萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第44話 山櫻act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-06-04 21:52:15 | 陽はまた昇るanother,side story
花よ、この想い抱きしめて



第44話 山櫻act.3―another,side story「陽はまた昇る」

ビジネスホテルの一室で、ほっと周太は息を吐いて微笑んだ。
濡れた髪をタオルで拭きながら、窓から眺めた山嶺は紫紺の夜に沈んでいる。
いま春4月、雪も消えかける稜線は夜の向うに朧に浮びだす。

「ん、春も、きれいだね…」

静かな月明かりに光ってみえるのは、きっと白緑の若葉たち。
ゆるやかな夜風に靡きひるがえる葉裏が、白く月と星を映して光っている。
吹く風おだやかな宵の光景に、先ほどの河原で見た想いが静かに心ふれた。

御岳の河原の流木に、並んで腰おろした長身のふたり。
川面にながれる月と残雪の山嶺に微笑んで、黙って酒を啜っていた。
言葉はそんなに交わさない。けれど雪白の貌は幸せに微笑んで、ときおり隣のコップに酒を注いでいた。
その杯うける切長い目は、穏やかに笑んで静かに酒を傾けていた。

「…お似合い、だよね?」

ふと呟きに、やわらかく微笑んで周太はソファに座りこんだ。
サイドテーブルに出して置いた青い本を膝ごと抱えると、大切にページを開いてみる。
目次からページ数を割り出して、目当てのページを見つけて周太は読み始めた。

『ブナが抱く雪と水 ― 水源林のchronicle』

明日は美代と、奥多摩の水源林を見に行く。
その前に出来るだけおさらいをしたくて、周太はページを繰っていった。
この青い本の著者、青木樹医は東京大学の学生時代から、奥多摩水源林について詳細な記録を残している。
その記録と青木准教授の恩師が記したデータをもとに、ここにブナ林の物語は描かれていく。

雲取山の積雪と、湧水の質量の関係性。
気候とブナ林の生育の関わり、奥多摩水源林の特徴、湧水ポイントのデータ。
そしてブナ林をめぐる動植物の変遷と普遍について。
このいま繰っていくページには、森と水の記憶が瑞々しく広がっていく。

「ん、…楽しいな、」

ひとりごと呟いて、微笑みが零れてしまう。
自分が小さい頃から好きな樹木、それが水から生命と連鎖し呼応している。
その事実が綴られていくページに、森と自分の繋がりが顕わされていく不思議が温かい。
こうした事を来週からは、もっと深く学ぶことができる。

…すごく、幸せだ、

この今が幸せで、来週は幸せがまた1つ増える。
こんなふうに幸せは増えていく、たとえ減らされる幸せがあったとしても増えるものもある。
そう信じて行けたなら、きっと「明日」への不安も恐怖も減っていく。
だから今も迎える夏から先の季節へと、もう絶望だけではない「明日」を自分は見つめられる。
こんな広やかな心には、執われることよりただ、シンプルな願いが温かい。

…どうか、幸せに笑っていてね?…英二、光一、美代さん、おかあさん…みなさん、

この願いのもとに自分は心から祈れる。自分の大切な人達の幸せが、自分無しでも成り立ってほしいと祈っている。
それは少し寂しいかもしれない、けれど「自分がいない」ことが原因で大切なひとを哀しませたくはない。
なにがあっても、自分がどうなっても、大切なひとには笑っていてほしい。

今日、母は14年ぶりに山を歩いた。14年ぶりに山桜を見あげて父の想い出と幸せに笑ってくれた。
幸せな記憶を山の花に見つめて、やっと還ってこれたと呟いて、父の名を呼んで母は微笑んだ。
そして父の旧友の想いすら受けとめて、共に山の時間を父を歩いていた。
だからきっと、もう母は大丈夫。
ずっと14年間抱き続けた父への恋も愛も、記憶も、母は御岳の山桜に還して空に笑ってくれた。
そうして父と過ごした家以外の場所でも、母は父の記憶と歩き始めたから「明日」へ母も生きていける。
もう母は、あの家を父の記憶の棺にはしない。あの家の時にも母は「明日」へ歩いて行ける。

今日、美代は吉村医師に自分の最高峰への夢を話す事が出来た。
そして周太の母にも、今度会いに行って話すとメールで約束をしていた。
こんなふうに心強い味方を見つけ、美代は自分の植物学への夢に踏み出ていく。
そんな美代の夢は、きっと自分が抱いていく夢と同じに重なって、この重なりに自分たち2人の繋がりが温かい。
この温もりに信じられる、きっと美代は周太に何かあっても夢を投げ出すことは無い。
きっと泣いても1人でも夢を歩き続けて、周太の夢も想いも抱き続けてくれる。
でも、せめて美代の大学合格までは、見届けたい。けれど時間が無いから、来春3月には必ず合格してもらえるよう手援けしたい。

今日、光一は幸せそうだった。
御岳駐在所で、警察医診察室で、御岳の河原で。いつも英二の隣に座って笑っていた。
いまもきっと幸せに笑ってくれている、英二が寮まで送ってくれることにすら光一なら幸せを見つめられる。
すこし光一は泣いたかもしれない、真直ぐな光一は周太への想いと挟まれ苦しむかもしれない、それでも幸せを見てほしい。
光一は15年前から「喪失」の哀しみを知っている、だから小さな幸せにも感謝が出来る。その感謝だけを見つめていてほしい。
もう15年前に雅樹を失い「帰りたい隣」を奪われた。この傷を癒し温める場所を、どうか素直に受けとめてほしい。
もう14年前に見つけた「山の秘密」だけではなく、その山に共に立てる温かな人間の懐に、どうか幸せを抱きしめてほしい。

「…でも、英二は悩んでるね、ずっと…」

ほっと溜息が本のページにこぼれて、周太は微笑んだ。
もちろん光一も悩んでいる、それ以上に英二は悩んで心張りつめていた。
それでも、吉村医師の「風邪の診察」を終えた後の英二は、ずっと心ゆるめられ楽になったように見えた。
だから英二は光一を、今も寮まで送りに行けている。
もう暫くしたら、英二はここに来るだろう。そのとき英二は、どんな顔をして周太を見つめてくれるのか?
その答えは多分、もう自分には解っている。だからただ受けとめて、それから話をして、正直な想いを見つめて貰えばいい。

どうか、誰もが幸せに笑っていてほしい。
その願いと祈りが今、こうして好きな本を読む瞬間にすら自分の心を去ることは無い。
こんなふうに人はきっと、本当に覚悟定まっていくときは、肚の底から想いを見つめ続けていく。

どんな瞬間も、ずっと「覚悟」は明るい瞳をひらいて、自分を見つめている。
今日この奥多摩で楽しい「今」を過ごしていた、その瞬間にも覚悟はこの心を温めていく。
ゆるやかな想いが覚悟に微笑んで、この心に芯を一本、すこしずつ通し肚底から据えられていく。
こんなふうに人は、自分の心を強靭な柱貫いて自分を支えて、覚悟すべき現実に立ち向かうのかもしれない。

この心の柱になってくれるのは、大切な人達への尽きせぬ想いたち。
尽きること無い愛情だから、この心の柱も尽きることなく強くしなやかに打建てられ続けていく。

そして、この想いを抱いた今、また1つ気が付き見つけられる想いがある。
きっと父の最期の瞬間は、今、自分が抱いている想いそのままだったのではないだろうか?

「ね、…おとうさん?いちばん最期は、俺のことも、思ってくれたんでしょ?」

―…警官、は…名前を呟いた。そして息が、止まった…しゅ、う、た

新宿のガード下、ホームレスが教えてくれた父の言葉。
この言葉が自分の心でなにかを溶かしてくれた、その想いは時経るごと濾過され純度を増している。
そうして父の願いと望みが浮かび上がって、そっと心ふれていく。そして想いは確信に変わる。

『どうか、幸せに笑っていて?』

きっと、そんな想いを父は見つめて、最後の呼吸に微笑んだ。
この想いを今、自分も抱いている。
もう1週間ほどで初任科総合が始まり、夏を迎え本配属になっていく。
この変化と終焉を迎える今は、父の想いに心重ねて見つめて、大切な人達の笑顔を祈っている。
この想いを今夜、自分は婚約者に少しでも分け与えられるだろうか?

「ん、…きっとね、大丈夫、」

そっと微笑んで周太は、ソファの上でページをまた1つ捲った。



芳しい香。

あまい苦い香が頬撫でる。
その向こう、深い森のような香が石鹸と昇りだす。
この香は、よく知っている。とても懐かしい、慕わしい、大好きな香だから。

「…ん、…」

ちいさな吐息と一緒に睫が披いていく。
披いていく視界と一緒に意識が目覚めだす、埋められる白いリネンの感触が頬にふれてくる。
ゆるやかに睫が披いたむこう、大好きな顔を見とめて周太は微笑んだ。

「…えいじ?」

大好きな名前呼んで、微笑んで見つめる顔が泣きそうになる。
泣きそうなままに長い腕が伸ばされる、抱きこんだ周太の肩に、英二は額をつけて顔を隠した。

「英二?…どうしたの?」

そっと訊いてみた声に、誘われるよう温もりがシャツの肩を濡らしていく。
そのまま涙と嗚咽がこぼれだして、英二は縋るよう周太を抱きしめた。

「…っ、……」

ただ涙あふれて周太の肩を濡らし、温めていく。
きっと今は、英二自身にも涙の訳など解からない。けれど自分には理由が解かってしまう。
この涙はもう既に、自分は通ってきた道だから。そんな想いと周太は婚約者に微笑んだ。

「ん、…大丈夫だよ、英二?」

声かけて、けれど愛するひとは涙のなかふるえている。
涙ふるえる肩を抱きしめて、そっと周太は微笑んだ。

「俺がいるから、だいじょうぶ…好きなだけ泣いて?」

ずっと傍にいる、出来る限り傍にいるから。
そんな想いと抱きしめて腕の中、切ない嗚咽がこぼれだした。

「…っ、う…っ、…」

途惑いと哀しみが鼓動うって、ふるえる胸に涙あふれだす。
深い香まとう人から溶かされていく哀しみが、温かな涙に変わっていく。
こんなふうに英二が泣くのは、御岳の山ヤ田中が亡くなったとき以来のこと。
あれから英二は強くなったと思っていた、けれど本当は変わっていない繊細さを心秘め続けている。
ふるえる繊細な心もつ人が、ただ自分は愛おしい。愛しさに、この涙すべて受けとめたいと願ってしまう。

…あたたかい、ね…

ただ涙がシャツの肩を温めていく、受けとめてほしいと縋ってくれる。
この縋ってくれる温もりが幸せで、自分を求められる喜びが心充たしてくれる。
こんなふうに縋られ、求められ、この今にある自分の幸せが温かい。

大丈夫、愛してるよ?

そんな想いを抱きしめる腕に温めて、ゆっくり婚約者の肩を抱く。
嗚咽かすかに流れていく、静かな奥多摩の夜。
この想いごと涙抱きとめていく今、涙の想いがシャツから素肌に沁みていく。
この涙ながされていく理由も想いも全て、きっと自分は知っている。だから今もこうして抱きしめていられる。

「…っ、ふ…っぅ…っ、」

ゆるやかな涙と嗚咽の時が流れていく。
シャツを浸していく潮の温もり、深い森の香、きれいな低い声の涙。
この全てが愛しい。この全てを受けとめ抱きとめられる今が誇らしい、この想いが温かに心満ちていく。
こんなふうに求められる自分であることが、誇らしく勇気を与えてくれる。

このひとに、愛されている。
このひとに、頼られ求められている。
自分は必要とされ求められている、その自覚が今この想いに幸福を呼び覚ます。

…今、幸せだ

この今が幸せ、だから、もう大丈夫。
もう何が起きても、きっと自分は幸せを見つめて生きていける。
この今ここで自分を求めて泣く人がいる、この人の笑顔が幸せに咲いてくれるなら、自分は大丈夫。
きっと自分は、今この抱きしめている人が幸福なら、自分も幸せなのだと希望を見つめられる。
だから、今、この人の幸福と笑顔のために、自分は最良の木蔭になりたい。
この人が寛ぎ憩い、安らぎ微笑んで、また勇気と誇りを抱いて明日へ立てるように「今」を与えたい。

「…周太、」

きれいな低い声が名前呼んでくれる。
さあ、この声に応えて自分はこれから、このひとに勇気と誇りのヒントを与えたい。
そんな想いのままに周太は、短い言葉と微笑んだ。

「ん…?」

おだやかな想いのまま微笑んで、きれいな髪の頭を見つめる。
この微笑み応えるよう、きれいな泣顔が上がり周太を見つめた。

「ただいま、周太…俺のこと、待っていてくれた?」

お願いだから、受けとめて。
そんな思いが切長い目から周太を見つめてくれる。
この答えは当然、決っているのに?やわらかな笑顔で周太は頷いた。

「ん、待ってたよ?…英二、」

問いかけに微笑んで、掌で白皙の頬を包みこむ。
掌に涙の温もりふれてくる、この涙をとめたい想いに掌の顔を近寄せる。
そっと近寄せて、ふれる唇にキスをして周太は微笑んだ。

「おかえりなさい、英二?」

幸せな笑顔が恋人の顔に咲いてくれる。
きれいな幸せに笑って英二は、周太を抱きしめて唇を重ねた。

ふれあう温もりが、いま抱いている優しい哀しみを伝えてくれる。
途惑いと哀しみと、求めてくれる想いが切なくて愛おしい。
おだやかな時が唇のはざま心ほどいて、静かに離れた。

「周太、…聴いてくれる?」

きれいな低い声が告白の時を求めてくれる。
切長い目の濃い睫のはざま、やわらかなルームライトが涙に映りこむ。
こんな顔と声の英二は初めて見る、こんな初めても素直に嬉しいまま周太は微笑んだ。

「ん、聴かせて?…話したいこと、全部、」
「ありがとう、」

きれいな笑顔が、すこし切ないまま笑ってくれた。
そうして切ない笑顔のままに、英二は静かに口を開いた。

「俺、いま、別れ際にね、国村に…キスしたんだ。おやすみのキスだよ、って、」

それでも、赦される?

切長い目が問いかける「赦し」への願望が、切ない。
こんなに罪悪感を感じないでほしい、だって本当は自分こそが望んでいた事だから。
そんな想いと微笑んで周太は頷いた。

「ん、おやすみのキス、大切なひとにはしたいね?」
「うん、…」

頷いた英二の瞳から、涙ひとつ零れて落ちる。
いま見つめている途惑いが涙さそわれて、唇から言葉にあふれだした。

「されるの慣れていない、周りが思ってるほど俺は遊んじゃいない。ずっと山ばっかりだから…そう言われたんだ、国村に。
たしかに遊んだ経験も、あいつはあると思う。でも、本当に心許して触れたわけじゃない。あいつ、いつも周太と美代さんにキスする。
でも額とか、耳元とかで…唇のキス、あいつはしたこと、ほとんど無いんだ。それなのに俺、キスに馴れているって、勘違いしていた、」

光一は、そんなふうに思われやすいだろうな?
英二の勘違いは周太も納得が出来る、光一の大人びた情事を絡めた話しぶりが、そう思わせるから。
それに光一は容貌も中性的、肌も髪も艶めいて扇情的な雰囲気がある。体躯も細いけれど鍛えられ美しくて、物馴れた空気がある。
けれど自分は光一の本音を知っている。この理解を見つめながら周太は今、腕に抱く途惑いの声に心傾けた。

「俺、やっと気が付いたんだ。いつも国村は俺に抱きついたりするけど、それは、体のことに馴れているから、じゃない。
しらないから、なんだ…経験したこと無い幸せを感じたいから、だ…あいつ、15年間ずっと、誰にも抱きしめられていない。
雅樹さんが亡くなってから、ずっと、誰からも抱きしめられていない。そして…唇でするキスを、誰にもされたこと、なかったんだよ、」

切長い目から涙が頬伝う。
そっと周太は掌で白皙の頬を拭って、微笑みながら頷いた。

「ん、そうだね…光一はね、キスされたこと、無かったね?」
「うん…だから俺、解かったんだ…」

周太の腕のなか吐息がこぼれた。

「剱岳で俺、あいつにキスした…俺からした、あの時がきっと、国村が本気で俺のこと好きになった瞬間で…それが、さ?
なぜ、キスの瞬間に好きになったか、俺、やっと解かったと思う。あいつにとって、初めて、心からキスされた瞬間だったからだ。
あいつに言われた、さっき…本当に初めてなんだよ?って。こんなに傍にいたい人間は俺が初めてで、だから一番でいたい、って。
恋人の一番がダメなら親友の一番でいさせて、変な期待させるなよ、いちばんの親友のまま一緒にいてよ。そう言われて…泣かれた、」

濃い睫がゆっくり瞬いて、涙が頬こぼれだす。

「俺、きっと、あいつのこと傷つけた。遊び慣れた体だって勝手に思いこんで、だからキスも出来たんだ。でも間違ってた。
国村は8歳の時からずっと、傷みごと抱きしめてくれる相手を求めていたんだ…それを俺に求めてくれたのに、なのに俺…傷つけた。
あいつのこと笑わせたかったのに、泣かせたんだ。別れ際、笑ってくれたけど、でも、寂しそうだったのは、俺の所為だ、俺が…周太!」

名前呼んで、抱きついて、この胸元にすがる涙が沁みていく。

「周太、俺、やっぱり体の感覚が狂っているのかな?…周太に逢うまで、ずっと体のこと、蔑ろにしてたから…俺は、軽いのかな?
あんなふうにキスして、あいつを恋愛させて傷つけて…俺は周太しか、恋愛出来ないのに…俺、残酷だよな、ね、周太…ごめんな、
周太の大切な初恋相手を、傷つけて…でも、お願い、俺のこと嫌いにならないでよ?…こんなの自分勝手だけど、お願い、捨てないで…」

体のことを後悔して、英二が泣いている。
どうか離れないでと周太に縋りついて、救け求めて泣いている。
こんなふうに英二が泣くことを、1年前は想像も出来なかった。

こんなに泣くほど英二は真剣に途惑っている、そんな姿に心の祈りが叶う予兆が温かい。
どうか、もし自分が帰ってこられなくても、大切な2人が幸せであるように。
この祈りのままに、愛するひとを周太は抱きしめた。

「光一は、ほんとうに英二が初めての『恋愛』だから…だからね、ほんとうに光一、初めてなんだよ、」

光一には本当に「初恋」だと自分には解る。
いつも自分は光一の「恋」にふれているから、光一が抱く英二への想いが解かる。

光一は周太に対しては、唇へのキスは1度きりしかない。
抱きしめることも限られた時だけで、いつも速い鼓動に緊張感が解かってしまう。
そして、光一の恋心は純粋無垢で、手を繋ぐことにすら、心ふるえる幸せを見つめている。
この光一の「触れない」恋の意味と、緊張感に解る純粋無垢を英二に伝えたい。

『こんなに傍にいたい人間は初めて』

そう光一が言った言葉の意味を、きちんと話してあげたい。
この言葉だけ聴いても英二には伝わり難いはず、そう見た先で綺麗な髪の頭がゆっくり上げられた。

「周太が初恋じゃないのか?…それとは、また違うのか?」

泣いている切長い目が見つめてくれる。
見つめ返したまま周太は頷くと、すこし「山の秘密」と微笑んだ。

「ん、違う…俺のことは光一、『山』と同じように好きなんだ、」

真直ぐで純粋無垢な「山」への敬愛と憧憬。

これが光一が周太に寄せる想いの真実。
人間はいつか生命の終わりを迎える、けれど「山」なら永遠に近い時を佇み続ける。
いつも、ただそこにある「山」の時間には無窮の永遠を見つめていける。
この永遠にこそ光一は安らげる、永遠には「終焉」が無いから。

…雅樹さんと死別した、この「終焉」が光一には恐怖、だから

ずっと寄添い愛したかった存在を「終焉」に奪われた、その痛みが光一には大きすぎた。
だから光一は永遠がほしくて。だから永遠の時を刻む「山」に光一は恋と愛を求めた。
この「山」で最も光一が大切にする山桜、その精霊を光一は周太に見つめて、恋をした。

光一にとって山の結晶「山桜」その精霊は光一にとって「永遠」の恋人になる。

人間ではない「山」の化身。
だからこそ周太への想いに光一は「永遠」を見つめられる。
この永遠は畏敬と憧憬、だからなにより聖なるもので、触れられない恋愛になっていく。
だから光一は、周太に無闇に触れることが無い。ただ周太が生きているだけで光一は充たされる。

けれど本当は光一は「触れられる」恋愛を求めている。
美しい山ヤの医学生に甘えた温もり、あの懐の幸福を今も忘れてはいない。
だからこそ本当は、ずっと人間との触れあう恋愛を光一は求めてきた。
その触れ合いを周太にも求めようとした。
けれど、きっと出来ない。光一にとっての周太は「山」と同化しているから。
この初恋が「山」のことだと解っている、だからもう、この初恋は下界では成立できない。

この真実は「山の秘密」に触れている、だから話せない部分もある。
それでも、この婚約者には伝えておきたい。

光一と周太の「初恋」が、この最愛の人への想いとは違う次元のことだと知ってほしい。
きっと話すなら「今」しかない。この今、話せることへの感謝に微笑んで、周太は口を開いた。

「光一と俺は『山』の愛情なんだ、人間としての恋愛と違う…だからね、俺も光一も、英二が初めての恋愛なんだ、」

9歳と23歳で廻り逢った「山の恋」の物語。
この不思議な出逢いと恋の物語には、ふたつの幼い心の救済と温もりがあった。
あの真実こそが、きっと光一と周太が出会った意味なのだろうと今は解かる。
この温かな物語を、どうか愛するひとへ形見にも伝えたい。

…どうか英二、あなたが覚えていて?

この最愛の人に、自分の大切な記憶を抱いてほしい。
その望みのままに微笑んで、光の花咲く雪の森の「真実」だけを語り始めた。
あの山桜の巨樹を、真直ぐ心に見つめながら。




(to be continued)

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