に台詞が入るが、タイミングの計算は、かなりしんどい作業に違いない。編集の腕もあるだろう。流れ続ける音楽も興奮させてくれて、ハンパじゃない。何百人というスタッフを一丸とさせて、一流の高級映画を誕生させた。私はDVDで観ないタイプの人間だが、3作品を続けて観てみたい。パート3をもっともっと楽しめそうな気がする。

 長い映画が終わり、「アポカリプト」へと向かう。観ようかどうしようか、15分前なのに悩んでいる。まだ、頭の中は散漫としているからだ。溜息をつくと幸せは逃げていくので、溜息はつかない。そのように努めている。早く帰っても、誰が待ってくれているということはないので、やはり、チケットを買い求めた。明日から、しっかりと仕事を片付ける為、もっと気持ちをさっぱりしたい。映画から得るものはいっぱいある。本を読みたいが、読む気力がない。映画は観ているだけで進むので、ありがたい。映画好きで生きてきて、よかったと思った。  <75点>

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ブリッジ

2007年07月03日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

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 <梅田ガーデンシネマ>

 (ひどく一方的な文章だった為、本文を書き直しました) 本作の感想は書いていません。いつにも増してプライベートの自己中心的、それも極めの日記、超私的の為、お腹立ちになるかもしれません。聞き流す程度で読んでもらうと有り難いです。また、あまりにも身勝手な文章だった為、書き直しました。これは、私の恥の記録です。

 私は、44年間生きてきて、一人暮らしの独身である。これは、希少ではなく、男も女も、現在では多いだろうと思っている。珍しくはないだろう。大学を卒業した22年前からつい先日まで、私は人生の花火をたくさん上げてきた。そのほとんどが打ち上げ花火で、時には藁棒にさされた線香花火もあったが、たまった火の玉は、小さな撥ねを残すことなく、あっさり落ちた。人生全体を通して言えることだが、それは特に女性との付き合いに関してである。私の場合、仕事よりも、女性に対して重きを置く傾向にある。最後の女性だと確信していたが、今度も、結局は打ち上げ花火だった。大きく見事に上がって広がったが、辺りはすぐに暗闇になった。

 浮かれていたのかもしれない。お調子者になっていたのかもしれない。また、安心もしていたのかもしれない。だが、完全に信じきっていた。信じきってしまうと、信じるという言葉は口から出てこないなと、私は思った。まだまだ若い頃、あやうい時などは「信じているから。」などと言ったし、よく言われた。

 私は、たまに「死にたくなった」などと口走る。以前、ブログにも書いたことがある。そんなことは滅多に言ってはならないが、自殺未遂で助かったにもかかわらず、言う。傲慢にも、一度自分は、死んだとでも思っているのだろうか。ある時、誹謗中傷で、落ち込み、そのことをブログに書いた。死にたいなどとも書いたことがある。リンクさせていただいているブログ仲間や、読んでいただいている方から、励ましのメールやコメントをいただいた。少なくない数であった。わざわざ記事にしていただいた私の尊敬する女性もいる。文章を書くということは、少なくとも魂を削る作業であるから、あの時は本当に申し訳なかったと思っている。とても力になった。誹謗中傷を回避する心を得た。

 26才の時、私には、結婚を約束し、両親にも会って、毎晩のように、家にご飯を食べに行っていた彼女がいた。とっておきの彼女だった。現在でも、友達は「あの女性はよかったなあ。」などと言う。そう言われる度に落ち込む。

 彼女も、彼女の両親も、まわりの友達、知り合いすべてが、この二人は結婚すると信じて疑わない女性を、付き合いはじめてから2年7ヵ月後、私は裏切った。別の女性に心を奪われたのである。確かな目がなかった。器用な奴なら、二股かけるのだろうが、私にはとてもできなかった。嫌いになったわけではなく、同時に好きな女性ができたのである。これは、この体験、一回のみである。オーバーラップさせず、別れを彼女に言った。活発で明るく笑顔をふりまき、いつも前向きだった彼女が、私の思いもよらぬことになった。あまりのショックで、眠れず、食べられず、寝込んでしまったのである。それを共の友人から毎日のように聞かされた。一ヶ月、仕事を休み、自宅にひきこもった。二人で語り合った未来への思いが、一瞬でつぶされたのである。逆に私をひっぱるような、いつも元気付けてくれた彼女が、別人になった。それを私は助けることもしなかった。2年7ヶ月、私ははじめて、彼女の涙を見た。それはもう号泣で、人目も顧みず、道路で倒れた。後に私は、人生の中で、もっとも私を愛してくれたたった一人の女性だと知ることになるが、まだ若かった。相手を裏切る行為は知ったが、裏切られる試練をまだ知らなかった。子供も子供、幼稚な考え、甘えの塊が私だった。ぼろぼろになった彼女から、私は別の女性の部屋にころがりこんだ。今でも私は、甘えん坊の身勝手な男のままであるが・・・。

 この新しく出会った女性から、私はコテンパンに裏切られることになる。その経緯は省くが、私は生まれてはじめて、裏切られるということを知った。27才の春だった。何を考えていたのかはわからない。考え、心、思いなどの理屈はなく、眠っていなかった私は、ふと気づくと、夜のH駅のホームに立っていた。思考回路がどうなっていたのかはよく思い出せない。次の電車が通り過ぎる時、飛び込もうとだけ思っていた。その時は、彼女がどうの、裏切りがどうのなんて考えはなかった。たくさんの人に迷惑をかける、みんなに後悔させることになると思ったのは後々で、ただ、自分の体と心を消すだけが目的になっていた。アナウンスは耳に入らなかったが、電車がホームに入ってきたのに気づいて、腰をあげ、先頭をみつめた。そのまま線路に飛び込むことだけを狙っていた。その時、私は目が悪くなったのかと前かがみの姿勢を正した。ゆっくりと電車が停まったのである。先頭車両の運転席のドアが目の前にある。ホームの端にいた私は、普通電車だったかと、椅子に座りなおした。ここで、運転手が手動でドアをあけ、私に声をかけた。「最終ですよ。」と。私は慌てた。その声で我にかえり、しっかりと意識を取り戻し、なぜか急に恥ずかしくなった。「すみません。やっぱり乗りません。」そのようなことを言ったと思う。私はその電車を見送り、ホームの階段を駆け下り、「入場料です。」と切符を渡し、改札口を出た。

 何日、起きていたのかはわからない。1日だけだったような気もするし、5日くらい起きていたような気もする。一人暮らしのマンションへもどり、そのまま倒れるように寝た。なぜか、ほっとした気持ちもあった。最終電車が出た後だから、午前1時頃に寝たのだろうが、起きたら午後11時だった。22時間の睡眠だった。私の頭は朦朧としていたが、考え、思い、心は取り戻していて、昨夜の自分の行動が自分でも信じられなかった。私は、両親をはじめ、たくさんの友人の顔を思い浮かべた。もう少し早く、ホームに立っていたら、私は死んでいたのだろうが、こうやって生きているということは、なにものかが、まだ生きておけと助けてくれたような気がした。なにかまだ、役目があるに違いない。44年間、唯一の自殺未遂だが、自らを殺すということが、如何に罪の重いものかを思った。裏切られる苦しみを、私ははじめて知った。少々の裏切りならば、約束を破ったで済むが、人生をかけた裏切りは、絶対にいけない。それだけは心得ていて、胸に刻んでいる。

 その後、何人かの女性と付き合ってきたが、私は裏切られても、裏切ることはなかったし、これからもないと誓える。この先、私の人生にパートナーはいないだろうと思うが・・・。あれほどの精神の苦しみを相手に与えるのは、この世の大きな罪である。私は、今でも1年に何度か、夢にうなされる。自殺未遂の夢ではない。私が裏切った女性が、楽しく明るく出てくるのである。寝覚めは悪い。私を裏切った女性は出ない。その夢、長くうなされてきた夢を断ち切ってくれたのが、3月から付き合いはじめた彼女だった。わずか4ヶ月だったが、私にとっては、大きく深いものだった。大きな花火を打ち上げ、あっという間にきれいに消えた。星も見えない夜になった。

 この別れは、私に大きな非があるのは間違いない。何度もつらい思いをして、二十代の頃よりは人に優しくなっただろう。甘えや我が儘も少なくなっていったはずだった。ところが、彼女と心が打ち解けてくると、どんどん私の我が儘な甘えが芽を出しはじめた。4月の終わりに、私は、2日間にわたって、彼女を我が儘で困らせた。それに加えて、彼女の過去の彼氏の嫉妬までした。彼女は私の過去を認めているのに、私は馬鹿の極みだった。それまで、真面目に紳士的に接していたのに、私は駄々子になってしまった。彼女は180度変わった私に困惑した。驚いていた。二重人格もいいところだった。私は、反省に反省を重ね、短い時間だったが、心を入れかえる努力をした。彼女は、その2日間、私の前でも寂しい顔をして、家族の中でも黙りこくって、つらそうだったという。44才のおっさんが、28才の女性に、我が儘で困らせてはならない。まったく私は甘えている。彼女はそれでも、私と一緒になろうと努力し、家族に、やはり彼氏と結婚したいと打ち明けた。

その翌日。彼女のお父さんとはじめて会う約束をしていた。私は、自分の甘えにどきどきして、待ち合わせの料亭へ向かった。彼女のお母さんとお父さんとお祖母さんの3人の待つ個室へ入った。お母さんは、いったい何が起きたのか、私に問うたが、私は緊張もあり、素直に応えることができなかった。ところが、お父さんは、事情を知っていながら、私を一切、責めなかった。もっとお互いに知った方が良い、まだ(結婚は)早すぎるんじゃないかと、とても冷静に私に語った。自分の娘の心を傷つけた相手でありながら、一言も不満を漏らさず、まったく怒らなかった。一人の人間として認めてくれていた。それ以降、私は誠心誠意、彼女と彼女の家族に接すると、あらためて誓った。

だが、私はまだまだの人間である。その後、私は反省しつつ、またもや彼女を困らせることを言ってしまった。誓ったのに、やってしまっては、軽蔑されるだけである。電話で、言葉で彼女を追い詰めた。大きなことではなかったが、明らかに私の甘えと我が儘が、そこにあった。彼女は、じっとそれを考え、悩み続けていた。私の人格、性格で、彼女を苦しめていた。自分より16才も年上の男が、自分より我が儘で甘えがある・・・私と一緒にいたら、とんでもないことになると、彼女は毎日、苦しんでいた。

 命の尊さ、生きているという事、生きていく事をテーマに掲げたドキュメンタリー「ブリッジ」を、私は金曜日の夜に観る予定にしていた。朝一とレイトショーの2回だけの上映になっていた。来週から、朝一の1回のみとなる。ところが、バタバタしているうちに上映時間の21時にはとても間に合わなく、行くことができなくなった。明日からは朝10時10分の一回のみになり、縁がないとあきらめた。その夜、彼女との電話の最中、突然、別れたいと言い出してきた。これを、出来事の前に観るか、後に観るかでは、印象は大きく違うだろう。しかし、朝一の一回のみでは、観ることもないだろうと思った。

 先月、先々月と書いてきた「私の最後の女性」だったが、寝耳に水の如く、「別れたい」と告げてきた。「結婚したら、ずっと一緒にいなきゃならないんだよね。」などと、子供のような陳腐なことを言う。しかし、それは、彼女が悩み続けてきて、私を傷つかせないようにしようとする言葉だった。彼女は、重要なことであっても相談することをせず、一方的に決定して告げる性格で、一旦決めたことは、まず曲げない。良くも悪くもあるが、それは私も認めている。私はピンとこない頭で、何度も理由を聞くと、切羽詰った彼女は、「前に付き合っていた彼氏のことが思い出され、縁りを戻す。」と言った。マジに受けたが、それは私のしつこい問いに、追い詰められて答えたのだと、後で知ることになる。昨日まで、いや、電話をはじめた30分間、そんな素振りはなかったから、私は突如、アタマをガツンとやられた気がした。要するに、私は、その寂しさを紛らわせるための、つなぎであったのだったと、これまた、自分勝手な解釈をした。あり得ない44才のおっさんである。年令だけ重ねた子供だと自分で自分がいやになる。

 焦った私は、付き合いが終わるにしても、電話やメールで済ませるのは、人としてどうかと思い、会いに千葉まで行くとメールをした。電話は誤解や勘違いを招く。あきらかに誤解や勘違いが重なって起きたことだから、会った方がいいと思ったのだった。3時間、電話で話すより、5分、向かい合って話す方がわかりやすい。誤解も解けるだろう。大阪と千葉の遠距離では、心が通じにくい。せめて、それだけでもと考えていたら、翌朝、彼女の母親から電話があり「来るんですか?無駄ですよ。お金ももったいないし。」と言われ、俺も過保護で甘えん坊で我が儘だが、自分のことは棚に置いて、彼女も過保護だなぁと、馬鹿馬鹿しくなり、挫折した。お金の問題はどうでもいいことだろうと思うが、私の蒔いた種が元凶なのだから仕方がない。

私は同じ年代の者、仲間の中で比較すると、精神的な面が弱い人間で、悪いことがあると、深く心に根をはる。そして、それを抑え込む作業が他の人よりも大変なようである。豚なので、おだてられたら木に上るが、叱られるとマイナス思考からなかなか這い上がれない。不器用でもあるのだろう。しかし、振られたり、裏切られる度に、私は少しは成長していると思う。自分で言うのもおかしいが、神経が図太くなるのではなく、どういうわけか、人に優しく、無理なく気をつかうことができるようになるからである。以前は、こんなところまで気づかなかったところに気づく

 私は、若い頃、一度、自殺未遂をしていて、絶対にあってはならないと思いつづけてきたが、今回の出来事で、私は愚かにも本気で自殺を考えた。自分自身の責任であるのに、である。まだまだ私は子供なのだ。ブログを生き甲斐とし、ブログの仲間と交流してきたが、彼女の登場で、生き甲斐がそちらに傾いてしまっていた。ブログの仲間には申し訳なかったが、疎かにして、薄っぺらな文章が目立つようになった。95%、頭や心を占めていたといってもよい。それが、簡単な言葉で、別れを宣告された。生き甲斐を捨てよと宣告されたと同じで、私は、あってはならない死を思ったのだった。自らを殺すというのは、理屈では、絶対にやってはならないのだが、「考え」や「思い」や「心」や「自分」というものさえ忘れてしまうもので、いかんいかんと口の中で反復しながら、一方ではそれを思っていた。私の頭はパニックになったが、自らを殺した後の彼女、私の両親、彼女の両親、親友たちの後悔が常に頭にあった。彼女に非はなく、私に非があるのだから、尚更、迷惑で後悔させるだろう。

 本作「ブリッジ」は、飛び込む自殺の瞬間も捉えているが、映画の内容は、ほぼ、親や親友や仕事仲間のインタビューで構成されている。そして、その誰もが、後悔している。彼ら、彼女らの自殺を引きずって生きている。苦悩の表情と無念の思い。本人は勝手に死んで消えたとしても、まわりの人の人生をまるごと悪く変えてしまった。病や事故ではない。自殺とは、特別であり、絶対に選ぶべきものではない。人に迷惑をかけられなくて死んでいく者もいるが、どんな迷惑だろうが、自殺されることほど迷惑なことはない。他の人生を死ぬまで後悔させてはならないと思っている。

 だが、自宅に戻っても死の願望が消えず、私は地下鉄で梅田の街に出た。誠に、私は甘えん坊で、自意識過剰で、自己中心的である。街にはでてみたものの、どういうわけか、より、腐ってくる。一人っきりでいるよりも、孤独なのである。私は実家に電話し、これから新幹線で帰ると告げた。どうしていいかわからなかった。新幹線を待つ間、新幹線に乗ってから、私は破談になったことを、友達を中心に、メールを送った。携帯のメールがわかっているブログ仲間にも送った。後で数えてみると、30人以上だった。この行為は、後でとんでもない後悔となるが、その時は無我夢中だった。ここでも、つまらない自分の性格が出ている。それは、随分経って気づいた。

ブログで何度も書いてきたし、メールも送っていたから、卑怯だが、死をにおわせる私のメールに、次々と返信がきた。それらは、私を懸命に励ますもので、頑張れとは誰も言わなかった。とても有り難く、2時間20分後の小倉駅では、私は少しずつ自分を取り戻していた。窓際に座っていたが、窓の外は一度も見なかったと思う。しかし、本当ならば、そういうことはすべきではない。自分で、一人で精神を抑えつけてしまうのが、大人のやりかたである。

 実家に帰り、両親にそのことを話した。年老いた両親に鞭打つようで、とても申し訳なかった。親同士が知り合いなので、まず、親に言うのが筋だと思った。私の親は、寂しい顔をしていたが、私を責めることなく、「また、人生の修行をしたね。」と言った。遠距離なので、交通費や宿泊代やプレゼントなどを含めて、この間、100万円以上使ったが、それも「高い授業料だったけど、しっかり勉強させてもらったね。」と言った。だが、これは精神の修行から逃亡したのであって、すべきではない。今はそう思う。一人で耐える日々が必要だった。彼女が悪いのではなく、元凶は私にあり、それを苦に思い、彼女は苦悩の末、私に別れを告げたのだ。彼女は毅然としていて、私はぼろぼろになっている。悪い方が、ひりっぱなしで、逃げた。

 彼女の最後の電話は、悩むでもなく、苦しむでもなく、あっさり、ケロッとしていた。言っていることとやっていることが違うと、私を責めていた彼女が「あの時は、あの時。今は、今。」と、きっぱりつっぱねた。そうとしか言えなかったのだろう。軽蔑というより、私に幻滅してしまったのだろうと思う

 そういうわけで、私はまた一人になった。これを機に、私は故郷の下関に帰ることをはやめた。下関には映画館がなく、ブログの更新も少なくなるかもしれないが、大阪にいる間に、たくさんの映画を観続けたいと思っている。愚の骨頂、自殺願望が消えてくれてよかった。私は弱い。死んだとしたら、たくさんの人に迷惑をかけ、後悔させ、苦しめただろう。27才のあの時の気の狂ったような体験があってよかったと思う。

 土曜、日曜、月曜と下関で過ごした。月曜日の夜の新幹線で大阪へもどった。「ブリッジ」のことはすっかり忘れていたが、珍しく、目覚まし時計が鳴る、ずっと前の朝5時に目が覚めた。今日は、まだまともではなく、仕事はしない。何か縁があるのか、私は「ブリッジ」と「それでも生きる子供たちへ」の2作品を観ようと、朝風呂に入り、身支度を整えた。映画館には申し訳ないが、私は梅田ガーデンシネマの招待券を2枚持っていて、その期限が切れそうだと気にしていたのでちょうどいい。2作品とも、「人が生きていること、生きていくこと」が重要な鍵になっている。朝の5時に目が覚め、3時間の睡眠だが、体は元気である。『そんなことがあったのなら、観ておきなさい。』という、なにものかの力が働いたのかもしれない。

 はじめはよかったが、途中から、呼吸が苦しくなってきた。画も音もはっきりしているが、もうひとつの頭が、この3日間の出来事、精神的な苦しみ、死への願望、絶望感がぐるぐると回った。己の悪行が跳ね返ったのに、それに傷ついている。救いようのない私だが、精神は尋常ではなく、本作に点数を付けることはできなく、生き甲斐を失って自分の身の置きどころのない人、絶望の中で佇んでいる人が観る映画ではない。敢えて、そういう人に観てもらいたいと考える方もいるだろうが、私の場合は逆効果で、電話で彼女に別れを告げられたあの瞬間に戻った。息苦しさから早く解放されたかった。途中で出ることを由としないので、90分の映画で助かった。ラストの30分は、息苦しさが絶えなかった。

 20分おいて、同じ劇場で「それでも生きる子供たちへ」を観る予定だが、時間を置きたい。まだ12時前で、雨の予報が晴れとなり、食事にでかけるサラリーマンやOLで、新梅田シティはごったがえしている。私は、梅田へもどり、喫茶店を探し、一息ついた。朝から何も食べていないが食欲はなく、「あの時の自分の死への願望」と「ブリッジ」を反芻していた。何度、飲み込んでも出てくる場面があった。それとダブらせていた。地と地を結ぶブリッジの真ん中に飛び出た人々。右を向いても左を向いても、自分を受け入れる地はどこにもなかったのかもしれない。しかし、どんな責め苦が自分を襲おうとも、自らを殺す手段は、この世にあってはならないと、私は思うのである。

 自殺をしなけばならないほどの試練は、神は与えないともいう。ホームレスのダンボール箱を見ていて思うが、彼らは、間違いなく生きている。どんなにどん底になっても、それでも生きている。破産して、多くの者に迷惑をかけたのかもしれないが、あそこまでいけば、もういいのだと思う。あの中には、すでに許される人もいる。私であれば、絶望のまま、すぐに首をくくるだろう。そう考えると、彼らの精神力は強い。もっともらしい服を着て、もっともらしい顔をして歩いているが、ダンボールやブルーシートで家を作り、明日を待つホームレスの方が、考え方によっては、私よりずっと強く、逞しいのかもしれない。

 私は44才だが、まだまだ人生の修行の最中である。人に、本当に、心から優しく接していく為には、今の私の力量では足りない。苦しみがあり、それを乗り越えて、また一歩、心のある人間になれるのだろう。誰かの為に生きようという傲慢な考えはない。自分の為に生きるしかない。しかし、何かがあった時、心の温かい人である為に、傷ついた友を心から助ける為、心を言葉にして口から出す為、私はまた修行をさせてもらっている。考え方を変えれば、ありがたい体験なのだろう。

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パッチギ! LOVE&PEACE

2007年06月09日 23時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Lovepeace  <TOHOシネマズなんば>

 井筒監督作品で大好きなのは「さすらいのトラブルバスター」という、男はつらいよの添え物映画で、作らされた観があるが、良質の喜劇作品だと思う。誰も知らない映画だろう。ポルノ映画監督から一般映画に転向した「ガキ帝国」など、低予算の初期の作品も好きだが、全国公開の角川アイドル映画で、井筒監督はボロボロになったと私は思った。誰でもいいんじゃないの?この映画の監督は・・・後に、あの時代を井筒監督は悔いている。食うためだけに監督を受けたと言っている。だが、食うだけだったにせよ、名前を売ることになった。東宝からは捨てられたみたいな形になったが、松竹が目をつけ、監督らしい映画を撮らせてくれた。「岸和田少年愚連隊」で、あの鋭利な狂気が、持ち味である。と、私は思う。

 「パッチギ!」は、シネカノンの作品で、ミニシアターで上映され、全国をロードしていった。この映画はよかった。制作側の鼻息も出演者側の鼻息も熱く、これがビシバシッと伝わった。ピリピリッとした空気感がありながら、喜劇でもある。とても思いテーマを取り扱っているので、喜劇にするのも難しかったろうが、ふたつの困難な描写がぴたり息が合っていて、笑いながら脅されながら泣かせるという、映画らしい映画に仕上がっていた。大阪の監督だからこそ撮れたのだろうが、そこへ、井筒監督だからというものがあり、私は90点と手帳に記した。

 どこでこんなシーンを撮ったのか、冒頭から迫力ある展開だ。パート1のように、アレをひっくりかえしてくれるのかと期待してしまうが、そこまでやってしまったら、漫画チックになってしまうのだろうか、やらない。パート3はないだろうし、ひっくりかえしてもよかったのではないか?いろんな事件、事故が多くて、ひかえたのか・・・そこは映画で、やっちまってもOKだが、冒頭から期待しすぎてしまわなくてよかった。もし、アレをひっくり返したとしたら、尻すぼみになってしまう。前作のような尻上がりの展開にならないのが、本作であった。近頃は、パート2もよく考えてあって、柳の下にどじょうは何匹もいたりするが、この作品は、尻すぼみ・・・そう言いきっていいかもしれない。少なくとも、私には、とても満足のいく仕上がりとは言い難い。

 1本の軸に、細かなエピソードの枝葉を散りばめてあるのがよくわかり、これらは事実をもとに映像化したのだろうが、バラバラしている。1本の軸を無視して、ただ枝葉を映像化してもよいのではないか。枝葉が重過ぎて、軸が傾いてしまっている・・・表現力がないので、うまく書けないが、つまり、折れそうな軽い一本の樹に、重たい果実がたくさんぶら下がっているという、見た目に不細工な感じがする。1がよければ、2はもっと期待する。2が1より下をいくという経験を何百としても、それでも学べず、期待する。2を観るとき、ある意味で、1は大きな予告篇となっていて、だからこそ期待は膨らむ。それを裏切らず、満足させるには、すっごく大変なことで、制作側は勇気がいる。パート2、パート3で監督が変わるのは、そういう理由でもある。

 終盤に近づくにしたがって、終盤らしい展開になり、クライマックスとも言えるシーンが待っている。そろそろ盛り上がるかな?というところで盛り上がり、ここがヤマかな?というところでヤマになる。そろそろ終わるなというところで終わる・・・観終えてそう気づいたのだが、そう考えると、現代的な日本映画ではない。映画を学ぶ基本をなぞったような構成で、目新しさは何もない。敢えてパート2を撮る必要性は、私にはわからない。いや、これでいいのかもしれないが、かなり辛辣に思うのは、監督が井筒和幸だからである。期待しすぎて、公開日からためてためて行った私にも非はあるのかもしれないが。  <65点>

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プレステージ

2007年06月09日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_267  <TOHOシネマズなんば>

 本作について、感想などは一切書いていません。

 15分後に本作がはじまる。2本立てだとした場合、ちょうどいい休憩時間だが、チケットを切って、劇場が変わると、気持ちが入れ替わる。休憩だった場合、ビリケンの台詞じゃないが「どんな2(3)本立てやねん。」てなシーンが浮かぶ。もしかしたらやばいかな?とは思っていたが、やはり、やばかった。

 何本立てならいいが、ハシゴする時は、15分では短すぎる。これは、何度も体験してきたことで、百も承知、二百も合点なのだが、一本観終わったら、脱力感をおぼえる。どうでもいい映画を観た場合、すぐに気持ちは入れかわるが、中途半端に心にたまる作品だったので、しばらくじっとしていたい。せめて、30分の余裕はほしいが、タイムスケジュールは、15分の間である。ところが、5分、おした。本作との間が10分しかない。劇場を出て、トイレで用をたし、エスカレーターをふたつ下り、遠いモギリを出て、ごったがえしたロビーについたら、上映5分前だった。そのままチケットをもぎってもらい、また、エスカレーターをふたつ上り、劇場内へ入る。ちょうど、予告編がはじまったところだ。映画から映画まで10分。とても忙しかった。ちょっと首筋に汗が流れている。だったら、こんな映画の観かたをしなきゃいいのだが、タイム的にこれが一番だった。他はみんな観ているし、シネプレックスのなんばパークスを覘くと、チケットを買うだけで30分以上並ぶなんてことを言っている。そんなこんなで、2作品をまとめ買いしたのだった。

 1作品でもいいが、家を出るとき、2本観るぞと決めて出たので、その気持ちを自分の中で縛った。というわけで、1時間観たあたりから睡魔が襲ってきた。1時間観て睡魔が襲うというのは、その映画がいかんのかもしれないし、眠くて観ているうちに目がギラギラ冴えることもある作品(地味で静かであっても)もあるが、その前に私の姿勢がいかん。途中、完全に20分間、ぐったり頭を下に垂れた。人が少なかったら、ふたつの席の片方に昔の女性座りでくたっとするが、初日の土曜日の夕方は、満席だった。満席はクーラーもあまりきかず、ちょうど寝心地がいい。

 映画好きが、映画を観に行って1時間たったあたりで眠ってしまうのはどうかと思うが、こういうこと、少なくない。あまりにもあんまりの映画を観た時は「鑑賞記録のみ-コメントなし」と書くが、途中で何分かでも寝たときも、同じように書く。本作は、つまらなかったわけではなく、面白く観ていたのに寝てしまって、ラストの30分もなかなか楽しかったので、何かを書き残したかった。ところが、書き残すものが・・・睡魔との戦いや、言い訳がましいことで、自分の狭さを公に露呈するものになってしまった・・・偉そうに映画を軸に世間のことをいろいろ書き綴っているが、かように私はとてもいい加減な人間である。しかし、恥を書くのを承知で書くと、そのいい加減さが、私にはとても心地よかったりする。

 明日、また2作日のハシゴをすべく、がらんと人のいなくなったテケツで前売り券を指定席券を引き換える。間を1時間とした。眠らずに観よう。

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眉山(びざん)  再び

2007年05月27日 23時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_262  <シネ・リーブル千葉ニュータウン>

 今年に入って4回目の関東歩きである。計算してみると、3月から3ヶ月で30日間もやってきている。まるまる一ヶ月で、こんなことは、大学を卒業する前に就職活動で東京に一ヶ月暮らした以外のことで、ちょっとおかしな生活である。新幹線代も宿泊代も馬鹿にはならず、ふと気づくと、この3ヶ月で100万円以上も使っていた。人生の岐路だから、踏ん張りどころなのだが、踏ん張りどころのついでに、人工的な山の中の街のシネコンで、つい先日観た「眉山」をもう一度、観る。この映画館は、ジョイフル本田なんていう、とんでもなく巨大なショッピングセンターの端にある。日曜日の昼間で、ジョイフル本田は、人ごみでごったがえしていたが、映画館内は、10もスクリーンをもっているのに、寂しいかぎりだった。もっと、みんな、映画を観ようよ。テレビを20時間見るより、映画を2時間観る方が、何かを心にのこす。

 ジョイフル本田には、みんな、自家用車でやってくるようだ。私のような公共交通機関を利用するものはほとんどいないようだ。私は、自家用車なるものをすべてなくしてしまえば、環境問題の7割は解決するなんて思っている人間で、こういう様を見ると、顔をしかめてしまう。「都会ならいいけど、こういうところでは、車なしでは生活できない。」なんて、仰る方もいるが、生活できないはずはないだろう。ただ、生活するのに、便利なだけだ。一度、自家用車を持ち、利用すれば、便利だと思うようになる。その便利から不便に戻れないだけで、生活できないような土地でもない。自家用車がすべて姿を消せば、バスの本数も今の何倍にもなり、便利になる。エコロジーカーが大変なら、公共のバス、貨物用の車で頑張ればいい。自家用車すべてを対象にするから困難なのだ。自家用車の便利さから離れたくないだけで、生活できないなんてのは、ウソだ。私はそう思う。ただし、自家用車を消してしまえば、日本だけで何百万人という人が、車で食えなくなる。経済的にも日本は大打撃を受ける。やはり、このまま、車を売り続け、オゾン層を破壊し、まあなんとかなるさ・・・と、しておかねばならいないのだろうか。私は、どんなに不便になっても、自家用車が大嫌いだ。そんな思いでジョイフル本田を歩き、シネ・リーブルへやってきた。

 同じシネ・リーブルなのに、池袋や梅田や神戸などと別らしい。私は、会員更新をしようと思ったが、「ここだけの会員カードです。」などと言われ、断られてしまった。なかなか梅田のシネ・リーブルに行く機会も減った。期限が切れそうだが、あまり行かなくなったのなら、いいかなと思う。九条シネ・ヌーヴォも切れているし、第七藝術劇場のサポート会員も切れている。入りなおそうとは思うが、気づくと、全国爆撃映画館に座っていて、足が遠のいている。

 もう一度、眉山を観たが、結構、これが覚えていて、錯覚のように、続けて観た感じがした。複雑でもなく、平坦に話が進むし、台詞も単純だ。だからいいのだが、ラストで、点滴をした宮本信子のワンシーンがあるが、あのシーン、必要かしら?と、思う。祭りの最後の台詞、素敵じゃない。あの台詞が、宮本信子の最後の言葉でよかったのではないかと思う。しゃきっとした姿勢のままでよかったのではなかったか・・・だらりとした姿をみせる必要はあったろうか・・・。

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眉山(びざん)

2007年05月19日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_261  <TOHOシネマズなんば>

 バベルを観て、満足したのだから、そのままの余韻を胸に帰りたいが、本作のチケットとまとめて買ったので、ゴミと化すのは惜しい。間が40分しかないので、気分を変えねばならないと、私は外へ出て、なんばの繁華街をぶらついた。どこから湧いてくるのか、まともに歩けないほどの人ごみだ。人ごみは、せっかくの映画の余韻を消してくれるが、まともに歩けないのは、映画の余韻を消して、新しいものを塗りこむ気分がする。お腹がぐーぐーなるので、カレーかうどんでも一口と思いつつ、戎橋通りから、道頓堀に抜け、千日前へ舞い戻る。360度、一周して、路地の自動販売機で缶コーヒーを買う。ちょっと肌寒いので、温かいのを飲みたいが、この時期、どんどん「つめたい」に変更されている。「つめたい」の反対は「あつい」のはずだが・・・こんな愚にもつかぬことを思いながら、冷たい缶コーヒーをちびちびと飲む。大学は休みではないはずだが、大学生の団体が多い。奇声をあげながら、たむろしている。私の大学時代もそうであったと、懐かしい。私はもっとひどく、奇声をあげながら走っていた気がする。

 撮りたい映画と、撮らされている映画がはっきりしている犬童一心監督作品だ。多くは、全国一斉公開ものは、撮らされている映画。ミニシアター系は、撮りたい映画である。本作は、全国一斉だから、撮らされているのだろうか・・・と、思った。にせよ、今回の全国公開ものは、上手い。眉山が何度も出てきて、同じ四国を舞台にした「UDON」の讃岐富士を連想させたが、シネマスコープで風景をおさめるとき、徳島ではカメラ位置に制限が多いのではないかと思う。私は四国が大好きで、いつまでも電化されていない鉄道で一周したり、高い段々畑を一日中眺めていたりするが、徳島という街の風景は、特につかみどころがない。オープニングで出てくる俯瞰の街を、どこから撮ったのかと、私は頭の中に地図を開いた。ロケハンは大変だったろう。

 ラストのオープンセット・・・こういう風に展開したとしたら、俺は泣いてしまうぞ!と、そのままに展開してくれる。誰もが予想できる展開だし、原作そのままなのだろうが、その演出、芝居、編集、音楽とSEの途切れが、なんとも見事で、一瞬の出来事を、とてもとても丁寧にみせてくれる。涙まではでなかったが、涙腺をゆるませるカットの連続だ。男たち、女たちの考えていることは私にはまったくわからないが、こいつらいいなぁとジーンとした。犬童一心監督が、ここに力を入れるため、多くを長回しにしてきた理由も、後でわかった。「ジョゼと虎と・・・」には到底及ばないが、観てよかった逸品だった。

 今日で、しばらく映画を終える。24日から29日まで東京、千葉へ行くため、本業の仕事にかかる。東京か千葉で映画を観るかもしれないが、何も予定は決めていない。飢えてきたら、映画館にかけこむかもしれないが・・・。  <70点>

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ハンニバル・ライジング

2007年05月13日 23時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_259 <TOHOシネマズなんば>

 「私は芸術や文化に縁がない」と言われる方が多い。しかし私は、すべての人に、芸術的な要素はあり、芸術と接して生活していると思っている。大袈裟かもしれないが、料理ひとつとっても、切り方、盛り方は、芸術とかかわりがある。それを食す側も、見た目を楽しむ。食感を楽しむ。見た目が美しいと感じるならば、それは感性の一端をあらわしたことになる。料理にかかわらず、部屋の模様替えもそうだし、買い物に行って商品を選ぶこともそうだし、今日は何を着て行こうかと悩むことも、少なからず、芸術の領域に入る。と、私は思う。芸術とかけ離れた世界に身を投じ、かけはなれた生活をしていくことは、とても難しいことで、まして、その世界から逃げようと別世界へ入るなんて、芸術の最たるものだ。私たちは、芸術の集まりの中で生きることを余儀なくされている。

 自然ではなく、芸術を志すということは、日常の芸術をさらに抜きん出ようとする考えである。私は他の人とは違う、私はもっと有名になりたい、私は何の為に産まれて生きているのか・・・それを具現化しようとする人たちがいて、これを芸術家とする。具現化したものが、多くの目を惹いた場合、その芸術家は、地位を確たるものとし、人によっては、名を遺す。

 そういうふうに柔軟に考えていくと、映画を観る側も、それを観て何かを感じるならば、芸術家の一人である。面白かった、楽しかったという感想でもいい。それが、自分の感性のかな首をもたげ、何らかの影響が、いつかどこかで出るだろう。

 「ヒットした作品の物語」のそれ以前の物語を制作することがある。これまでの多くの経験から、それは無理矢理で、どうしてもまだまだ儲けたい一心のようなものがうかがえる。つまり、凡作を観てきた。本作の続きものを作りたくても、アンソニー・ホプキンスは、もう絶対にイヤだと言っているようで、望めない。だから無理矢理に・・・私はそう思っていた。観なければいいが、時間を無駄にしたとしても、観たい。ところが、私ははじまって、ものの10分で、この映画に魅せられてしまった。

 とても綿密に練ってあり、撮り方も丁寧で構図を考えて美しく、怖いものみたさという心理と、じっくり人間ドラマをみるという二つの興味をうまく同時進行させている。殺し方・・・というより、殺しの描写はかなりハードだが、私は芸術的だと思う。重苦しく、泥沼のような精神世界に、殺しというクッションをつけてくれる。丹念に芸術を追求した作品でありながら、娯楽性も高い。ただ、羊たちの沈黙、ハンニバルを観ていない観客は、どう思うだろうか。つまり、ハンニバル・レクターの「それ以前の物語」は、本作を1としてはならない、敢えて3作目とせねばならない、珍しい続編になっているのだ。そして、それは見事に成功している。こんな例は・・・他に思い浮かばない。秀作である。  <85点>

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ブラッド・ダイヤモンド

2007年05月03日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_256  <ワーナーマイカルシネマズ千葉ニュータウン>

 そんなこんなで、なかなか映画を観ていない。あまり観たいという気持ちもなくなってきた。我慢しているうちに、自己の欲求を消してしまったのかもしれない。我慢しすぎると、諦めるのが人間の性質だ。それはわかっている。ところが、長年の習癖からか、映画館があると立ち止まってどこを見るともなく入り口をながめる。ポスターが貼ってあると、低い位置でもしゃがみこんで読む。はじめから情報のない頭なのに、増して、映画について疎くなってきた。多くの勉強などはするつもりないが、見るものは頭に入る構造(映画だけに限る)なので、久しぶりに映画館へ行くと、とても新鮮だ。映画のミニ図書館に紛れ込んだ気で、普通は入らないキャラクターショップに入ったりする。ミーハーではないつもりだが、スパイダーマンのフィギアを手にとってみたりする。目玉オヤジのグッズの値段をいちいち調べたりする。やっぱり映画館は楽しい。私の遊び場だと思う。

 4月27日から5月6日まで、私は彼女に会いに東京、千葉へとやってきた。家族みんなと食事したりして、よく喋り騒ぐ私でも、緊張感が体中に走っている。今日は、彼女の都合で、私一人で過ごすことになっている。朝から池袋、渋谷、新宿と歩く。大学4年の頃、今から22年前、このあたりをうろうろした。あの頃も大繁華街には違いなかったが、それでも変わったなと思う。22年前より人が多くなったのではないかと感じるが、それは、ビルの密集と高層化によるのだろう。夕方、彼女の住む最寄の駅にもどり、映画館へと向かう。今と昔の街の様子の違いを楽しむのも一興で、時を忘れるが、映画を観たい。

 テケツ前には、このシネコンらしからぬ人だかりがしていたが、本作の観客は7人だった。ほとんどが、スパイダーマンに流れているのだろう。映画館にたくさんの人がやってきてくれるのは嬉しいが、混雑した場内は嬉しくない。思っていることと、やっていることが違うが、人間なんて、そんなものだろう。本作はガラガラだが、よそ者の気持ちがあり、きちんと指定された座席に腰を落ち着ける。

 恐ろしい。こんな世界があり、先進国のセレブたちがちゃらちゃらとダイヤモンドを見せびらかせながら歩いていることを思うと、日本という国が恥ずかしくなる。血みどろのダイヤモンドを身体につけているのだなと、私のまったく知らない世界を教えられた。人間の祖、黒人がしきっているのならまだしも、その中で、白人はちょろちょろと、ろくなことをしていない。やだやだ。どうして、人間は、ダイヤモンドと金に心を奪われるのだろうか。知らずとも、そこに血のにおいを感じるかしらん?と思う。

 煽るように、殺戮の場面は、とても残酷に撮っている。おちつかないカメラワークは、いつでも逃げられる体勢で構えているようだ。これは、ドラマでありながら、ドキュメンタリックに写るという効果がある。これを多用する。実は、そんな小細工は、私のような斜に構えて観ているものだけではなく、カメラワークを知らない観客にも十分に伝わっているのだ。すべてではないので、そういう構え方に入ると、殺し合いがはじまるなと、私は途中から気づく。一般の観客は、きりきりと神経が高ぶりはじめるはずだ。自然に、その映画の世界にもう一歩、入り込まされているのだ。この効果は、平凡だが、なかなか気づきにくく、いつ観ても上手い方法を考えたものだと思う。

 人もまばらになったイオン、ジャスコの前を歩き、ホテルへもどる。明日は上野公園に行く予定だ。朝から歩き疲れていて、ベッドに入ると、すぐにも熟睡しまいそうだし、風呂に入るのも邪魔くさい。しかし、習慣で、2時を過ぎないと眠れない。ベッドに横になり、音の消えたテレビをみつめていたら、いつ眠ったのか、窓からの明るい日差しが頬を照らし、ぐったりと目覚めた。  <70点>

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ホリデイ

2007年04月01日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_253  <TOHOシネマズなんば>

 アメリカらしいアメリカ人のアメリカ人の為の大人のラブストーリー。無理やりだけれども、こういうアメリカ発の作品は世界中でもてはやされる。格差社会は歴然としてきて、「セレブ」なんて言葉がもてはやされているので、日本でもバカ受けするだろう。セレブの為か、本作はプレミアスクリーンでも上映されている。私の周りにはセレブらしき人がうろうろしているが、私自身はセレブとは縁が無いので、一般のスクリーンで観る。

 低空を地上と平行に飛行し続ける物語なので、先が読めて読めてしかたなかった。読めて間違いのところも、そんなに驚く展開はない。そうきたか!とも思えなかった。「大人の上級の恋愛映画」なんて、こんなものなの?場所と物語と人が違うだけで、昔からあるじゃん。キャメロン・ディアスも以前ほどの魅力はない。完全な偏見だが、何かを失ってしまった気がした。これだけ役者が揃ったのだから、この程度の台本ではもったいない。ひねりをもう何度かきかせれば、焦点がぼけなかったと思う。つまり、焦点がぽけていると言いたいのだ。かりやすい展開なのに、散漫な心持ちだ。

 だからだろうか、脚本家のエピソードが抜群に栄え、突出している。主役4人よりも、あの人生に焦点をあてて、一本、面白い話ができそうだ。できれば、そっちを観てみたい。その話しを軸に、4人がとりまく展開にした方が、しっかり進んでいきそうだ。こういうラブストーリーに飽きてしまったわけではない。映画は、ラブストーリーにはじまり、ラブストーリーに終わると私は思っていて、人が最も輝く瞬間を切り取って映画にしてくれるのはありがたい。最も映画になりやすく、最も伝えにくいジャンルだとも思う。だからこそ、つかみどころのない、焦点のぼけてしまった大作にがっくりとしてしまったのだろう。これが、低予算で、無名の俳優ばかりを起用した映画だとしたら・・・私は褒め称える言葉ばかり浮かんだかもしれない。私も人間だから、映画の姿勢、タイプによって、評価は変わる。 一流のスタッフ、一流のキャストが集まってできた作品にしては、お粗末で、本当にもったいない。 <45点>

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バッテリー

2007年03月31日 23時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_252  <TOHOシネマズなんば>

 昨夜、金曜日の夜、関西で活躍するシネマ・コミュニケーターの bobbyshiro (←クリックするとシネマコミュニケーターのブログへ飛びます。)さんと、道頓堀の松竹座前で待ち合わせをし、久しぶりに呑んだ。デビューまで苦労された方なので、毎日の活動は精力的である。二十代でデビューする新人はのんびり構えているが、彼は違う。シネマコミュニケーターという仕事は、映画をいつも新鮮な映画を観なければならない。また、旧作の依頼もあり、鑑賞時間と勉強時間に多くの時間を奪う。華やかな世界だが、陰の地道な苦労を必要とする。極端に言えば、365日休みなく、ときたまやってくる明日はオフだという実感は、普通のサラリーマンよりもあるだろう。なかなか時間がとれないのに、私などと会っていただき、申し訳ない気持ちだ。映画に関するイベントがあれば、そんな企画を立てている方は、是非、 bobbyshiro さんを頼ってみてほしい。愛想の良い方で、腰が低く、誰に対しても差別なく話してくれる。45分の講演も、30分もあったろうかと思わせる。映画に携わる人の中では珍しく、業界人独特のギラギラ感はない。とても楽しいひとときを過ごせるはずだ。映画をあまり観ない人でも、わかりやすく面白く映画の魅力を語ってくれる。

 仕事を長く休んでいたので、本調子に戻らない。頭の切りかえの早い人が羨ましい。私は仕事より遊んでいるのが大好きで、とても仕事人間ではない。ところが、仕事場での私の評価は、仕事人間らしく、そのあたりのギャップが私のストレスを増長させる。ふと一息ついたとき、パニック発作に襲われるのは、その為だとも思っている。パニック障害の発作は、外見からは何の異常も無いが、当人にとってはとんでもなく苦しい。これまで何十回と、ここで死ぬと思ってきた。あまりにひどい時、駅の構内でふらっと一瞬、気を失ったこともある。すぐに立ち上がったが、パニック障害で命を落とした人はいなくても、倒れた場所が悪く、事故になることも少なくないという。

 夕方から「バッテリー」と「どろろ」を観ようと、なんばへやってきた。昨夜、 bobbyshiro さんと別れた後、前売り券を指定席に変えた。「前売り券がたまりすぎてて・・・どろろも持っている」というと、「どろろは、もう終わるよ?」と言われたので、私は焦った。終わるのは知っているが、目の前の人にあらためて言われると焦る。TOHOプレックスなんばでは、夜のレイトショー一回のみとなっている。レイトショー料金だが、私はそれより100円高い前売り券だ。私はこういうことをよくやる。仕事の関係で、レイトショーやオールナイトになってしまうまだが、ひととおり、前売り券を持っていたりする。お金持ちではなく、明らかな貧乏人だが、個人としては、映画料金にあまり関心がない。腹は減っても映画を観る。いくらでもいい。しかしやっぱり、多くの方は料金が気になるから、完全に無視はしていない。そういう意味もあって、時々、映画料金のことを記事に書いてしまう。

 私としては、この日本映画に目新しいものは何もみつけることができくなかったが、良い映画だと思う。最後まで飽きずに観ていられる。だから、良い・・・どこがどうということもなく、こういう事を書くから、時々、馬鹿にされて罵倒されてしまうのはわかっているのだが・・・。 原作はどうあれ、映画だけを観れば、きちんと役割分担で登場人物が決められている。父の役割、母の役割、弟の役割、親友の役割。最も影響力のある祖父の役割。昔からこの構図は変わらない。言えば、古いタイプの構成とストーリーだ。役者は揃ったから、無駄なくストーリーを展開させられる。同級生の女の子、顧問の先生という、少し枝葉を足せば、物語に立体感が生まれる。何度も何度も繰り返し観てきたはずなのに、この手のドラマが日本人には受ける。私にも受ける。ラスト近くの弟のエピソードなんかは、わかったわかったという思いなのに、じっと観てしまう。「また、やられた。」という思いと「まんまとだまされている。」という思いがありながら、ぐっと観てしまう。作り手が、もう、わかっている。受け手もわかっている。わかっている者同士がスクリーンを通して通じ合う。

 「どろろ」は30分後にはじまる。ここで、ある人から相談のメールが届いた。気になったので電話かけた。なんということか、上映時間を過ぎてしまった。私としたことが、映画の上映時間を無視するなんて・・・。携帯電話では落ち着かないので、帰ってから自宅からかけなおすこととする。この時点で「どろろ」は諦めた。悪戯に、TOHOシネマズのポイントだけが上がっていく。  <70点>

 

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ハッピー フィート(日本語吹替版)

2007年03月22日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

__6  <ワーナー・マイカル・シネマズ みなとみらい>

 今年に入って、たくさんの偶然が重なって、ひとつの奇跡となり、3月の頭から私は関東周辺をうろうろしている。どんなに頑張っても中年の44才になったが、新しい彼女ができた。もうこの辺りで女性遍歴を封印し、私は、いま付き合っている彼女と結婚しようと思っている。私より16才も年下の28才で、私よりもずっとしっかりした信念を持っていて、美人だし、このようなオッサンにはもったいない女性だが、神様が巡り合わせてくれた最後の人だと感じる。

 私は先日、この世に幸せなんてあるのか、幸せとは何なのか・・・と書いたが、私自身が長い間、忘れていたのであって、今、私は生きている幸せを感じている。こういうことを書くのは、どこか恥ずかしいが、先日の答えがポロリと出てきたような心の転換が起きた。お金も大切だが、それだけじゃない。それ以上のものがある。理屈ではわかっていても、頭ではわかっていても、実感は難しい。しかし、それを実感している。幸せを感じる時は、目の前にあった。さて、この先、どうなるか・・・接点をもたなかった二人を会わせてくれたのは、私の母と彼女の母の思いもよらぬ出会いの奇跡からで、神様が機会を与えてくれたのだから、ここからは自分たちの力を信じるしかない。馬鹿馬鹿しく聞こえるのを承知で書くと・・・彼女に出会う為に、これまでの人生があったという気もしている。ありがたい事に、彼女も映画好きである。

 横浜へ行きたいというので、やってきた。私は横浜をほとんど知らない。仕事では何度かやってきているが、遊びできたのは、20年以上前の中華街以来だろう。新幹線の車窓から見える横浜の街は変わりに変わった。昔から都会には違いないが、たとえて言えば、「岐阜羽島駅周辺」のように変わった・・・(わかる人は苦笑するかも)・・・。日本三大都市のひとつ、名古屋が、横浜へその座を譲ろうとしている。人口の伸び、開発は目を瞠るものがある。『みなとみらい』は、本当に未来の街の姿をしていた。温かいような冷たいような、柔らかいような硬いような、なんとも言えない感触だ。

 CGアニメだけでは驚かなくなった今、内容で勝負しなければ評価できない。構成、ストーリー、キャラクター、動き、カメラ位置、音響、なぜCGアニメでなければらないか・・・カタグルシイ話しは抜きにしたいが、別にCGじゃなきゃダメってこともないじゃないっていう作品もある。ハリウッド作品が世界公開される映画は、そのほとんどがCGになってしまった。CGの方が高級感があるし、実際に制作費も高いだろう。セル画以上のものを求めるのは当然で、観客のその欲求を満たさねばならない。大変なアニメ時代になってきた。

 予告の為だけに作られたワンシーン、ワンカットは印象的でよかった。本作は、よくできたCGアニメの代表だ。超一流の娯楽大作。ストーリー性も抜群で、展開も速くて楽しい。また、ペンギンという同じ顔なので、それぞれの個性を強くしているから、楽しさが倍増する。個性を強くしているのは、そのペンギンがもつユニークな面だ。大量に描かれたペンギンには、もはや驚かなくなったが、みんな同じでみんな違うという狭いカットに目は輝く。実写との合成も抜群の技術で魅せてくれる。一歩先を越したCGアニメだと思う。日本のアニメと比べたら、物語としては大味だが、ミュージカルアニメ、ダイナミックな画の想像力は、素晴らしい。ラストもいい。あんな終わり方をされたら、流れるロールスーパーを観ながら、ジンッときてしまう。  <75点>

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ボビー

2007年03月16日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_246  <TOHOシネマズなんば>

 まーっ、何て豪華なキャスト陣!私の大好きなヘレン・ハント(私の歳と同じ)、ヘザー・グハム、リンジー・ローハンが出ている!あっ、どれも美しい女性だ。

 私の大好きなアンソニー・ホプキンス、ウィリアム・H・メイシー、ローレンス・フィツ・バーン・・・出てくる俳優が半端ではない。イライジャ・ウッド、シャロン・ストーン、マーティン・シーン、クリスチャン・スレーター、デミ・ムーア・・・誰一枚看板で主演を張れる男優、女優達である。

 昔はこういうタイプの映画が年に一度、大型コメディで制作されたが、そのタイプなのだろうか。それにしてはお祭り騒ぎでもない。プロデューサーのアンソニー・ホプキンスの力があるのだろうか。同時に進行するいくつかのドラマを丹念に撮り、編集していく。ある視点から観ると「有頂天ホテル」に似ているが、一人一人、その人間というものの過去と現在を教えてくれる。心情まで教えてくれる。「有頂天ホテル」を大絶賛した方には申し訳ないが・・・その点で雲泥の差がある。

 と、誉めているが、一言で言えば、有名俳優、主役をはれる俳優の集まりでしかない。私は途中からストーリーなんてどうでもよく、こんなに一同に揃った男優、女優達を観ていた。制作費のほとんどが出演料なのかもしれない。ミーハーファンは別として、敢えて勧めたい映画ではない。もう今日で終わりだからやってきた。こんなに豪華な映画なのに、大した話題にもならず、打ち切りは早かった。

 こんな豪華な映画なのに・・・「パフューム」があとを引いている。思うように書けないどころか、スクリーンをいい加減に観ている自分がいる。 <60点>

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バブルへGO!! タイムマシンはドラム式

2007年02月15日 21時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Go  <TOHOシネマズ高槻>

 このまま帰るつもりだったが、JR高槻駅へ入って、あまりの通勤客に電車に乗るのがつらくなってきた。この気分のまま人ごみに紛れたくない。私は映画館にもどって時間表をながめた。私のポケットには尋常ではないほどの映画の前売り券が入っている。終わるギリギリに出かけることが多いが、ほとんど無駄にはしない。それにしても今持っているチケットの枚数は多すぎる。こんなに持っていて、いつ行くのかとも自分でも呆れる。JR高槻駅で仕事でヘバッたオッサンオバサンの顔を見ているうち、もう一本観たいと思ってもどってきたのである。すべてレイトショーで、チケットを買っても1,200円だが、1,300円の前売り券を差し出す。ロビーに客は私一人しかいない。どの映画でもよかったが、本作のみ、最終の電車に間に合う時間に終わる。

 シネコン内でも大きな劇場で上映されている。私は「後ろの通路側を」と指定をとったが、予告篇がはじまっているのに、観客は2人だった。私は指定席を無視して一番後ろのど真ん中に座った。真上後ろに映写機がある。見上げるとスクリーンに投影される光が七色に線となって見える。最近、この筋の光を意識して映画館に入ったことがなかった。昔の映画館は煙草を喫っている人も多く、煙が光に当たるので、真ん中あたりに座っていても、見上げて意識した。その遠い記憶が蘇える。ただ、現在の映画館は、映写室が防音となっていて、映写機のカラカラという音は間近にいてもまったく聞こえない。天六のユウラク座あたりに行かなければ、映写機のカラカラ音は聞けなくなった。カラカラ映写する音、巻が終わってまき戻る音・・・私は好きだ。

 東宝は、こういう派手でお金をかけた発想だけ面白い映画をよく作る。人気者のプロデューサー、脚本家、出演陣。予告篇も「ちょっと気になる」と思わせる。そして、いつも騙される。本作も同様だった。発想は面白い。どういう展開になるか先を知りたくなる。阿部寛、薬師丸ひろ子、広末涼子の関係は、タイムスリップした辺りから想像がつくが、バブルへGOしてからどうなるかは想像がつかない。17年前の風景はこじんまりしているが、よく頑張っている。みんなの記憶が新しいから大変だろう。ただ、三十代以上でないと、気づかないものが多いはずだ。バブル崩壊という言葉も遠いものとなった。さて、そこでどうなるか・・・想像がつかないと書いたが、脚本家の君塚良一も想像がつかないようであった。どうしていいのか、迷っている。だったらすばやく、点(現在)から点(17年前)をたどればいいが、そうなると1時間も満たない映画になるだろう。これを2時間弱の尺にすべく、頭をひねっている。ひねっても大して面白い発想はなかったのだろう。どうでもいい、17年前の懐かしい風景や人物だけをクローズアップさせる。

 せっかく、いい映画を観たのに、無茶苦茶にされた・・・そんな思いでスクリーンをみつめる。ストーリーも平坦で、台詞も平凡で、こんなものに原作があるのかと思うと原作のネタまで尽きたの?などとイヤミのような言葉が頭に浮かぶ・・・こうなると何もかもイヤで、東宝独特のHDカメラの色彩までが気になる。音楽は本間勇輔。007を思わせる作曲で、映画を懸命に盛り上げる。途中で、遊びだろうか、古畑任三郎の挿入曲もさりげなくかかる。そこだけ気持ちがいい。

 ただ、エンディングは平坦ではない。最後の阿部寛の台詞を聞いて、私は高校生の頃に観た「ファイナル・カウントダウン」を思い出した。ここからが実は映像の力が発揮されるところだが、ちょっと頼りないCGで処理されるのみ。残念だ。ここから先を観たい。コメディ風に制作されているが、クスリともできない作品を観た。こんな映画では表情ひとつ変えられない。笑うことができる人は心が澄んでいる方で、私などは表情をピクリともさせない。仕事の疲れもとれない。・・・たくさんひどいことを書いているが、正月第二弾で「それでもボクはやってない」を同時にかけている東宝とは思えなかった。2月の東宝の邦画は、「稀にみる秀作」と「典型的な駄作」を同時に上映している。

 二週間ぶりにじっくりスクリーンを見た。映画を観た。一番良い席で。通勤客の少なくなった高槻駅へと歩く。時計を見たら23時20分。携帯電話のウェブで時刻表検索をした。自宅に到着する時間は明日の0時40分である。昨日に比べて、今日は昼間からとても寒い。私はダウンジャケットのファスナーを上げて、新快速電車に乗り込んだ。高槻からではとても座ることのできない新快速電車でも、この時間は人もまばらであった。 <35点>

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