日常、永遠の瞬間
第57話 共鳴act.2―another,side story「陽はまた昇る」
濃やかに甘い香と、深い森の香。
眠れる意識の底ふれる、ふたつの香。
どちらも懐かしくて好きな香が嬉しくて、微笑んだ唇を温もりが包んだ。
…あたたかい、ほろにがくて甘くて…
唇ふれる吐息に、深く鼓動が響く。
この吐息も唇も知っている、唯ひとり待っていた。
きっと瞳披けば居てくれる?そう幸せが微笑んで周太は目を覚ました。
「おはよう、周太」
綺麗な低い声が名前を呼んで、綺麗な笑顔ほころんでくれる。
まだ覚めきらない意識もどかしい、それでも嬉しくて見つめる恋人の笑顔は優しい。
…ほんとうに今、目の前にいてくれるの?…帰ってきたの?
これは夢では無くて現実なのかな?
そんなふう微睡に囚われたまま見つめてしまう、その唇に温かなキスがふれた。
その温もりに「帰ってきてくれた」実感が微笑んで、周太は待ち人の名前を呼んだ。
「…ん、えいじ?」
「俺だよ、周太?おはよう、」
笑いかけて額をくっつけてくれる、その額が温かい。
大好きな温もりが帰ってきてくれた、嬉しくて幸せで、けれど英二はスーツ姿で傍にいる。
…もしかしてもう朝?
いま英二は「おはよう、」と笑ってくれた、もう朝になった?
しかもスーツ姿でいるなんて、もう出掛ける時間なのだろうか?
…さっきここで本を読んでいて…そのまま眠っちゃった?
また墜落睡眠してしまった。
そのまま眠りこんで、英二が帰ってきたことも気付かなかった。
きっと、優しい英二だから気遣って眠らせてくれた?そう思って周太は落ちこんだ。
…待っていたのに寝ちゃうなんて、お帰りなさいも言えなかったなんて…どうしてこんな子供なんだろう
ふたりで食事したくて待っていたのに、一緒に食べられなかった?
お風呂も沸かして布団も干した、そういうことに喜んでくれる笑顔を見られなかった?
何より出迎えてあげられなかった、こんなことでは「妻」だなんて難しい。もう色々と困りながら周太は婚約者に訊いた。
「…あの、いまってなんじ?…もう朝なんだよね、」
「え?」
驚いたよう切長い目が見つめてくれる。
ほら、きっと時間も解からないなんて呆れられた?
こんな子供じみた自分に泣きそうになる、それでも瞳ひとつ瞬いて堪えると周太は謝った。
「ごめんね、俺、寝ちゃって…待ってようって思ってたのに朝になっちゃうなんて…スーツ着てるけど英二も出掛ける時間なの?」
「ふっ、」
謝った途端、綺麗な笑顔が吹き出した。
こんなふうに笑うなんて、やっぱり呆れて可笑しくて仕方ないよね?
そう落ち込んで俯きそうになったとき、綺麗な切長い目は周太を見つめて笑ってくれた。
「周太?俺、いま帰ってきたところだよ。まだ金曜の夜9時半だよ、」
まだ朝になっていなかった?
言われて気がつくと、確かに自分はソファに横になっている。
その視界の先で台所の窓は暗い、それに食事を仕度した香がまだ温かい。
「…あ、」
安堵に声こぼれて涙も出そうになる。
けれど瞬きひとつで納めた視界に、長い指が持つ白い蕾が映りこんだ。
ふわり甘い優しい香ほころぶ白い花と艶やかな緑の葉、綺麗で見つめた周太に英二は微笑んだ。
「ごめんな、遅くなっちゃって。急いで帰ってきたから、なにも土産が無いんだ。それで庭で綺麗だった花、ひとつ摘ませて貰った、」
言葉に白皙の左腕を見て、文字盤の短針と長針を読む。
さっき告げてくれた通りに9時半を示してくれる、この時間が嬉しくて周太は笑いかけた。
「でもメールの時間より早いね?…10時って英二、書いてあった、」
暗くなる頃に送ってくれたメールの時間、それよりも30分早い。
その分だけ一緒の時間が増えて嬉しい、嬉しい気持ちに見つめた花に周太は微笑んだ。
「梔子、いい香…夜露で香がまた濃くなるね?きれい…ありがとう英二、」
「くちなしって言うんだ、この花。喜んでくれる?」
綺麗な笑顔ほころばせて頬にキスしてくれる。
ふれるだけの頬にキス、それでも気恥ずかしくて嬉しくて頬が熱くなってしまう。
このキスも心遣いの花も幸せで、周太は素直な想いに頷いた。
「ん、うれしい…思ったより一緒にいる時間、長くなったから…」
「ありがとう、周太。俺も周太と一緒にいたくて、頑張って仕事終わらせてきたんだ、」
嬉しそうに答えてくれながら、周太を抱き起こして隣に座ってくれる。
英二も同じことを願ってくれた、こういう同じは嬉しくて「想い合っている」と自覚が温かい。
…両想いって言うんだよね?
そっと心に呟いて首筋が熱くなる。
こんなこと独り考えて赤くなる自分が恥ずかしくて、けれど幸せな想いに周太は微笑んだ。
「吉村先生のお手伝いだよね?…先生、いま忙しいのでしょう?夏山のシーズンは応急処置の講習も多い、って、」
吉村医師の手伝いで遅くなる、そう夕方のメールで知らせてくれた。
きっと忙しくて英二は疲れているだろう、それなのに川崎まで帰ってきてくれた。
それが申し訳なくて、けれど幸せで見上げた周太の肩にスーツの腕を回してくれる。
そんな親しい仕草にふっと大好きな香がたって、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。
「そうだよ、明日と明後日は先生も講習会があるからね、その資料の最終チェックをお手伝いしてきた、俺たちも使わせて貰うんだ、」
深い森の香が抱き寄せて、ソファから立ち上がらせてくれる。
その掌に渡してくれる花が嬉しい、ふくらかな蕾に微笑んで周太は婚約者に尋ねた。
「救急法の資料?」
「うん、応急処置と遭難場所のポイントについてだよ、」
答えてくれながら一緒に歩いてくれる。
洗面室へと向かいながら英二は、仕事の話をしてくれた。
「周太にあげたファイルにも載ってるけど、遭難場所は奥多摩と主な山系の実例をまとめてさ。応急処置は代用品での処置方法だよ、」
「英二がメインになって資料、作ったんだ?…すごいね、英二」
素直に褒めて洗面室の扉を開く、その頬にキスしてくれる。
嬉しくて、けれど面映ゆくて微笑んだ周太に綺麗な低い声は笑ってくれた。
「周太に褒めてもらうの、やっぱり嬉しいな?もっと俺のこと褒めて、」
「ん?…救助隊の仕事も忙しいのに、吉村先生も手伝えるなんてすごいね…英二、仕事出来るんだね?」
言われた通り周太は思ったままに褒めた。
その言葉の先で幸せな笑顔が咲かせながら、袖を軽く捲って蛇口をひねる。
掌を洗いながらも英二は周太に笑いかけて、またねだってくれた。
「俺のこと、出来る男って褒めてくれるんだね、周太?有能な男がお好みに合うなら、ご褒美のキスを下さい、俺の奥さん?」
そんなおねだり気恥ずかしいな?
恥ずかしくて首筋がまた熱くなってしまう、きっともう真赤になっている。
それでも婚約者の笑顔が見たくて周太は、戸棚から出した花瓶をサイドテーブルに置いて、隣へ立った。
「…あの…ごほうびです、」
つい小さくなる声で呟いて、白皙の頬にキスをする。
なめらかに唇ふれる肌が優しい、その近づいた衿元から微かに汗が薫らす。
仕事の後に急いで帰ってきた、そんな大人の男らしい薫りにふと記憶が起こされた。
…お父さんもいつもそうだった、こんなふうにキスして
お帰りなさい、そう告げて頬にキスをする。
それは幼い日の家族での挨拶だった、あの習慣は父が亡くなって消えてしまった。
お互いの頬にキスをする父と母の笑顔はいつも幸せで、それは今も記憶に温かい。
あの幸せな幼い日には、ふたりの頬に周太がキスをする度、ふたつ幸せが微笑んだ。
―…ただいま、周…キスありがとう、いつまで周はしてくれるんだろうね?
そう笑って父は頬を赤くほころばせていた。
おはよう、いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい。
優しい挨拶たちの度に頬や額にキスをして、父と母と愛情を贈りあうのは幸せだった。
たぶん普通の日本家庭では息子が両親にキスするのは珍しい、けれど自分には普通だった。
だから9歳の冬の日に光一が頬にキスしてくれたのも、挨拶代わりのようで抵抗も無かった。
…それなのに、ね…いつまでたっても英二には照れちゃうね
それは自分があの頃よりは大人になったからだろう。
けれど多分、それだけじゃない。だって今こんなに幸せで嬉しくて、首筋も頬も熱い。
「周太のキスは可愛いな、大好きだからもっとして?」
嬉しそうに英二は笑顔でねだってくれる、そんな様子が可愛いと思ってしまう。
こんなふう子供みたいに「もっと」と言うなんて普段の真面目で大人びた姿から想像できない。
…こういう貌を知っているの、俺だけかもしれない?
ふっと思ったことが嬉しくて、けれど寂しい。
本来ならこんな貌は母親にするものだろう、それを英二はしてこなかった。
葉山でも英二は、自分の祖母にもこんなふうには笑っていない。
…おばあさまも菫さんも、あんなに優しくて英二を大切にしているのに…でも英二にはだめなんだね
どうして?
そう思いかけて、すぐ応えは見つかってしまう。
それほどに英二の哀しみと傷が深い、そういうことだと気付かされて心軋む。
けれど今は幸せにしてあげたくて、大切な婚約者に周太は綺麗に笑いかけた。
「ちゃんと、うがいもして?風邪ひいたら困るでしょ、もうじきマッターホルン行くのに…ね、英二?」
「うん、うがいするよ、」
素直に笑って英二は洗面台に向き合うと、嗽を始めた。
ほら、こんなふう素直に子供みたいな所を今は見せてくれる。
この姿も全部を憶えていたい、ずっと心のいちばん大切な所に抱きしめたい。
…愛してるよ?
そっと心に呟きながら流しで花瓶を濯ぎ、水を張る。
白い花を活け込んでみると、青と白の磁器に緑の葉も映えて美しい。
…勉強机に置こう、
贈られた花の場所を決めながら戸棚を開いて、タオルを手に振り返る。
ちょうど蛇口を閉じた英二にタオルを渡すと、周太は質問と微笑んだ。
「あのね、ごはんも支度出来ていて、お風呂も沸いてるんだけど…ごはんとお風呂、どっちからにする?」
22時に帰ってくる、そう言われたけれど早めの時間に合わせて仕度した。
もしも早く帰ってきたら嬉しいな?そんな願いにせっかちをした、それが役に立って嬉しい。
風呂と食事で疲れを癒して欲しいな、そう見上げた周太にキスをして恋人の笑顔は幸せにねだった。
「周太から、って言ったらダメ?」
それってどういういみ?
…もしかしてドラマとかで見るやつかな?
気がついて、首筋に熱が昇りだす。
たまに母と見ていたテレビドラマで、いわゆる新婚夫婦がそんな台詞を言っていた。
そのあと何だか大人の雰囲気になるから恥ずかしくて、いつも席を立ってしまったから続きは知らない。
けれど今はもう、英二に「大人にしてもらった」から何となくの意味は解る、それが気恥ずかしくて困ってしまう。
…でも今夜は、英二が願ってくれることは出来るだけ叶えてあげたい…次は、わからないから
こうして家で一緒に過ごすことは、次はいつだろう?
あと2週間したら異動して多忙な日々が始まり、休暇の自由も減っていく。
だから今夜は出来る限り英二の笑顔を見つめていたい、この今を大切に幸せに生きていたい。
そんな願いに周太は微笑んで、自分なりの精一杯で婚約者へと羞みながら提案した。
「…おふろでせなかながしてほしい?」
お風呂で背中を流すと、いつも父は喜んでくれた。
けれど英二には、まだしてあげたことが無い。いつも英二が周太を洗ってばかりいる。
だから今夜は自分がしてあげたいな?そう見上げた先で綺麗な笑顔ほころんで、けれど不意に英二は声を出した。
「あ、」
声をあげた端正な唇から鼻を、長い指の掌がおさえこむ。
2秒間があって、外した掌を眺めると困ったよう、けれど幸せに英二は微笑んだ。
「周太、鼻血でちゃった、」
「え、」
言葉に驚いて見上げると、笑って英二は掌を示してくれる。
素直に覗きこむと白皙の掌に赤い鮮血が、ひとしずく洗面室のランプに輝いた。
…宝石みたい、白い肌に映えて
きれいで一瞬見惚れて、すぐ我に返る。
いま英二はスーツを着ている、きっと明日明後日も着るだろう。
血で汚したら困ってしまう、すぐ周太はティシュペーパーを取ると、婚約者の顔と手を拭った。
「もう血は止まったかな?シャツに染み作らなくて良かった…おふろは後の方がいいかな?」
鼻血のときは血流が活発化すると、なお出血しやすくなる。
けれど英二は今もう止まっている、このまま入浴しても大丈夫だろうか?
それにしても、滅多に鼻血など出さない人なのにどうしたのだろう、疲れているのだろうか?
心配しながらワイシャツやスーツをチェックする、血痕はない事にほっとした周太に、綺麗な笑顔が言ってくれた。
「このまま風呂、入ってもいい?それで背中を流してくれたら嬉しいな、」
英二は山岳救助隊員として応急処置のプロでいる。
その英二が入浴しても良いと判断したのなら大丈夫だろう、安心して周太は素直に微笑んだ。
「はい…いいよ?」
頷いて周太は婚約者の後ろに回った。
いつも母が父にしていたことを今、英二にもしてあげたい。
そんな想いと背伸びすると広やかな肩に手を掛けて、スーツのジャケットを脱がせかけ微笑んだ。
「あの…腕、抜いて?」
「ありがとう、周太、」
笑って英二は袖から腕を抜いてくれる。
黒に近い上品なグレーのジャケットが脱げて、ふわり香ごと腕に凭れこむ。
目の前のワイシャツの背中がなんだか気恥ずかしい、羞みながら周太は話しかけた。
「スーツ、部屋に掛けておくね?…それで着替え持ってくるから、先に入ってて?」
「うん、」
肩越し、優しく周太に笑いかけながら、靴下を脱いで脱衣籠に入れてくれる。
そのまま潔くスラックスを脱いで周太に渡してくれた。
「周太、持たせてごめんな、」
「ううん…」
労ってくれる優しい笑顔が嬉しい、けれど首筋が熱くて恥ずかしい。
いま目の前のワイシャツ姿は伸びやかに端正な脚を晒して、惜しみなく光に魅せる。
艶やかな白皙の脛にランプきらめく体毛が「大人の男」だと示して、どこか子供っぽい自分の体と比べてしまう。
華やかで端正な容貌の英二、けれど日々の訓練に鍛え上げられる体躯は男性美に充ちている。
それを綺麗だと憧れているだけに気恥ずかしくて、もう頬まで紅潮に熱くなっていく。
…このあとワイシャツも脱いだらはだかだよね
このまま明るい光で恋人の体を見るのが、気恥ずかしい。
もう何度も英二の裸身は見ている、それでもやっぱり気恥ずかしくて周太は踵を返した。
早くここから出てしまおう、けれど急いた背中に綺麗な低い声が笑いかけた。
「周太、このワイシャツも一緒に持って行ってくれる?ちょっとしか着ていないからさ、このまま明日も着るから」
「あ…はい、」
その場でスーツを抱え込んだまま、やっぱり俯いてしまう。
どうして同じ男なのに英二の裸を見るのは、こんなに恥ずかしいのだろう?
そして英二に自分の裸を見られることも恥ずかしい、初任科教養の時は何も思わなかったのに?
初任総合の時も同期達の裸は何とも思わなかった、けれど英二を見るのは恥ずかしくて風呂で毎晩困った。
その理由に考え廻らすまま首筋は熱い、また困って俯いていると白皙の腕がワイシャツを渡してくれた。
「はい、周太。よろしくな、」
「ん、」
頷いて受けとる頬がすっかり熱い、きっともう真赤だろう。
そんな自分が余計に恥ずかしくて周太は、スーツ一式を抱えこんで廊下に出た。
そっと後ろ手に扉を閉めて歩き出す、スリッパの音の向こうで水音が響きだした。
この後、あの音の中に自分も入って英二の背中を流す、そうしたら裸を見ることになる。
「…いまからこんなでだいじょうぶかな」
ひとりごと心配に熱い頬を撫でながら、階段を上がっていく。
その腕に抱えるスーツから、かすかな温みと残り香が昇らせ慕わしい。
この香も温もりも大切な人が傍にいる証、それが幸せで周太は自室に入りながら微笑んだ。
…こういうの、すごく幸せだね?
大好きな人の帰りを待って、一日の疲れを服ごと脱がせてあげる。
その服に名残らす香と温もりに、離れていた一日の時間ごと帰ってきてくれたと幸せを抱きしめる。
こうして毎日を待って迎えて、一緒に時を過ごせて行けたなら、どんなに幸せなのだろう?
「…あ、」
ふっと頬を熱が伝って、ぽとり零れたままダークグレーの生地が吸いこんだ。
もう英二の前では泣かないと決めた、これからの別離の時間が終わる「いつか」までは涙を見せない。
けれど今、ひとり緩んだ心に零した涙を英二のスーツは吸いこんでしまった。
ほら?こんなふうに英二はいつも、無意識でも周太の本音に応えてくれる。
「…隠していても、ちゃんと拭ってくれるね?英二…」
言わなくても、隠しても解かってくれて、様々な形で慰め励ましてくれる。
こういう婚約者が恋しい、そして愛してしまう、だからこそ一緒に全てを見つめていたい。
今日の昼間に父の写真に告げた想い、それを今もまた恋人のスーツと香ごと周太は抱きしめた。
「…何も知らないで置いて行かれるのは嫌だよ、英二…辛くても哀しくても一緒に見つめさせて?どんな時も隣にいさせて…」
ルームライトの優しい光のなか、静かな夜の片隅でスーツを見つめ、抱きしめる。
名残に香らす恋人の気配、深い森のような高潔な香、この香の人と生きていたい。
その為になら自分はどんな真実も現実も受け留めてみせる、だから信じて共に見つめさせて?
…愛してる、大好き…幸せは英二の隣だけだから
心の想い微笑んで、周太はハンガーへとスーツを吊るした。
丁寧に折り目に沿ってスラックスを掛け、きちんとジャケットを整える。
ワイシャツにもハンガーを出して掛けると周太はチェックした。
「ん、出来てるね?」
微笑んで見つめるスーツは落着いた地味好み、けれど仕立ても素材も良いことに英二の好みが解かる。
良いものを長く大切に遣いたい、そういう堅実さがまた好きになってしまう。
…俺のこともずっと大切にしてくれそうで…ね…
心に本音こぼれて、頬が熱くなりだした。
こんなことつい考えてしまうなんて?ひとり赤くなりながら周太は箪笥を開いた。
英二の寝間用の浴衣と兵児帯を出し、下着を添えようとしてまた恥ずかしい。
恥ずかしくて、つい止まった手へと独り言こぼれた。
「じぶんのだとなんともないのに…いしきしすぎちゃってる、ね?」
同じ男だから下着も似たり寄ったり、当然のこと大差ない。
しかも最近は周太の下着も英二が買ってくれるから、サイズ以外は同じようなのに「英二の」だと恥ずかしい。
子供のころから家事をしている自分だから、母の下着も恥ずかしいと思わず洗濯して畳んでいる。
けれど英二の下着だけは毎回のこと気恥ずかしくて、こんなふうに真赤になってしまう。
…奥さんになったら毎日なのにどうしよう
そんなふう何げなく思って、周太は微笑んだ。
いま自分は自然と「奥さんになったら」と思えた、それが素直に嬉しい。
この先に「いつか」毎日になる日が来る、そう心の底では信じているから自然に思えた。
…信じられている、自分のこと、英二のこと…未来があるって信じてる
もうじき自分は「死線」に行く、それでも先の時間を信じている。
こうして希望を見つめている、なにも諦めていない強さが自分にもある。
すこしは強くなれた自分が嬉しくて、赤い頬のまま婚約者の着替を抱えて廊下に出た。
そのときエプロンのポケットで携帯電話が振動して、すぐに開くと周太は微笑んだ。
「おつかれさま、お母さん…」
「おつかれさま、周。電話、遅くなってごめんね?」
明るいアルトの声が微笑んでくれる。
声が楽しげな雰囲気でいることが嬉しい、嬉しくて周太は電話むこうに笑いかけた。
「ううん、俺もさっきまで寝ちゃってたんだ…英二が帰ってきて起こしてくれたの、」
「良かった、英二くん無事に帰ってこられたのね?おかえりなさいって言っておいてね、あと客間のセットは見てくれた?」
母の声の向こう、楽しげな話し声が聞こえてくる。
今日から2泊で母は勤め先の納涼会に出掛けた、その和やかな空気が嬉しい。
こういう普通の楽しみに母が出るようになった、この明るい変化への感謝を想いながら周太は答えた。
「昼間に見たよ、素敵だね?…カードのメッセージもお母さんの下に書いたよ、ありがとう、お母さん、」
「周の御目がねなら良かったわ、光一くんものんびりしてくれるといいね?周も明日から気を付けて、美代ちゃんにもよろしくね」
「ん、伝えおくね…お母さんも気を付けて楽しんできてね、」
短い通話、それでも母子笑いあって電話を切った。
母の元気な明るい声が嬉しい、こんなふうにずっと笑っていてほしい。
そんな想い微笑んで階段を降りると、洗面室の扉を開いた。
かたん、
静かに扉を閉めて、籠に英二の着替え一揃いを置く。
ふわり甘い香が頬撫でて振り向くと、サイドテーブルに梔子の花活が置かれていた。
…さっき置いて行っちゃったんだ
英二の着替えに気恥ずかしくて、スーツとワイシャツだけ抱えて行ってしまった。
こんな子供っぽい慌て方がまた恥ずかしくなる、首筋また熱くしながら周太はエプロンを外した。
コットンパンツの裾を膝まで折りあげ、ブルーの縁どりがあるカットソーの袖も捲る。
そうして身支度すると小さく覚悟して、そっと浴室の扉を開いた。
「英二、」
湯気の向こうに呼びかけて、浴槽の頬杖姿がひとつ瞳瞬いた。
すこし不思議そうに見つめてすぐ微笑んでくれる、その笑顔が湯から立ち上がった。
…あ、
恥ずかしくてつい、目を逸らせてしまう。
湯気透かせても白皙の肌まばゆい、ダークブラウンの髪が濡れて艶めくのが綺麗。
本当は見惚れてしまいそう、けれど恥ずかしくて見つめるなんて到底出来そうにない。
…でも、これから背中流してあげるんだから、恥ずかしがってばかりいたらだめ
心裡に覚悟つぶやきながらシャワーの前に行くと、白皙の背中の後ろにしゃがみこんだ。
タオルに泡を立てていく、そうして鏡ごし顔だけ見つめて笑いかけた。
「あの、洗うね?…痛いとかあったら言ってね?」
「うん、ありがとう周太、」
鏡越しの笑顔が幸せそうで嬉しくなる、提案してみて良かったと嬉しい。
喜んでもらえたら良いな、そんな願いに背中を洗い始めた指先に、泡を透かしてふれる素肌にどきんとした。
…こんなにいしきしちゃうなんておれってやっぱりえっちなんだよね
こんな自分が恥ずかしくて仕方ない、きっともう首筋は真赤になっている。
気恥ずかしくて目だけ逸らしかけたとき、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。
「初めて洗ってもらうけど、巧いな、周太。気持いいよ、」
「ほんと?…よかった、」
嬉しくて上げた視線へと、鏡越しに目が合さる。
きれいな切長い目が笑ってくれる、その笑顔が嬉しくて、けれど気恥ずかしくて視線を落とした。
洗い上げていく肌は湯に薄紅ほころぶ、その火照りから深い森の香は濃やかになって、石鹸の香に交らす。
…いいかおり、英二の匂いって好き
そっと心に想い羞みながら肌を磨き上げ、シャワーの湯温を調整する。
そして端正な背中を流し終えたとき、肩越しに振向いた綺麗な笑顔がねだってくれた。
「周太、髪も洗ってくれる?」
「あ…」
いまこの時間が気恥ずかしくて、けれど幸せは面映ゆい。
この幸せを大切にしたくて、熱くなる頬のまま周太は素直に頷いた。
「ん、いいよ?」
笑いかけて、目の前の髪をシャワーで濡らしていく。
ダークブラウンが湯に艶めく、綺麗で見惚れながら周太は笑いかけた。
「目、つむっていてね、」
「うん、」
素直に頷いて笑ってくれる、その笑顔に微笑んでシャンプーを掌にとった。
ゆっくり髪に泡立てていく、髪を洗うのなら肌を見なくて良いぶん緊張が少ない。
…あ、英二のつむじ見るのって初めてかも…
ふと気がついて何か幸せになってしまう。
英二の方が背が高いから、こうして英二の頭をゆっくり見たことはない。
雪崩で受傷した英二の看護で包帯を巻いたことはある、けれど手当に集中して余裕は無かった。
この今の時間は些細なことかもしれない、けれど大切な人の髪を洗いふれる時間は、不思議な安らぎがある。
…英二も気持ちいいと良いな、それで疲れが抜けてくれたら嬉しい
少しでも今日の疲れも癒してあげたい、出来るだけ。
もう今夜の次は解からない、だから今この時に出来るだけ日常の幸せを贈りたい。
その願いに恋人の髪を洗い上げて、シャワーの栓を閉めると鏡越しに笑いかけた。
「はい、おしまい…洗い足りないとかある?」
笑いかけた鏡の端正な貌が幸せに笑ってくれる。
ひとつ両掌で髪を掻き上げて、綺麗な笑顔が振向いた。
「周太、」
名前を呼んで振り向きざま、白皙の腕が周太を抱きしめた。
そのまま抱え上げられて湯気のなか視界が動く、そして水音がタイルに響いた。
「え…」
こぼれた声と同時に周太はひとつ瞬いた。
いま自分は何処に座りこんでいるのだろう?
「きれいだ、周太。水も滴る美少年だな、」
綺麗な低い声が笑いかけて、その唇がキスしてくれる。
ふれる唇の温もりと一緒に足先から、胸元まで温もりに濡らされていく。
そっと唇離れて、瞳を覗きこんだ切長い目に今の状況を周太は理解した。
…おふろのなかに入れられちゃったの?
自分は服を着ているまま、浴槽に入ってしまった?
こんなの困ってしまう、こんな悪戯を英二がするなんて?
予想外の展開に困らされて周太は、子どもっぽい婚約者を見つめて拗ねた。
「ばかっ、えいじのばかばかなにしてるのっ…だ、だめでしょっふくきたままはいっちゃ!ふくいたんじゃうでしょばかっ、」
一息に叱った湯気の向こう、きれいな貌は幸せな笑顔にほころんだ。
その笑顔が嬉しくて、怒りながら困りながら周太は、ずぶ濡れのまま微笑んだ。
(to be continued)
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第57話 共鳴act.2―another,side story「陽はまた昇る」
濃やかに甘い香と、深い森の香。
眠れる意識の底ふれる、ふたつの香。
どちらも懐かしくて好きな香が嬉しくて、微笑んだ唇を温もりが包んだ。
…あたたかい、ほろにがくて甘くて…
唇ふれる吐息に、深く鼓動が響く。
この吐息も唇も知っている、唯ひとり待っていた。
きっと瞳披けば居てくれる?そう幸せが微笑んで周太は目を覚ました。
「おはよう、周太」
綺麗な低い声が名前を呼んで、綺麗な笑顔ほころんでくれる。
まだ覚めきらない意識もどかしい、それでも嬉しくて見つめる恋人の笑顔は優しい。
…ほんとうに今、目の前にいてくれるの?…帰ってきたの?
これは夢では無くて現実なのかな?
そんなふう微睡に囚われたまま見つめてしまう、その唇に温かなキスがふれた。
その温もりに「帰ってきてくれた」実感が微笑んで、周太は待ち人の名前を呼んだ。
「…ん、えいじ?」
「俺だよ、周太?おはよう、」
笑いかけて額をくっつけてくれる、その額が温かい。
大好きな温もりが帰ってきてくれた、嬉しくて幸せで、けれど英二はスーツ姿で傍にいる。
…もしかしてもう朝?
いま英二は「おはよう、」と笑ってくれた、もう朝になった?
しかもスーツ姿でいるなんて、もう出掛ける時間なのだろうか?
…さっきここで本を読んでいて…そのまま眠っちゃった?
また墜落睡眠してしまった。
そのまま眠りこんで、英二が帰ってきたことも気付かなかった。
きっと、優しい英二だから気遣って眠らせてくれた?そう思って周太は落ちこんだ。
…待っていたのに寝ちゃうなんて、お帰りなさいも言えなかったなんて…どうしてこんな子供なんだろう
ふたりで食事したくて待っていたのに、一緒に食べられなかった?
お風呂も沸かして布団も干した、そういうことに喜んでくれる笑顔を見られなかった?
何より出迎えてあげられなかった、こんなことでは「妻」だなんて難しい。もう色々と困りながら周太は婚約者に訊いた。
「…あの、いまってなんじ?…もう朝なんだよね、」
「え?」
驚いたよう切長い目が見つめてくれる。
ほら、きっと時間も解からないなんて呆れられた?
こんな子供じみた自分に泣きそうになる、それでも瞳ひとつ瞬いて堪えると周太は謝った。
「ごめんね、俺、寝ちゃって…待ってようって思ってたのに朝になっちゃうなんて…スーツ着てるけど英二も出掛ける時間なの?」
「ふっ、」
謝った途端、綺麗な笑顔が吹き出した。
こんなふうに笑うなんて、やっぱり呆れて可笑しくて仕方ないよね?
そう落ち込んで俯きそうになったとき、綺麗な切長い目は周太を見つめて笑ってくれた。
「周太?俺、いま帰ってきたところだよ。まだ金曜の夜9時半だよ、」
まだ朝になっていなかった?
言われて気がつくと、確かに自分はソファに横になっている。
その視界の先で台所の窓は暗い、それに食事を仕度した香がまだ温かい。
「…あ、」
安堵に声こぼれて涙も出そうになる。
けれど瞬きひとつで納めた視界に、長い指が持つ白い蕾が映りこんだ。
ふわり甘い優しい香ほころぶ白い花と艶やかな緑の葉、綺麗で見つめた周太に英二は微笑んだ。
「ごめんな、遅くなっちゃって。急いで帰ってきたから、なにも土産が無いんだ。それで庭で綺麗だった花、ひとつ摘ませて貰った、」
言葉に白皙の左腕を見て、文字盤の短針と長針を読む。
さっき告げてくれた通りに9時半を示してくれる、この時間が嬉しくて周太は笑いかけた。
「でもメールの時間より早いね?…10時って英二、書いてあった、」
暗くなる頃に送ってくれたメールの時間、それよりも30分早い。
その分だけ一緒の時間が増えて嬉しい、嬉しい気持ちに見つめた花に周太は微笑んだ。
「梔子、いい香…夜露で香がまた濃くなるね?きれい…ありがとう英二、」
「くちなしって言うんだ、この花。喜んでくれる?」
綺麗な笑顔ほころばせて頬にキスしてくれる。
ふれるだけの頬にキス、それでも気恥ずかしくて嬉しくて頬が熱くなってしまう。
このキスも心遣いの花も幸せで、周太は素直な想いに頷いた。
「ん、うれしい…思ったより一緒にいる時間、長くなったから…」
「ありがとう、周太。俺も周太と一緒にいたくて、頑張って仕事終わらせてきたんだ、」
嬉しそうに答えてくれながら、周太を抱き起こして隣に座ってくれる。
英二も同じことを願ってくれた、こういう同じは嬉しくて「想い合っている」と自覚が温かい。
…両想いって言うんだよね?
そっと心に呟いて首筋が熱くなる。
こんなこと独り考えて赤くなる自分が恥ずかしくて、けれど幸せな想いに周太は微笑んだ。
「吉村先生のお手伝いだよね?…先生、いま忙しいのでしょう?夏山のシーズンは応急処置の講習も多い、って、」
吉村医師の手伝いで遅くなる、そう夕方のメールで知らせてくれた。
きっと忙しくて英二は疲れているだろう、それなのに川崎まで帰ってきてくれた。
それが申し訳なくて、けれど幸せで見上げた周太の肩にスーツの腕を回してくれる。
そんな親しい仕草にふっと大好きな香がたって、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。
「そうだよ、明日と明後日は先生も講習会があるからね、その資料の最終チェックをお手伝いしてきた、俺たちも使わせて貰うんだ、」
深い森の香が抱き寄せて、ソファから立ち上がらせてくれる。
その掌に渡してくれる花が嬉しい、ふくらかな蕾に微笑んで周太は婚約者に尋ねた。
「救急法の資料?」
「うん、応急処置と遭難場所のポイントについてだよ、」
答えてくれながら一緒に歩いてくれる。
洗面室へと向かいながら英二は、仕事の話をしてくれた。
「周太にあげたファイルにも載ってるけど、遭難場所は奥多摩と主な山系の実例をまとめてさ。応急処置は代用品での処置方法だよ、」
「英二がメインになって資料、作ったんだ?…すごいね、英二」
素直に褒めて洗面室の扉を開く、その頬にキスしてくれる。
嬉しくて、けれど面映ゆくて微笑んだ周太に綺麗な低い声は笑ってくれた。
「周太に褒めてもらうの、やっぱり嬉しいな?もっと俺のこと褒めて、」
「ん?…救助隊の仕事も忙しいのに、吉村先生も手伝えるなんてすごいね…英二、仕事出来るんだね?」
言われた通り周太は思ったままに褒めた。
その言葉の先で幸せな笑顔が咲かせながら、袖を軽く捲って蛇口をひねる。
掌を洗いながらも英二は周太に笑いかけて、またねだってくれた。
「俺のこと、出来る男って褒めてくれるんだね、周太?有能な男がお好みに合うなら、ご褒美のキスを下さい、俺の奥さん?」
そんなおねだり気恥ずかしいな?
恥ずかしくて首筋がまた熱くなってしまう、きっともう真赤になっている。
それでも婚約者の笑顔が見たくて周太は、戸棚から出した花瓶をサイドテーブルに置いて、隣へ立った。
「…あの…ごほうびです、」
つい小さくなる声で呟いて、白皙の頬にキスをする。
なめらかに唇ふれる肌が優しい、その近づいた衿元から微かに汗が薫らす。
仕事の後に急いで帰ってきた、そんな大人の男らしい薫りにふと記憶が起こされた。
…お父さんもいつもそうだった、こんなふうにキスして
お帰りなさい、そう告げて頬にキスをする。
それは幼い日の家族での挨拶だった、あの習慣は父が亡くなって消えてしまった。
お互いの頬にキスをする父と母の笑顔はいつも幸せで、それは今も記憶に温かい。
あの幸せな幼い日には、ふたりの頬に周太がキスをする度、ふたつ幸せが微笑んだ。
―…ただいま、周…キスありがとう、いつまで周はしてくれるんだろうね?
そう笑って父は頬を赤くほころばせていた。
おはよう、いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい。
優しい挨拶たちの度に頬や額にキスをして、父と母と愛情を贈りあうのは幸せだった。
たぶん普通の日本家庭では息子が両親にキスするのは珍しい、けれど自分には普通だった。
だから9歳の冬の日に光一が頬にキスしてくれたのも、挨拶代わりのようで抵抗も無かった。
…それなのに、ね…いつまでたっても英二には照れちゃうね
それは自分があの頃よりは大人になったからだろう。
けれど多分、それだけじゃない。だって今こんなに幸せで嬉しくて、首筋も頬も熱い。
「周太のキスは可愛いな、大好きだからもっとして?」
嬉しそうに英二は笑顔でねだってくれる、そんな様子が可愛いと思ってしまう。
こんなふう子供みたいに「もっと」と言うなんて普段の真面目で大人びた姿から想像できない。
…こういう貌を知っているの、俺だけかもしれない?
ふっと思ったことが嬉しくて、けれど寂しい。
本来ならこんな貌は母親にするものだろう、それを英二はしてこなかった。
葉山でも英二は、自分の祖母にもこんなふうには笑っていない。
…おばあさまも菫さんも、あんなに優しくて英二を大切にしているのに…でも英二にはだめなんだね
どうして?
そう思いかけて、すぐ応えは見つかってしまう。
それほどに英二の哀しみと傷が深い、そういうことだと気付かされて心軋む。
けれど今は幸せにしてあげたくて、大切な婚約者に周太は綺麗に笑いかけた。
「ちゃんと、うがいもして?風邪ひいたら困るでしょ、もうじきマッターホルン行くのに…ね、英二?」
「うん、うがいするよ、」
素直に笑って英二は洗面台に向き合うと、嗽を始めた。
ほら、こんなふう素直に子供みたいな所を今は見せてくれる。
この姿も全部を憶えていたい、ずっと心のいちばん大切な所に抱きしめたい。
…愛してるよ?
そっと心に呟きながら流しで花瓶を濯ぎ、水を張る。
白い花を活け込んでみると、青と白の磁器に緑の葉も映えて美しい。
…勉強机に置こう、
贈られた花の場所を決めながら戸棚を開いて、タオルを手に振り返る。
ちょうど蛇口を閉じた英二にタオルを渡すと、周太は質問と微笑んだ。
「あのね、ごはんも支度出来ていて、お風呂も沸いてるんだけど…ごはんとお風呂、どっちからにする?」
22時に帰ってくる、そう言われたけれど早めの時間に合わせて仕度した。
もしも早く帰ってきたら嬉しいな?そんな願いにせっかちをした、それが役に立って嬉しい。
風呂と食事で疲れを癒して欲しいな、そう見上げた周太にキスをして恋人の笑顔は幸せにねだった。
「周太から、って言ったらダメ?」
それってどういういみ?
…もしかしてドラマとかで見るやつかな?
気がついて、首筋に熱が昇りだす。
たまに母と見ていたテレビドラマで、いわゆる新婚夫婦がそんな台詞を言っていた。
そのあと何だか大人の雰囲気になるから恥ずかしくて、いつも席を立ってしまったから続きは知らない。
けれど今はもう、英二に「大人にしてもらった」から何となくの意味は解る、それが気恥ずかしくて困ってしまう。
…でも今夜は、英二が願ってくれることは出来るだけ叶えてあげたい…次は、わからないから
こうして家で一緒に過ごすことは、次はいつだろう?
あと2週間したら異動して多忙な日々が始まり、休暇の自由も減っていく。
だから今夜は出来る限り英二の笑顔を見つめていたい、この今を大切に幸せに生きていたい。
そんな願いに周太は微笑んで、自分なりの精一杯で婚約者へと羞みながら提案した。
「…おふろでせなかながしてほしい?」
お風呂で背中を流すと、いつも父は喜んでくれた。
けれど英二には、まだしてあげたことが無い。いつも英二が周太を洗ってばかりいる。
だから今夜は自分がしてあげたいな?そう見上げた先で綺麗な笑顔ほころんで、けれど不意に英二は声を出した。
「あ、」
声をあげた端正な唇から鼻を、長い指の掌がおさえこむ。
2秒間があって、外した掌を眺めると困ったよう、けれど幸せに英二は微笑んだ。
「周太、鼻血でちゃった、」
「え、」
言葉に驚いて見上げると、笑って英二は掌を示してくれる。
素直に覗きこむと白皙の掌に赤い鮮血が、ひとしずく洗面室のランプに輝いた。
…宝石みたい、白い肌に映えて
きれいで一瞬見惚れて、すぐ我に返る。
いま英二はスーツを着ている、きっと明日明後日も着るだろう。
血で汚したら困ってしまう、すぐ周太はティシュペーパーを取ると、婚約者の顔と手を拭った。
「もう血は止まったかな?シャツに染み作らなくて良かった…おふろは後の方がいいかな?」
鼻血のときは血流が活発化すると、なお出血しやすくなる。
けれど英二は今もう止まっている、このまま入浴しても大丈夫だろうか?
それにしても、滅多に鼻血など出さない人なのにどうしたのだろう、疲れているのだろうか?
心配しながらワイシャツやスーツをチェックする、血痕はない事にほっとした周太に、綺麗な笑顔が言ってくれた。
「このまま風呂、入ってもいい?それで背中を流してくれたら嬉しいな、」
英二は山岳救助隊員として応急処置のプロでいる。
その英二が入浴しても良いと判断したのなら大丈夫だろう、安心して周太は素直に微笑んだ。
「はい…いいよ?」
頷いて周太は婚約者の後ろに回った。
いつも母が父にしていたことを今、英二にもしてあげたい。
そんな想いと背伸びすると広やかな肩に手を掛けて、スーツのジャケットを脱がせかけ微笑んだ。
「あの…腕、抜いて?」
「ありがとう、周太、」
笑って英二は袖から腕を抜いてくれる。
黒に近い上品なグレーのジャケットが脱げて、ふわり香ごと腕に凭れこむ。
目の前のワイシャツの背中がなんだか気恥ずかしい、羞みながら周太は話しかけた。
「スーツ、部屋に掛けておくね?…それで着替え持ってくるから、先に入ってて?」
「うん、」
肩越し、優しく周太に笑いかけながら、靴下を脱いで脱衣籠に入れてくれる。
そのまま潔くスラックスを脱いで周太に渡してくれた。
「周太、持たせてごめんな、」
「ううん…」
労ってくれる優しい笑顔が嬉しい、けれど首筋が熱くて恥ずかしい。
いま目の前のワイシャツ姿は伸びやかに端正な脚を晒して、惜しみなく光に魅せる。
艶やかな白皙の脛にランプきらめく体毛が「大人の男」だと示して、どこか子供っぽい自分の体と比べてしまう。
華やかで端正な容貌の英二、けれど日々の訓練に鍛え上げられる体躯は男性美に充ちている。
それを綺麗だと憧れているだけに気恥ずかしくて、もう頬まで紅潮に熱くなっていく。
…このあとワイシャツも脱いだらはだかだよね
このまま明るい光で恋人の体を見るのが、気恥ずかしい。
もう何度も英二の裸身は見ている、それでもやっぱり気恥ずかしくて周太は踵を返した。
早くここから出てしまおう、けれど急いた背中に綺麗な低い声が笑いかけた。
「周太、このワイシャツも一緒に持って行ってくれる?ちょっとしか着ていないからさ、このまま明日も着るから」
「あ…はい、」
その場でスーツを抱え込んだまま、やっぱり俯いてしまう。
どうして同じ男なのに英二の裸を見るのは、こんなに恥ずかしいのだろう?
そして英二に自分の裸を見られることも恥ずかしい、初任科教養の時は何も思わなかったのに?
初任総合の時も同期達の裸は何とも思わなかった、けれど英二を見るのは恥ずかしくて風呂で毎晩困った。
その理由に考え廻らすまま首筋は熱い、また困って俯いていると白皙の腕がワイシャツを渡してくれた。
「はい、周太。よろしくな、」
「ん、」
頷いて受けとる頬がすっかり熱い、きっともう真赤だろう。
そんな自分が余計に恥ずかしくて周太は、スーツ一式を抱えこんで廊下に出た。
そっと後ろ手に扉を閉めて歩き出す、スリッパの音の向こうで水音が響きだした。
この後、あの音の中に自分も入って英二の背中を流す、そうしたら裸を見ることになる。
「…いまからこんなでだいじょうぶかな」
ひとりごと心配に熱い頬を撫でながら、階段を上がっていく。
その腕に抱えるスーツから、かすかな温みと残り香が昇らせ慕わしい。
この香も温もりも大切な人が傍にいる証、それが幸せで周太は自室に入りながら微笑んだ。
…こういうの、すごく幸せだね?
大好きな人の帰りを待って、一日の疲れを服ごと脱がせてあげる。
その服に名残らす香と温もりに、離れていた一日の時間ごと帰ってきてくれたと幸せを抱きしめる。
こうして毎日を待って迎えて、一緒に時を過ごせて行けたなら、どんなに幸せなのだろう?
「…あ、」
ふっと頬を熱が伝って、ぽとり零れたままダークグレーの生地が吸いこんだ。
もう英二の前では泣かないと決めた、これからの別離の時間が終わる「いつか」までは涙を見せない。
けれど今、ひとり緩んだ心に零した涙を英二のスーツは吸いこんでしまった。
ほら?こんなふうに英二はいつも、無意識でも周太の本音に応えてくれる。
「…隠していても、ちゃんと拭ってくれるね?英二…」
言わなくても、隠しても解かってくれて、様々な形で慰め励ましてくれる。
こういう婚約者が恋しい、そして愛してしまう、だからこそ一緒に全てを見つめていたい。
今日の昼間に父の写真に告げた想い、それを今もまた恋人のスーツと香ごと周太は抱きしめた。
「…何も知らないで置いて行かれるのは嫌だよ、英二…辛くても哀しくても一緒に見つめさせて?どんな時も隣にいさせて…」
ルームライトの優しい光のなか、静かな夜の片隅でスーツを見つめ、抱きしめる。
名残に香らす恋人の気配、深い森のような高潔な香、この香の人と生きていたい。
その為になら自分はどんな真実も現実も受け留めてみせる、だから信じて共に見つめさせて?
…愛してる、大好き…幸せは英二の隣だけだから
心の想い微笑んで、周太はハンガーへとスーツを吊るした。
丁寧に折り目に沿ってスラックスを掛け、きちんとジャケットを整える。
ワイシャツにもハンガーを出して掛けると周太はチェックした。
「ん、出来てるね?」
微笑んで見つめるスーツは落着いた地味好み、けれど仕立ても素材も良いことに英二の好みが解かる。
良いものを長く大切に遣いたい、そういう堅実さがまた好きになってしまう。
…俺のこともずっと大切にしてくれそうで…ね…
心に本音こぼれて、頬が熱くなりだした。
こんなことつい考えてしまうなんて?ひとり赤くなりながら周太は箪笥を開いた。
英二の寝間用の浴衣と兵児帯を出し、下着を添えようとしてまた恥ずかしい。
恥ずかしくて、つい止まった手へと独り言こぼれた。
「じぶんのだとなんともないのに…いしきしすぎちゃってる、ね?」
同じ男だから下着も似たり寄ったり、当然のこと大差ない。
しかも最近は周太の下着も英二が買ってくれるから、サイズ以外は同じようなのに「英二の」だと恥ずかしい。
子供のころから家事をしている自分だから、母の下着も恥ずかしいと思わず洗濯して畳んでいる。
けれど英二の下着だけは毎回のこと気恥ずかしくて、こんなふうに真赤になってしまう。
…奥さんになったら毎日なのにどうしよう
そんなふう何げなく思って、周太は微笑んだ。
いま自分は自然と「奥さんになったら」と思えた、それが素直に嬉しい。
この先に「いつか」毎日になる日が来る、そう心の底では信じているから自然に思えた。
…信じられている、自分のこと、英二のこと…未来があるって信じてる
もうじき自分は「死線」に行く、それでも先の時間を信じている。
こうして希望を見つめている、なにも諦めていない強さが自分にもある。
すこしは強くなれた自分が嬉しくて、赤い頬のまま婚約者の着替を抱えて廊下に出た。
そのときエプロンのポケットで携帯電話が振動して、すぐに開くと周太は微笑んだ。
「おつかれさま、お母さん…」
「おつかれさま、周。電話、遅くなってごめんね?」
明るいアルトの声が微笑んでくれる。
声が楽しげな雰囲気でいることが嬉しい、嬉しくて周太は電話むこうに笑いかけた。
「ううん、俺もさっきまで寝ちゃってたんだ…英二が帰ってきて起こしてくれたの、」
「良かった、英二くん無事に帰ってこられたのね?おかえりなさいって言っておいてね、あと客間のセットは見てくれた?」
母の声の向こう、楽しげな話し声が聞こえてくる。
今日から2泊で母は勤め先の納涼会に出掛けた、その和やかな空気が嬉しい。
こういう普通の楽しみに母が出るようになった、この明るい変化への感謝を想いながら周太は答えた。
「昼間に見たよ、素敵だね?…カードのメッセージもお母さんの下に書いたよ、ありがとう、お母さん、」
「周の御目がねなら良かったわ、光一くんものんびりしてくれるといいね?周も明日から気を付けて、美代ちゃんにもよろしくね」
「ん、伝えおくね…お母さんも気を付けて楽しんできてね、」
短い通話、それでも母子笑いあって電話を切った。
母の元気な明るい声が嬉しい、こんなふうにずっと笑っていてほしい。
そんな想い微笑んで階段を降りると、洗面室の扉を開いた。
かたん、
静かに扉を閉めて、籠に英二の着替え一揃いを置く。
ふわり甘い香が頬撫でて振り向くと、サイドテーブルに梔子の花活が置かれていた。
…さっき置いて行っちゃったんだ
英二の着替えに気恥ずかしくて、スーツとワイシャツだけ抱えて行ってしまった。
こんな子供っぽい慌て方がまた恥ずかしくなる、首筋また熱くしながら周太はエプロンを外した。
コットンパンツの裾を膝まで折りあげ、ブルーの縁どりがあるカットソーの袖も捲る。
そうして身支度すると小さく覚悟して、そっと浴室の扉を開いた。
「英二、」
湯気の向こうに呼びかけて、浴槽の頬杖姿がひとつ瞳瞬いた。
すこし不思議そうに見つめてすぐ微笑んでくれる、その笑顔が湯から立ち上がった。
…あ、
恥ずかしくてつい、目を逸らせてしまう。
湯気透かせても白皙の肌まばゆい、ダークブラウンの髪が濡れて艶めくのが綺麗。
本当は見惚れてしまいそう、けれど恥ずかしくて見つめるなんて到底出来そうにない。
…でも、これから背中流してあげるんだから、恥ずかしがってばかりいたらだめ
心裡に覚悟つぶやきながらシャワーの前に行くと、白皙の背中の後ろにしゃがみこんだ。
タオルに泡を立てていく、そうして鏡ごし顔だけ見つめて笑いかけた。
「あの、洗うね?…痛いとかあったら言ってね?」
「うん、ありがとう周太、」
鏡越しの笑顔が幸せそうで嬉しくなる、提案してみて良かったと嬉しい。
喜んでもらえたら良いな、そんな願いに背中を洗い始めた指先に、泡を透かしてふれる素肌にどきんとした。
…こんなにいしきしちゃうなんておれってやっぱりえっちなんだよね
こんな自分が恥ずかしくて仕方ない、きっともう首筋は真赤になっている。
気恥ずかしくて目だけ逸らしかけたとき、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。
「初めて洗ってもらうけど、巧いな、周太。気持いいよ、」
「ほんと?…よかった、」
嬉しくて上げた視線へと、鏡越しに目が合さる。
きれいな切長い目が笑ってくれる、その笑顔が嬉しくて、けれど気恥ずかしくて視線を落とした。
洗い上げていく肌は湯に薄紅ほころぶ、その火照りから深い森の香は濃やかになって、石鹸の香に交らす。
…いいかおり、英二の匂いって好き
そっと心に想い羞みながら肌を磨き上げ、シャワーの湯温を調整する。
そして端正な背中を流し終えたとき、肩越しに振向いた綺麗な笑顔がねだってくれた。
「周太、髪も洗ってくれる?」
「あ…」
いまこの時間が気恥ずかしくて、けれど幸せは面映ゆい。
この幸せを大切にしたくて、熱くなる頬のまま周太は素直に頷いた。
「ん、いいよ?」
笑いかけて、目の前の髪をシャワーで濡らしていく。
ダークブラウンが湯に艶めく、綺麗で見惚れながら周太は笑いかけた。
「目、つむっていてね、」
「うん、」
素直に頷いて笑ってくれる、その笑顔に微笑んでシャンプーを掌にとった。
ゆっくり髪に泡立てていく、髪を洗うのなら肌を見なくて良いぶん緊張が少ない。
…あ、英二のつむじ見るのって初めてかも…
ふと気がついて何か幸せになってしまう。
英二の方が背が高いから、こうして英二の頭をゆっくり見たことはない。
雪崩で受傷した英二の看護で包帯を巻いたことはある、けれど手当に集中して余裕は無かった。
この今の時間は些細なことかもしれない、けれど大切な人の髪を洗いふれる時間は、不思議な安らぎがある。
…英二も気持ちいいと良いな、それで疲れが抜けてくれたら嬉しい
少しでも今日の疲れも癒してあげたい、出来るだけ。
もう今夜の次は解からない、だから今この時に出来るだけ日常の幸せを贈りたい。
その願いに恋人の髪を洗い上げて、シャワーの栓を閉めると鏡越しに笑いかけた。
「はい、おしまい…洗い足りないとかある?」
笑いかけた鏡の端正な貌が幸せに笑ってくれる。
ひとつ両掌で髪を掻き上げて、綺麗な笑顔が振向いた。
「周太、」
名前を呼んで振り向きざま、白皙の腕が周太を抱きしめた。
そのまま抱え上げられて湯気のなか視界が動く、そして水音がタイルに響いた。
「え…」
こぼれた声と同時に周太はひとつ瞬いた。
いま自分は何処に座りこんでいるのだろう?
「きれいだ、周太。水も滴る美少年だな、」
綺麗な低い声が笑いかけて、その唇がキスしてくれる。
ふれる唇の温もりと一緒に足先から、胸元まで温もりに濡らされていく。
そっと唇離れて、瞳を覗きこんだ切長い目に今の状況を周太は理解した。
…おふろのなかに入れられちゃったの?
自分は服を着ているまま、浴槽に入ってしまった?
こんなの困ってしまう、こんな悪戯を英二がするなんて?
予想外の展開に困らされて周太は、子どもっぽい婚約者を見つめて拗ねた。
「ばかっ、えいじのばかばかなにしてるのっ…だ、だめでしょっふくきたままはいっちゃ!ふくいたんじゃうでしょばかっ、」
一息に叱った湯気の向こう、きれいな貌は幸せな笑顔にほころんだ。
その笑顔が嬉しくて、怒りながら困りながら周太は、ずぶ濡れのまま微笑んだ。
(to be continued)
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