萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 曙空act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-06 23:35:21 | 陽はまた昇るanother,side story
ただ、抱きとめて




第35話 曙空act.1―another,side story「陽はまた昇る」

新宿署独身寮の扉を開いて階段を降りると、通りはもう薄暮に沈みこんでいる。
クライマーウォッチの時刻は18:05だった、頬ふれる空気も冷たい。
きっと夜は冷え込むだろう、まだ手に持っていたマフラーを巻くと周太は歩き始めた。
さっき英二が電話で教えてくれたブックカフェへの地図を頭に描きながら歩く。
歩いていく足取りがいつもより速くなるのを感じながら周太は微笑んだ。

…もうすぐ、逢える

光一の電話に背中を押されて英二にメールを送ると、すぐに英二は電話を架けてくれた。
穏かな旋律の着信音が鳴ったとき、とくんと鼓動がひとつ大きく跳ねた。
いったいどんな声で架けてくれるのだろう?不安と恋慕が入り乱れたまま周太は電話を繋いだ。

「おつかれさま、周太。すぐに出れる?早く逢いたいよ、」

繋がった電話の最初に「早く逢いたい」と言ってくれた。
美代と話した後でも逢いたいと想ってくれる?
そんな想いに涙がひとつ零れて周太は微笑んだ。

「ん、着替えてから出るから…10分後くらい?」
「うん、10分後だね?迎えに行くよ、周太。ちょっと解かり難い場所だし、」
「え、…ダメ、英二。美代さんとお茶してて?俺が行くから、待ってて?」

そんな問答をして英二を美代のもとに周太は押しとどめた。
電話から届いた英二のトーンは全く動じていなかった、そして「周太に逢いたい」心が声に現れていた。
まだ自分を英二は求めてくれる、そう解って嬉しかった。そんな想いがつい足早にさせられる。
歩いて15分程度で行けるかな?そう想ったとき左掌の携帯が振動して周太は画面を開いた。

「…美代さん?」

見慣れた番号と発信人の名前にすこし周太は首傾げた。
もうじき会えるのに、なぜ美代は電話してきたのだろう?
不思議に思いながらも周太は通話を繋げた。

「はい、美代さん?」
「うん。あのね、光ちゃんは弟みたいよ?でね、宮田くんは『憧れ』だったみたい」

楽しそうな声がストレートに結果報告をしてくれる。
いま英二も一緒だろうに、電話してどうしたのだろう?
いろいろ不思議だったけれど、周太は訊いてみた。

「ん、どうして、そう想ったの?」
「うん、あのね、宮田くんに『どきどきします』って言ったの。
そうしたらね、『それは憧れだよ、恋に近いけど違うよ』って教えてくれたのよ。まだ恋の種、って感じみたいね?」

いつも通りの明快な論理で話す美代の声は明るい。
どうやら心がすっきりしたふうでいる、良かったなと聴きながら周太はすこし足取りを緩めた。

「それで恋ってどんなかな?って質問したらね、教えてくれたの。
相手のことを全部欲しくなる、独り占めしたくて、ふたりきりで過ごしたい。ちょっと離れるのも哀しくて、苦しい。
そんなふうに教えてくれたの。だからね、光ちゃんは恋ではないこと確定。そしてね、宮田くんもまだ、そこまでじゃないなって」

…全部ほしくなる、独り占めしたくなる。ふたりきりで過ごしたい、離れるのも哀しくて。

美代の言葉を聴きながら周太は自分の心を見つめた。
この言葉が当てはまる人は自分にとって誰だろう?
自分の想いを見ながら周太は電話の向こうに笑いかけた。

「ん、美代さん、すっきりした?」
「うん、すっきりした。だからね、私、ちょっと宮田くんに『憧れ』中なのだけど…ね、許してくれる?」

頭の靄がすっきりした明朗さに遠慮がちな想いがまじっている。
そんなこと許すとか自分にはおこがましいのに?素直な想いのまま周太は言った。

「許すとか、違うよ?だってね、好きになったら、不可抗力でしょ?だから…存分にね、憧れて?」

こんなふうに純粋に真直ぐに英二の心を見つめて、美代は憧れを抱いてくれた。
本音はすこし嫉妬もする、けれど英二がこんなふうに想われていることが嬉しい。
嬉しいよ?そんな想いで微笑んだ周太に、あかるい声が言ってくれた。

「うん、ありがとう…ね、やっぱり湯原くんがね、私は大好き。友達だけど、今いちばん好きよ?」

友達だけど「一番」そう美代が言ってくれる。
こんなこと言って貰えるなんて想っていなかった、幸せで周太はきれいに笑った。

「ん、ありがとう、美代さん…俺もね、友達だけど、女の子では美代さんが一番好きだよ?」
「ほんと?じゃあ、私達、両想いの友達ね、」

うれしそうに電話の向こうも笑ってくれる。
ずっと孤独だった自分にも、こんな友達が出来た。うれしくて幸せで想いが涙になって温かい。
そっと指で涙拭った周太に、今度は悪戯っ子な声が電話越しに話しかけた。

「ね、湯原くん?私ね、そろそろエスケープして御岳に帰ります。火曜日、楽しみにしてるね?」
「え、…今日、ごはん、一緒にするんじゃないの?英二はどうしたの?」

予想外の美代の発言に驚く周太の耳に、改札口向こうのアナウンスが聞こえてきた。
本当に美代は駅にいて、帰るつもりでいる?周太は踵を返して駅へと走り始めた。

「うん、宮田くんはね、湯原くんのお迎えに出たの。で、その隙をついて私ね、こっそり出てきちゃった」
「どうして?…なんで、黙って帰っちゃうの?」

走る視界の先に見える駅舎が、みるみる大きくなってくる。
周太は小柄で本来が華奢だけれど走ることは元から速い、走りながら周太はポケットからパスケースを取出した。
握りしめた携帯からは階段を降りる音をBGMに、美代が楽しそうに教えてくれた。

「だってね?さっき教えてもらったもの。『恋したら、独り占めしたくて、ふたりきりで過ごしたい』って。
だから、ふたりきりで過ごさせてあげたいなって。それに火曜日って確か、宮田くんと光ちゃんは駐在所でしょ?
だから火曜日は、私が湯原くんを独り占めでしょう?それで今日はね、宮田くんに独り占めさせてあげたいなって。ね?」

パスケースで軽くふれて改札口を周太は走り抜けた。
携帯の向こうは青梅線ホームのアナウンスが聞こえる。
どうか間に合いますように、周太は電話の向こうへお願いをした。

「でも俺、美代さんに会いたいよ?…待って、」
「湯原くん?いま、どこにいるの?」

人混みを縫って階段を駆け下りると、遠く電車のライトが見えた。
美代はどこにいるのだろう?見まわしながら周太は電話の向こうに呼びかけた。

「美代さん、いま、どこに立ってるの?…ホームの柱の番号は?」
「…見つけた!」

ぽん、とダッフルコートの袖を掴まれて振り返ると、きれいな明るい瞳が笑ってくれる。
全速力の息切れを少ししながら周太はきれいに笑った。

「よかった、美代さん、会えた…見つけてくれて、ありがと、ね」
「うん、…会いに来てくれて、ありがとう、湯原くん」

いつもの明るい笑顔で美代が笑ってくれる。その瞳から涙がひとつ、ぽとんとこぼれ落ちた。

「ありがとう、ほんとはね、会いたかったの…なんで涙、出るかな、私?」

きっと今日の美代は緊張していた。初めてのデートと初めての告白をして、その相手が友達の恋人で。
どれも初めてのことに途惑いながらも楽しんで、そして告白に『憧れ』と言われて安堵と落胆とが押し寄せて。
きれいな明るい笑顔のまま涙をこぼす美代を見つめて、周太は微笑んだ。

「ん、…緊張していたから、かな?…ね、俺に会えて、安心して、泣いてくれてる?」
「あ、そうか。うん、…いまね、すごく、ほっとしてる、ほんとはね、湯原くんに嫌われたかもって…不安だったから」
「不安?…あの、ちょっと、ごめんね?」

話しながら周太はハンカチをポケットから出した。
ハンカチで美代の頬から涙をそっと拭っていく、そんな周太に美代はうれしそうに微笑んでくれた。

「うん、不安だったのよ?だって、16時半には新宿に戻るって言っていたでしょ?なのにね、連絡来ないから。
私のこと、本当は怒ってて来てくれないのかな、って。だからね、ずっと宮田くんの携帯の音、気にしちゃっていたの」

美代は待ってくれていた。
遅れている周太をずっと待って、遅いことに不安になってくれていた。
こんなに自分の事を待ってくれていた友達、なのに自分はどうしていただろう?
美代の目を見ながら周太は率直に謝った。

「ごめんね、美代さん。講習会が長引いちゃって…あとね、ちょっと迷っていたんだ。
英二と美代さんの邪魔しに行くみたいで、気後れして。そしたらね、国村が電話くれて、背中押してくれて、連絡できたんだ」

「だめ、気後れなんてね、もう絶対にしないでね?ほんとうにね、連絡くれて、嬉しかったのよ?光ちゃんお手柄ね、」

はっきりと言って微笑んでくれる。
こんなに大切に友達と想ってくれることが嬉しい、周太は微笑んだ。

「ごめんね、美代さん…もう、気後れしないね?」
「そうよ、気後れなんていらないの。湯原くんは優しくて、きれいで。むしろね、私の方が気後れしそうなのよ?だから、ね?」」

きちんと自分の事を受けとめて肯定してくれる。
こんな友達の存在がうれしい、周太は幸せで笑った。

「ん、ありがとう…火曜日、楽しみにしてるね?」
「うん、楽しみにしてる。迎えに行くから、電車の時間が決ったら教えてね?」

青梅線下りホームにライトが近づいてオレンジ色の車体が見えてくる。
ガタタンと振動を聴きながら、お互いに顔を見あわせて笑いあった。

「帰り、気をつけてね?」
「うん、ありがとう。湯原くんも、このあと宮田くんと楽しんでね?…あ、連絡来てるんじゃないの?」

気がついて美代が言ってくれた。
すっかり英二と行き違ったことを忘れていた、我ながら呆れて周太は困りながら微笑んだ。

「わすれてた、…あやまらなくちゃ、ね?」
「恋人を忘れちゃったの、ね?…あ、でも、私が共犯ね?ごめんね、て、伝えてくれる?自分でも明日、駐在所に謝り行くね?」

きれいに笑って美代は、オレンジ色の電車に乗り込んだ。
扉の窓越しにお互い手を振って、美代の乗った青梅線は奥多摩へ向けて帰っていった。
見送って、ほっと息を吐くと左掌の携帯が振動している。
急いで周太は画面を開いた、予想通りの発信人の名前に踵を返しながら電話を繋いだ。

「ごめんなさい、英二、」
「周太、いま…駅のホームにいる?…青梅線?」

アナウンスを電話越しに聴いて、周太の場所を掴もうとしてくれている。
急ぎ足で周太はホームを歩きながら答えた。

「ん、今ね、美代さんを見送って…ごめんね、英二、迎えに来てくれていたんでしょ?」
「そうだけど。美代さん、帰ったのか?」

電話の向こうが驚いている。
それは驚いてしまうだろう、河辺のカラオケ屋からエスケープするのと新宿とでは違う。
新宿は都会で気後れすると美代は言っていた、けれどこんな大胆なところも美代にはある。
きっと美代にとってエスケープは楽しい冒険なのだろう、けれど相手によってはさぞ驚くだろう。
こんなふうに人を驚かせる大胆さは、光一と美代の共通点だろうな?思いながら周太は電話越しに頷いた。

「ん、そう…俺もね、帰るからって電話で言われて。それで、走って駅に見送りに来て…あの、勝手に動いて、ごめんね?」
「いや、無事ならいいんだ、ふたりとも。周太、見送ってくれて、ありがとう」
「ん、…こっちこそね、美代さんの話、聴いてくれて、ありがとう」

話しながら周太は階段を早足で上がっていく。
お互いに今どこへ向かっているとは言っていない、けれど、きっと英二はあの場所に来てくれる。
もし英二がまだ自分のことを想っているなら、きっとあの場所が待ち合わせの場所になるだろう。
階段を昇りきってコンコースを周太は歩いていく、週末の夜にあふれる人波に改札口はまだ見えない。

「周太、美代さんの話がなにか、知ってた?」
「ん、昨日ね、電話で話してくれて…それで、英二に聴いてほしくって…美代さんね、喜んでたよ?ありがとう、英二」

電話の向こうに聴こえる雑踏が、周太のいる場所の雑踏とシンクロしていく。
きっと英二も同じ場所に向かってきてくれている。
言わないでも解り合える信頼と想いを辿るよう、周太は改札口を通り抜け顔をあげた。

「周太、」

きれいな穏やかな笑顔が幸せに咲いて、大好きなきれいな低い声が名前呼んでくれた。
真直ぐ見あげる想いの先で、ブラックミリタリージャケット姿の英二が佇んでいる。
見つめる視界にふっ、と温かい紗が降りて周太は名前を呼んだ。

「…英二…!」

名前を呼んで、抱きついて、広い背中に鞄ごと掌まわしてしがみつく。
穏かで深い樹木のような香が頬を撫でる、温かな英二の懐で周太は心から息をつけた。
昨日も術科センターで抱きついて、なのに今もうこんなに英二の懐が恋しかった。
こうして抱きついている周囲を人波がすり抜けていく、きっと見ている人もいるだろう。
けれどすべてが今は遠い世界のこと、ただ英二の温もりと香と優しい気配に抱きとめられていたかった。

「周太、…」

そっと名前を囁いて、長い腕が優しく抱きしめてくれる。
肩を背中を抱きとめてくれる腕の温もりがうれしくて幸せで、ただ周太はしがみついていた。
穏かな鼓動がそっと耳をノックしてくれる、ニットを透かす体温が居心地がいい。
このままずっと離れたくない、素直な想いを周太はそのまま口にした。

「ね、英二…浚って?…このまま、連れて帰って?」

しずかに体を少し離すと切長い目が周太の瞳を覗きこんでくれる。
変わらない穏やかな英二の眼差しに、そっと周太は微笑んだ。

「お願い、英二?このままね、奥多摩へ連れて行って?」

すこし首傾げるように英二が見つめてくれる。
見つめて、ゆっくり頷いて英二は笑いかけてくれた。

「うん、周太…お願い、叶えるよ?一緒に帰ろう」

一緒に帰ろう。

たった一言だけれど、宝物の呪文だった。
この宝物の呪文をもう手放したくない、想いが涙と言葉になって周太からあふれた。

「英二、…連れて帰ってくれるの?まだ、…俺の居場所は、英二の隣にある?」

どうかお願い「ある」と言ってほしい。
願いの先に見つめる笑顔が、きれいに咲いて言ってくれた。

「当たり前だよ、周太?言っただろ、俺はね、周太のものだよ?」

当たり前、って言ってくれた。
いま自分は光一との初恋が手離せない、そして英二は美代から想いを貰った。
それでも居場所を自分の為に取って置いてくれた、英二は自分のものだと言ってくれた。
本当に約束を守ってくれる?想いの涙と一緒に周太は微笑んだ。

「ん、…ありがとう、英二。連れて帰って?」
「うん、連れて帰るよ?でも周太、その前に新宿署に戻るよ。外泊申請を出さないと、」

きれいに笑って英二は、周太の右掌をとると左掌でくるんでくれる。
そしてミリタリージャケットのポケットに入れてくれた。
繋がれた掌の温かさに、周太は涙と一緒に微笑んだ。

「ん、温かいね?…幸せだよ、英二?…で、ね?靴を見て?」
「靴?」

切長い目が端正な顔ごと動いて周太の足元を見てくれる。
その目が少し大きくなって可愛い顔に英二はなった。
この顔は可愛くって好きだな?うれしくて微笑んだ周太に、英二も笑ってくれた。

「周太、登山靴で駅まで走ったんだ?」

掌を繋いだまま英二が訊いてくれる。
繋がれた温もりに安らぎながら周太は頷いた。

「ん。結構ね、走れたよ?」

周太は冬用登山靴を履いてきた。
鞄には1泊分の着替えと冬の登山ウェアが入っている。
こんなこと言うの気恥ずかしい、けれど正直に言いたい。気恥ずかしくても周太は口を開いた。

「英二とね、どうしても一緒にいたくて…それで、当番勤務あがって、すぐ外泊申請を提出したんだ」

ほんとうは、美代と英二の邪魔になるかもしれないと不安だった。
けれど自分はわがまま言いたくて、逢いたくて一緒にいたくて英二に無断で決めてしまった。
それでも自室で迷って考え込んで、光一の電話に背中を押されて英二にメールが出来た。

「当日でも、許可が下りたんだ?」
「ん、自主トレーニングに参加します、って書いたから…すぐに許可してもらえて」

11月、父の殉職事件の真実と想いに対峙した。そのあと周太を独り置いていけなくて英二は奥多摩に浚ってくれた。
あの時は、英二が外泊申請書に一筆加えたおかげで許可はあっさり下りた、その一筆が「山岳救助隊の自主訓練参加」だった。
あの時と同じ理由を書いて、あの日のように英二に浚って連れ帰ってほしかった。

「あの、英二、ごめんなさい、勝手に書いて…でも俺、どうしても一緒に連れて帰ってほしくて…」
「周太?うれしいよ、そういうの」

きれいに笑って英二は頷いてくれた。
そして周太の瞳を覗きこんで、幸せそうに笑って訊いてくれた。

「ね、周太?夕飯、なに食いたい?」

この質問は久しぶり、外泊日のときは「昼飯」だった。
そして、幸せな合言葉のように思っていた。
今もその気持ちは変わらない、微笑んで周太は答えた。

「ん、ラーメン」

周太の答えに、きれいな笑顔が咲いてくれる。
きれいな低い声が「いつものように」笑って答えてくれた。

「またかよ?」

懐かしい「いつものように」がまた戻ってきた、ありふれたこと、けれど自分には幸せが温かい。
幸せに微笑んで見上げた先の笑顔は変わらずに美しくて、けれどずっと大人の横顔になっている。
並んで歩く肩も胸もずっと逞しくなった、背中が頼もしくなった、そして全身に誇らかな自由が佇んで。
左掌に繋がれた長い指は、すこし節がふとやかになって掌の厚みが増した。
卒業式からまだ5ヶ月経っていない、けれど英二はこんなに変わっている。

…この掌に繋がれて「今」ここに自分は立てた、そして、

そして、英二の胸には父の合鍵が大切に首から提げられている。
父の合鍵を胸に抱いて英二はずっと自分を守ってくれた。
13年前の父の殉職事件に向き合う時も、昨日の射撃競技大会でも。
それから自分に約束をたくさんくれた、それを1つずつ叶えながら英二は隣にいてくれる。

「周太、」

大好きな低い声が名前を呼んでくれる。
うれしくて見上げて「なに?」と目だけで周太は訊いてみた。
見あげた目を穏やかな切長い目が受けとめて、やさしく微笑んだ。

「明日はね、周太?俺は日勤なんだ、あまり俺は一緒にいれない。でも、」
「ね、御岳山の巡回も一緒に行って良い?」

英二の話の途中に無理に割り込んで、周太は素早く言った。
こんな言い方ほんとうは強引で好きじゃない、いつもは絶対にしない。
きっと「国村が非番だから」と英二は言おうとした、だから周太は言葉を奪ってしまった。
たしかに自分は光一と一緒にいることも大好きでいる、けれど今は英二から離れたくない。
それでも慣れない物言いに、自分で途惑いながら周太は隣を見あげた。
そんな途惑った視線を英二は穏やかに受けとめて微笑んだ。

「うん、一緒に行こう。登山ウェアは持ってきた?」

見上げた先の英二の笑顔はやさしい。
やさしい眼差しが温かで幸せにしてくれる、微笑んで周太は素直に頷いた。

「ん、持ってきた。ありがとう、英二…自主トレーニングは、最近は何やるの?」
「うん、明日もボルダリングだと思うけど、いいかな?」
「ん、前のときも楽しかったよ?」

こんなふうに、明日の予定を一緒に決めるのは幸せになれる。
他に明日の予定は何が出来るかな?考えている周太に英二は言った。

「明日は国村が非番だからさ、どこか連れて行ってくれるよ?」

言葉に周太は隣の顔を見あげた。
見あげた先の笑顔は穏やかで、大らかな優しいきれいな笑顔だった。
たしかに自分は光一のことが大切で大好きで、一緒に過ごす時間も好きでいる。
けれど今、英二との間にある違う微かな距離を感じて哀しくなってしまう。

この距離の理由はまず一つには光一のこと。
それから他にもきっと理由がある。
そうした一つ一つを今夜は英二と話していけたらいい。

―…自分だけで考えこんじゃだめだよ?きちんと話して、相手の気持ちを聴くこと

今日の午後、手話講習会の帰り道で瀬尾が言ってくれた言葉。
その通りに今夜はきちんと向き合えたらいい。
繋いでくれる掌をそっと周太は握りしめた。

「ん?周太、どうした?」

すぐに気がついてこちらを見てくれる。
気づいて貰えてうれしい、笑って英二を見つめて周太は言った。

「英二、…離さないでね?」
「うん、ちゃんとね、隣にいるよ?約束だろ、」

きれいに笑って英二はラーメン屋の暖簾をくぐった。
あたたかな湯気と出汁の香がふわり頬なでて、急に周太は空腹を思い出した。
いつものカウンターに座ると、すぐに主人が気がついて水とおしぼりを渡してくれる。

「こんばんは、今日もありがとうございます、」
「はい、…あの、しょっちゅう来てすみません、」

周太は外食と言えばこの店とあのパン屋だけが常連になる。
それでよく食事に来るけれど、いつも主人はサービスをたくさんしてくれる。
それが嬉しくて、けれど毎回で申し訳がない。しかも泣いていた時には慰めて貰ったこともある。
この主人になにかお礼ができたらいいのに?そう考えている周太に主人は笑ってくれた。

「いつも来てくれてね、うれしいんです。うれしいからね、ついオマケしちゃうんですよ。遠慮しないでくださいよ?」

気さくに主人は笑ってくれる。
そう言われても恐縮はしてしまうな?嬉しいけれど困っていると主人は英二へと笑いかけた。

「こんばんは、お久しぶりですね、」
「はい、ご無沙汰して済みません。ちょっと雪山シーズンで、忙しくて」
「雪の山での救助ですか?大変ですね…気をつけて下さいよ?今日はサービスしますからね」
「はい、ありがとうございます。ちょうど腹、減ってるんで助かります」

楽しそうに英二と主人は話している。
元々この店は英二の父親が常連で、それを英二も引き継いで常連になっていた。
それで初めての外泊日に英二は、この店に周太を連れて来てくれた。
そしてこの主人が周太の父の殺害犯だと分かったのは、ほんの3ヶ月前の11月だった。

あの13年前の春の夜にこの主人が父を拳銃で射殺してしまった。
けれどこの主人の目は温かい。店の空気も温かで居心地が良くて、それで周太は卒配後は一人でもよく来ていた。
だからこの主人が父を殺害した男だと知ったときはショックだった、けれど英二が真実と想いを全て教えてくれた。
そうして自分はこの主人が「父の遺志」によって生きていると知ることが出来た。

もしあのとき、英二が救けてくれなかったら。
周太も母も、この主人も、そして父も。きっと全てが救われず冷たい孤独のままだった。
あのとき英二は作り上げた人脈で父の事件関係者を探し出し、真相を聴きだしてくれた。
それはまだ卒業配置1ヶ月半の時だった。

…英二はね、ほんとうは怜悧で、そして人の心を掴むのが上手、

あのときの英二の対応の仕方は、後になって考えると卒配1ヶ月半の新人とは思えない。
自分で調査出来る限りは行い、権限が必要なエリアはその権限者と親しくなって援助してもらう。
その人脈づくりは英二の場合、無意識に行っている事も多いだろう。
けれどその人脈の使い方が適時適材で上手い、そして実直な英二だから相手も善意で援けてしまう。
こういう善意を掌握する呼吸の取り方が英二は上手い。

…呼吸と間合いがね、上手。だから競技大会でも、絶妙の間合いで拍手を入れていた、ね?

現場に立っていく中で周太は改めて、そういう英二の怜悧と人心掌握の凄みに気づかされている。
きっと英二は警察官の適性が高い、そしてクライマーとレスキューの適性も高いだろう。
そんな英二が同じ男として羨ましい時もある、同じように光一にもよく感じる。
けれど自分には、きっと他の道が待っているのだろう。

…自分の道、いつか見つけたい。英二や光一のように、自分が輝けるところが、きっとある

いま隣に座って英二は心から楽しげに主人と話している。
この主人が殺害した周太の父を、英二は心から尊敬して遺志を継ぐつもりでいる。
そんな英二はこの主人の過去の罪よりも、寛げる良い店の主である「今」を大切に見つめている。

卒業式の夜にも英二は言ってくれた「危険に立つ自分は『今』を大切に見つめて生きるしか出来ない」
この生き方を刹那的と笑う人もいるだろう、けれど英二は「今」を真直ぐ見つめるからこそフラットに人と接することが出来る。
英二は「今」この時の積み重ねが過去と未来であることを知っている、だから「今」を大切にしている。
だから「今」目の前にある事・人が抱いている真実と想いに、真摯に向き合い見つめて英二は大切に受けとめていく。
そんな英二だから、自身が尊敬する人を殺害した男でも「今」の彼は立派だと真直ぐ認めて大切に出来る。
こうしたフラットで賢明な視点にある大らかさと優しさは、警察官としても大切な素質だろう。
過去の罪よりも「今」の真実と想いを見つめて認める英二なら、どんな犯罪者でも心を開けるだろうから。

こんな英二のフラットさは冬富士の雪崩以後、いっそう洗練されていると感じられる。
こんな英二を周太は人間として男として心から尊敬してしまう。

…こういうね、優しい大らかな英二が、本当に好き…そして、

また隣に座れたことが嬉しい、そして前より見惚れている自分がいる。
この1ヶ月前、冬富士の雪崩に遭ってから英二と光一と周太の関係は変質した。
きっとそのことを通して英二はフラットな賢明さを磨き上げて、人間が大きくなっている。
そんな「今」の英二に募っていく自分の想いを、この1ヶ月の間に周太は見つめていた。

…きっと、雪崩の前よりもね、…好き

今の自分は光一との初恋を抱いている、この恋はもう忘れない。
けれど英二への想いが、離れていた1か月に電話とメールで繋いだ心に大きく募った。
そうして再会した「今」はもう、この隣から目が離せない。

「へえ、冬の富士山は、そんなふうなんだねえ。俺は行けないけど、にいさんの話で行った気持ちになれました」
「ちょっと話しただけですよ、まだ。おやじさん、今度はゆっくり喋りに来て良いですか?」
「もちろんですよ。その時は早仕舞して、ここでご馳走します。あ、いけねえ、まだ食事出してないのに話しこんじゃった。すみません、」
「こっちこそ、お仕事の邪魔しちゃいましたね?すみません、」

素直に頭を下げる英二に主人は「すぐ仕度しますね、」と嬉しそうに微笑んだ。
主人が左足をすこし引き摺りながら厨房へ戻っていくと英二は、周太に笑いかけてくれた。

「周太、すこし話しをしてもいいかな?」
「ん。…なに、英二?」

こういう切り出し方はきっと大切な話。
水をひとくち飲むと周太は英二に向き直った。
そんな周太に英二はきれいに笑いかけて、そして静かに口を開いた。

「クライマーとしての任官が内定したんだ。今日、個人訓練の後で後藤副隊長から書類を渡された。明日提出する」

クライマーとしての正式な任官。
それは在職期間ずっと山岳レスキューのプロフェッショナルとして生きること。
そして山ヤの警察官として山岳救助の危険な現場に立ち続けていくこと。
けれど英二の場合はそれだけが任務じゃない、周太は切長い目を見つめた。
見つめる想いの真ん中で、きれいに笑って英二は教えてくれた。

「これで俺はね、正式に国村のアンザイレンパートナーになったんだ。最高峰への挑戦が正式に認められたよ」

光一は最初からクライマーとして任官している。
それは警視庁山岳会長でもある後藤副隊長が、光一の素質に警視庁山岳会の夢を懸ける為だった。
世界最高峰たち8000m峰14座の踏破者を育て、警視庁山岳会から世界ファイナリストを出す。
この夢のために後藤は、最高のクライマ―の素質がまぶしい光一を任官させた。
そんな光一の公式アンザイレンパートナーは生涯を高峰踏破に懸けることが義務ともなる。

…もう英二は、最高峰に立つ道が定められた…

標高8000m超の雪と氷の世界。
富士山の倍以上の標高になる世界は、周太の想像を超えて計れない。
いま隣に座る英二の目は真直ぐ周太を見つめながら、いま扉が開かれる8,000m峰の世界に微笑んでいる。
この世界で最高に高い場所に行くことは、最高の危険に立つこと。そこに英二も行ってしまう。
光一と英二のふたりは並んで世界最高の8,000m峰へ立ちに行く、ザイルで互いの運命まで繋ぎ合い登っていく。

大切なふたりが一緒に行ってしまう、その不安はきっと大きい。
けれどこれは何度も覚悟していたこと、そして美代は自分以上に何度も覚悟してきただろう。
美代は光一を弟として見ていた、けれど心配なことは大切なことは何も変わらない。
そんな美代が恋していくのは英二だろう、いまは憧れだとしても英二が相手ならきっと恋になる。
だから自分と美代はふたりとも同じ大切なふたりを見送って待つことになる。

光一と英二は共に最高峰に立つ運命のパートナー。
美代と自分は一緒に最高峰の運命のひとを待つ者同士。

…ね、美代さん?俺と美代さんもね、きっと運命の出逢いだね?

自分たち4人の運命はまだ出逢ったばかり、きっと今日これからが本当の「始まり」なのだろう。
今日、英二の正式なクライマー任官が内定した、この内定は「決定」の意味を持つ。
今日、光一は正式なアンザイレンパートナーを掴んだ、これで高峰に登る自由を得た。
今日、美代は英二に想いを告げて憧れという名の「恋の種」を自覚した。
そして自分にも「今日」何か起きるのだろうか?始まりを迎えた「今」に周太は微笑んだ。

「ん、おめでとうございます、英二…本当に、良かったね?」

きれいに周太は微笑んだ。
周太の笑顔を真直ぐに見つめていた英二は、そっと訊いてくれた。

「周太、喜んでくれるの?このまま俺が最高峰の運命に立つことを、許してくれる?」
「ん、もちろん。ずっと、信じてるよ?」

そう、信じている。
そしていま1つまた定まっていく心を見つめている。
ひとつ大きくなる心を抱くように周太は、掌を胸元にあて微笑んだ。

「ね、英二?絶対の約束は変わらないね?必ず俺の隣に無事に帰ってくるね?」
「うん、帰ってくる。周太が望んでくれる限り、俺は帰ってくるよ?」

きれいな低い声が真直ぐに約束してくれる。
こんな約束を自分と英二は結んでくれる、その幸せを周太は大切に言葉へと変えた。

「ごはん、作って待ってるね?おふろ沸かして、お布団干して、待ってる。だから英二、…俺のところに帰ってきて、ずっと」

切長い目がすこし大きくなる。
ほんとうに?真直ぐに美しい目が問いかけてくる。
ほんとうだよ?頷いて微笑んで周太は想いを口にした。

「この1ヶ月でね、考えたんだ。英二、俺はね、英二の帰る場所でいたい。
大したこと何も出来ないけれど、でも、英二を迎え続けさせて?そして、英二にもね、俺にお帰りなさいって言ってほしい」

きれいな切れ長い目が笑ってくれる。
そして短いけれど幸せな返事を英二は贈ってくれた。

「はい、」

きれいな笑顔が隣に咲いてくれた。
この笑顔が自分は大好き、嬉しくて周太は幸せに笑った。
見つめた笑顔は楽しそうに笑って、そして言ってくれた。

「ね、周太?今夜はね、好きなもの、たくさん食べていいよ。追加する?」
「ん。ありがとう、英二。でも、ね?」

言いながら周太はカウンターのなかを見た。
そこには、たくさんの料理を並べた主人が笑って立っていた。

「はい、おまちどうさま。ちょっとだけ聞こえたよ、にいさん、祝い事があるみたいだね?だから、俺からもお祝いです」
「ありがとうございます。ほんと、すごい量ですね?」

嬉しそうに英二が笑った。
そんな英二に嬉しそうに主人が笑ってくれる。

「にいさんならね、食べ切れるだろ?いつも、たくさん食べてくれてね、気持ちいいんだよ、」
「はい、ありがとうございます。旨そうですね、遠慮なく戴きます、」

ラーメンは勿論、前にサービスで出してくれて英二が気に入った五目丼もある。
色彩豊かな皿たちは、きっと5人前は充分にある。でも英二なら食べ切れるだろうな?
そう想いながら笑って見ていた周太の視線と、こちらを見た他の客と目が合った。
眼鏡をかけた中年の男性、実直そうな雰囲気はどこか山ヤと似ていて頼もしい。
その顔に見覚えがある、周太は頭の中のファイルを捲って小さく声をあげた。

「あ、」

12月、周太が初めて痴漢の事情聴取をした、あのときの樹医だった。
あのとき犯人は偶然居合わせた樹医に冤罪を着せようと、握手で付着した繊維を樹医の掌に移そうとした。
それは周太が英二に借りた鑑識資料に掲載された事例と同じ手口だった、それで気がついて冤罪を防げた。
あのとき冤罪を防げたのも、英二が吉村医師から教えられて買った本を周太に貸してくれたからだった。
ほんとうに英二に援けられてばかりだな?そう考えていた周太の視線の先で樹医が立ち上がった。

「お食事中をすみません、私を覚えていらっしゃいますか?」

実直なトーンの声で樹医は話しかけてくれた。
周太は立ちあがると笑顔で会釈を返した。

「はい、樹医の先生ですよね?あのときは、ご協力をありがとうございました、」

きちんと礼をした周太に樹医は首を振って微笑んでくれた。
頭をあげた周太の目に笑いかけながら樹医は言ってくれた。

「いえ、お礼を言うべきは私です。君のおかげで冤罪から助けられました。
いちど、お礼をきちんと言いたいと思っていたのです。でも、交番におたずねしていいのか、わからなくて」

「いえ、お気を遣わないで下さい。するべき仕事をさせて頂いた、それだけですから」

周太の言葉に樹医は温かく笑んだ。
そして携えていた一冊の本を周太の前に差し出してくれた。

「いま、私は君を学生だと認識しています。そして学生の君に、学者として私の本を贈った。そういう事にして頂けますか?」

警察官が謝礼を貰うことは出来ない。
だから樹医は自分の著書を周太に贈って、せめてもの気持ちを伝えようとしている。
でもこんなのは申し訳ない、そう想いながらも周太は表紙にもう惹きつけられてしまった。
樹木の生命力について記された専門書、それが樹医の差し出している本だった。

大きな木が好きな周太としては充分に興味を惹かれてしまう。
樹医は樹木の生命を守る現場に立っている、そういう人が書いた本はきっと面白い。
とても読んでみたい、けれど公務で出会った人で、しかもただで貰うのは気がひける。
どうしようと困っていると、店の主人がカウンターから出てきて笑ってくれた。

「じゃあ先生、まずね、俺にその本をください。そしたら俺はね、常連さんへのオマケだって彼に渡します。どうでしょう?」

主人の提案に樹医は嬉しそうに頷いて笑った。

「ああ、それはいい考えですね。じゃあ、ご主人、いつも旨いラーメンの礼です」
「おや、うれしいこと言ってくれますね?なんかサービスしなきゃいけねえな、」

楽しそうに主人は笑いながら、前掛けに下げたタオルできれいに手を拭いた。
それから本を樹医から受け取ると、周太に微笑んで本を差し出してくれた。

「はい、いつも来ていただくオマケです。どうかね、また来てくださいよ」

差し出された立派な表装の学術書を周太は見つめた。
樹医と主人の気持ちは本当に嬉しい、けれど、こんな立派な本を本当に良いのだろうか?
思わず両手を握りあわせて見つめていると、英二が横から笑ってくれた。

「すみません、このひとはね、すごく遠慮がちな性質なんです。
だから提案なのですが、俺がその本を戴いても良いですか?俺からだったら、気楽に受け取ってくれますから」

きれいに笑った英二に主人も樹医も微笑んだ。
そして主人は楽しげに英二へと本を差し出した。

「なるほどね、じゃあ、はい、にいさん。いつも気持ちのいい食べっぷりを、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。大切に読ませて頂きますね?」

きれいな礼を主人と樹医におくると英二は本を受けとった。
受けとった本を見つめて、それから英二は周太へと本を差し出してくれた。

「周太、好きそうな本を貰ったんだ。だから周太に読んでほしいよ?」

本当に好きそうな本、それを英二も解ってくれている。
樹医の気持ちも主人の気遣いも嬉しい、そして英二が周太の性質をよく解って気配りしてくれた事が嬉しかった。
こんなにしてもらって受けとらないのは非礼だろう、素直に受け取って周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう…ほんとうに、好きな本だね?大切に読むね」

見あげて英二に礼を言うと、樹医と主人に周太は頭を下げた。

「あの、お気遣いをすみませんでした、ありがとうございます」
「いや、こっちこそね、楽しかったですよ?さ、先生にサービスの準備してきましょうね」

楽しげに笑って主人はカウンターの奥へ戻っていった。
この主人は温かで、こんな気遣いも出来る優しい人でいる。
このひとが父を殺した犯人だなどと、今の主人を見て誰が想像できるだろう?
きっと父はいま英二と一緒にここにいて彼の温かな姿に微笑んでいる。

…ね、お父さん?『笑顔と尊厳を守る』誇りはね、あのひとにも、生きてるね?

そっと周太は主人の後姿に頭を下げた。
姿勢を戻すとこんどは樹医に周太は笑いかけた。

「あの。今、俺は、ひとりの植物が好きな人間です。このご本、本当に嬉しいです。読むのが、とても楽しみです」
「君は植物好きなんですね?よかった、喜んで頂けるなら」

周太の言葉に樹医は、ぱっと明るく笑った。
その明るい実直な笑顔で樹医は、すこし照れくさそうに周太へと本音を話してくれた。

「自分の本なんて申し訳ないかなと思ってたんです、でも他に思いつけなくて。
それで、この本を持ち歩いていたんです。いつも私も新宿を通るので、偶然にでも君に会えるだろう、そうしたら渡そう、って」

渡された本は立派な布張り表装で分厚く、専門性が高い学術書だと一目でわかる。
きっとこれを持ち歩くのは重たかっただろう、樹医の実直な想いが嬉しくて周太は心から微笑んだ。

「そんなにまでして下さって、お気遣い、本当にすみません。ありがとうございます」
「いいえ、私こそ礼を言いたい。あのとき君は私を信じてくれました、それが嬉しかった。だから、また会いたかったんです」

あのとき周太はこの樹医の掌を見て、痴漢などする人では無いと思った。
繊細な雰囲気がある長い指の、がっしりと大きい掌。こういう働き者の手に犯罪は似合わないと思いながら聴取をしていた。
そのことを樹医は解って喜んでくれている、そして周太の為に重たい本をずっと持ち歩いてくれた。
自分は心から望んで警察官の道を選んだわけじゃない、けれどこの道からもこんな出会いを与えてくれる。
きっと父も喜んでくれている、周太は素直に想うままを樹医に告げた。

「うれしいです、そう言って頂いて…本当のこと言うと、俺の方こそ、お会いしたかったんです。
子供の頃に樹医の方のことを知って。人間より長生きする木のお医者なんてすごいな、って憧れていたんです」

幼い頃に父と読んだ樹医の記事「樹医は樹齢数百年の樹木も蘇らせる」
そんな樹木のプロフェッショナルの記事に父は「ね、周?魔法使いみたいだね」と心から感心して微笑んだ。
ほんとうにそうだと思った、そして会ってみたいと周太も思っていた「植物の魔法使い」に。
あのときの懐かしい楽しい幸福な時間と想いたち。
あの幸せな父との時間と想いのなかに、樹医への憧れがあった。
あのときの想いに微笑んだ周太に、今この目の前に立っている樹医が嬉しそうに笑いかけてくれた。

「そうでしたか、光栄です。君は本当に植物が好きなんですね?…うん、じゃあ、もし良かったら」

話しながら樹医は鞄から一枚のプリントを出し、周太に渡してくれた。
見ると大学の公開講座の案内書だった。

「今からなら3月下旬の講座申込みが間に合います。春からの開講予定もそこにある通りです、よかったらお出で下さい」

屋久杉の樹齢についてや、奥多摩の水源林の研究もある。
知っている所の講義はきっと面白いだろう、行ってみたいと思いながら周太は微笑んで礼を言った。

「はい、ありがとうございます…楽しそうですね、休みがとれたら是非伺いたいです」

自分はシフトによるけれど、きっと美代ならいけるだろう。
火曜日には美代に会えるから、そのときに教えてあげたら喜ぶだろうな?
そんな楽しい予想をしながら周太は微笑んでプリントを見つめた。



(to be continued)

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