長崎孔子廟を訪れた後、グラバー園へ行ってみました。麓から通称グラバースカイロード、三菱電機の得意とする斜行エレベータと普通のエレベータを乗り継ぎ、グラバー園の裏手の第二ゲートから入園しました。前に訪れたときは、大浦天主堂下から坂を上がったところにある第一ゲートから入園しましたが、高台から降りるコースの方がらくちんです。第二ゲート脇には三菱重工長崎造船所にあった三菱第二ドックハウスが移築されてあり、グラバー邸が三菱重工から長崎市に寄贈されたことと合わせて、グラバー園がまぎれもなく「三菱遺跡」であることを感じさせられます。グラバー園には、グラバー邸、リンガー邸、オルト邸という重要文化財の洋館がありますが、このうちのリンガー邸の脇に下の写真のような「石柱」が移されています。
傍らには以下のような説明書きが見つかります。フリーメーソンへの入会儀式の絵も載せられています。
「フリーメーソン・ロッジの石柱
この門は、松ヶ枝町47(旧小曽根町海岸通り47番)の住宅で入口の門です。柱頭の彫刻は、フリーメーソンのマークで石工(メーソン)の使ったコンパスと定規を組み合わせたものです。
使用された石材が開港初期に居留地で盛んに使われた天然石であり、1865年(慶応初年)頃、47番の借地人がイギリス人であったことから、当時イギリスから渡来したフリーメーソンの人々が最初に定着したこの地に彼らのロッジのシンボルとしてのマークをかかげたものと思われます。
長崎市」
「フリーメーソン・ロッジの石柱」とありますが、説明にはこの門が「ロッジ=支部」の門であることは謳われていません。ボランティアのガイドのおじさんが「リンガーはフリーメーソンだった」と言われていましたが、門柱は1966年に長崎市に寄贈されてリンガー邸の隣に移されただけなので、これもまた根拠がないように思えます。グラバーがフリーメーソンという説もまた根拠がなく、グラバーが援助した三菱財閥がフリーメーソンの影響下にあるとか、三菱グループ首脳が今も秘密裡に品川の開東閣でメーソンの儀式を行っているという話もまた「都市伝説」なのでしょう。
傍らには以下のような説明書きが見つかります。フリーメーソンへの入会儀式の絵も載せられています。
「フリーメーソン・ロッジの石柱
この門は、松ヶ枝町47(旧小曽根町海岸通り47番)の住宅で入口の門です。柱頭の彫刻は、フリーメーソンのマークで石工(メーソン)の使ったコンパスと定規を組み合わせたものです。
使用された石材が開港初期に居留地で盛んに使われた天然石であり、1865年(慶応初年)頃、47番の借地人がイギリス人であったことから、当時イギリスから渡来したフリーメーソンの人々が最初に定着したこの地に彼らのロッジのシンボルとしてのマークをかかげたものと思われます。
長崎市」
「フリーメーソン・ロッジの石柱」とありますが、説明にはこの門が「ロッジ=支部」の門であることは謳われていません。ボランティアのガイドのおじさんが「リンガーはフリーメーソンだった」と言われていましたが、門柱は1966年に長崎市に寄贈されてリンガー邸の隣に移されただけなので、これもまた根拠がないように思えます。グラバーがフリーメーソンという説もまた根拠がなく、グラバーが援助した三菱財閥がフリーメーソンの影響下にあるとか、三菱グループ首脳が今も秘密裡に品川の開東閣でメーソンの儀式を行っているという話もまた「都市伝説」なのでしょう。